2008年10月15日

古田史学会報

88号

生涯最後の実験
 古田武彦

2「藤原宮」と
大化の改新についてII
皇極紀における「造宮」記事
 正木裕

「バルディビアの旅」
 その後
 大下隆司

4古田史学
「林間雑論会」実施報告
 木村賢司

菅江真澄にも見えていた
「東日流の風景」
 太田齋二郎

6『新・古代学の扉』
古賀事務局長の洛中洛外日記
『日本書紀』の西村命題
 古賀達也

大山祇神社の由緒・神格の
  始源について
九州年号を糸口にして
 八束武夫

8彩神(カリスマ)
シャクナゲの里6
 深津栄美

9古賀事務局長の洛中洛外日記
例会発表のコツ
 古賀達也

 事務局だより

 

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第十八回 河野氏関係交流会参加と伊予西条の遺跡を訪ねて 木村賢司(会報89号)


古田史学「林間雑論会」実施報告

豊中市 木村賢司

 先ず、企画者から暑く、厚くお礼を申し上げます。当日、湿度の高い超猛暑。大湖(琵琶湖)もモヤでぼやーとして、景色を一つの売り物にしていたが残念、折角大勢来ていただいたのに、この暑さ申し訳ない気持ちになった。
 参加者は古田先生をはじめ総勢十六名。十二名ほどと思っていたのでテーブルと椅子が不足。テーブルは前々日に追加手作り、椅子はベンチ用や釣り椅子を加えてなんとか揃えた。
 前日に永井さんが来てくれて準備の手伝いをしてくれたので大助かりした。当日8時過ぎに、安曇川町のスーパーまで昼の弁当を買いに大湖望を出ようとすると、大湖望への出入り口の広場に、相模ナンバーの渋い赤色の高級車が停まっている。冨川さんが朝6時に来望され、車の中で眠っていた。夜中、関東から高速道路をとばしてきたという。私の簡単な地図でよく迷わずきてくれた、と脱帽である。
 水野さん、西村さん等は定刻前に駅から歩いてこられた。正木さんは奥様と車でこられた。古田先生や他の方も遅れることなく近江舞子駅に来てくれていた。永井さんの車は6人乗りのワゴン車、大湖望と駅間を何度も往復する必要がなく、これまた、大助かりであった。
 さて、いよいよ雑論会。樹と樹の間に手作りテーブルを並べ、先生を中央に、私が決めた指定席に座っていただき、飲み食いしながら始めた。仕切り役は私。先に私が論題の一つとしていた、九州王朝から近畿王朝への移行は「禅譲か放伐か」から始めた。私が考える禅譲、放伐の定義をあらかじめ示し、禅譲の代表西村さん、放伐の代表水野さんから簡単に理由をのべていただき、そのあと、私が指名した順に、参加者全員に問うた。先生にはその間、一切口をはさまないようにお願いした。結果は放伐がやや多数であった。もちろん、多数が正しいは、全くナンセンスであること自明である。禅譲にせよ、放伐にせよ、発言者の内容は皆まちまちで一人として他人の理由に同じ、と云う方はいなかった。個性溢れる理由付けであった。安随さんは、木村さんに定義を決められても「わからん」と答えるしかないと云われ、これも見事な見識と感じた。私は、古田先生が九州王朝実存を唱えられるまで、一三〇〇年余も倭国王朝の存在が隠されてきた事実から、直感で放伐と思う、と直感説で逃げた。
 そして、いよいよ先生に問うた。先生は禅譲、放伐という概念を最初に唱えたのは孟子である。それまでは、このような分け方の概念はなかった。また、孟子も自身が死んだ後の世までも、この概念で分けられていることなど知らない。九州王朝から近畿王朝への移行は「唐王朝の意志」がからんでいることを知らねばならない。九州、近畿両王朝だけの関係で移行したのではない。唐は隋を放伐で奪った。臣下の唐が隋王朝を放伐した理由(言い訳)の一番に、隋が倭王から天子を名乗られたのに何もできなかった。そんな情けない天子を放伐した、と隋書を見ると読み取れる。隋書は唐王朝が建てられて間もなく書かれたと云われ、結局、禅譲とも放伐とも触れられなかった。私はあえていえば、禅譲でも放伐でもない、唐王朝の意思による移行、と先生は見ていると感じた。(間違っているかもしれないが・・・)
 禅譲、放伐の題はこれで終わりとした。亡くなった古田史学の会・東海の元会長、林様によい供養ができた、と感じている。数年前、林さんと西村さんが、ここ大湖望で「禅譲・放伐」徹夜の論争をしたことが思い出される。
 休憩時間に「邪馬壹文庫」を見ていただいた。窓のない蒸し風呂のようになっている、文庫内を案内した。私は先生に見ていただき自己満足した。出られる少し前「学而」とある色紙の文字を見て「これは?」と云われた。古賀さんから頂いたのを「耳納」を収めた書架の上に置いていたのを見ての問いである。「私は学問が苦手、これは古賀さんからもらった。」と説明。先生から頂戴した「壹」の字は、入って正面に置いた、古賀さんの「学而」の字は出口側正面に置いていた。庫内には私の趣味「世界のコイン」や「珍しい切手」等もあるが、今回お見せする時間がなかった。それはそうと、庫内に三人の太公望がいたこと、だれかご存知でしたか?
