伊倉 3
天子宮は誰を祀るか
武雄市 古川清久
伊倉(イクラ)十一
“道君首名の末裔としての金光上人”
古田武彦氏の親鸞研究はつとに有名ですが、それは置くとして、最近、道君首名の人物像を探る上で興味深いことに気付きました。時代は平安末期から鎌倉期に下ります。浄土宗の開祖、法然の直弟子の一人に後に金光上人と呼ばれる人物がいました。
実はこの金光上人が筑後の出身であり、八世紀に活躍した道君首名の後裔に当るのです。上人は福岡県浮羽郡水縄村石垣の出身で父は竹野長者といわれる豪族であり、母は橘方子(筑後の旧吉井町に橘田という大字がありますし、私の住む佐賀県武雄市橘町にも濃厚な橘氏の末裔の伝承があります)とされていますので恐らく橘氏でしょう。
上人は、筑後の高良山の御井寺(天台宗)で修行した後、叡山に上ること二十年、筑後の石垣観音寺の別当になります。この石垣観音寺(現在の石垣神社)は和銅元(七〇八)年開基という古刹であり、古くは十三の末寺と筑後守から与えられた七十五の寺領を所有していたというのですからその力が推測されます。
後に別当所領に争いが起り、上人はその解決のために鎌倉に上ることになるのですが、果たせぬうちに法然の弟子である安楽房の知己を得、自らも法然の弟子となります。これにより奥州に入り、浄土教研究者の間でもあまり知られていない『末法念仏独明抄』を残すのです(このことについては古田史学会報七号掲載の“和田家「金光上人史料」発見のいきさつ”を併せてお読み下さい)。
私には阿部一族の中でも大和朝廷への抵抗派ともされる謎の安東一族の領域に向かったようにも思えるのですが、想像が過ぎるかもしれません。仮に道君首名の出自が阿部氏としても、その後裔が本国に戻ることなく有力な豪族として連綿と土着し続いていたということ、また、九州王朝の本拠地と考えられている高良大社との関係が推察されるなど、非常に興味深い問題が残されています。
ここまで考えてくると、道君首名の一族の性格に注目せざるをえません。一定、大和朝廷との関係を維持しているとしても道君首名は必ずしも大和朝廷の直接的臣下ではない上に、白村江の敗北後の唐軍による占領から八世紀初頭の九州王朝滅亡によっても、直ちに近畿天皇家が直接支配を及ぼせなかったという可能性までも考えさせるのです。
伊倉 十二
“八代と津奈木の天子宮”
九州の地中海ともいうべき不知火海の東岸、熊本県葦北郡津奈木町の北端に平国(ひらくに)という漁村があります。連休初日、熊本市の西、金峰山の西麓を抜け宇土、八代を経由して芦北町から津奈木に入りました。
ここに天子宮があることはネットで拾ったものですが、現地に入ると天子宮は集落の中心地に近い小丘に何事もないかのごとく鎮座ましましていました。
この平国は不知火海沿岸に通い詰めている私にとっても初めて入る地区でした。近年ようやく道路事情も良くなり楽に入れるようになりましたが、芦北の女島(めしま)や田浦の波多島(ハタト)と並び、戦前まではほとんど船でなければ入れない場所だったことでしょう。逆に言えば、そのような場所であったからこそこの宮が残ったのだと思います。
調査はこれからですが、球磨川以南の、芦北、津奈木は六世紀末に活躍する日羅(芦北国造阿利斯登の子)の領域です。日羅は百済に仕え高位の達率となりますが、敏達天皇に招かれ難波の宮で暗殺されたとされています。
まず、芦北町には白木という集落があり、隣接する坂本村(現八代市)には百済来川が流れ、久多良木集落があるのですから、どのように考えても六?七世紀にかけて朝鮮半島との関係が極めて濃厚な場所だったはずです。このことが、九州王朝の天子が祀られているのではないかと考えている天子宮の存在に関係しているとすることは必ずしもおかしくないでしょう。
芦北町湯浦在住の元美術教師で、私が主催するHPアンビエンテ(「有明海諫早湾干拓リポート」改名)に寄稿頂いている吉田先生が平国の隣にある合串(エグシ)港で釣りをされていると聞いて平国からの帰路に立ち寄りました。サヨリ釣りの邪魔をしながらこの天子宮の話をしたところ、いとも簡単に「ああ、天子宮さんね・・・」との返事が反ってきました。自分の住む近所にも天子宮があったからのようです。このことから想像すると、どうやら芦北、津奈木一帯には、ほかにも天子宮があるようです。
