2008年 8月12日

古田史学会報

87号

「遠近法」の論理
再び冨川さんに答える
 古田武彦

2祭りの後
「古田史学」長野講座
 松本郁子

『越智系図』における
越智の信憑性
『二中歴』との関連から
 八束武夫

「藤原宮」と
大化の改新について I
移された藤原宮記事
 正木裕

5 伊倉6
天使宮は誰を祀るか
 古川清久

6彩神(カリスマ)
シャクナゲの里6
 深津栄美

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トロイの木馬   冨川ケイ子(会報84号)

生涯最後の実験 古田武彦(会報88号)


アガメムノン批判 冨川さんの反論に答えて 古田武彦(会報85号)
「トロイの木馬」メンテナンス 冨川ケイ子(会報86号)


「遠近法」の論理

再び冨川さんに答える

古田武彦

     一

 思い出す。義本満さんのことだ。「市民の古代研究会」の副会長、温厚な紳士だった。当時、当会は事務局長の藤田友治さんを推進役として成長し、会員数も年々増大していた。
 それにともない、雑誌への投稿も活発で、その中ではわたし(古田)の所説への批判も各方面から相継いでいた。それはまことに歓迎すべき状況だ。だが、その内容そのものには学問の方法上「?」を感ぜさせるものが少なくなかった。
 そこでわたしは義本さんに相談した。「これらへの反論を、わたしが書いてもいいでしょうか」と。すると義本さんは言った。
 「まあ、止(や)めときなはれ。古田さんが反論書いたら、もう、一発(ぱつ)やと思うけど、それやられたら、書くもんが、気力が出ませんがな。古田さんは知らん顔して見とったらよろしい」。
 道理ある、そして会社経営にたずさわってこられた方らしく、常識ある判断だった。わたしはそれに従った。

     二

 結果は長短二方面に出た。一方ではいよいよ意気軒昂の新説が叢立してきたけれど、他方では「古田、何するものぞ」という立場から、A,B,C,D等の各派が分立した。そして会員数が千名に近づこうとしていた「市民の古代研究会」は分裂し解体した。
 しかし、わたし自身は「会長」でも「相談役」でもない。絶えず一介の研究者だ。だから、自分の研究は、幸いにもその後ますます進展して今日に至っている。
 けれども今は「会の盛衰史」をのべるのが目的ではない。右の経験からわたしは考えた。「一般論としては義本提言が正しい。だが時あっては、遠慮なく発言させていただこう」と。当会(「古田史学の会」)のリーダーの方々も、わたしの趣意を深く了解してくださっている。
 今回、冨川さんの「トロイの木馬 (1)」に次ぐ「『トロイの木馬』メンテナンス (2)」に対して重ねて再論させていただくのも、右の趣意以外には何の他意もない。
 「時あって」というのは、「学問の方法」や「学問の方向」にかかわる大事、あるいは"無視しえぬ、言いおくべきテーマ"がそこにあるとき、の意である。

     三

 第一は「補助線」問題である。
 冨川さんは次のように書いておられる。「そこでとりあえず『ギリシャ』は棚上げとし、アテナイの敗戦、それに先立つメロス島での住民殺害・奴隷化、この事件への批判を内に秘めて上演されたエウリピデスの悲劇作品『トロイアの女』…という補助線を引いた。」(p12.二段)。
 なつかしい言葉だ。「補助線」こそ少年時代の朝夕を占め通していたテーマだった。幾何学である。当時、学校の数学の授業(旧制中学)の中心に「幾何」があった。その例題に挑戦する、そのキイ・ワードが「補助線」だった。一本の「補助線」を引くことで「その問題」のすべての謎、あらゆる障害、と見えたものがサラリと解けるのだ。解けるまでは「下手な考え、休むに似たり」と見えているかも知れないけれど、一本の「補助線」で全面氷解したときの快感。勉強が楽しかった。朝も晩も考え続けた。
 今でも幾何学辞典めいた大冊を大事にとってある。「時間ができたら」再びひたってみたいのだ。
 だが、この「補助線使用のルール」がある。それは次の一点だ。「一本の補助線を引くことによって、そのテーマの中の、すべての諸矛盾が氷解する」、これだ。“何本も補助線を引く”のや“とりあえず補助線を引いても、保留したテーマは未解決のまま”というのでは、幾何学でいう「補助線」とはなりえないのである。
 もちろん旧制中学時代の「補助線の定義」での話だけれど“高度の数学”ではそうではないのかどうか、数学者に聞いてみたい。幸いに、数学者や理論物理学者の中に、わたしの歴史学に対する「ファン」は決して少なくないのであるから。
 冨川さんの場合、みずからしめしておられるように、もっとも重大な問題(次に詳述するところ)が「棚上げ」されたままだ。そして全稿を通じて決して"氷解"していないのであるから、ここに「補助線云々」を言われるのは少なくとも「学問の方法」として、残念ながら成り立ちえないケースなのである。

