2008年10月15日

古田史学会報

88号

生涯最後の実験
 古田武彦

2「藤原宮」と
大化の改新についてII
皇極紀における「造宮」記事
 正木裕

「バルディビアの旅」
 その後
 大下隆司

4古田史学
「林間雑論会」実施報告
 木村賢司

菅江真澄にも見えていた
「東日流の風景」
 太田齋二郎

6『新・古代学の扉』
古賀事務局長の洛中洛外日記
『日本書紀』の西村命題
 古賀達也

大山祇神社の由緒・神格の
  始源について
九州年号を糸口にして
 八束武夫

8彩神(カリスマ)
シャクナゲの里6
 深津栄美

9古賀事務局長の洛中洛外日記
例会発表のコツ
 古賀達也

 事務局だより

 

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「遠近法」の論理 再び冨川さんに答える 古田武彦(会報87号)

仏像論 古田武彦(会報93号)


生涯最後の実験

古田武彦

    一

 今年(二〇〇八)の十月二十五日。生涯最後の実験を行なう。「飛ぶ鳥の“アスカ”」確認の研究実験である。ところは九州。福岡県小郡市だ。
 すでに『壬申大乱』( (1) 二五一ページ)で扱ったように、ここには「アスカ」という字地名があった。その北方に「本山(ほんざん)」と呼ばれる地帯(字地名・井上)がある。その両脇にも水路があり、傾斜地をその「水路」が合流して南下し、先述の「アスカ」の地を“取り巻い”ている。その地形はまさに「飛ぶ鳥の“アスカ”」そのままの形状を“構成”していたのである。当の地形「確認」のための研究実験なのである。

    二

 けれども、右の要約では問題点、その本質が誤解される“恐れ”がある。ために今、研究の進展状況を順を追うて、ここに正確に論述しておこう。
 第一、万葉集には「アスカ」をめぐる歌が少なくない。その表記も「飛鳥」と書いて「アスカ」と訓まれてきたこと、周知である。さらに「飛ぶ鳥の」という枕詞が「アスカ」に冠して用いられていることも著名だった。
 第二、だが、「なぜ“飛鳥”の字面を“アスカ”と読みうるのか」、「なぜ“アスカ”の枕詞が“飛ぶ鳥の”なのか」この問いに対する「的確な回答」は見いだせなかった。
 第三、もちろん数多い万葉学者たちは、いずれもこれに対する回答に“腐心”してきた。むしろ、この問題への回答に無関心だった万葉学者はほとんどいなかった、といっても、過言ではないであろう。室町・江戸時代から、明治以降今日まで、くりかえし“対案”が出されつづけてきた、とさえ言えよう。(別稿詳述予定)
 第四、しかしながら、わたしの目から冷静に観察するとき、いずれも「的確な回答」は見出しがたい。率直に言えば、そのように評する他はない。なぜなら、いずれも“観念的”な、あまりにも“観念的”な「意味付け」に終始せざるをえなかったからである。
 第五、これに対し、九州の場合はちがった。明治前期の「字地名表(2) 」に
 飛鳥(ヒチャウ)
と明記されている。字地名に「漢音」や「呉音」の例は少ない。天神、釈迦堂などのような神社・仏閣の建物など関連のものは若干存在するものの、「飛鳥(ヒチャウ)」はこれとは異なる。本来は「アスカ」であったのを“音訓み”して表示したのである。
 第六、右の問題を“裏付ける”のは近くの朝倉郡の古社・麻氏*良布(まてらふ)神社の祭神・「明日香皇子」の存在である。(朝倉市杷木町志波五四五八)。
      麻氏*良布(まてらふ)の氏*は、氏の下に一。JIS第3水準ユニコード6C10