八代に戻り、翌朝、日本製紙工場正面の少名彦命神社(八代市福正本町)を見に行きました。ここに天子宮があることは『九州古代王朝の謎』に荒金卓也が書いておられましたが、別に何の努力も無くネットでも拾えます。ここも少彦命神社とされてはいますが、地元では天子宮と呼ばれ、『肥後國誌』でも天子宮とされています。
八代以南の天子宮については、今後の調査に待ちたいと思います。ただ、平国の天子宮の寄進名簿を見ると、その分布が田浦町から芦北、水俣市まで広がり、辺鄙な小集落にしてはかなり特異な現象のように思えました。それとも、これが芦北の日羅の領域の広がりを示すものなのでしょうか。
伊倉 十三
“芦北町湯浦温泉の天子宮”
熊本県の八代市と水俣市の間に芦北町がありますが、ここには湯浦川が流れ不知火海に注いでいます。この川の辺に今や寂れて消えんとする温泉地があるのですが、この静かな良泉の湧く温泉町の一角に天子宮があるのです。ただし、特別な謂れがあるわけでもなく、言わば天子宮という社殿があることが確認できるだけです。
もちろん“何らの謂われもない”ということも、ある意味では情報ではあるのですが、六世紀(敏達の時代)に活躍したとされる日羅の伝承が残るこの芦北の地の一角にも天子宮があったことになる訳です。
現在、この天子宮の祭神についてははっきりした記録は何もありません。ただ、「ここの神様は女の神様で、神無月の後、出雲から後片付けを済ませて帰るので帰りが遅くなる・・・」「出雲から戻って十二月に祭りが行なわれる・・・」といった話が伝わっているそうです。ここでは、湯浦小学校に向かう坂の脇の小高い小丘に天子宮という神社があるということだけを確認しておきましょう。
伊倉 十四
“『倭国史談』平野雅曠に登場する天子宮”
数年前にお亡くなりなられましたが、熊本に平野雅曠という古代史家がおられました。私が古田史学の会に入会したのは最近ですので、残念ながら一面識もないままでした。『九州王朝の周辺』『九州年号の周辺』『火ノ国山門』・・・といった水準の高い著作を残されていますが、九州王朝論に立った研究者であり、古田史学の会、九州古代史の会の会員でもあられました。
氏が熊本在住であることから天子宮にふれておられる可能性があると思い、インター・ネット古書店で探し出して数冊の著作を手に入れ読んでいました。この中に二〇〇〇年に出版された『倭国史談』がありますが、ここにも天子宮と思われるものが登場します。“田迎町の「淡島さん」”がそれです。ここで熊本市田迎町の田迎神社という名の天神社の中の境内社とされていた淡島神社が新築されたことにふれられています。平野氏によると、この淡島さんとしては宇土市新開町の淡(粟)島神社ほか熊本県内に三十八社(『熊本県神社誌』による)が数えられ、少彦名神社、早鷹=ハヤタカ(拝鷹・隼鷹:ハイタカ)神社外、呼称はともあれ大半は少彦名命が絡んでいますので、この中に天子宮、天子社が埋もれているのではないかと思うものです。
伊倉 十五
“第十三回熊本地名シンポジウムは天子宮をどのように把らえたか”
熊本地名研究会といえば、泣く子も黙る民俗学者谷川健一(日本地名研究所)揮下の民間研究団体であり、私もその片隅を汚しているのですが、平成十三年に第十三回熊本地名シンポジウム「神々と地名」“土着の神と招かれた神”を行なっています。ここで、この際の資料集を読むと、討論“土着の神と招かれた神”ーー神々と地名 とするシンポジウムにおいて、天子宮のことにふれられています。結論から言うと納得しがたいものですが、検討したいと思います。
もとよりシンポジウムのパネリストとして天子宮にふれられたものですから、それを前提に理解して頂きたいのですが、不正確になることを承知した上で天子宮に関する部分だけを細切れにして紹介します。恐らくシンポジウムのドキュメント(テープ起こし)と思われます。
田辺 今日天子宮とその分布あたりのことも、西田さんが触れて居られたのですが、天子宮は以前佐藤さんは、あれは天子(あまご)だ、雨乞いだと言っておられ、そうすると雨乞い、龍神と繋がりそうでありまして、それに天水町の小天が、天子宮の一番中心的な宮に見えるようですけど、之は海神の信仰ではないかとも思いますし、菊水町の江田という所、現在は随分奥に入っていますが、そこに縄文の貝塚、海の貝塚があるのです。若園貝塚というのですが、そのようなことなどを考えてみますと、どうもつづらなどというのは、その豆酘と一つの流れのもので、天子、天乞、龍神といったものと結びつかないかなと、之は俄仕立ての考えですがそういうことについて、誰方か、最も否定されそうな西田さんから聞いてみましょうか。(永留久恵氏の『天神と海神』を引用するまでもなく、豆酘(つつ)は対馬南端の土地のことで「多久頭魂神社」(タクツダマジンジャ)で著名:古川注)
