松本深志の志に触れる旅 輝くすべを求めて 松本郁子(会報84号)
松本からの報告--古田武彦講演 学問の独立と信州教育の未来 松本郁子(会報85号)
祭りの後「古田史学」長野講座 松本郁子(会報87号)
祭りの後
「古田史学」長野講座
京都市 松本郁子
一、はじめに
祭りの後、長野の町は静かだった。
二〇〇八年(平成二十)四月二十九日の朝、私は善光寺を訪れた。三日前、北京オリンピックの聖火リレーのランナーが走り抜けた商店街を歩く。暴動の痕跡だろうか、ガラスが割れて周囲に粉々に砕け散り、柱がひん曲がった電話ボックスが一台。異様な光景だが、立ち止まる人は誰もいない。
善光寺の本堂に至る。二十日に発見された、聖火リレーの出発点を辞退したことに対する抗議が目的かとも噂される、白いスプレーの落書きを確認しようとするが、ない。近くの売店にいた売り子の女性に尋ねると、目立たないようにするために、茶色のシートで覆っているという。もう一度確認する。確かにあった。柱に茶色のシートがガムテープで貼られている。茶色のシートで覆われている部分は、本堂左側面に二ヶ所、本堂裏側に三ヶ所、合計五ヶ所だ。この下に落書きがあるのだろうが、体裁よく覆ってあるため、売り子さんに聞かなければ、おそらく分からなかったに違いない。境内を歩く観光客の人も、気にも止めることなく通り過ぎていく。シートで覆われた柱の写真をデジカメに収め、善光寺を後にした。
北京オリンピックの聖火リレーをめぐる事件、報道が連日相次いだ長野だが、その喧騒も過ぎ去ったようだ。今日の午後、長野市の長野県高校会館で、古田武彦先生の講演会が行われる。古田先生の講演の内容に入る前に、なぜ長野で先生の講演会が行われることになったのか、その経緯について触れておかねばならないだろう。
今回の講演会の主催者は、「信州の教育と自治研究所」である。その理事長を務める山岸堅磐(やまぎし・かきわ)さんが、古田先生の松本深志高校時代の同僚なのである。「信州の教育と自治研究所」は、「憲法を暮らしに生かし、信州を『まほろば』の郷に」との願いで、信州の教育、自治、環境を総合的に研究する民間の研究所として一九八二年(昭和五十七)十月に設立され、昨年二十五周年を迎えた。その記念講演が企画され、その講師として古田先生に白羽の矢が当たったのだ。
古田先生が松本深志高校の教師として赴任したのは、一九四八年(昭和二十三)のことである。その四年後の一九五二年(昭和二十七)、山岸さんが深志高校に赴任したが、両者はいずれも東北大学出身であった。古田先生と山岸さんは、浅間温泉の瀬戸屋の、それぞれ二階と一階に住んでいた。ただし古田先生は独身、山岸さんは新婚間もない頃であった。なぜ二人が同じ深志高校で教師になり、しかも同じ瀬戸屋に住むようになったかというと、二人とも当時深志の校長を務めていた岡田甫先生(1) の愛弟子だったからである。
古田先生は、旧制広島高校で岡田甫先生の教えを受けた。古田先生は学校以外でも、岡田先生の自宅に三日にあげず通い、先生の教えに浸りきっていたという。これは古田先生が何度も書き、何度も話されているところである。ところが、山岸さんと岡田先生との交わりは、古田先生より早かった。山岸さんが旧制須坂中学に在学中であった時、須坂高校の校長を務めていたのが、岡田甫先生だったのである。
当時は戦争中で、いわゆる「軍国主義」教育が荒れ狂い、配属将校が各校に駐留していた。一九四二年(昭和十七)夏、配属将校と須坂中学の生徒との間で衝突が起こった。五年生の生徒たちが配属将校の不当かつ残酷な暴力に抵抗し、謝罪を求めて教室に立てこもり、結果として一時間のストライキになってしまったのである。その時の生徒代表が山岸さんであった。五年生は全員退学覚悟であったが、岡田先生は「お前たちの気持ちは俺にはよく分かる」と生徒の心情を汲み、生徒に対する処分は全くなかった。この事件を契機に生徒たちの岡田先生や教職員への信頼は一気に高まり、全県水泳大会も優勝の栄誉を勝ち取ることができたそうである(当時は野球大会は禁止)。この時岡田先生が生徒たちに示した態度が山岸さんを感動させ、その後の人生の指針となったという。(2)