 『太宰管内志』(上)・筑前之二十(上座郡)の麻氏*良布神社項で「神社志」として
「明日香皇子」
がある。イザナギ・イザナミと斉明・天智天皇とともに、この皇子の名前が出現しているのだ。
 第七、万葉集や古事記、日本書紀にこの人物の存在はない。明日香皇女のみで
ある。(内田康夫の同名の小説は“創作”)。
 第八、従って右の麻氏*良布神社祭神としての「明日香皇子」は、現地(上座〈カミツアサクラ〉)において尊崇せられた人物名。そのように解する他はない。
 第九、現地で「明日香(アスカ)」にあたる地名は、この小郡市の「飛鳥」以外には、ない。
 第十、ここでは北から南への「水路」の流出の道筋が、まさに「飛ぶ鳥」の形状をなしている。大和の「アスカ」にはこのような形状の水路が存在しない。
 第十一、それゆえ、従来の「難題」だった
  「アスカ」と「飛ぶ鳥」
の“つながり”は本来この地(小郡市)で発生し、それが「大和の“アスカ”」へと「移出」し、「移植」されたもの、そのように考える他はない。
 論証の結果、意外な、以上の結論に到達せざるをえなかったのである。

    三

 現地における「地名変更」問題について付言したい。
 (その一)かってこの地帯に流れる川は「徳川(とくがわ)」と呼ばれていた。「と」は“神殿の戸口”の「戸」。「く」は「久留米(くるめ)」の「く」、「多久(たく)市」の「く」、「千栗(ちりく)神社」の「く」であろう。これに「徳」の一字を“当て”ていたのである。
 ところが徳川時代となった。「同字」の「徳川」の字面を“はばかり”、これを「得川」の字面に変えた、という。発音は同じ「とくがわ」だ。有名な「国家安康」(方広寺鐘銘)問題を口実として豊臣家(秀頼)を崩壊させた、あの徳川家からの“難題”を恐れたのであろう。
 同じく明治維新。新政府の「天皇家中心」主義の下で「飛鳥(アスカ)」は重要な地名だった。天皇家の本拠地としての大和の「アスカ」。それは“有名な”中心地名であり、明治以後、一段と強調されはじめた万葉集中の中核地名の一であった。
 現地(小郡市)ではこれを“はばかり”、「飛鳥」に「アスカ」の訓を付すことなく、「ヒチャウ」と“訓み”を振ったのである。これが「明治前期」の「字地名表」のしめした「表記」の歴史的意義であった。
 わたしたちは、「封建主義の江戸時代」と「文明開化の明治時代」という“対比”で“教え”、かつ“学ば”されてきた。それは一面では事実だ。だが、反面においては右のような「現地側の“はばかり”」のあったこと、これを忘れることは許されない。
 近くの久留米市の大善寺玉垂宮でも、江戸時代までは「玉垂命」だった祭神を、明治維新のとき(鳥羽・伏見の戦のあと)新権力の「天皇家」に“ゆかり”のある「武内宿禰」へと「祭神変更」を行った旨の貴重な文書が残されている(宮司と村役代表による)。そのような時代である。

 (その二)その後、「地名変更」はさらに“進展”した。「飛鳥(ヒチャウ)」を「飛島(トビシマ)」と“改名”したのである。「ヒチャウ」という“漢音訓み”では“言いにく”く、かつ“なじみ”にくかったからであろう。「鳥」と似た字の「島」が採用され、「転字」されたものと思われる。“証拠”は次の三点だ。
 (甲)この地形は“飛び地”ではない。他に明白な“飛び地”のケースは別に存在する。
 (乙)本来、これが「飛島とびしま」という字地名だったとすれば、わざわざこれを明治前期の字地名表で「飛鳥(ヒチャウ)」などと“書き換える”必要は全くない。
 (丙)近隣の神社に「明日香皇子」が“祭られる”理由も全くない。
 従ってやはり、前述のように、
 「飛鳥(アスカ)」→「飛鳥(ヒチャウ)」→「飛島(トビシマ)」
という「三段階の変化」あり、と考える他はないのである。
 地名は歴史と共に「変化」し、「改字」される運命をもつ。

