「遠近法」の論理 再び冨川さんに答える 古田武彦(会報87号)
仏像論 古田武彦(会報93号)
生涯最後の実験
古田武彦
一
今年(二〇〇八)の十月二十五日。生涯最後の実験を行なう。「飛ぶ鳥の“アスカ”」確認の研究実験である。ところは九州。福岡県小郡市だ。
すでに『壬申大乱』( (1) 二五一ページ)で扱ったように、ここには「アスカ」という字地名があった。その北方に「本山(ほんざん)」と呼ばれる地帯(字地名・井上)がある。その両脇にも水路があり、傾斜地をその「水路」が合流して南下し、先述の「アスカ」の地を“取り巻い”ている。その地形はまさに「飛ぶ鳥の“アスカ”」そのままの形状を“構成”していたのである。当の地形「確認」のための研究実験なのである。
二
けれども、右の要約では問題点、その本質が誤解される“恐れ”がある。ために今、研究の進展状況を順を追うて、ここに正確に論述しておこう。
第一、万葉集には「アスカ」をめぐる歌が少なくない。その表記も「飛鳥」と書いて「アスカ」と訓まれてきたこと、周知である。さらに「飛ぶ鳥の」という枕詞が「アスカ」に冠して用いられていることも著名だった。
第二、だが、「なぜ“飛鳥”の字面を“アスカ”と読みうるのか」、「なぜ“アスカ”の枕詞が“飛ぶ鳥の”なのか」この問いに対する「的確な回答」は見いだせなかった。
第三、もちろん数多い万葉学者たちは、いずれもこれに対する回答に“腐心”してきた。むしろ、この問題への回答に無関心だった万葉学者はほとんどいなかった、といっても、過言ではないであろう。室町・江戸時代から、明治以降今日まで、くりかえし“対案”が出されつづけてきた、とさえ言えよう。(別稿詳述予定)
第四、しかしながら、わたしの目から冷静に観察するとき、いずれも「的確な回答」は見出しがたい。率直に言えば、そのように評する他はない。なぜなら、いずれも“観念的”な、あまりにも“観念的”な「意味付け」に終始せざるをえなかったからである。
第五、これに対し、九州の場合はちがった。明治前期の「字地名表(2) 」に
飛鳥(ヒチャウ)
と明記されている。字地名に「漢音」や「呉音」の例は少ない。天神、釈迦堂などのような神社・仏閣の建物など関連のものは若干存在するものの、「飛鳥(ヒチャウ)」はこれとは異なる。本来は「アスカ」であったのを“音訓み”して表示したのである。
第六、右の問題を“裏付ける”のは近くの朝倉郡の古社・麻氏*良布(まてらふ)神社の祭神・「明日香皇子」の存在である。(朝倉市杷木町志波五四五八)。
麻氏*良布(まてらふ)の氏*は、氏の下に一。JIS第3水準ユニコード6C10
『太宰管内志』(上)・筑前之二十(上座郡)の麻氏*良布神社項で「神社志」として
「明日香皇子」
がある。イザナギ・イザナミと斉明・天智天皇とともに、この皇子の名前が出現しているのだ。
第七、万葉集や古事記、日本書紀にこの人物の存在はない。明日香皇女のみで
ある。(内田康夫の同名の小説は“創作”)。
第八、従って右の麻氏*良布神社祭神としての「明日香皇子」は、現地(上座〈カミツアサクラ〉)において尊崇せられた人物名。そのように解する他はない。
第九、現地で「明日香(アスカ)」にあたる地名は、この小郡市の「飛鳥」以外には、ない。
第十、ここでは北から南への「水路」の流出の道筋が、まさに「飛ぶ鳥」の形状をなしている。大和の「アスカ」にはこのような形状の水路が存在しない。
第十一、それゆえ、従来の「難題」だった
「アスカ」と「飛ぶ鳥」
の“つながり”は本来この地(小郡市)で発生し、それが「大和の“アスカ”」へと「移出」し、「移植」されたもの、そのように考える他はない。
