2007年12月 6日

古田史学会報

83号

北九州の古代を訪ねて
古田史学の会・四国
 阿部誠一

バタケ珍道中
(九州編)
 竹村順弘

薩夜麻の「冤罪」III
 正木裕

淡海をはしる
 古賀達也

自我の内面世界か
 俗流政治の世界か
漱石『心』の理解を巡って
 山浦純

伊倉3
天子宮は誰を祀るか
 古川清久

林俊彦さんとのえにし
早すぎる戦士の死
 横田幸男

林俊彦さんを悼む
古田史学の会代表
 水野孝夫

事務局便り

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朝倉史跡研修記(会報78号)

 

北九州の古代を訪ねて 古田史学の会・四国 阿部誠一(会報83号)../kaihou83/kai08301.html


北九州の古代を訪ねて

古田史学の会・四国 阿部誠一

 会員有志十九名(広島一、兵庫一)は七月七日八日、北九州の古代遺跡・歴史博物館等を巡り訪ねました。この動機は、松山市の隣り松前(まさき)町の大政就平(おおまさしゅうへい)氏が同町史談会有志と北九州の史的有名場所を巡り、その感動を六月の学習会で述べた事、そして折しも久留米大学公開講座で古田先生の講演が七月七日にある事を合田事務局長が報告し、これできまりとなりました。
 大政氏の感動は、志賀島金印の輝きのすばらしさ、でも、志賀島の発掘現場に立つと、とても出そうにないと思わせること。細石神社の宮司さんの話で「あの金印は、うちの神社のご神体であると先代から聞いております。」ーー「それは大事(おおごと)じゃ」で、合田さんに電話を入れた。合田さんは古田先生に電話した。この大政氏の興奮を共同のものとして、大雨予報の中を松山観光港に集結した。
 七日朝五時小倉港着。雇いのバスで西行、古賀SAで朝食、志賀島へ。雨は止んでいた。

一、志賀島金印公園

 海に迫る小山、石段を上る。少し開けた所に金印掘出しの碑がある。海に面して能古島が見える。この間の海が柿本人麿の歌の島門(しまと)だなと思う。まわりを見て、この地からとても金印が出そうに見えなかった。

二、志賀海神社

 引き返して少し反対側に回る。玄海灘側に面している。小高い山の上、石段を上る。風格のある山門、航海安全と海の豊じょうを祈る仲津・底津・綿津見三神をまつっている。「君が代」の文句が述べられる山ほめ祭りのある神社だ。古田先生の『「君が代」は九州王朝の讃歌』が詳しい。写真も出ている。

三、福岡市博物館

 九時半からの開館なので三十分待たされる。いわゆる志賀島金印の実物が展示されている所。さすがに金印の輝きはすばらしい。売店で売られていた岡本顕實氏の小冊子には、謎とミステリーだらけと解説されている。が、「委奴国」の理解のあり方には問題がある(古田説を勉強していない)。
 私は正面玄関にある、近代フランス彫刻の巨匠ブールデルの「雄弁」「力」「勝利」「自由」の四つの巨像に見蕩(みと)れました。

四、奴国の丘 歴史資料館

 福岡市より少し東寄りに南下して春日市へ。この地に弥生時代の主要な遺跡が多数存在し、その出土物を此処に展示。銅鏡・銅矛・銅剣など青銅器が目を引く。巨大な甕棺群に圧倒される。時間に制限あり展示図録を買いガイドマップをもらう。丘の上に発掘現場を保存する二つの覆屋(おおいや)があり急いで見る。途中の王墓の大石もちらりと、バスの中、ガイドマップで、ふれあい文化センター二階に奴国展示館があり、須玖岡本遺跡王墓の甕棺墓の中の有様がわかるジオラマがあり、須玖永田遺跡の青銅器生産工房のジオラマもあるとの事。今回は残念。
 常設は春日市地域を奴国と表示している。これでは出土物から見て邪馬壹国と表示する地域が見出せない筈である。壹を台に変え近畿へもっていきたい学者の指導であろう。銅を熔かし粘土の甕を焼いた燃料は何であったか。必ず鉱害を伴った筈であり木を大量に切った筈である。志賀海神社の「山ほめ祭り」の起りを想った次第。