    四

 しかし、運命はさらに重大な歴史の局面を用意していた。
 いわゆる「大化の改新」のさい、中臣鎌子連(藤原鎌足)は「三嶋(みしま)」にいたという(日本書紀、皇極三年春正月の朔ついたち)。この「三嶋」は大阪府高槻市近辺とされる。ところがその日に、あの「蹴鞠(けまり)の儀」が行われる。中大兄皇子(天智天皇)と鎌足の盟約成立の有名な場面だ。ところは「法興寺(飛鳥寺)」である。
 実は
 「河内の高槻から大和の飛鳥まで」は、即日では“行け”ない。一・両日か二〜三日かはかかる距離だ。「土地鑑とちかん」に合わないのである。
 ところが九州の場合
 「上座(カミツアサクラ)」の中に三嶋があり(倭名類聚鈔)、先に問題となった「九州の“アスカ”」(小郡市)のすぐ“隣り”の地なのである。先の近畿の場合のような矛盾は存在しない。

    五

 さらに有名な「入鹿暗殺」は
 「三韓の調を進(たてまつ)らむ日」(皇極四年六月八日)だったという。ところがここ九州の「上座(かみつあさくら)」と「下座」の地は、「結跏趺坐」した仏法天子の本拠をしめす地名なのである。
 この地には二つの美奈宜(みなぎ)神社がある。朝倉市町蜷城(みなぎ)町林田(三〇〇〇坪)と朝倉市荷原(一五七九坪)の、文字通りの「広庭」だ。橘氏の領するところ、太刀洗(たちあらい)町の近傍。この周辺には「三島神社」と呼ばれる神社が数多いのである。
 日本書紀・斉明七年五月に、
(斉明)天皇、朝倉橘広庭に遷りてます。とありそこが「朝倉社」と呼ばれている。そして斉明七年十一月に
 天皇、朝倉宮にりましぬ。とあること

有名だ。この地に中大兄皇子、藤原鎌足、蘇我入鹿等が参集していたこと、当然ではあるまいか。ここは、「九州の“アスカ”」の近傍に当たっているのである。
 意外にも「入鹿斬殺」の地にふさわしかったのは、「大和の“アスカ”」ではなく、ここ「九州の“アスカ”」だったのである。
 さらに久留米市の久留米大学の近くには「曲水の宴」の痕跡の出現があり、太刀洗町には「正倉院」の建物跡が次々と現れた。「飛ぶ鳥の“アスカ”」の南に当たっている。この「正倉院」群は、あの奈良の正倉院と「同規模」であったという。果していずれが古いか。
 「入鹿斬殺」をめぐる時期(年代)の問題(通例は「六四五」とされている)については『なかった ーー真実の歴史学』(第五号、ミネルヴァ書房刊)を参照してほしい。

    六

 わたしは考えた。「この『飛ぶ鳥の“アスカ”』の地形を、目に見える形で、視覚化したい」と。“りくつ”だけではなく、実際に“目に見える”形で“とらえ”たい。“しめし”たい、と思った。
 そして従来の万葉学界も、日本古代史学界も、まったく無関心ですごしてきた、この「九州の“アスカ”」へと関心と注目を求めたい、この願いが生じたのである。

    七

 もちろん、この「飛ぶ鳥」の形状、その水路の“ありよう”は歩いてみれば分る。明白なのである。わたしも何回も歩いた。朝日トラベルなどの「古代史の旅」講師として、もとの「水路」を辿った。
 現在の「飛島(とびしま)」を原点として、北方の「井上」の「本山」まで、自分たちで“歩いて”みれば判然とする。当然だ。
 たとえばいま自分の住んでいる家・「自宅」から、近くの駅、JRや私鉄の駅までの道すじや曲り方、全体の形状は、誰でもよく知っている。別にそれを空から飛行機や軽気球で「観測」してみなくても分りきっている。それと同じことだ。
 だが、それを「視覚化」したい。あえて映像化したい。 ーーーそう考えたのであった。

    八

 わたしにとっては研究実験上の先例があった。高知県の土佐清水での実験「報告書(3) 」である。
 要約しよう。
 第一、土佐清水市の足摺岬周辺には広汎な巨石遺構が存在する。三列石(鏡岩)、亀形巨石、男根型巨石、暦石型巨石、ストーン・サークル状巨石等である。
 第二、いずれも人工的、人為的形状をもち、到底“大自然の中の自然分布”とは認められぬ様態をもつ。
 第三、この地帯には、縄文土器が広汎に分布し、弥生土器以降は激減している。
 第四、従って右の巨石遺構は縄文時代における「構築物」と見なさざるをえない。