     四

 もっとも冨川さんの「側」に立ってみれば、ここで冨川さんの採用されたような「方法」は、現今の歴史学界では決して珍しくはない。たとえば、
 (その一)隋書イ妥(たい)国伝の「日出ずる処の天子・多利思北孤」の項の直前に「阿蘇山有り、火起りて天に接す、云々」とあるのは、学界側の「大和の聖徳太子説」からは不可解、少なくとも不利だ。だが、その矛盾を「棚上げ」したままにしている。しかも「大和説」は「仮説」ではなく、「定説」のようにして処理し、教科書化し、青少年を教育してきた。
 (その二)同じく白村江の戦(六六三または六六二)以前に建造された、と考えざるをえない「神籠石群 こうごいし」は明らかに「筑紫中心」であり、「大和中心」ではない。従来説にとっては決定的に不利な点だ。だが、その矛盾を「棚上げ」したまま「大和、聖徳太子」という一仮説を「定説」と称し、教科書にも記している。
 冨川さんにも周知の例ばかりあげたが、他にも数多い。たとえば倭人伝の「里数値」問題、「歩ほ数値」問題など、近畿説では説明できない。九州説でも、筑後山門説や朝倉説などでは無理だ。だが、それらの「?」を「棚上げ」したまま、(わたしの問題提起以後も)自説を「定説」もしくは「有力仮説」と称している。
 「それだけ多くのサンプルがあるのに、わたし(冨川さん)がやって、なぜ悪い」と言われるかも知れない。その通りだ。現代の「水準的レベル」の学問の“方法”である。
 ・・・・しかし、わたしの学問、わたしの方法とは全く異なっている。率直に言う。

     五

 第二は「遠近法」の問題である。
 本稿で一番肝心のテーマだ。冨川さんは「棚上げ」問題について、次のように書いておられる。
 「筆者(古田を指す)は、2aに引用した『“現在のギリシャの富裕と繁栄”自体を、アン・フェアな“トロヤ大虐殺”の結果として、これを否認する。……これがホメロスの立場、そして彼を尊敬するソクラテスの思想性だったのである。』の部分を古田説のエッセンスであると考えた。しかしながら『現在のギリシャの富裕と繁栄』の一節がどうしても理解できなかった。当時、ソクラテスの祖国であるアテナイは敗戦の苦渋をなめていた。勝者であるスパルタなどの諸国が『富裕と繁栄』を謳歌しているというならまだわかるが、敗戦下のアテナイがなぜ『富裕と繁栄』なのか? なぜアテナイではなく『ギリシャ』と書くのか? そこでとりあえず『ギリシャ』は棚上げとし、(以下、前述部につづく)」。
 要するに冨川さんは、(1)「ギリシャの富裕と繁栄」(古田)の文章を、(2)「アテネの富裕と繁栄」(冨川)と“取り換え”て理解しようとされたのである。

     六

 この問題を考えるさい、検証すべきテーマがある。それは 「ソクラテスは、誰に対して語ったのか」という問題だ。
(A)法廷の裁判官(五〇一人)
(B)アテネの市民
(C)ギリシャ周辺の人々
(D)後代の人々
 吟味してみよう。(1) 常識的には(A)で疑いない。(2) ソクラテスは「アテナイ人諸君」と呼びかけている。従って(B)が妥当だ。(3) ソクラテスがトロヤ戦争やホメロスについて語るとき、ただアテネの内部の人々だけでなく、広くギリシャとその周辺の人々の存在を意識し、その人々へも「語り」かけていたのではあるまいか。彼は決して"狭い意味"での「アテネ第一主義」に立っていたのではないからである。(4) 明らかなこと、それは彼が当時の「現代」の人々に対してだけではなく、未来の人々に対してもまた“語りかけている”ことだ。
 その「過去 ーー 現在 ーー 未来」を通じて人々の魂の会合できるところ、それが「死後の世界」であり、それについてソクラテスは生き生きと楽しそうに「弁舌」をふるっているのである。
 従って(D)の人々もまた(ソクラテスにとって)重要な「聴き手」だ。
 すなわち、未来においてもまた「民主主義」と「多数決」の名によって「不正な判決」が行われ、「功績ある正義の人々」を処刑することがありうる。 ーーこれが死を賭した彼の(後世への)警告であった。
 この点、真の「聴き手」は“後世の人々”である、ということも当然できよう。