論証の結果、意外な、以上の結論に到達せざるをえなかったのである。
三
現地における「地名変更」問題について付言したい。
(その一)かってこの地帯に流れる川は「徳川(とくがわ)」と呼ばれていた。「と」は“神殿の戸口”の「戸」。「く」は「久留米(くるめ)」の「く」、「多久(たく)市」の「く」、「千栗(ちりく)神社」の「く」であろう。これに「徳」の一字を“当て”ていたのである。
ところが徳川時代となった。「同字」の「徳川」の字面を“はばかり”、これを「得川」の字面に変えた、という。発音は同じ「とくがわ」だ。有名な「国家安康」(方広寺鐘銘)問題を口実として豊臣家(秀頼)を崩壊させた、あの徳川家からの“難題”を恐れたのであろう。
同じく明治維新。新政府の「天皇家中心」主義の下で「飛鳥(アスカ)」は重要な地名だった。天皇家の本拠地としての大和の「アスカ」。それは“有名な”中心地名であり、明治以後、一段と強調されはじめた万葉集中の中核地名の一であった。
現地(小郡市)ではこれを“はばかり”、「飛鳥」に「アスカ」の訓を付すことなく、「ヒチャウ」と“訓み”を振ったのである。これが「明治前期」の「字地名表」のしめした「表記」の歴史的意義であった。
わたしたちは、「封建主義の江戸時代」と「文明開化の明治時代」という“対比”で“教え”、かつ“学ば”されてきた。それは一面では事実だ。だが、反面においては右のような「現地側の“はばかり”」のあったこと、これを忘れることは許されない。
近くの久留米市の大善寺玉垂宮でも、江戸時代までは「玉垂命」だった祭神を、明治維新のとき(鳥羽・伏見の戦のあと)新権力の「天皇家」に“ゆかり”のある「武内宿禰」へと「祭神変更」を行った旨の貴重な文書が残されている(宮司と村役代表による)。そのような時代である。
(その二)その後、「地名変更」はさらに“進展”した。「飛鳥(ヒチャウ)」を「飛島(トビシマ)」と“改名”したのである。「ヒチャウ」という“漢音訓み”では“言いにく”く、かつ“なじみ”にくかったからであろう。「鳥」と似た字の「島」が採用され、「転字」されたものと思われる。“証拠”は次の三点だ。
(甲)この地形は“飛び地”ではない。他に明白な“飛び地”のケースは別に存在する。
(乙)本来、これが「飛島とびしま」という字地名だったとすれば、わざわざこれを明治前期の字地名表で「飛鳥(ヒチャウ)」などと“書き換える”必要は全くない。
(丙)近隣の神社に「明日香皇子」が“祭られる”理由も全くない。
従ってやはり、前述のように、
「飛鳥(アスカ)」→「飛鳥(ヒチャウ)」→「飛島(トビシマ)」
という「三段階の変化」あり、と考える他はないのである。
地名は歴史と共に「変化」し、「改字」される運命をもつ。
四
しかし、運命はさらに重大な歴史の局面を用意していた。
いわゆる「大化の改新」のさい、中臣鎌子連(藤原鎌足)は「三嶋(みしま)」にいたという(日本書紀、皇極三年春正月の朔ついたち)。この「三嶋」は大阪府高槻市近辺とされる。ところがその日に、あの「蹴鞠(けまり)の儀」が行われる。中大兄皇子(天智天皇)と鎌足の盟約成立の有名な場面だ。ところは「法興寺(飛鳥寺)」である。
実は
「河内の高槻から大和の飛鳥まで」は、即日では“行け”ない。一・両日か二〜三日かはかかる距離だ。「土地鑑とちかん」に合わないのである。
ところが九州の場合
「上座(カミツアサクラ)」の中に三嶋があり(倭名類聚鈔)、先に問題となった「九州の“アスカ”」(小郡市)のすぐ“隣り”の地なのである。先の近畿の場合のような矛盾は存在しない。
五
