伊倉6
天使宮は誰を祀るか
武雄市 古川清久
伊倉 二十六
“福岡市西区周船寺の伊覩神社は天子宮か”
JR筑肥線といえば、玄海灘沿いに博多から唐津に向かう単線ですが、福岡市西区に周船寺駅があります。この海側に伊覩神社があります。西区のネット上に出てくる資料(福岡市の作成でしょう)によると、
伊覩(いかん)神社
もとは主船司神社といいます。創建の時期は不明です。江戸時代前期の神社名は、松の木天子社で、その後松ノ木天神となり、伊覩神社となったといわれます。周船寺という地名は、一説によると、奈良時代太宰府政庁の時代に船を司る役所(主船司)があったことに由来するといわれています。
とあります。
もちろん、主船司神社が松ノ木天子社と名を変えた時期が分かる訳ではありませんが、恐らく天子社が天神と名称を変えたという記録があったのでしょう。してみると、予想されたことではありますが、多くの天神社の中にも天子社が埋もれている可能性が出てきたのです。
伊倉 二十七
“筑前、筑後において消された天子宮、天子社の痕跡”
西区周船寺の松の木天子社、筑後市水田天満宮と天子宮の可能性があるものが名称からだけですが確認できました。このことによって、福岡県内には見当たらないとしていた天子宮が存在している(存在していた)ことがはっきりしてきたようです。
さて、古田武彦氏は二〇〇一年に出された『古代史の十字路』万葉批判“第八章雷山の絶唱”において、柿本朝臣人麻呂の万葉歌
大君は神にし座せば天雲の雷の上に盧らせるかも(巻第三、雑歌、二三五)
皇は神にし座せば真木の立つ荒山中に海を成すかも(巻三・二四一)
「海を成すかも」(原文:海成可聞)については福永晋三(現越境の会)、伸子夫妻が海鳴りと訓まれたことは著名です。
の舞台を福岡県と佐賀県の境界をなす雷山であり、この神社が九州王朝の皇を祀るものであるとされました。仮に正しいとしても、直ちにそれが現在調査中の天子宮であるとは言えませんが、九州王朝と関係があるものであることは間違いがないと思われます。
この雷神社については、筑後市の水田天満宮と九州王朝の(筑後遷都)第二の都と考えられている久留米市三潴(水沼)の間に雷山神社が二社、大雷神社が一社あることをお知らせしておきます。
ここで気になるのがこの雷山の麓、前原市山北の十六天神社です。この神社は看板こそ天神社とされてはいるのですが、「天子宮」という額が社殿に掛けられているのです。これも筑前、筑後領域で消された天子宮の痕跡と考えているのですが、今後とも背景調査が必要になります。
この十六天神社についても西区太郎丸(十六天神社)、前原市多久(十六天神託神社/これは十六天神、託=多久神社なのでしょうね/託杜神社)に同様の神社があることを確認しておきたいと思います。また、西区の十六(じゅうろく)町も気になるところです。当然、条里制や寿老人天の置き換えもありえますので注意が必要でしょう。
さらに、直感でしかありませんが、前原市新田と二丈町波呂の天降天神社も天子宮の可能性があるのではないかと思っています(古賀市周辺にも二社)。根拠は極めて薄弱です。熊本県人吉市周辺の天子地名の集積する中に天降、天下という地名が散見されることや鹿児島県の霧島温泉郷から隼人町に流れ下る天降川に太宰府天満宮の別称である安楽温泉郷があることです。天子を降ろされた、もしくは天子が逃げ降ったとされた蔑称のようにも思えますが気になるところです。当然ながら、その改名は占領してきた唐軍か大和朝廷の軍か、自主規制なのかも知れません。
松の木天子社、筑後市水田天満宮境内末社の天子神社、十六天神(鞍手町にも一社)、天降天社(古賀市、福津市外にも数社)・・・これらの中にいくつかの天子宮が生き残っているということまでは言えるのではないでしょうか。
少なくとも筑前、筑後の領域、九州王朝のハート・ランドにおいて、一旦は消されたものの、完全には消し去る事ができなかったということまではいえるでしょう。まずは、何らかの形で復活した天子宮の最期の姿を復元していることになるのかも知れません。
また、現在、筑後については小郡市在住の会員荒川恒昭氏と私で、筑前領域の前原方面から太宰府市宝満山竃神社周辺にあるとされる天子社については、福岡市在住の会員である秀嶋哲夫氏に調査をお願いしています。このような全国調査は大学の学者にもなかなかできないことではないでしょうか。
伊倉 二十八
“京都五條の天使宮は天子宮か?”