山岸さんは一九四三年(昭和十八)須坂中学校を卒業後、海軍兵学校に進んだが、一九四五年(昭和二十)の敗戦と同時に仮卒業となり、一九四七年(昭和二十二)東北大学法文学部英文科に進学した。敗戦後、その後の進路について岡田先生に相談した山岸さんは、東北大学には村岡典嗣という日本思想史の立派な先生がいる、また教え子の古田武彦君がいるから、と東北大学への進学を強く勧められたそうである。しかし実際に行ってみると、村岡先生はすでに亡くなられた後で、村岡先生の教えを受けることはできなかったという。だから直接村岡先生の教えを受けた古田先生がうらやましいとのことであった。その東北大学を卒業後、山岸さんは東北の某夜間定時制高校に赴任したが、一九五二年(昭和二十七)、岡田先生に呼ばれて松本深志高校の英語科教諭になったのである。
古田先生は一九五四年(昭和二十九)松本深志高校を辞し、神戸や京都の高校教諭を経て、親鸞研究、そして古代史研究へと進んだ。一方の山岸さんは、長野県や福島県各地の高等学校における教師生活を経た後、信州の教育、自治、環境の推進のため、住民運動に従事することとなった。古田先生は学問、山岸さんは社会運動と、それぞれ進む方向は違ったけれども、相互の敬意ある交流が絶えることはなかった。そのような縁で、今回の「信州の教育と自治研究所」創立二十五周年記念講演における古田先生への招請となったのである。
二、日本の学問と信州の教育
-- 十五の論証=「大化改新」批判
それでは、いよいよ講演の中身に入っていこう。掲げられた論題は、「日本の学問と信州の教育?十五の論証=『大化改新』批判」。講演会は前半と後半、そして質疑応答の三部構成であった。
前半では、「大化の改新」問題が論ぜられた。これについては『なかった』第五号掲載予定の古田先生の論文に譲る。
後半では、いわゆる「部落言語学」問題が論ぜられた。
従来の同和教育では、被差別部落は江戸時代の封建制度、いわゆる「士農工商・穢多非人」の名残であると説明されてきた。つまり、被差別部落の淵源を室町時代以降とするものである。しかし早稲田大学の同和問題研究会作成の「被差別部落の分布図」は、日本歴史地図の「古墳分布図」と相似形をなしている。たとえば東北地方や沖縄には古墳もないが、被差別部落もない(あるいは、乏しい)。このことは、被差別部落の淵源が少なくとも古墳時代に遡ることを示している。さらに、三国志の魏志倭人伝には、「奴婢」や「生口」の存在が記されている。また、縄文時代の後期、晩期の甕棺には、当時のエリート(巫女)のみが葬られている(青森県太平洋岸)。この事実は、縄文時代が身分差のある差別社会であったことを示している。
Aという王朝がBという王朝を滅ぼし、勃興すると、Bにおいて「神聖なもの」とされていた存在を貶め、侮辱する(たとえば、「国生み神話」の「ヒルコ」。旧約聖書でも、かつて神聖なものとされていた蛇が悪者として記されている)。したがって現在、被差別民が卑しむべき存在とされているのは、かつて彼らが一般人や貴族、そして天皇以上の神聖な存在であったため、という可能性が高い。
現在の「一地方の言語」は、他の地方の代々の支配者たちの言語との混交である(たとえば現在の博多弁は、代々の支配者の言語との混交弁)。これに対し被差別部落は、共同体の性格が強いため、言語の混交もあまり行われてこなかったと考えられ、本来の日本語の祖源の型を遺存させている可能性が高い。
しかし従来の言語学や国語学には、このような観点が欠落している。たとえば信州の場合、被差別部落の言語を研究すれば、縄文の言語へと行き着く可能性がきわめて高い。島崎藤村の『破戒』が生み出された信州の地で、是非これを深く研究してほしい、として、古田先生はいわゆる「部落言語学」問題を締めくくられた。
三、チベット問題の背景
質疑応答の時間には、チベット問題や、北京オリンピックの聖火リレーの混乱の問題が話題に上った。長野市は聖火リレーの開催地、聴講者の関心も高い。その混乱の背景について、古田先生の見解が述べられたのである。
古田先生はまず、日本ではこの問題がテレビや新聞で大きく報じられたが、事の本質が全く触れられていない、と指摘した。今回の問題の背景には、現在の中国憲法(「中華人民共和国憲法」、一九四九年九月二十九日公布)が内包する「歪み」がある。
現在の中国憲法は、毛沢東政権時代に作られた。毛沢東がソ連のスターリンと蜜月関係にあった時期、スターリン憲法をそのまま真似して作ったのが、現在の中国憲法である。
スターリン憲法(「ソヴェト社会主義共和国同盟憲法」、一九三六年十二月五日採択)は、現在では廃止されているが、スターリンが作ったものである。スターリン憲法においては、宗教信仰については、各人が心の中で信ずる自由は認める、とされていた。しかし、いわゆる宗教宣伝の自由は認められていなかった。つまり、各個人が心の中で宗教を信じることは自由であるが、宗教宣伝をすると、憲法違反となったのである。これに対し、反宗教宣伝は信ずることも、人に対して反宗教宣伝を行うことも自由、とされていた。これはレーニンが作ったレーニン憲法とは全く反する立場である。
