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九州の甕棺と縄文土器
豊中市 大下隆司
エクアドル訪問の記憶がうすれないうちに二万基以上が出土している北九州の甕棺と、有明海沿岸の縄文土器を見ておこうと四月に九州に行くことにしました。九州は高校の修学旅行以来で、昔懐かしく鈍行列車とバスの旅と思ったのですが、行き先を調べている内に、行きたいところがたくさん出てきて、結局はレンタカーを借り、会社人間の延長、忙しく走りまわる日程となりました。以下、甕棺・縄文土器にしぼり報告します。
一、九州の甕棺について
(訪問遺跡・資料館)
・ 金隈遺跡、福岡埋蔵文化財センター、飯塚市資料館(立岩遺跡)、奴国の丘歴史資料館(須玖岡本遺跡)、筑紫野市資料館(隅・西小田遺跡)・吉野ヶ里、唐津古代の森(宇木汲田遺跡)、志摩町資料館(新町遺跡)、伊都国歴史博物館(三雲南小路遺跡)
金隈遺跡は板付空港のすぐ南、小高い丘の上にあり、今までに三四八基の甕棺墓が見つかっています。展示館は百基余りの甕棺墓の上に建てられており、中に入ると甕棺が発掘された状態で見ることができます。館内の敷地にたくさん並んだ甕棺を見ると圧倒されます。展示コーナーには弥生前期から中期・後期にかけての代表的な甕棺が展示され、また同じく館内にある説明ビデオを見て甕棺の概要というものがよくわかりました。
この遺跡は弥生前期中頃(BC二世紀)から後期初め(AD二世紀)の四〇〇年間続いています。副葬品にゴホウラ貝製の腕輪が出土しており、この時代に南方との交流があったことを示しています。
立岩遺跡のある飯塚市資料館には5連の甕棺が展示してありました。エクアドルのキトーの中央銀行博物館の入り口には4連の甕棺が立ててありましたが、こちらは5つの甕が連なって寝かされています。日本の甕棺の多くは単式、または二つの甕を合わせた合わせ口甕棺ですが、エクアドルと同じ多数の甕を並べた甕棺墓があるのに驚きました。エクアドルの甕棺はなぜ立てられているのか?トーテム信仰の影響とも考えられます。立岩遺跡の甕棺にも十四個のゴホウラ貝を身にまとった男性の人骨が埋葬されていました。この遺跡は弥生中期後半のものと推定されています。
須玖岡本遺跡を中心とした春日丘陵地帯の遺跡群には、弥生中期前半から甕棺墓が急増し、数百基に及ぶ甕棺墓で構成されている遺跡もあります。須玖岡本から出土した甕棺には30面前後の前漢鏡や大型のガラス勾玉などが副葬品として出土し王墓と考えられています。この地域は古田説では三世紀の邪馬壹国の中枢となりますが、残念ながら上に建てられている奴国の丘歴史資料館の説明では弥生中期後半(BC一世紀)のものと、三〇〇年も遡り、奴国王の墓とされていました。
春日市の南、筑紫野市にも甕棺が大量に出ています。この中の隈・西小田遺跡で発掘された甕棺の中に、前漢鏡などと共にゴホウラ貝の腕輪を右腕に二一個、左腕に二〇個もつけた人骨が見つかっています。ゴホウラ貝は琉球列島以南のサンゴ礁に生息している大型の巻貝で、遠く離れた南海にしか住まないこの貝の腕輪が弥生時代の特に北九州(倭国)の首長たちに好まれたことは、倭国が遠く南の海と繋がっていたことを強く感じました。
佐賀県にはいると吉野ヶ里遺跡があります。ここには二千基を超える甕棺が発見されています。エクアドルで見た甕棺に少し似ているものが展示室にあったので、二千基の中にはもっと似たものがないか聞いてみましたが、発掘された甕棺は、他の場所にある収蔵庫に移されて吉野ヶ里には置いていないとのこと、残念ながらわかりませんでした。ここでもゴホウラ貝の腕輪が出土しています。外に出ると大雨となってきたので遺跡内見学は早々に切り上げて山を越えて松浦湾に向かいました。
