寛政原本と古田史学 古田武彦(会報81号)
『菅江真澄にも見えていた 「東日流の風景」』その後(会報90号)(必ずその後もお読み下さい。)
菅江真澄にも見えていた「東日流の風景」
奈良市 太田齋二郎
「秋田孝季架空説」は間違ってはいないか
医師、薬剤師、歌人、神主などと、本職不明ながら、江戸時代のマルチ人間と目される菅江真澄は、天明三年、三十歳で生れ故郷の三河を離れ、信濃から越後を経て翌年出羽に入り、文政十二年七十六歳、小京都・角館において客死するまで、東北、北海道を巡り、その歴史、伝承、風俗などを日記や地誌などに書き残しました。生涯、三河に帰郷した様子はなく、秋田城跡近くに墓がありますが、参詣客の絶える様子はありません。彼の膨大な遺作は、内田武志・宮本常一両先生によって『菅江真澄全集・十二巻(未来社・昭和四十六年)』(以下『真澄全集』)として刊行されました。
真澄が「終の棲家」にしてまで、なぜこの丑寅の地に拘ったのか。自分の口から、この疑問に触れてはいないので、その答は、『真澄全集』にしばしば「鬼」として登場する、中世東北の覇者・安倍一族に対する真澄の「想い」から、それを探るしかありません。
一方、真澄と同時代人で、土崎日和山に在住していた秋田孝季らによって蒐集、編集された「和田家文書」・『東日流外三郡誌』(以下『東日流誌』)が戦後まもなく、青森県五所川原市で発見されました。その内容は安倍一族の歴史に関するものですが、記紀と矛盾する記述が多いことから、偽書ではないかと疑われ、論争が絶えませんでした。
その『東日流誌』の中に、しばしば「菅江真澄」が登場するのですが、その事が偽書説の理由の一つとして挙げられているのです。つまり、『東日流誌』編集者・秋田孝季は実在しない人物であるが、実在が明白な真澄をこの『東日流誌』に登場させることによって、それを真書に見せかけようとしたもので、一方の『真澄全集』に孝季が一度も登場しないのがその作為を如実に示しているのであると云う、いわゆる「秋田孝季架空説」です。
確かに『真澄全集』に孝季の名はありません。しかし、真澄はその典拠を示していませんが、『真澄全集』には、『東日流誌』に特有の、「東日流」、「安日」、「高星丸」、「アラハバキ」などの見慣れない「語彙」が頻出しています。例えば、「東日流」については数件あり、そのうち《筆のまにまに》には「津軽は津狩また近き世は東日流なども書けり」とあるのですが、この「東日流」に限らず、「高星丸」なども、それを探れば探るほど、真澄の心の中に、『東日流誌』つまり「東日流の風景」の存在が明らかになり、私にとっては益々「孝季架空説」は、納得出来なくなるのです。
本稿はそのような論点から、『真澄全集』の「安日」について纏めたものですが、昨年五月の「関西例会」において発表した「東日流in『真澄全集』安日の巻」を基にし、それを補充したものです。
尚、真澄と相前後して東北を旅した古川古松軒の『東遊雑記』、同じく橘南谿の『東遊記』には、「東日流の風景」に関する記述は見当たりませんでした。
『真澄全集』の中の「安日」
ご存知のように、長髄彦は神武天皇と争った人物として記紀に登場します。しかし、その兄である安日については『東日流誌』の発見によって、始めてその存在が明らかになったようなものです。その『東日流誌・第一巻』に「安日」は、長髄彦と共に主役として登場し、次のように描かれています。
安日・長髓彦兄弟は、(大和に存在する)「邪馬台国」を統治し平和に暮らしていましたが、突如、神日本磐余彦が率いる「日向族」から戦いを挑まれ(神武東征)、善戦の甲斐なく敗戦、家臣たちと共に東日流に逃れ、そこで先住のアソベ族、ツボケ族、更に春秋戦国の内乱を避けて東日流に漂着した中国からの逃亡民などと一緒に、「アラハバキ王国」を立ち上げ、その功を讃え、共に建国の祖神として永く一族から崇められた、というものです。
『真澄全集』の「安日」は、他にもありますが、主なものを次に挙げました。
《10はしわの若葉(冒頭数字は整理番号)》
安日の社は神日本磐余彦天皇の官軍をそむき奉りし長髓彦の兄なる安日、その御代に東日流の十三の湊に流さる・・・その末阿倍頼時安日を神とし・・・。貞任・・・上祖の安日を神と・・・。また貞任の子高星二歳のとき、乳母の・・・
《26外が浜奇勝》(安倍姓の由来)
安東(ヤスハル)といふもの安倍比羅夫にまみえていふ、我遠つおやは長髓彦のせうと、浜安東浦を知る所とせし安日が遠き末・・・とをつおやの罪なんいまゆるしたうばりたらば・・・蝦夷らをうちて平む。比羅夫・・・安東を先としてついにゑみしにうちかち・・・安倍氏をあたへ、かれに「ゆかりのよしみして」比羅夫都に帰り給ひば、安東の家を安倍と名のり、はた上祖の安日ともいひ伝ふ。・・・。このあたりをさして、安日氏(地名?)とやもはらいひつらんを今は相内とや人のいふらんかし