さらに有名な「入鹿暗殺」は
「三韓の調を進(たてまつ)らむ日」(皇極四年六月八日)だったという。ところがここ九州の「上座(かみつあさくら)」と「下座」の地は、「結跏趺坐」した仏法天子の本拠をしめす地名なのである。
この地には二つの美奈宜(みなぎ)神社がある。朝倉市町蜷城(みなぎ)町林田(三〇〇〇坪)と朝倉市荷原(一五七九坪)の、文字通りの「広庭」だ。橘氏の領するところ、太刀洗(たちあらい)町の近傍。この周辺には「三島神社」と呼ばれる神社が数多いのである。
日本書紀・斉明七年五月に、
(斉明)天皇、朝倉橘広庭に遷りてます。とありそこが「朝倉社」と呼ばれている。そして斉明七年十一月に
天皇、朝倉宮にりましぬ。とあること
有名だ。この地に中大兄皇子、藤原鎌足、蘇我入鹿等が参集していたこと、当然ではあるまいか。ここは、「九州の“アスカ”」の近傍に当たっているのである。
意外にも「入鹿斬殺」の地にふさわしかったのは、「大和の“アスカ”」ではなく、ここ「九州の“アスカ”」だったのである。
さらに久留米市の久留米大学の近くには「曲水の宴」の痕跡の出現があり、太刀洗町には「正倉院」の建物跡が次々と現れた。「飛ぶ鳥の“アスカ”」の南に当たっている。この「正倉院」群は、あの奈良の正倉院と「同規模」であったという。果していずれが古いか。
「入鹿斬殺」をめぐる時期(年代)の問題(通例は「六四五」とされている)については『なかった ーー真実の歴史学』(第五号、ミネルヴァ書房刊)を参照してほしい。
六
わたしは考えた。「この『飛ぶ鳥の“アスカ”』の地形を、目に見える形で、視覚化したい」と。“りくつ”だけではなく、実際に“目に見える”形で“とらえ”たい。“しめし”たい、と思った。
そして従来の万葉学界も、日本古代史学界も、まったく無関心ですごしてきた、この「九州の“アスカ”」へと関心と注目を求めたい、この願いが生じたのである。
七
もちろん、この「飛ぶ鳥」の形状、その水路の“ありよう”は歩いてみれば分る。明白なのである。わたしも何回も歩いた。朝日トラベルなどの「古代史の旅」講師として、もとの「水路」を辿った。
現在の「飛島(とびしま)」を原点として、北方の「井上」の「本山」まで、自分たちで“歩いて”みれば判然とする。当然だ。
たとえばいま自分の住んでいる家・「自宅」から、近くの駅、JRや私鉄の駅までの道すじや曲り方、全体の形状は、誰でもよく知っている。別にそれを空から飛行機や軽気球で「観測」してみなくても分りきっている。それと同じことだ。
だが、それを「視覚化」したい。あえて映像化したい。 ーーーそう考えたのであった。
八
わたしにとっては研究実験上の先例があった。高知県の土佐清水での実験「報告書(3) 」である。
要約しよう。
第一、土佐清水市の足摺岬周辺には広汎な巨石遺構が存在する。三列石(鏡岩)、亀形巨石、男根型巨石、暦石型巨石、ストーン・サークル状巨石等である。
第二、いずれも人工的、人為的形状をもち、到底“大自然の中の自然分布”とは認められぬ様態をもつ。
第三、この地帯には、縄文土器が広汎に分布し、弥生土器以降は激減している。
第四、従って右の巨石遺構は縄文時代における「構築物」と見なさざるをえない。
第五、この地帯(足摺岬)は黒潮が北上し、この地帯の断崖(臼婆〈ウスバエ〉)に衝突する。日本列島と黒潮との唯一の“衝突の場”となっている。
第六、もし黒潮に乗じた舟、あるいは筏がそのままこの断崖に衝突すれば、ただちに“こっぱみじん”となろう。
第七、ところがその数十メートルないし数百メートル前に、「断崖の接近」を予知できれば、容易に黒潮の流れから“脱出”可能である。(黒潮の幅はそれほど“広く”はない。)