     七

 では「後世の人」であるわたしたちにとって「ギリシャ」とは何か。そして今本稿を書いているわたしにとっての「ギリシャ」とは何か。すでに講演(たとえば昨《二〇〇七》年十一月・第四回八王子大学セミナー)などで述べたところであるけれど、重複を恐れず概観をしるしてみよう。
 わたしはかってトルコへ行った。あのシュリーマンが発掘した「トロヤ」が見たい。その思いだった。
 モスコウからポーランドを経て、飛行機はボスポラス(ダーダーネルス)海峡を越えた。空港へ着く三十分前、左手に黒海、右手にエーゲ海(地中海)の中を降下してゆくとき、わたしには一つのインスピレーションが湧いた。
 「本当のトロヤ戦争の原因はこれではないか」と。つまり、いわれている戦争の理由、例の三人の女神をめぐるリンゴの話(トロヤの王子パリスを中心に)やギリシャ側のヘレナをめぐるパリスの不倫脱出譚。それらはいずれも「本当の戦争の原因ではない」。本当は次の一点にあったのではないか。
 「この海峡の要衝を占めたトロヤは居ながらにして黒海側とエーゲ海側との“交易”の富を独占していた。輝く富める中心国家だった。その富を狙って、粗野な新興国家としてのギリシャがトロヤを攻撃し、壊滅させた。そして『トロヤ』を焼き払い『国家』として消滅させた」と。このイメージである。征服・侵略は古代国家(あるいは、現代も)の常であるけれど、この暴挙はあまりにも“えて勝手”だった。だからこそ、ありえない「リンゴの話」や、一国家消滅の理由としては、あまりにも"個人的"な「トロヤ王子・パリスとギリシャ王妃ヘレナの不倫譚」が“語られ”たのであった、と。
 イスタンブールの空港に着陸したあとトルコ各地をめぐるうち、このイメージが“正しかった”ことを知った。黒海沿岸(全体)は黄金と銅の一大先進地帯だった。もちろんトロヤ戦争以前の紀元前二?三千年の時間帯である。それに比べればギリシャ側はまだまだ“貧弱”だ。トロヤ戦争勝利以後のような「富裕と繁栄」の時期には至っていなかった。

     八

 もう一つ見のがせぬテーマがある。
 それはヨーロッパ・アメリカ、いわゆる西欧側の教科書には必ず「ギリシャ」が讃美されている。ユダヤ側のキリスト教の誕生地・イスラエルと共に。いわゆる「ヘレニズム」と「ヘブライズム」だ。
 もちろん両地とも、その中で「占領」や「敗北」はくりかえされた。「ソロモンの栄華」もあっただろう。しかし巨大な視野から見て、この二つは特記された ーーなぜか。
 要するにその両系列を"併せた"西欧文明のすばらしさ、その「正統性」の自己賛美(四字傍点)のためなのである。世界各国の歴史教科書もまた、その自己賛美を模倣した。もちろん日本も、また。
 そこには歴史の真相は書かれていない。「西欧文明の一淵源は『一大虐殺』にあった。それがギリシャの興隆をもたらした」、とは書かれていない。書いたらいわゆる極東裁判の『大虐殺』なるもののイメージが変わる。日本軍は「南京を消滅させた」わけでもなく、中国そのものを歴史から消したわけでもないのだから。
 もちろん一人殺しても「虐殺」は「虐殺」だ。許されることではない。「東亜を興すため」と称した大東亜戦争へと日本の青年を駆り立てた日本軍部の無恥に対して、同時代のわたしは消しえぬ怒りをもつ。
 しかし、これと、「ヨーロッパ文明は『超一大虐殺』にはじまった」という史実とは別のテーマだ。これも決して消すことのできぬ「意義」をもつ。
 それを知っていた二人の人間がいた。一人はホメロス。一人はソクラテス。いずれもわたしの知己である。