宇木汲田・柏崎・桜馬場と弥生前期から後期にかけて末盧国の中心とされている遺跡からも甕棺が多数出土しています。この地域の甕棺墓の副葬品の特徴は青銅器が中心で、腕輪もゴホウラ貝製をモデルとした銅釧が使われていました。
倭人伝のつぎの国は伊都国で志摩半島に入りました。弥生時代早期・前期の新町遺跡から初期の甕棺がでています。まず志摩町歴史資料館で遺跡のおおよその場所を聞きあとはカーナビをたよりにようやくたどりつくことができました。遺跡は美しい可也山の西側、海の近くにあります。遺跡館は無人で中に入ると多くの支石墓の間に甕棺がありました。初期の甕棺は小型で小児用とされています。
福岡の最後の甕棺は三雲南小路の長さ二.五mに及ぶ大きな甕棺でした。副葬品として銅鏡57面、めずらしいガラス製の璧などが出ています。この甕棺のある伊都国歴史博物館の旧館収蔵室には糸島で弥生前期から後期にかけて出土した様々な甕棺が展示されていて、その形・変遷がわかるようになっています。エクアドルの甕棺とまったく同じ形のものはありませんでしたが、これだけ多様な甕棺を見ていると、エクアドルの甕棺もこの中に入ってもおかしくないと思いました。
熊本に入ると甕棺の出土は海岸地方に限られてきて、宇城地方が熊本におけるその南限とされています。卑弥呼に属していなかった国々は甕棺を使っていなかったのか?興味がもたれます。鹿児島県にはいると飛び地的に甕棺が出土しています。
ゴホウラ貝を通しての南方諸島との交流は倭国の活動範囲がその地域にまで及んでいたことを示しています。このことは、そこを流れている黒潮を通じて倭人が南米沿岸にまで達し、裸国・黒歯国をつくり、本国の墓制である甕棺を持ち込んだことは十分に考えられます。エクアドルにおいてたくさん出土している九州のものとそっくりの甕棺の専門家による調査が期待されます。
二、縄文土器のバルディビアへの伝播
(訪問遺跡・資料館)
・城南町歴史資料館(阿高遺跡)、熊本市立博物館、
・鹿児島ふるさと考古歴史館、上野原縄文の森。
上野原縄文の森では地層の中の火山灰の年代測定を通じて、それぞれの層から出土した土器の絶対年代が明確に示されています。またその土器の分布する遺跡を地図上で示すことにより、火山灰を基準とした時間軸と、それぞれの土器の空間的展開がよくわかるすばらしい展示になっています。
メガース博士がエクアドルへ伝播したとされた轟・曽畑・阿高の土器はアカホヤ火山灰の上に位置していました。これらの土器をもった人たちの活動範囲は日本海側では出雲、朝鮮半島沿岸、そして南は沖縄にも及んでいます。奄美諸島では九州と密接に交流した独特の縄文文化が築かれています。
ちょうど特別展「南の島の最古の土器」が開かれていて、そこに展示されていた屋久島・種子島の土器は、我々がエクアドルで見た土器と大変よく似ていました。
当時の轟・曽畑・阿高の土器を作った人たちの海上での活動について、博物館の図録説明は「我々の想像をはるかに超え、一〇〇〇キロメートルを超える物・技術・情報の交流のネットワークを形成していた」としています。琉球諸島のそばを流れる海のハイウェイと呼ばれる黒潮にのりエクアドル沿岸までその交流のルートを伸ばしていたことも十分に考えられます。メガース博士の指摘の正確さに驚きました。
今回の旅行で、弥生・縄文ともに南西諸島がエクアドルとの交流に大きな役割をはたしているのではないかと思うようになりました。沖縄ではつい最近まで結縄文字があったと聞いています。南米のインカ帝国は結縄文字を帝国の通信・記録の手段として使っていました。縄文・弥生から近世まで日本と南米をつなぐものが明らかになってきています。さらに勉強を進めてゆきたいと思っています。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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