五、都府楼跡

 春日市から更に東南行、太宰府市へ。広大な空地の前に立つ。東西百拾壹米(メートル)、南北弐百拾壹米(メートル)。北の背面に大野山城が構えている。大きな礎石とその間隔を見て、建築の巨大さが想像される。「都督府古址」と「太宰府址碑」の碑が建てられている。都督府は中国南朝に冊封を受けていた将軍の政府、太宰府は自ら天子となり宮殿と共に太宰の政府を設けたもの、北朝に対し対等を主張。倭(イ妥*)国の中国(南朝と北朝の隋・唐)に対する態度がわかるのだ(北朝中国は対等を主張する倭をイ妥*と蔑称した)。白村江の大敗で唐軍に占領され、敗戦へと協力した近畿天皇家が列島の支配者となってから(七〇一年)出先機関としての「大宰府」になり下がったのである。名の変化に注意すべきと心得た次第。
     イ妥*国のイ妥(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO

六、観世音寺

 太宰府址から右方(真東)へ六百米(メートル)の所にある。山裾の月山をはさんで学校院がありその隣り。イ妥*国(たいこく 大倭だいゐ)の自称天子多利思北孤は隋に遣使、学僧に仏法を学ばせている。宮殿、政庁の傍に大寺院を置く。成る程と思う都造りである。
 右方にある宝蔵を気にしながら鐘楼を見る。この釣鐘は日本最古の名鐘と言われ、姉妹鐘(同じ鋳型で作る)が京都の妙心寺にある。(七〇一年後、太宰府の名宝の数々が近畿へ運ばれたのだ)鐘楼の横に五重塔の心礎石がある。大きい。塔は無い。解体され運ばれたか? 正面の金堂はかなり縮小されてあり、南大門の礎石の位置から道もかなり狭くなっているのがわかる。
 後でわかった事、宝蔵には五米(メートル)もの巨大な仏像が三体並び重文の仏像も多くあると、後のまつりであった。

七、九州国立博物館

 太宰府天満宮からエスカレーターで小山の上の当館に来られるようになっているとか。ガラス張り、曲線の青いうねりの屋根、吹き抜けの広いエントランスホール。四階の展示場まで長い長いエスカレーターで上る。遊んでいる空間だらけですごく贅沢。
 太宰府南大門の復元模型、大きな甕棺の中の埋葬人物と副葬品のジオラマ、大きな構造船の埴輪、人物埴輪等が目を引く。中央アジアの漆喰の仏頭やガンダーラ仏の全身像などきりりとひきしまった美を見せている。興福寺の阿修羅像や法隆寺の百済観音像のレプリカはよく出来ているが本物の神々しさが感じられない。彫刻類に見とれて集合時間におくれる。九州歴史資料館、近くにあるのだが時間の都合上省く。南下して久留米市へ。

八、古田先生の久留米大学公開講座

 「里程」論、「金印」論、「古事記」論、「南米」論を話され、熱が入り時間延長。これらは活字になると思われるので省略する。私は、『古事記』はなぜキャンセルされたか、序文の解明でその謎を解かれた論述に、目の鱗が又もやポロリ。後、古田先生もバスで一緒に宿舎へ。懇親会で先生はいろいろ話されたが、アルコールのせいで正確さを欠くと思われるのでこれも省略。

