大山祇神社の由緒・神格の始源について -- 九州年号を糸口にして 八束武夫 (会報88号)
大山祇神社の由緒・神格の始源について
九州年号を糸口にして
松山市 八束武夫
一 はじめに
中世伊予(愛媛県)の豪族河野氏は、その家譜『予章記』(1) や小千御子(おちのみこ)から河野氏につづくとする『越智系図』(2) で「第四十四世通清」が三島明神(大山祇神社の祭神大山積神)の申し子として生まれたとして、その家系の高貴さを主張する一要素としている。大山積神(三島明神)を神代の神と認識してのことである。しかし、ここではその当非については論じない。
本稿では、大山積神を取り上げ、この神を祭神とする大山祇神社の由緒・神格の始源について考察を試みる。
二 大山祇神社の略歴
大山祇神社は、瀬戸内海の芸予諸島の一つ大三島に鎮座する。記紀によると、大山積神は国土生成の神である伊弉諾尊と伊弉冉尊二神の子で、大山積神には二女がおられた。磐長姫と吾田津姫(木花開耶姫)である。天孫降臨の主役である瓊瓊杵尊は吾田津姫を娶って三皇子が生まれた。そのうちの彦火火出見尊の子が鵜葺草葺不合尊で、鵜葺草葺不合尊は神武天皇の父君にあたる。すなわち、大山積神は神武天皇の祖父の祖父(外高祖父)にあたるわけである。神武天皇以前は神代の時代であるから、大山積神は「神代の神」として扱われている。
大山祇神社は天平神護二(七六六)年従五位下の神階を授けられたのをはじめとして、貞観一七(八七五)年には正二位を授けられた。元慶元(八七七)年には正一位が授けられたと判断されることもあるが正確なことは不明である。(3)
延長五(九二七)年の『延喜式神名帳』では、名神大社で、「大山積神社 (4)」とあるが、現在、社名は「大山祇」、祭神は「大山積」と区別している。(5)
当社は、かつて「伊予国一宮」であり、別に「日本惣鎮守 (6)」とも呼ばれ、海上守護・渡航の神、また武の神として伊予国だけでなく全国から崇敬を受けてきた。そのため、大山祇神社は全国に分霊され、奉斎している神社は山神(神)社、大山祗(積)神社、三島神社などとも称えて、一万社以上に及んでいる国内有数の大社である。(7)
大山祇神社はこのように歴史を誇る大社であるが、その由緒・神格の始源は謎に包まれている。
三 祭神大山積神の始源に迫る
「大山積神」は「わたつみ(海神)」に対応する「やまつみ(山神)」で、本来「山の神」であると云われるが、山の神がなぜ海(瀬戸内海)にいるのか、今まで謎とされてきた。
『伊予国風土記』逸文によれば、大山積神は仁徳天皇の時代に顕れ、百済国から渡来し津国の御島(みしま)に居られたが、のち伊予の御島(大三島)に遷座された。またの名は和多志(わたし)大神である。伊予の御島というのは、津国の御島に居られたからである、と伝えている。(8) 津国の御島は、大阪府高槻市の式内社三島鴨神社に比定されている。(9) 古代には近くまで大阪湾が広がっていた。
「和多志の神」は「渡しの神」で、「航海の神」であろうと云われている。そして、大山積神が「顕れた」とは、韓国出征の時にこの神があらわれて航海神としての神徳を発揮したことだとされている。このことをもう少し具体的に考えてみよう。
『伊予三島縁起 (10)』と『三島宮御鎮座本縁並宝亀伝後世記録 (11)』によると、大山積神は端政二庚戌年に三島迫戸浦(旧越智郡上浦町瀬戸)に天降り、養老三己未年、越智安元のとき宮浦(旧越智郡大三島町宮浦)に遷座されたと伝えている。迫戸(瀬戸)と宮浦はいずれも大三島にあって、それぞれ島の南東部と西部に位置する。
大山積神が百済から津国御島に天降ったのは、『伊予国風土記』逸文では「仁徳天皇の時代」とあるが、これは「古い時代に」くらいの形容であろう。
「端政二庚戌年」の「端政」は九州年号で、『二中歴(年代歴) (12)』によると、「端政」は五年で元年は「己酉」となっている。これによると、「端政二年庚戌」は五九〇年で崇峻天皇三年に該当する。この年に摂津の御島から大三島の迫戸浦に天降り、養老三己未年(七一九)年に現在地の宮浦に移り住まわれたというのである。『伊予三島縁起』では、「端政二庚戌年」を推古天皇の時代とするが、「庚戌」は五九〇年で崇峻天皇三年に当たるので、これに従う。
ここで当時の情勢を振り返ってみると、大山積神が津国から大三島の迫戸浦に天降った崇峻天皇の時代は、朝鮮半島で新羅に滅ぼされた任那(伽耶)の復興計画が実施されたときである。