レーニン憲法(「ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国憲法」、一九一八年七月十日採択)では、宗教を信じることも、これを人に勧めることも自由、とされていた。また、反宗教の立場を信じることも、これを人に勧めることも自由であった。これが本来のソ連の信教の自由の姿である。これはマルクスの信教の自由論の正確な実現であった。
マルクスは、ヨーロッパにおける当時の信教の自由は偽りである、と主張した。すなわち、宗教を信ずる場合には、内心の自由のみならず、他に対して宣伝するのも全く自由であるのに対し、反宗教宣伝の場合は、名目上は自由であるかのようにされていたが、実際は不可能であった。キリスト教社会の体制が反宗教宣伝を行わせない強力な圧力となっていたからである。したがってヨーロッパにおける信教の自由とは、名前だけにとどまり、その実態はない、というのがマルクスの批判であった。このマルクスの立場をレーニンはそのまま受け継いだ。真の信教の自由、すなわち宗教宣伝の自由と反宗教宣伝の自由が認められているのは、ソ連のみである、との自負が込められていたのである。
それがレーニンの死後、スターリンの時代となって、一変させられた。先述のように、名前は信教の自由とされながら、実際に認められるのは反宗教宣伝の自由のみという姿に変えられたのである。これがスターリン憲法の立場であった。
それがそのまま中国に移し変えられたのが、現在の中国憲法である。ロシアではスターリン憲法は廃止されたけれども、中国では今も健在である。したがって現在の中国では、反宗教宣伝の自由はあっても、宗教宣伝の自由はない。心の中で信ずる自由などは当然であって、本来国家が関与すべき問題ではない。信ずることを公に人に宣伝する自由、そして反宗教宣伝をする自由、それが両方認められてはじめて、真の信教の自由と言うことができる。しかし、そのような自由は現在の中国憲法では認められていない。これが現在のチベット問題や聖火リレーの混乱の根源となっているのである。北京でも、洛陽でも同一である。
しかし日本では、政治家もジャーナリストも宗教家も、あえてこれに触れようとしていない。中国を愛するからこそ、同じアジアの一員として、この問題をそのままにしていては、中国は現代の一流国家にはなりえないということをはっきりと言うべきである。日本の宗教家や政治家がはっきりとこれを告げるべきである。中国は今回のオリンピックを機に、従来のスターリンの亡霊から脱却すべきである。
以上がチベット問題と聖火リレーの混乱の問題に対する、古田先生の見解である。
四、中国に平安あれ
五月十二日、中国中西部の四川省でマグニチュード七・八の大地震が起こった。中国政府の発表によると、五月二十四日現在で死者は六万五六〇人、行方不明者は二万六二二一人、被災者は四五五〇万人に達したという。日本政府も救援隊や医療チームを送るなど、災害復旧支援活動を開始している。
これについて古田先生に尋ねたところ、先生は次のように答えた。オリンピックとは本来、ギリシア人が平穏な生活を願って神様に捧げるために行ったものである。したがって今回のような災害が起きた場合には、その行事を延期して、災害復旧のために全力を尽くすのが筋ではないか。そして復旧が無事成し遂げられた暁には、平和と平穏に感謝して、行事を再開すればよいのではないか、と。
私もその通りであると思う。ともあれ、中国の災害の余波が一日も早く収束に向かうことを心から祈っている。
(二〇〇八年五月二十六日稿了)
〈注〉
(1) 岡田甫先生は、古田先生が深志高校に赴任した一九四八年(昭和二十三)は、教頭だったが、翌一九四九年(昭和二十四)に校長に就任した。
(2) 長野県須坂中学における配属将校と生徒たちの衝突事件については、山岸さん自身により、小説化されている(やまぎしかきわ『小説リレーランナー--緑の山河あるかぎり』文藝出版、二〇〇七年十二月)。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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