《31雪の陸奥雪の出羽路》(安倍姓の由来)
(土崎神明の社)こは十三の湊にすめりし安日の後胤にして、いくさのきみ安倍の比羅夫よりたうばりし安倍氏・・・の末ひろく・・・
《87裏書貼紙資料》(配志和神社のこと)
配志和神の枝神、配志和神安日の社はさだかにこの人を斎へるにこそあらめ。斉明紀には長髓彦その婢長髓媛の子は見えつれど兄のことはみえねど
《10はしわの若葉》は、天明八年、菅江真澄は岩手県平泉の中尊寺の近くにある「配志和の社」を訪ねた時の日記ですが、安日が安倍貞任の上祖であることを強調し、その子「高星丸」にも触れています。《87裏書貼紙資料》は同じ内容のものですが、ここでは斉明紀に「安日」がないことに不審を抱いています。
《26外が浜奇勝》に注目して下さい。「安倍姓」は安倍比羅夫から賜ったものであるという内容ですが、このような説話は、正史は勿論、先に紹介した古松軒や南谿の旅日記にもありません。ところが、『東日流誌』第一巻にはこの話が十数箇所もあり、その内容は度重なる征討戦において、依然として勝勢を維持しているアラハバキに対し、和議を承諾させる明しとして「安倍姓」を与えたというものです。しかも、その直接の相手が「安東」、「安東丸」であり、《26外が浜奇勝》の「安東」とまさしく同一人物なのです。
また、(安東の援助を得ることによって)「ゑみしにうちかち・・・かれ(安東)にゆかりのよしみして比羅夫都に帰り給ひば・・・」とありますが、この「ゆかり」とは、比羅夫の出自を示す「・・・比羅夫とて遠祖は長髄彦の一系なれば、和議をなして・・・」(ex《安倍比羅夫東征之事》)を指しているのではないでしょうか。
尚、先ほど安日の存在は『東日流誌』によって始めて知られるようになった、と申しましたが、実はそれ以前からも知られていました。門真市在住の会員石川邦一氏に教示された『曽我物語』、『安倍家譜御系図』、『秋田系図』、『新羅之記録』などによれば、神武に敗れた後、安日は津軽に追放され、後に安倍一族の祖になったが、長髄彦は安日と一緒に逃げたのではなく、神武の兄・五瀬命を誅した罪で、生駒において神武によって殺害されたという話になっています。
結び〜感想・提案・お願いなど
★「安日」について、真澄と孝季の認識は一致していました。この一致を、偶然と決め付けるのは自由ですが、私にとっては、「真澄と孝季の間」は限りなくゼロに縮っています。
★内外の歴史にも造詣が深いマルチ人間・真澄が、《10配志和の若葉》や《26外が浜奇勝》の出典を明らかにしないのは、彼が書き残した「書写本」などの種類、数の多さから考えると、私には信じられない事ですが、知っていたのにそれを明らかにすることが出来ない何らかの事情があったものと考えざるを得ません。
一つ考えられるのは、真澄は津軽藩の取調べを受け、その後、出羽に追放された理由についてです。内田武志先生は、真澄は松前藩と内通していたからと疑っていますが、私は、嘗て津軽藩の仇敵であった「安倍・安東」に接近する真澄が疎ましかったから、と考えています。そうであれば、真澄には『東日流誌』は勿論「秋田孝季」も禁句であった筈です。
あれやこれやで、真澄のこのような優柔不断?が、孝季からも嫌われ、その後お互いに不和を招いてしまった原因となったのではないでしょうか。
★『真澄全集』では、『東日流誌』のように兄弟は共に「アラハバキ・安倍一族」にとっての「二祖・二神」ではなく、単に「安日・一神」としているだけですが、その理由も、天皇家の仇敵であった「長髄彦」を避けたかったからでしょうか。
明治維新、安日の後胤である三春藩主は華族に列せられるのですが、その際、提出を求められた系図の「安日」について、いくらなんでも朝敵・長髄彦の兄が、その先祖であることは認められない、という新政府の訂正要求に、断固として応じなかったという逸話が残っていますが、これは真澄がとった態度とは雲泥の差です。
★書紀は安日の存在に触れていませんが、その理由は、天皇家にアラハバキの血(ex孝元・孝謙)が入っている事を知っていたからではないでしょうか(ex《荒覇吐南横領録》)。
★「寛政原本」の一部が見つかったことが古田武彦先生によってご報告されました。今後は真贋論争ではなく、『東日流誌』の中身そのものを、真摯に検証することが期待されるのですが、本稿も、「論理の赴くところに従った」つもりです。諸兄姉のご意見をお待ちします。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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