西田 天子宮については、菊水町にもアマンコヤという山もありますし、それは天子信仰の真中にもある所ですので、天(あま)と読むのもまんざらおかしくはないと思いますし、それは天子信仰の最中にもある所ですので、天(あま)と読むのもまんざらおかしくはないと思いますし、『肥後国誌』によりますと天子宮というのは、葦北郡のどこかの村だったのですが、この郡に天子宮がたくさんあると、一ケ所書いてあります。記事はそこだけですが、その他に沢山あるとも書いてあります。それと球磨郡の方にもたくさん天子宮があります。海の神だから海の近く、山の神だから山の近くというのは先ず考える必要はないと思います。
神様が動く過程の中で、そういうことがあるかも知れませんが、私自身は海の神とは考えては居りません。普通のやっぱり自然神である天神に近いところではないかなと思います。一応小天の場合は少名毘古那神御霊の天神也と書かれています。こと玉名郡においてはそちらの方の流れが強いようです。
佐藤 私も思いつきで話しただけで、調べたことはありません。基本的には西田さんの話と同じです。
清田 天子宮の御祭神少名毘古那命は、非常に小さな神で、海の向こうからやって来て、それを見つけられたのが大国主命、そして二人で国づくりをなさった。国づくりが済んだら又粟穀の先から飛んでゆかれた。帰ってゆかれたのは海、天子宮はやはり海に関係のあるのではなかろうか。之は菊池神社の初代の宮司の長田直行(なおゆき)という名前で天子宮のことを書いておられますので話しておきます。
谷川健一 日本地名研究所長・近畿大学教授(当時)
中野幡能 日本宗教学会名誉会員(当時)
西田道世 玉名市教育委員会審議員(当時)
鈴木 喬 熊本地名研究会会長・熊本城顕彰会常務理事(当時)
清田之長 熊本地名研究会(当時)
佐藤伸二 熊本地名研究会・八代工業高等専門学校教授
田邉哲夫 熊本地名研究会・玉名歴史研究会会長・玉名博物館館長(当時)
※第十三回熊本地名シンポジウム「神々と地名」“土着の神と招かれた神”資料集
この間、天子宮について「伊倉」(1)〜(15)として書いてきました。始めは「天子という名称はただ事ではない」といった素朴な感覚でスタートしたのですが、天子宮に焦点を搾って見てきた者からは、正直言って引用したドキュメントには同意できません。一部にそのような要素が拾えたとしても、少なくとも、「雨乞い、龍神と繋がりそうで・・・」とか「普通のやっぱり自然神である天神に近いところではないか・・・」といったものではないように思えます。
ただ、西田氏の「『肥後国誌』によりますと天子宮というのは、葦北郡のどこかの村だったのですが、この郡に天子宮がたくさんあると、一ケ所書いてあります。記事はそこだけですが、その他に沢山あるとも書いてあります」については非常に興味があります。
既に芦北町、津奈木町で二社を確認していますので可能性は十分にありますが、どの程度確認ができるか分かりません。今後の課題になります(『肥後国誌』はインター・ネット古書店で探し出しましたので近々入手予定です)。
私はどちらかと言うと古代史よりも民俗学に魅了されている者ですが、好意を寄せる民俗学的な手法をもってしては天子宮の起源を探るには限界があるという印象を拭い去れません。
改めて大和朝廷一元史観の愚かさを声高に叫ぶつもりはありませんが、所詮は偽書に過ぎぬ『日本書紀』をそのまま真に受けるような愚かな態度では、天子宮の背後に隠れる真実に迫る事はできないでしょう。これに対する鋭利なメスはやはり九州王朝論でしかなく、後追いにはなりますが、荒金卓也氏が出されている「イ妥*国王、阿毎、字は多利思北孤、号して阿輩鷄*彌その人です」を軸に考えて行くことにしたいと思います。
鷄*は、「鳥」のかわりに「隹」。JIS第三水準、ユニコード96DE
イ妥*国のイ妥(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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