 第五、この地帯(足摺岬)は黒潮が北上し、この地帯の断崖(臼婆〈ウスバエ〉)に衝突する。日本列島と黒潮との唯一の“衝突の場”となっている。
 第六、もし黒潮に乗じた舟、あるいは筏がそのままこの断崖に衝突すれば、ただちに“こっぱみじん”となろう。
 第七、ところがその数十メートルないし数百メートル前に、「断崖の接近」を予知できれば、容易に黒潮の流れから“脱出”可能である。(黒潮の幅はそれほど“広く”はない。)
 第八、この点、断崖の並びないし奥に“立地”している「三列石」(鏡岩)は、太陽や月の光を“反射”して、この「断崖の存在」を“知らせる”という用途をもっているのではないか。これがわたしの「研究上の仮説」であった。
 第九、この仮説の当否を実証すべき実験、それがこのさいの研究実験の目的であった。現地(土佐清水市)の方々の手厚い支援やリコー(株)の研究所(研究開発本部・坂木泰三氏)やソニー(本社)等多くの方々の助力をえて実行された。

    九

 研究実験は次のように実施された。
(A)一九九三年十一月三日、高知大学普喜満生助教授、YHP谷本茂氏、昭和薬科大教授古田が、CCDカメラ及び8ミリビデオ(望遠拡大装置つき)による岩石面の見え方測定を行った。海上及び陸上(二ヶ所)からの測定である。
(B)銀紙(レフ)と唐人石断片(磨いたもの)との光度比較実験はリコー研究開発本部金子豊氏によって行われた。
(C)研究実験は予想を上回る成果をえた。
(その一)唐人駄場の北側に“集合する”唐人石は海上から(太陽や月の光を受けて)輝いて見えていたことが確認された。
(その二)当初“予想”していた太陽光と同じく、或いはそれ以上に月光の反射が鮮やかである。この点“予想”以上であった(ただし、海上実験は昼間のみ)。
(その三)唐人石以外でも灘地区(大岩)に関しても同類の輝度観測を行った。
(その四)佐田山第二峰(Bサイト)列石群を軽気球より直上から撮影し、その「ストーン・サークル」状の実形を撮影した(群馬県・青高館の軽気球による)。
 以上の研究実験により、これら「足摺岬周辺の巨石遺構」が従来説のように“自然的分布”によるものでなく、「人為的分布」の性格をもっていることが“証明”されたのである。すなわち、「縄文文明の中の、注目すべき一大遺跡」だったのである。

    十

 以上の先行実験を受け、今回の研究は次のように実施される。
  (I) 平成二十年(二〇〇八)十月二十五日(土)、小郡市の「飛ぶ鳥の“アスカ”」を中心点として、研究実験が行われる。
 (II) 「アスカ」(現・字地名では「トビシマ」)はかっての城址、現在の福岡県立三井高校の周辺である。
 (III) 北方の「本山(ほんざん)」は旧長者屋敷の地であり、その四囲は堀に囲まれていた。現在は西南辺に長者堀として(約四分の一が)遺存している。
 (IV) その東翼には北大門、南大門があり、その西翼には更川、北吉川、蛭池などがある。「井上」の水源地帯である。
 (V) 右の「旧・水路」、現在の畑地等に「白い光沢ペンキを塗布(木村賢司氏による)したシート(グランドシートS・ダイオ化成)」を張る。縦三メートル、横一・五メートルの長方形シートを約二十五枚、地上に置く(上に石などを置きセットする)。
 (VI) 県立三井高校の「校内」もしくは「校外」から、軽気球を上げ、五十メートル乃至百五十メートルの上空からデジカメないしビデオで地上を撮影する。「飛ぶ鳥の“アスカ”」から「本山」とその両翼の領域の撮影である。
 (VII) 同じく、基山の頂上点より右の地域を(斜め上方から)撮影する(デジカメ及びビデオ)。
 (VIII) 右で使用する「白い光沢ペンキを塗布したシート」に対し、あらかじめ「光度比較実験」を行う。幸いにリコー研究所に坂木泰三氏、金子豊氏がご健在であり、今回も快く、この先行実験を引き受けて下さった。
 (IX) 今後に“残された課題”がある。筑後川領域の「大・中・小」の各河川、約十例の「川の輝度の測定」である。朝・昼・夕等の「川に対する太陽や月の反射光」の輝度を測定する。その「平均値」を以て、今はすでに“亡びた”「飛ぶ鳥の“アスカ”」の「水路」の「反射光」の輝度測定値として「比定」したいのである。
 将来の「特志」ある方々のためにその基礎データを作る。これが今回の研究実験の目途するところである。