九、岩戸山古墳並に資料館

 古田先生はバスで移動中見学先についていろいろお話をされた。有難いことであった。
 鶴見山古墳(磐井の息子、葛子の墓か)は見学予定に入っていたが、調査の為見れないとの事。久留米市より南下して八女市へ。
 筑紫の君磐井の墓である岩戸山古墳を見る。埋葬者がわかる唯一の大古墳である。紀の主張する磐井は大和朝廷への不服従者として征伐したと記しているが、実は中国文献の美辞麗句をちりばめた作り話であったのだ。
 緑の墳丘の麓、衙(が)頭と言われる所を歩く。破壊を受けた石人石馬のレプリカが数体立っている。模作でも現場に有ると見ごたえがある(古墳を石像で飾るのは中国南朝の影響による)。神社のある所に出る。鳥居の下方に資料館があった。
 陳列室は阿蘇噴火の凝灰岩を彫った石人・石馬の傷つき破壊された彫刻の断片群等がグループに分けられ展示されている。入って目立つ所に破壊を免れた鶴見山古墳出土の武装石人が立てられている。短く両手を拡げ頸部は肩に埋まり、上衣の腰部はスカート状、ズボンは大腿部までで、幼児の絵に見られるような極く単純な形で立ち易く彫られている。背負った靱(ゆき)や腰帯の刀剣は浮き彫り程度であり、石を彫る苦労に思いを馳せる。この稚拙な単純化は反って塊の強固さと充実感を生み出し、力強い造形となっていることに注目した。
 殷(こわ)された石人の胴体部(トルソ)の陳列品に、褌(ふんどし)をしたものがありました。海人の風俗ですね。労働においてその褌姿を見せていた事と思います。傑作は同じくトルソ、「男根のある裸体石人です。男根が上向きに下腹部に接しています。埴輪(粘土の素焼)の男根つきの像は前方に直立していますが、石はそのように彫れず、浮彫り(レリーフ)表現にしているところに工夫が見られます。上体はありませんが、「どうだ!」と精力を誇っている顔を思いました。
 技術的にうまいのは石馬です。頭部と四脚が無く胴体が二つに割れていますが、馬具がレリーフ状にうまく彫られ堂々たるものです。埴輪の馬から石の顔部が想像されます。稚拙な石人に比べ石馬のこのうまさは、当時馬が如何に大切な役割(軍事や労役)を担っていたか、世話を含めて馬への関心の深さが伺われます。埴輪の「壺を持つ婦人」は、実に可愛らしく生活感がありほれぼれしました。
 造形物に見蕩れていましたら合田さんの大きな声が聞えました。館長さんの説明への注文でした。「磐井は継体天皇の臣下ではありません。倭国のナンバーワンです。この筑後に九州王朝がありました。この九州王朝は継体に倒されてはいません。鶴見山古墳の葛子に引継がれています。石人石馬への打撃は、継体軍によるものではなく、白村江敗戦後の唐軍の占領によるものです。此処におられる古田先生が御研究された学説です。このことも館に見学に来られる方々に御説明下さい。我々は今までの説は間違っていると考えていますから。」
 バスへ戻る時、雨が衙頭を通った。これは八女市への希望。磐井の功績は衙頭の石像で示した裁判制(律令の施行)、にあります。この情景は『筑後国風土記』に書かれています。登場する解部(ときべ)、偸人(ぬすびと)、猪(ゐ)四頭、馬三疋、殿(との)三間、蔵二間、を阿蘇凝灰岩で再現する事です。日本最古の律令の創設、此処にあり。古代史に、芸術に、観光に是非必要と思います。

十、吉野ケ里遺跡

 八女市より西北行。吉野ケ里でかなりの雨となった。以前来た事もあり雨の中はどうも ーー の休憩所組と雨の中組に分れての散策となりました。環濠、城柵、楼観、宮室、住居、倉庫等が復元されいる。よく考えたものだ。二つの川を利用した丘陵地に防禦施設の多い大集落の建設は、この地の生産物の豊かさを示している。青銅器の鋳造地であり、甕棺(みかかん)などの窯焼地であり、ガラス工房ありで、一大工業地であったのだ。この生産は他地への運搬を促し、永運の開発、陸路と駅舎の建設へと進み、有明海方面の軍事基地にもなったのではと思われました。
 吉野ケ里については、古田先生の『吉野ケ里の秘密』の著書がある。