     九

 「遠視法」と「近視法」がある。今わたしの住んでいる向日市は、「桂離宮から近い」と言っても間違いではない、京都を知らぬ外国人に対しては。「桂離宮には遠い」、向日市近辺の人間なら誰でも、そう言う。正確だ。「遠視」と「近視」、基準点のとり方によるのである。

 わたしが今、「ギリシャの富裕と繁栄」と書いたのは、現代の世界の教科書がそろって扱っている(数ページにわたる)「ギリシャの全体」を指している。その中に「勝利」や「敗北」のあったこと当然だ(参考のためギリシャ史の年表をサンブルとして掲示させていただく)。この本(3) ではソクラテスは前四六九年の生れ、七十歳頃の死刑とされている。もちろん一仮説だ。「第6章 ペロポネソス戦争の時代」には、「5、アテナイの没落」の項があり、その末尾には「アテナイは決定的に没落した。」と記せられている(p.126)。この項は「前四一三年」からはじまっている。冨川さんの注目された「アテネの没落」だ。

     十

 本稿を書いているうちに気づいた。冨川さんの挙げておられる、わたしの史料(叙述)には大きな欠落がある。一番近いところでは昨年十一月の八王子セミナーのもの、それは「扱われ」ていないのである。来られなかったためであろう。
 実は挙げられたわたしの「学問論(第七回)ホメロスとソクラテス」(Tokyo古田会News No.117.Nov.2007)の同じ号に、会長の藤沢徹さんが、「第四回古代史セミナー速報 ーー古田武彦先生を囲んで『日本を深くする古代史批判』」を扱われ、その中に「ソクラテスの死刑、理由とバランスがとれない。ホメロスの『イーリヤス』が示唆するトロヤの富の収奪の上に立つ、ギリシャの繁栄を暴露、皮肉ったからだ。デルファイの神託などこじつけ」(p24上段)とあるけれど、見事な要約だ。だが、冨川さんは史料としてとりあげておられない。また「多元No.85」では会長の安藤哲朗さんが「古田武彦氏講義摘要」として詳細な「摘要」をのせてくださっている。しかしこれは「継体天皇と百済本記」の前半であり、後半は次号とされている。(さらにその後も続載されるようである)。
 また『なかった ーー真実の歴史学』第6号(最終号)には、昨年の八王子セミナーの講義を収録したDVD添付の「計画」もある。もし実現すれば幸いである。冨川さんの論稿はいささか時期が“早すぎた”のかも知れない。

     十一

 うれしい本を買った。今年の四月、信州へ行ったときだ。長野駅前の平安堂長野店古書センターだ。経営者のセンスが店全体にあふれたすばらしい古書店だったのである。その一画でA・E・テイラー著(松浪信三郎・訳)の『ソクラテス』(パンセ書院、昭和二八年)を見つけた。すぐ買った。
 ちょうど松本深志で『ソクラテスの弁明』を年中やっていた頃の発刊。耽読した。価格は三〇〇円。コーヒー一杯にも足りぬ値段だった。(ただ、その店ではゆったりした椅子と机が置かれお茶も自由に飲むことができた)。
 今、冨川さんの問題とされた「戦争と敗戦」とソクラテスの「弁明」との関係も適確に記せられている。
 「さて、われわれがこれから述べなければならないのは、あらゆる身分の人々に対し、一つの使命を宣べ伝えるという新たに見出した彼の活動が、アテナイにとって徐々に困難を増し加えやがてひたむきな生存のための戦いへと化していった『世界戦争』(ペロポネソス戦争)の渦中における幾年月にわたってたゆみなくつづけられ、 ーーわけてもシュラクサイに対するアテナイの国運を賭しての冒険がまったく失敗に終わったのちは『壁を背にして』戦わなければならない都市となり、ついに古来の道徳的、政治的、経済的秩序の全面的な崩壊を見なければならぬ憂き目になったということである。ソクラテスを罪に問うたお人好しではあるが見識の低い民主主義者たちは(以下略)」p106〜107。
 二十六歳だったわたしが興奮して読みふけった個所の一ページだ。これをもとに広大な博識の教師だった平林六弥先生にくまなく当時のギリシャ、敗滅したアテネについて熱弁の「講義」を職員室の一角でお聞きしたのであった。なつかしい。