第八、この点、断崖の並びないし奥に“立地”している「三列石」(鏡岩)は、太陽や月の光を“反射”して、この「断崖の存在」を“知らせる”という用途をもっているのではないか。これがわたしの「研究上の仮説」であった。
第九、この仮説の当否を実証すべき実験、それがこのさいの研究実験の目的であった。現地(土佐清水市)の方々の手厚い支援やリコー(株)の研究所(研究開発本部・坂木泰三氏)やソニー(本社)等多くの方々の助力をえて実行された。
九
研究実験は次のように実施された。
(A)一九九三年十一月三日、高知大学普喜満生助教授、YHP谷本茂氏、昭和薬科大教授古田が、CCDカメラ及び8ミリビデオ(望遠拡大装置つき)による岩石面の見え方測定を行った。海上及び陸上(二ヶ所)からの測定である。
(B)銀紙(レフ)と唐人石断片(磨いたもの)との光度比較実験はリコー研究開発本部金子豊氏によって行われた。
(C)研究実験は予想を上回る成果をえた。
(その一)唐人駄場の北側に“集合する”唐人石は海上から(太陽や月の光を受けて)輝いて見えていたことが確認された。
(その二)当初“予想”していた太陽光と同じく、或いはそれ以上に月光の反射が鮮やかである。この点“予想”以上であった(ただし、海上実験は昼間のみ)。
(その三)唐人石以外でも灘地区(大岩)に関しても同類の輝度観測を行った。
(その四)佐田山第二峰(Bサイト)列石群を軽気球より直上から撮影し、その「ストーン・サークル」状の実形を撮影した(群馬県・青高館の軽気球による)。
以上の研究実験により、これら「足摺岬周辺の巨石遺構」が従来説のように“自然的分布”によるものでなく、「人為的分布」の性格をもっていることが“証明”されたのである。すなわち、「縄文文明の中の、注目すべき一大遺跡」だったのである。
十
以上の先行実験を受け、今回の研究は次のように実施される。
(I) 平成二十年(二〇〇八)十月二十五日(土)、小郡市の「飛ぶ鳥の“アスカ”」を中心点として、研究実験が行われる。
(II) 「アスカ」(現・字地名では「トビシマ」)はかっての城址、現在の福岡県立三井高校の周辺である。
(III) 北方の「本山(ほんざん)」は旧長者屋敷の地であり、その四囲は堀に囲まれていた。現在は西南辺に長者堀として(約四分の一が)遺存している。
(IV) その東翼には北大門、南大門があり、その西翼には更川、北吉川、蛭池などがある。「井上」の水源地帯である。
(V) 右の「旧・水路」、現在の畑地等に「白い光沢ペンキを塗布(木村賢司氏による)したシート(グランドシートS・ダイオ化成)」を張る。縦三メートル、横一・五メートルの長方形シートを約二十五枚、地上に置く(上に石などを置きセットする)。
(VI) 県立三井高校の「校内」もしくは「校外」から、軽気球を上げ、五十メートル乃至百五十メートルの上空からデジカメないしビデオで地上を撮影する。「飛ぶ鳥の“アスカ”」から「本山」とその両翼の領域の撮影である。
(VII) 同じく、基山の頂上点より右の地域を(斜め上方から)撮影する(デジカメ及びビデオ)。
(VIII) 右で使用する「白い光沢ペンキを塗布したシート」に対し、あらかじめ「光度比較実験」を行う。幸いにリコー研究所に坂木泰三氏、金子豊氏がご健在であり、今回も快く、この先行実験を引き受けて下さった。
(IX) 今後に“残された課題”がある。筑後川領域の「大・中・小」の各河川、約十例の「川の輝度の測定」である。朝・昼・夕等の「川に対する太陽や月の反射光」の輝度を測定する。その「平均値」を以て、今はすでに“亡びた”「飛ぶ鳥の“アスカ”」の「水路」の「反射光」の輝度測定値として「比定」したいのである。