このような時代に大山積神が大三島に天降ったということは、どのような史実を踏まえているのであろうか。
『日本書紀』によると、崇峻天皇四(五九一)年に任那復興のための軍が筑紫まで派遣された。筑紫に駐留させた軍事力を背景とした外交が行われたのである。二万余の大軍であった。
当時の船の構造や大きさなどの詳細は不明のため、二万余人を運ぶために必要とする正確な船数は計算できないが、二万人とすると、船団は百艘単位であったと推測される。百艘を超える(一四〇艘くらいか?)大船団の渡航作戦を伴ったのである。(13)
このときの軍事編成は中央諸豪族の混成部隊であった。水軍は、当時対朝鮮政策を主導していた大伴氏と関係の深い紀氏の水軍を中心に編成されたとみられる。(14) 航路は紀氏およびその同族が広く分布する讃岐の沿岸から燧灘を通り芸予諸島の瀬戸を経て斎灘に出て西進したものと推測される。(15) 芸予諸島水域を通過するには、来島海峡を通るのが中でも一番安全と思われるが、実際は、大三島と伯方島との間の鼻栗瀬戸を通過するようになったとみられる。
当時の粗末な構造船が大人数を乗せ、百艘以上が船団を組み、瀬戸内海の難所芸予諸島の瀬戸を無事通過することは難題であった。この海域は島が多いうえに狭い瀬戸も多く、そこでは潮流が早く、潮はぶつかりあって渦巻いており、潮流の変化も早い難所である。
そこで、彼らは船団が瀬戸内海の難所芸予諸島の瀬戸を無事通過するため、この地域を地盤として活躍する豪族越智氏の協力を得た。(16) すなわち、航行は芸予諸島海域の地理や海流などに詳しく操船に長けた地元の豪族越智氏配下の海人たちを水先案内人として行われた。一方、この派遣軍には、安全や戦勝祈願のため神職が同行したと推測されるが、津国御島に渡来してきた大山積神を奉斎する百済の渡来系技術者集団の長が、特に芸予諸島海域の航海安全の祭祀の任を託された。(17) そこで百済の長が大山積神に祈願し神威を借りた結果、大山積神が大いに神徳を振って船団の鼻栗瀬戸通過を成功させた。すなわち、このとき大山積神が大三島の迫戸浦に天降ったのである。天降った跡が横殿宮跡と伝えられている。
大山積神が迫戸に天降ったのは、『伊予三島縁起』では崇峻三年(端政二年)とするが、実際は崇峻四年の出来事とみられる。『日本書紀』によるかぎり崇峻三年には、神が天降るような大きな出来事は記録されてないのである。神がひっそりと天降り、少数の人が神徳に浴した出来事が後代まで大々的に伝えられたとは考えられない。多数の人々が神徳を体感したからこそ、その神徳が後代まで伝えられたのである。それは大きな出来事、すなわちこの大船団による渡航作戦成功のときであろう。
ところで、大山積神の神徳は、全員が大山積神の御霊(みたま)である赤土を額に付けて神と人が一体となって取り組んだ時に顕れたと想像される。そのとき霊験が顕れた故事を今日まで伝えているのが、大山祇神社に残る「生土祭」の行事であろう。「生土祭」は一月七日に行われ当神社の祭礼中最も古い神事と伝えられている。これは、神体山である安神山麓で採取した清浄な赤土を神前に献供し、宮司以下全員が額に赤土の神印を拝戴する「赤土拝戴神事」のあと、串木をもち鼓に和してこれを打ち鳴らし素朴な楽を奏することを中心とするものである。(18) このあと、榊で造られた福木を神門に集まった崇拝者たちが奪い合い一年の幸運を授かる。
『大三島町誌』では、これを「農耕を基本とした古代人の生活から生まれたものである」とし、また「この祭の由来は「森羅万象」のすべてが土の恩恵により生成化育される原理から、大宇宙をつかさどり、すべての生命を守護する広大無辺な大山積大神の御神恵を、年の初めに奉謝する古代人の真剣な祈りの祭礼である」とする。祭りは農耕儀礼的にも解釈できるし、五行思想による説明も可能であるが、おそらく、鉄分を多く含む赤土を使用することから考えて、鍛冶にかかわる祭事が核になっていると思われる。
百済の長は責任を果した後は当地に定住することなく帰還したが、越智氏はこの後霊験あらたかな大山積神を氏神として迫戸(瀬戸)で祭るようになった。そして、大山積神はこの功績により広く知られるようになり崇敬されるようになった。大山積神は、最初は鼻栗瀬戸に面した「迫戸(瀬戸)」に祭られていたが、後に「宮浦」の地に社殿を造営し遷座された。