    十一

 最後に「蛇足」を付する。
 今回の研究実験は、次のような立場では、全くない。
 1). 「現地に“アスカ”があり、それを“水路”の形状から『飛ぶ鳥』と(古田が、あえて)解釈し、それを確かめるための実験である」ーー と。前述のように明治前期の「字地名」は「飛鳥(ヒチャウ)」とあったのが出発点である。
 この問題に先鞭をつけられたのは柿原久之氏である。「井上の地名」(『故郷の花』第12号、小郡市・郷土史研究会)
 氏の論旨を「確認」し、大きく「進展」させ、深く歴史的意義を求め、そしてこれを「視覚化」しようとしたのである。
 2). 当地の「水路の形状」は、軽気球から見て“はじめて分る”ようなものではない。前述のように「歩けば分る」ものを、いわば“視覚化”しようとした。以上だ。
 けれども、わたしの学問研究にとって、本質上、不可欠の研究実験となったのである。

〈注〉
(1) 二〇〇一年十月、東洋書林刊
(2) 『明治前期、全国村名小字調査書』第四巻、二八九ページ下段、四行目、中項。ゆまに書房
(3) 土佐清水市文化財調査報告書「足摺岬周辺の巨石遺構 -- 唐人石・唐人馬場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書」、1995、土佐清水市教育委員会
(4) なお、齊藤忠氏(周知の考古学者とは同姓同名)は『倭国と日本古代史の謎』(二〇〇六年六月、学研M文庫、学習研究社刊)の「改新之詔は九州王朝の治績と剽窃」(第三章)、『「三国志」を陰で操った倭王卑弥呼』(二〇〇四年二月、学習研究社刊)において、わたしの立場と同じ道を辿られた(古田説は『市民の古代』第六集・「大化改新と九州王朝」一九八四、等)。末尾に古田の著書十五冊を参考文献とする。齊藤氏の著述は貴重である。

〈補〉
 今回の研究実験について、久留米大学での講演(七月五日)で次のように予告した。
 「飛鳥実験《古田プラン》」
 (一)目的 ーー小郡市井上の「川」、(二) ーー
(A)川の「反射実験」による輝度測定。
(B)上記の輝度の銀紙を用意する。
(C)高良山(もしくは朝倉近辺の山々)からのビデオ撮影(長距離用ビデオを用意する)
 (三)時期 ーーー1).十一月初旬(二〇〇八は準備)、2).二〇〇九本番(これを本年実施へ)
 (四)上記の目的を達する他の方法(たとえば同類の川の観察、撮影等)
       2008.6.25記、古田
 以上のプランを基点として先述の形方法・時期等)へと“進展”した。古賀達也氏(古田史学の会)のご助言に感謝する。

筑紫の飛鳥 井上の小字 生涯最後の実験 古田史学会報No.88

   ×   ×   ×

   ご支援のお願い
 今回の研究実験はわたしの生涯最後の実験です。
 もし、これに対し、はるかに御支援金を賜わる御意志をおもちの方があれば、(古田史学の会の方へ直接お寄せくださるか、もしくは新東方史学会(郵便振込口座 00130-7- 668768)へ寄金を御寄せ賜われば無上の幸せです。必ず研究成果を報告いたします。もちろん関係各位の御了解の上、実験上の阻害なき限り、当日の御参加は自由です。(雨天は、翌日〈十月二十六日・日曜〉に順延)
               以上
     二〇〇八、九月十日、記了


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