「バルディビアの旅」その後
豊中市 大下隆司
昨年二月古田先生一行とエクアドルを訪問し、帰国後、世界の甕棺の出土状況を調べて「エクアドルの大型甕棺」を『古代に真実を求めて』第十一集に、また当時の中南米の状況を「裸国・黒歯国のころの南米」にまとめて『なかった』第五号に、それぞれ掲載してもらいました。その後、現地との交流を進めていますので状況報告します。
一.「文化の家博物館」と土偶
大型合口甕棺が展示されていた「文化の家博物館」のフネス館長とはその後もコンタクトを続けています。古田先生がエクアドルの博物館に展示されていた「黒曜石の鏡」を日本にもってきて研究をしたいとのことで、館長にご尽力いただき文化財である黒曜石鏡についての海外持ち出し許可まで取っていただきました。これは残念ながら保険、輸送費に多額の費用がかかることで断念せざるを得なくなりましたが、その替りにエクアドルの黒曜石を日本に送ってもらっています(『なかった』第四号に写真掲載)。
バルディビアのヴィーナス(土偶)は古田先生が“日本人好み”と指摘され我々なじみになっていますが、甕棺の出ているトリタ地区でもたくさんの土偶が出土しています。ここの土偶は縄文の土偶と同じようにほとんどが壊された状態で埋められています。日本では縄文中期から晩期にかけて中部地方から東北にかけてさかんに土偶が作られていました。トリタ文化はBC五世紀ごろから始まるので時代は縄文晩期とかさなってきます。フネス館長が日本の土偶について知りたいとのことで、今資料をまとめているところです。
日本の土偶の全出土品の約一割にあたる一千以上の個体が山梨県の釈迦堂遺跡から出土しています。長野県南部から山梨にかけては、優れた土偶と環状把手付という特徴のある土器(水煙土器とも呼ばれる)に代表される縄文中期の文化が栄えたところです。またこの地方は和田峠の黒曜石を中心に古代から人の動きは活発で、縄文の古い時代から人々は黒潮を越えて伊豆諸島との交流をもっていたとその遺物から考えられています。
水煙土器については同じ形状の土器がコロンビアのサン・ハシント地区から出土していて、メガーズ博士が縄文土器との関連を指摘されています。黒潮を乗越えて南西諸島に進出していた南九州の人たちが阿高・曽畑の土器をもって南米バルディビアにまでいっていたように、中部地方の人たちも南米との交流をもっていたことも十分に考えられます。
二.コロンビアの黄金文化
八月エクアドル独立記念日のパーティに出席するため東京へ行ったとき上野の科学博物館で「コロンビアの黄金展」が行なわれていたので見てきました。エクアドル北部に甕棺をもったトリタ文化が栄えていたころ、国境のコロンビア側にも同じ文化が拡がっていました。コロンビア側では“ツマコ文化”と呼ばれています。当時のコロンビアでは現在のカリ市周辺にも“カリマ文化”と呼ばれる文化が栄えていました。これらの黄金文化はその後各地に広まり十六世紀にスペイン人に征服されるまで続いています。この文化の特徴は“高度な金属加工技術”で黄金細工だけでなくプラチナの加工までも行なっています。
黄金を求めて遠く大西洋を越えてやってきたスペインの征服者によりこの文化は徹底的に破壊され、黄金は持ち去られましたが、スペインからの独立後、自らのアイデンティティを求めてコロンビア政府により過去の調査・発掘が行なわれています。出土したものは、首都ボコタにある国立銀行付属「コロンビア黄金博物館」に収蔵され、今回その収蔵品の一部が日本に持ってこられ公開されたものです。
エクアドルのトリタ文化と同じ“ツマコ文化”の出土品が見られるかと期待していったのですが、残念ながら展示は他の地域の黄金製品が並べられているだけでした。今回の展示の目的が考古学を対象としたものではなくて、科学博物館として鉱物としての黄金を対象としたものなのでこれは仕方がありません。日本の金の生産などが同時に紹介されていました。
三十年程前にコロンビアの首都ボコタへ行ったとき、当時中央銀行の巨大な地下金庫に保管されていたこれら黄金製品を見るために、自動小銃の銃口の間を通り抜けて中に入っていったことを懐かしく思い出しました。
三.エクアドル会
五月三十一日の東京でのエクアドル会、八月八日のエクアドル大使公邸におけるエクアドル独立記念日、そしてエクアドル海軍の練習帆船“グアヤス号”の大阪港寄航パーティと、古田先生に同行し松本郁子さんとともにエクアドル関係の行事に続けて出席しました。