将来の「特志」ある方々のためにその基礎データを作る。これが今回の研究実験の目途するところである。
十一
最後に「蛇足」を付する。
今回の研究実験は、次のような立場では、全くない。
1). 「現地に“アスカ”があり、それを“水路”の形状から『飛ぶ鳥』と(古田が、あえて)解釈し、それを確かめるための実験である」ーー と。前述のように明治前期の「字地名」は「飛鳥(ヒチャウ)」とあったのが出発点である。
この問題に先鞭をつけられたのは柿原久之氏である。「井上の地名」(『故郷の花』第12号、小郡市・郷土史研究会)
氏の論旨を「確認」し、大きく「進展」させ、深く歴史的意義を求め、そしてこれを「視覚化」しようとしたのである。
2). 当地の「水路の形状」は、軽気球から見て“はじめて分る”ようなものではない。前述のように「歩けば分る」ものを、いわば“視覚化”しようとした。以上だ。
けれども、わたしの学問研究にとって、本質上、不可欠の研究実験となったのである。
〈注〉
(1) 二〇〇一年十月、東洋書林刊
(2) 『明治前期、全国村名小字調査書』第四巻、二八九ページ下段、四行目、中項。ゆまに書房
(3) 土佐清水市文化財調査報告書「足摺岬周辺の巨石遺構 -- 唐人石・唐人馬場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書」、1995、土佐清水市教育委員会
(4) なお、齊藤忠氏(周知の考古学者とは同姓同名)は『倭国と日本古代史の謎』(二〇〇六年六月、学研M文庫、学習研究社刊)の「改新之詔は九州王朝の治績と剽窃」(第三章)、『「三国志」を陰で操った倭王卑弥呼』(二〇〇四年二月、学習研究社刊)において、わたしの立場と同じ道を辿られた(古田説は『市民の古代』第六集・「大化改新と九州王朝」一九八四、等)。末尾に古田の著書十五冊を参考文献とする。齊藤氏の著述は貴重である。
〈補〉
今回の研究実験について、久留米大学での講演(七月五日)で次のように予告した。
「飛鳥実験《古田プラン》」
(一)目的 ーー小郡市井上の「川」、(二) ーー
(A)川の「反射実験」による輝度測定。
(B)上記の輝度の銀紙を用意する。
(C)高良山(もしくは朝倉近辺の山々)からのビデオ撮影(長距離用ビデオを用意する)
(三)時期 ーーー1).十一月初旬(二〇〇八は準備)、2).二〇〇九本番(これを本年実施へ)
(四)上記の目的を達する他の方法(たとえば同類の川の観察、撮影等)
2008.6.25記、古田
以上のプランを基点として先述の形方法・時期等)へと“進展”した。古賀達也氏(古田史学の会)のご助言に感謝する。
× × ×
ご支援のお願い
今回の研究実験はわたしの生涯最後の実験です。
もし、これに対し、はるかに御支援金を賜わる御意志をおもちの方があれば、(古田史学の会の方へ直接お寄せくださるか、もしくは新東方史学会(郵便振込口座 00130-7- 668768)へ寄金を御寄せ賜われば無上の幸せです。必ず研究成果を報告いたします。もちろん関係各位の御了解の上、実験上の阻害なき限り、当日の御参加は自由です。(雨天は、翌日〈十月二十六日・日曜〉に順延)
以上
二〇〇八、九月十日、記了
これは会報の公開です。新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。
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