京都市の五條に天使(てんし)神社があります。こちらも遠方のために単独での調査はなかなかできません。古田史学の会には神様の専門家と言われる会の至宝、神様の神様=西村秀巳様がおられます。当然ながら事務局に西村氏を指名して調査をお願いしました。こちらも数日にしてメールによる初期的調査報告を頂きました。さすがは全国組織です。
その第一信をご紹介しましょう。当然ながら西村氏らしい内容です。
本日、五條天神に行って来ました。主祭神は少彦名命です。ところが、宮司さんのお話では、応仁の乱から幕末の戦乱に至るまで数多くの戦火に見舞われ、古文書の類は一切残っていないとのことでした。結果、記紀の記述を基に考えるしかないとのこと。そこで神社はこう考えています。少彦名命は高天原から葦原の中国に使わされた、天使であった、と。だから、天使宮なのだ、と。「天子」と「天使」は音は同じですが意味合いは全く違います。「天子」はどこにいてもトップですが、「天使」はその使わされた地方にとっても、No.2でしかありえないのです。では、九州、特に熊本に乱立する天子宮ははたしてもともと「天子」なのか「天使」なのでしょうか?「天子」が文字通り九州王朝の「天子」ならば、最大限は継体元年(五一七年)から白村江敗戦の(六六三年)間の百四十六年間。在位が十年程度と仮定しても「天子」は十四〜五人それにしては九州の「天子宮」は多すぎるのではないでしょうか?「天使宮」であれば数に制限はありません。
さてさて、このメールはそんなことを言いたいのではないのです。少彦名命はホントに「スクナヒコナノミコト」と読んでいいのか、ということです。古事記では「少名毘古那神【自毘下三字以音】」と記述されます。ところが【自毘下三字以音】ということはその前の「少名」は音で読んではならないということです。日本書紀では最初の「少」は「遇可美少男焉。〈少男。此云烏等孤。〉陽神不悦。曰。吾是男子。理當先唱。如何婦人反先言乎。事既不祥。宜以改旋。於是二神却更相遇。是行也陽神先唱曰。憙哉。遇可美少女。焉〈少女。此云烏等?。〉」ここでは「少」は「弟」もしくは「乙」の意です。次に、「又生海神等。號少童命。」これは通常「わたつみ」と読まれています。これは日本書紀に「少童。此云和多都美.」と明示されているからですが、西村的にはこの「和多都美」は「和哥都美」ではないかと思っています。と、いいますのも、そうでなければ「往時吾兒有八箇少女。毎年爲八岐大蛇所呑。今此少童且臨被呑。」と、ここでクシナダヒメが「わたつみ」と呼ばれている理由が全く不明だからです。ところが「わかつみ」と呼べばこれは歳若い女神ということになります。その次が「少宮矣。〈少宮。此云倭柯美野。〉」です。ここでは「少」は完全に「わか」です。では仮に「少彦」を「ワカヒコ」と読んでみましょう。驚くほどの類似性に「天稚彦」があります。少彦は高天原から葦原の中国に行き大国主の事跡を助けるのですが、天稚彦もじつは同様なのです。天稚彦と少彦名が同一人物であるかどうかは別にして、彼らの違いは同一事件を葦原中国側から見たのか高天原側から見たのかの差に違いありません。さてさて、これをどう見るのか?今日はここまでです。
話は前後しますが、八月二十二日、西村秀巳様から署名論文が送られてきました。こちらについても全文掲載させて頂きます。
五條天使宮
向日市 西村 秀己
古川清久氏の情報により、京都に五條天使宮なる神社があることを、京都府下に三十数年居住していながら初めて知った。
所在は、京都市下京区松原通西洞院西入天神前町351─2、阪急烏丸駅から南西へ徒歩数分である。通常は五條天神社とも言われているが、これは同境内に九州から勧請したとみられる筑紫天満宮を祀っているからのようだ。
祭神は大巳貴命・少彦名命・天照皇大神ママとあったが、宮司さんにお話を伺うと、主祭神は少彦名であるとのこと。但し、応仁の乱から幕末までの度重なる戦火によって、古文書の類は亡失し一切残っていないらしい。天使宮の名称の謂れを問うと、少彦名は天からの使いであるから、とのお答えが返ってきた。つまるところ、少彦名は高天原から葦原中国に派遣され、大己貴命の国造りに協力したため、少彦名を天使と称するということだ。例えば、古来中国では皇帝から勅命により地方に派遣された司政官を天使と呼んだが、その謂いである。こうして見ると、現在古川氏お調べ中の「天子宮」とはニュアンスが違うようである。
試みに、手持ちの辞書(漢語林)を引いてみると、
【天子】(1) 天命を受けて、天に代わって天下を治める者の称。天帝の子の意。皇帝の尊称、また自称。(2) 天皇。