     十二

 これらの遭遇も思えば冨川さんのおかげだ。彼女が二回にわたり、刺激してくださったためにわたしはこれらの遭遇を今回えたのであろう。冨川さんはまちがいなく「優秀な研究者」としての未来をおもちの方だ。言々句々、使用文献の提示などの筆風にそれを感じる。だからこそいささかの「苦言」を許してほしい。それは「言葉使い」である。
 「ご自分の『現在のギリシャの富裕と繁栄』説を固守なさるか、それとも『ギリシャ史の常識』にお立ちになるか」(p13.一段)。
 この「現在」という言葉の理解が、わたしの視野と異なっていたこと、既述の通りだ。だが「固守なさるか」という日本語、否、日本文はわたしは見たことがない。新入社員が電話で取引先の会社と応対するとき「貴方は何様ですか」と言ったという。もちろん相手の名前を丁重に聞いたつもりだったのである(週刊文春2008.6.19)。それと類似した違和感を覚えた。もちろん冨川さんにも他意はあるまい。
 「古田氏の見解に無批判に引きずられたものとし反省し、撤回したい」(p14.4段)。
 「反省」や「撤回」のとき、不適切な言葉使いが偽装会社の社長などにつづき話題になった。「引きずられ」云々も反省や謝罪のときに「使う」べき言葉ではない。
 今後、必ずすばらしい「研究者としての未来」をお持ちの冨川さんだけに、このような“とげ”をひかえられた方がさらに鋭い批判者となられるであろう。
 最後に一言する。わたしは平林六弥先生のお宅に電話したところ、九十歳を越える奥様とお嫁さん(昌子さん)がご健在で、先生の遺文類などお貸しいただけるようお願いできた。望外の喜びである。それは決して冨川さんとの「論争」のためではない。その問題はすでに解決している。ただわたし自身の青春の軌跡を辿るためだ。だがこれも今回の冨川論稿の刺激のおかげであり、心から感謝させていただきたい。
 そして今後は、今年中に刊行されはじめる、わたしの「コレクション」(ミネルヴァ書房刊)の『補注』の仕事に専念させていただきたい。この件、切にお願いする。


〈注〉
(1) 『古田史学会報』八四号、二〇〇八年二月十一日

(2) 同八六号、六月六日

(3) エミール・ナック、ヴィルヘルム・ヴェークナー著、紫谷哲朗訳『古代ギリシア』(佑学社、一九八六年四月刊)、略年表は目次の次頁

(4) 御疑問へのお答え
 1).「冨川の『新しい見解』」(p12.4段)──「新しい」は冨川さんの論点に対し、わたし側のつけた「表記」にすぎない。
 2). 「アキレウスに会う」(p13.4段)──冨川論稿で「引用」の形になっていたため、その「文面」を探して各図書館・各書店を巡った。
 3).「アキレウスは死を恐れない」(p14.4段)──『ソクラテスの弁明』(岩波文庫本)の(十六)(p34-35)に明白である。             以上
   二〇〇八・六月二十九日・稿了

〈補〉前稿「アガメムノン批判」中、「平村六弥」は「平林六弥」、「中島峯雄」は「中嶋嶺雄」の誤植。
     (インターネットでは訂正済み)
※ギリシア史略年表を十五頁に掲載。

略年表

エーゲ文明時代(前3500〜1000)
前2000以前 ミノス前期
 2000〜1500頃 ミノス中期
 1600頃 ミケーネ時代始まる
 1500〜1300頃 後期ミケーネ時代
 1200頃  トロイの没落
前1100頃 ドリス人のギリシア移住
ギリシア史の中世(前1000〜500)
前800頃 ホメロスの詩編誕生
 740 第一次メッセニア戦争
 640 第二次メッセニア戦争
 594 ソロンの憲法
前510 クレイステネス、アテナイに民主制の基礎を築く
ペルシア戦争時代(前500〜448)
前479 ミュカレの戦い。イオニアのギリシア人をペルシア支配から解放
 477 デロス・アッティカ同盟成立
前464〜456 第三次メッセニア戦争

ペリクレス統治下のアテナイ全盛期(前447〜431)

ペロポネソス戦争(前431〜404)
前403〜338 ギリシアの自由の最後の時代
前338 カイロネイアの戦い。ギリシアの自由の消滅
アレクサンドロス大王の時代(前336〜323)
前336 アリストテレス、アテナイに逍遙学派を築く
 334 アレクサンドロス ペルシア遠征
前327〜325 インド遠征
ヘレニズム時代(前323〜146)
前322 アテナイ、マケドニアに占領される
 168 マケドニア王国、ローマ人に余って滅ぼされる
前146 コリントス、ローマ人によって滅ぼされる。ギリシア本土はアカイア州としてローマの支配下に

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