十一、伊都国歴史博物館

 吉野ケ里のレストランで古代米のおにぎりを食べた。もち米のようでうまかった。北の背振山地をどう越えたかわからない。佐賀側はなだらかな坂、福岡側は急な坂、前原(まえばる)市井原(いばら)へ急ぐ。雨は小降りになっていた。
 伊都国歴史博物館には、平原遺跡一号墓の墓坑レプリカがある。展示の三階へエスカレーターで上る。潮鳴りの録音が聞える。古代の伊都国へ ーーの趣向。魏志倭人伝の九州北部の国々の図示が陳列棚の壁にある。末盧国、伊都国、奴国、不弥国が色分けされ、肝腎の邪馬臺国が無い。奴国の丘歴史資料館の場合と同じ。わかり切った如く伊都国ーー 、奴国の丘ーー ときめこんでいる。公の文化施設として不適切である。(前原歴史博物館、春日の丘歴史資料館と改名しては。)
 平原一号墓は東西四、六米(メートル)・南北三、五米(メートル)の土坑墓、中央に割竹式木棺が安置され、ガラス玉装身具の副葬品が多い。メノウの管(くだ)玉は日本でたゞ一つ、ガラス耳[王當](じとう)二個(漢の時代女性の耳飾り)も日本で一例のみ。被葬者が女性である事がわかる。素環頭大刀(長さ八十糎余)もあり、銅剣の時代の終りを示す。最大の特徴は、棺外で出土した四十面に上る銅鏡群であり国内最多、うち五面が直径四六、五糎の大型鏡で国内最大、同じ原型から鋳出。そしてこれら銅鏡がすべて破砕後に副葬されていた事である。
     耳[王當](じとう)の[王當]は、王編に當。は、JIS第4水準ユニコード74AB

 同館の『常設展示図録』には、伊都国に三雲南小路、井原鑓溝(いはらやりみぞ)、平原の三王墓ありと記している。館の説明の方(かた)も伊都国王墓と言われたが、合田さんは伊都国王のスケールではありません。邪馬壹国女王の墓ですよ。時代から見て壹与(いよ)ですね。これも来館者の方々に加えて話して下さいーー と要請されていた。
 近くに平原歴史公園あり、中に平原一号墓(十×十四米メートル)の噴丘があるのだが時間上省く。

十二、細石神社

 伊都国歴史博物館のごく近くにある。祭神は木花佐久夜毘賣と姉の石長比賣。小雨の中、宮司さんと氏子代表の方が出迎えてくれる。ごく質素なな社。宮司さんは社前で、志賀島出土と言われる金印は、実は、細石神社の御神体であった事を、何の修飾もなく述べられました。
 後で知った事は、細石神社の社殿、鳥居、参道の延長線上に高祖(たかす)連山があり、鳥居の中に連山の南の峰「樓触しくふる山」が収まるようになっている、との事。細石神社の祭神コノハナさんは主人になったニニギさんの降臨地を見据えているのだ。意義深い。
 委奴(ゐど)は中華思想の蔑称、金印から考えて、漢の時代(金印は五七年)この地に委(ゐ)国王が居たのでは? 細石神社の所に王の宮殿があったのでは? 思いが拡がっていきました。

十三、日向(ひなた)

 背振山地は東西に延び、その東部から南北に高祖山連峰が東西に平野を遮っている。三雲、井原、平原は西にあり、吉武高木は東にある。連峰の一番低い所が日向峠、其処を通って東側に行くというわけ。この通路の他に日向峠の重要な役割があった事がわかりました。
 伊都国歴史博物館の『常設展示図録』二十一頁に「日向峠の日の出」の写真があります。二十六頁には平原遺跡一号墓と日向峠を結ぶ線上に柱を立てているイメージ図があります。日向峠の日の出の位置が稲作の時期を知らせるとの事。古田先生の『人麿の運命』二二四頁に「平原遺跡から見る高祖山連峰と日向峠」のカラー写真があります。掲載写真は注意して見ておく事と思いました。
 「日向峠はどこ?」の声を無視して、バスは峠道を下った。