一方、大山積神は、海の難所で船団を守り航海を成功させたことを契機に、「和多志大神」すなわち「航海の神」として広く崇められるようになったのである。
のちに大山積神が「鉱山の神」ともなったことは、この神が本来百済の渡来系技術者集団、特に鍛冶の「山の守護神」であったことを窺わせる。大三島に来て「山の神」から「海の神(航海の神)」へ成長したのである。
四 おわりに
越智氏は、応神天皇の時代に置かれたとされる越智国造の裔(19) でもあり、大山祇神社の大祝職を歴代務めた氏族(20) でもあったが、上記のように考えると、百済の神といわれる大山積神を越智氏が奉斎している謎も理解できる。さらに、山の神でありながら海の神でもある謎、これとも関連するが、山の神でありながら海にいる謎、大山祇神社の最古の神事である「生土祭」の「赤土拝戴神事」で赤い土を使う謎、百済の神と云われながら大三島から百済系の遺物が出土しない謎、なども理解できるのではないだろうか。
「山を統括(守護)する神」から「航海の神」へ、さらには「武の神」「農業や鉱山の守護神」へと成長してゆく大山積神の由緒や神格についてはなお解明すべき点が残されている。
上記は少ない資料の中で推測を重ねてはいるが、大山祇神社の由緒・神格の始源について、一つの仮説である。
註
(1) 『予章記・水里玄義』伊予史談会双書第5集
(2) 『続群書類従 第七輯(越智系図)』
(3) 『大山祇神社史料 縁起・由緒篇』大山祇神社。以下『大山祇神社史料』と略す)。ただし、『続日本紀』(国史大系)では天平神護二年四月大山積神に従四位下が授けられている。
(4) 『新訂増補国史大系 第二十六巻(延喜式)』吉川弘文館
(5) 『大三島町誌 大山祇神社編』大三島町
(6) 「三島宮御鎮座本縁並宝基伝後世記録」(『大山祇神社史料』)
(7) 前掲(6)
(8) 『日本古典文学大系 風土記』岩波書店
(9) 前掲四九七ページ頭注
(10) 『続群書類従 第三輯(伊予三島縁起)』
(11) 前掲(10)
(12) 『改定史籍集覧第二十三冊』臨川書店
(13) 水野正好「夢誘う紀伊国」(『謎の古代豪族紀氏』清文堂)。笠井倭人「白村江の戦と水軍の編成」(『古代の日朝関係と日本書紀』吉川弘文館)
(14) 栄原永遠男「古代豪族紀氏」(前掲『謎の古代豪族紀氏』)。栄原永遠男『紀伊古代史研究』思文閣出版
(15) 岸俊男「紀氏に関する一考察」(『日本古代政治史研究』塙書房)
(16) 『続日本紀』延暦一〇(七九一)年一二月八日条に、伊予国越智郡の越智直広川ら五人が、「広川らの七代前の祖先紀博世は推古朝に伊予国に派遣されました。博世の孫忍人は、そこで越智直の娘を娶って・・・」と言上したとあるのは、推古天皇の時代に遠征事業の遂行のため、紀氏が越智氏と協力したことを示しているのであろう。崇峻朝の水軍派遣はこれより僅か十年くらい前のことだから、このときも当然協力はあったと思われる。
(17) 『日本書紀』推古天皇一〇年条に、新羅征討軍に多くの神部も同行した旨を記す。これ以前でも神威に頼るため祭祀担当者の同行はあったであろう。その神部に百済の長も同行し、祭祀の一部を担当したと思われる。特に本論は、芸予諸島通過の安全祈願に百済の祭祀担当者が責任をもったことの可能性を想定している。
(18) 前掲〜および『愛媛県史 民俗上』愛媛県
(19) 『新訂増補国史大系 第七巻(先代旧事本紀)』吉川弘文館
佐伯有清『新撰姓氏録の研究考証篇第三』(吉川弘文館)。左京神別上、越智直の項。
(20) 「神官系図世代之事」(『大山祇神社史料』)によると、慶雲四(七〇七)年文武天皇の勅許により越智安元が第一代大祝職に任じられたのをはじめとして、代々越智氏が大祝職を世襲している。ただし、系図では第一代から「安」が通字として用いられているので、系図が古代から正しく伝えられてきたものかどうか疑問は残る。だが、古くから越智氏が大祝職を務めてきたことはおそらく事実であろう。
本稿は、田中卓氏の「ムナカタの神の創祀」「豊前国薦神社の創祀」の論文から構想を得たものである。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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