 休憩が終わって、楽しみの先生の話を聞く時間となった。今日は暗くなる前に一つのミニ実験をすることになっている。聴く時間を制限せざるを得ない。先生も心得て時間内で、最近の研究内容や興味を示されていること等を詳しく話された。多くの方がうちわを扇ぎながら聞いた。先生はいつもの通り手振りをしながら熱心に話された。隣の席の西村さんが先生を扇いであげていた。話の内容はここでは割愛。
 ミニ実験の材料は、白い塗料をぬった1m平方のシート四枚である。大湖望から数百メートル離れた下の農道にそれを置き、どのように見えるかの実験である。水平に置いたのでは1m平方のシート見えにくい、2m平方(4枚)では見えた、とのこと。私は下にいて、上の大湖望にいる人達の白い服がよく見えたが・・。距離と高さ、シートの大きさと見る位置からの角度で見え方が大きく異なることが実感できた。先生は参考になった、と云われた。
 先生は九州で飛鳥(とぶとり)の地形をしていると見ている場所の、ポイント、ポイントに白いシートを置き、山(高良山)から眺めて、飛ぶ鳥のように地形がみえるか、の実験を計画されている。その計画のミニ実験お手伝いである。
 実験の結果、本実験での成功は距離の問題で難しいのでは、と感じられたが先生は執念をもっておられる様子であった。成功をお祈りしたい。飛鳥の発見は先生のご本「壬申大乱」にくわしい。先生は「邪馬壹文庫」から「壬申大乱」を持って来てほしい、と云われた。幸い二冊在庫していた。邪馬壹文庫は早速役立ったことになる。
 ミニ実験の後は、六畳小屋(大湖望牛馬庵)と八畳小屋(大湖望)に分かれての雑論である。先生は最初、六畳小屋で話されていたが、途中から八畳小屋にこられて話に加わった。その内、電車でこられた水野、谷本、安随、西井さんが帰られた。残る11名が八畳小屋での雑論となった。正木さんの奥様もかなりの論客とみた。だいぶんたって車でこられた正木ご夫妻が帰られた。先生もお疲れになった様子、少し横になっていたが帰られると云われたので、近江舞子駅までお送りした。残る日帰り組みは西村さん一人。もう、かなりの酩酊である。泊れといったが帰るという。駅のホーム下まで見送ったが、少し心配した。
 夜更けて、冨川さんが女性の寝小屋としていた六畳小屋に、残る六名でなお雑論。そのうち私も眠くなって、屋根裏のねぐらに上がる。屋根裏に小林さんも上がってきた。残る四名が下でまだ、法隆寺の創建論議をしている。主導は永井さん、対抗は石川さんようだ。だいぶんたって話もおさまって寝るようだ。内の二人は四畳半の「大湖望クリアーハウス」に寝てもらう予定で、古風な蚊帳を釣っておいたのに、四人とも下で寝る様子。私も面倒をみずそのままとした。八畳小屋に六人が寝た。まるで釣り船の仮眠所ようだ。知らないーと。
 私は早起き。朝一番の仕事は野菜に水をやることである。済ましたあと、昨日の雑論会のゴミ焼きである。カラスや猿に荒らされない前に焼いた。ひと段落したので、朝風呂に入った。露天風呂には昨日竹村さんが水風呂に入られたのみである。女性(冨川さん)がおられるので男性群遠慮した?
 朝食はカップ麺しかない。私の世話はお湯を沸かすだけである。帰りは、私の車に大下さん、冨川さんの車に竹村さん、永井さんの車に石川さんと小林さんが乗った。私は冨川さんが折角、関東の遠いところからこられたのに、琵琶湖の名所の一つも案内せずでは心苦しい。そこで近江八景の一つ、浮御堂(海門山満月寺)に案内した。そこで写真を撮った。実は昨日、邪馬壹文庫の前で参加者全員写真を撮るつもりを忘れていた。残念である。
 比叡山延暦寺も案内しょうと思い、雄琴からスカイラインに入った。横川に着き、坊に案内しょうとすると料金がいるという。これまで何度も延暦寺にきているが料金を支払った覚えがない。根本中堂も同じであった。高いスカイライン料金を支払っているのに、延暦寺も堕ちたものである。もう、二度とこない。
 どこにも入らず、私の車と冨川さんの車は大津側に降り、永井さんの車は京都側に降り別れた。大津側は冨川さんに近江京の遺跡を案内、見学いただくため、京都側は石川さんが京都の博物館に行く予定なので出来るだけ早く着きたいためである。竹村さんが遺跡を冨川さんに説明するのを私と大下さんが同行した。私も大下さんも承知の遺跡である。案内が終わって、竹村さんは近江神宮脇の駐車場から歩いて近くの駅に向った。私の車と冨川さんの車は名神高速、京都東ICに向かい、ICで東西に別れた。冨川車の無事の帰宅を祈った。
 豊中の大下宅近くで大下さんを降ろし、私も無事に帰宅した。ヤレヤレ。

*先生来望、文庫の披露、景色の良さをPR、これらを餌さの雑論会、釣られて集まる史学の仲間、でも、暑すぎた、大暑の時期の林間は。
*そして、それでも、企画者ひとりは大満足、お披露目できた、大湖望の「邪馬壹文庫」。  以上
        ‘08.8.8.

 大湖望での「林間雑論会」風景。写真 なし
       (二〇〇八年八月二日)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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