昨年エクアドルを訪問したとき現地でお世話になった今井邦昭さんが中心になりエクアドルに駐在した方など関係者で作られた「エクアドル会」があります。その第九回目の集まりが五月末に東京で開かれたので、古田先生、そして今井さんの親戚にあたる松本さんと参加したのがきっかけです。
その時、エクアドル大使は参加されていなかったのですが大使館の人から“新しく赴任されたポンセ大使が日本の文化、そして古代の太平洋での日本 ーー エクアドルの交流に興味をもっておられ、古田先生とお話がしたい”との話があったので、その後に行なわれたエクアドル大使館主催の行事に先生が参加されたものです。
独立記念日のパーティには本国からヴァレンシア外務副大臣、また日本からは伊藤外務副大臣が出席され、古田先生の“古代のエクアドルと倭人の交流”の説明を興味深く聞かれていました。ポンセ大使は“今年の二月に駐日大使として赴任したばかりで、今は大変忙しく時間がないが四〜五年は日本にいると思うので日本のことを深く勉強したい“”とのことで、古田先生は“大使、是非本を書いて出版して下さい”と親しく話しをされていました。
五月のエクアドル会には一九七〇年代日本からのバルディビア発掘調査団のことをよく覚えておられた方が、現地から参加されていました。一九六三年と一九七〇年の二回にわたるバルディビアの日本からの発掘調査団については『エクアドル』(寿里順平、東洋書店、二〇〇五年出版)に、またバルディビア資料館の設立に携わった、ルイス・バハーニャ氏の論文にも七〇年代の早稲田大学の調査団、そして櫻井清彦教授との交流のことが書かれています。
当時のこの調査団について、エクアドル会に参加されていた現地在住の方は「早稲田大学の調査団の話では、“日本の縄文と似ている。ただ自分たちだけでは判断できないので、次回は慶応大学と合同チームを組んで調査をしたい”とのことだったので、期待してまっていたが、いつまでたってもやってこなかった。あの時きっちりと調査をされていれば今頃“太平洋伝播説”はもっとはっきりとしていたと思うが残念です」といわれていました。
慶応大学の考古学といえば有名な江坂輝弥教授がおられます。江坂教授は当時、バルディビアの土器について「南アメリカのエクアドルのバルディビア貝塚から発見された土器は、カーボン十四の年代測定で今から八千年前につくられたものであることが明らかになりました。つぎのページの写真に見られるように、ひじょうに進歩した土器です。おそらくエクアドルでは、バルディビア貝塚よりさらに古い土器が、今後発見されることでしょう」。(『岩かげの女神石』たかし よいち著、国土社、一九七一年)と書かれています。江坂教授は、「バルディビア土器は現地で独立して発生・発達した」と考えられていたようです。真相はわかりませんが、調査の中断には当時の慶応大学の意向もあったのでしょうか。
二〇〇五年に出版された、早稲田大学教授、寿里順平氏による『エクアドル』には、「この調査団は現地の土器を調べた結果、縄文とは“似て非なるもの”との印象を報告している」と書かれてあります。四〇年たった今、いまだにエクアドルではバルディビア以前の土器は一片たりとも発掘されていません。他のアメリカ大陸においてもそれ以前の年代のはっきりしている土器の出土はみられません。(スミソニアン研究所、メガーズ博士論文一九九八年)
日本の考古学会が四〇年前の一教授の間違った思いつきにいまだにひきずられ、その間太平洋伝播説を証明する多くの科学的事実が明らかになっているにもかかわらず、バルディビアの現地調査すらしていないなら、非常に残念に思います。
南米とアジアの“古代の太平洋の文化の交流”については、ペルーで「鵜飼」をしている様子が描かれた土器が出土しています。また倭人伝を思いうかばせる潜水漁法が南米大陸太平洋沿岸部で行なわれていたことがスペインの征服者の記録に書かれています。会員の方のお知り合いで、ブラジルやボリビアなども含めて“古代の太平洋の文化の交流”を示す情報があれば、「古田史学の会」書籍部の大下隆司(電話・FAX06・6849・0926)のほうへ連絡お願いします。引き続き調査を続けてゆきたいと思っています。海図60nnsh
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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