【天使】(1) 天の使い。天帝の使者。ァ日月。ィ流星。ゥ火星。(2) 天子の使者。(3) 天のしわざ。人欲を離れた自然の心。(4) キリスト教で、上帝の意を奉じて人間界につかわされるという使者。
と、あった。やはり、「天子」と「天使」の違いは上位者であるところの「天」が仮想か実在かの差であるようだ。ところが、九州に多い「天子宮」の祭神の多くは少彦名であるという。これはどういうことであろうか?どうやら古川氏の調査を待つほかはないようである。
さて、少彦名について若干考えてみたい。先述したように少彦名は高天原から葦原中国に使わされ大己貴命の国造りに協力し、常世の国へ去った。ここで日本書紀(神代紀第八段一書第六)はこう語る。『最悪くして、教養に順はず』と。この少彦名とほぼ同様の行動をとった神がもう一人いる。天稚彦である。天稚彦も高天原から大己貴命のもとに派遣され、その娘を娶って後、裏切者として処刑される。これはもともと同じ説話であったのではあるまいか。ただ、語り手のベクトルが正反対だけなのではないだろうか。すなわち、少彦名の場合は葦原中国側から協力者として好意的に描かれ、天稚彦の場合は高天原側からは裏切者として悪意を持って語られた、とは考えられないか。しかも、両者の名前の類似性が気になるところである。
古事記では少名毘古那、日本書紀では少彦名というこの神は通常「スクナヒコナ」と読まれているが、実はそのどちらにも「少」を「スク」或いは「スクナ」と読む指示がない。勿論古事記では「少」の用例は「小さい」という意味が多いのだが、日本書紀に於いてはむしろ「若い」の用例の方が多いのである。『少宮、此をば倭柯美野と云ふ』を代表として。とすれば、少彦名は「ワカヒコナ」と読むことも可能なように思えるのだ。勿論、この二人を同一人物であると強弁するつもりは毛頭ない。ただ、その関連性は大いに気になるところではある。
伊倉 二十九
“天子宮分布図とデータ・ベース”
現在、遠方の岡山県矢掛町小田の武荅(むとう)天子宮、京都市五條の五條天使神社、愛知県刈谷市の天子(あまこ)神社・・・外について調査をお願いしています。調査の方法、内容についてはお任せしていますが、古田史学の会の会員であれば、どのようなことが重要であるかは、皆さんお分かりになっているので安心です。
せっかくの全国性を利用しない手はないわけで、ここでは基礎調査を行なっている段階です。もちろん、天子宮の可能性があるのではないかと考えているのですが、雷山の雷神社や麓の十六天神社(天子宮との額がある)以外にはないと考えていた福岡県にも、天子宮の痕跡のようなものを、数社、発見しました。周船寺の松の木天子宮(旧名)、太宰府の宝満山の竈神社の付近にある天子社、筑後市の水田天満宮の境内にある末社の天子神社といったものです。
さらに、千葉県の我孫子市に天子山という山があり、そこに天子社がある(あった)という情報が同市の資料に搭載されているようです。
東京古田会、多元的古代関東などのメンバーの方で調査して頂ければと考えています。
まず、こういったものの正確な分布図、祭神、合祀神といったものについてデータ・ベースを作成することが必要になるでしょう。
伊倉 三十
“筑前では消された天子宮の痕跡”
筑前、筑後には天子宮はない。唯一の例外が、古田武彦氏が指摘された雷山の十六天子神社なのだ。と考えていました。
ところが、ネット検索を繰り返していると、まず、筑後市の水田天満宮の境内にある末社として「坂本社天子社」(これはピリオッドがなかっただけでしたが)という奇妙なものがあることを知り直ちに現地を確認したところ、謂れはないものの天子神社という名の祠があることを発見したのです。
このため、筑前、筑後にもまだあるのではないかと考え始め、本腰を入れて探し始めたのです。
毎晩地図を睨み、インター・ネットで様々な検索を試しました。すると、それほどの苦労もなく天子宮らしきもの、また、その可能性がありそうなものを見つけ出したのです。
とりあえずそのいくつかをご紹介しましょう。
筑前で最初に検索に掛かってきたものが、旧名称で松の木天子宮という福岡市西区周船寺の神社でした。その後、雷山の十六天神の末社、分社と思えるものが西区、早良区、前原市などにあり、この中にも天子宮とかつて呼ばれたものがあることがだんだん分かってきたのです。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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