十四、吉武高木遺跡

 日向峠は糸島と早良(さはら)の境界、この谷から北東に流れ出る日向川が早良平野に出て室見川に合流するあたりに、日本最古の「三種の神器セット」が出土しました。吉武高木と言われる所。此処からも樓触山(東側)が見えると言う。随分広い草ぼうぼうの野原。柵で囲んで立入禁止となっています。表示板が立てられていたが、傘々で見えない。
 手もとにある讀賣新聞昭和六十年三月七日号一面トップに「日本最古の王墓発見(福岡市)」の見出しで発掘の有様が書かれている。場所は 西区飯盛高木の圃(ぼ)場(採種はたけ)、木棺墓三基、甕棺墓二十四基がせまい範囲に群集する形で確認されたと。このうち三号木棺墓が主墓とみられると。多紐細文鏡一面、細形銅剣二本、細形銅戈(か)一本、細形銅矛一本(計青銅器五点)、碧(へき)玉製管玉九十五個、硬玉製勾玉一個の見事な「三種の神器」類セットの副葬品であり、記・紀の神代の巻を実証している(棺に一個が有力者の普通の副葬)。
 天皇位の授受のシンボルは「鏡と剣」(伊勢の鏡、熱田の剣)と言われる。弥生期中心王家のものより一種足りない。王家の本流でないからだろう。
 古田先生の著書『ここに古代王朝ありき』(昭和五四年六月十日発行)に「室見川の銘版」のことが書かれている。戦後すぐの昭和二十三年、室見川下流で原末久氏が文鎮ようの銘版を拾った。それには「高く日の出るところ、ここで王が永遠の宮殿とそろった宝物を作った。時は後漢の延光四年(一二五)五月」(古田訳)と刻されていた。倭王が自慢の意で記録させたもの。洪水で中流あたりから流されたのではないか、と。そして古田先生は室見川中流あたりに倭王の宮殿があったと予見されていた。事実、平成四年十一月に吉武高木遺跡の宮殿跡それも宮殿群跡が発掘されたと。先生の眼力はすごい。
 もう一つの注目点。平成五年十一月三十日発行の『古代史をゆるがす(真実への七つの鍵)』一〇〇〜一〇二頁の記述。魏志倭人伝より一里=七六米で不弥国は姪の浜か室見川あたりになる。大切なのは「南、邪馬壹国に至る」のところ、南して何かがなければ至る(・・・)とは言えないわけです。「室見川中流ないし上流の方にこの国の中枢であることを示す宮殿があった、とみなければなりません」と。この論理に敬服した次第です。
 加えて先生は日本書紀にある景行天皇が日向(ひゅうが)で歌ったとされる「倭やまとは国のまほらま・・・・平群へぐりの山の・・・・」の歌を分析されている。遠征で出発点に無事帰ってきて歌った人は筑紫の君。「まほらま」は「まへらま」の誤写で鳥のの心臓部に近い腋毛のところ。これを引用し、倭は奈良でなく筑紫の山門、(心臓部の近くで出発点)平群も筑紫の平群で吉武高木遺跡のところ、国の心臓部である。日向(ひゅうが)は日向(ひなた)。書紀のすり変えを正すと筑紫の史実がよくわかる。
 更に加えて、書紀の神代巻で天照大神(あまてるおおかみ)の孫ニニギノミコトの墳墓の場所を「筑紫日向可愛(ちくしひなたのかわい)之山陵」と記している。「可愛」は「川合」の佳字表記で室見川に合流する日向川の「川合」だ。山陵の山は・・・・岡山県の造山(つくりやま)古墳・作山(つくりやま)古墳など古墳を山と呼んでいる。なれば、ニニギノミコトの墓は吉武高木遺跡のどれかの墳である。 ーーと先生は解説されている。
 広々とした柵で囲まれた原っぱに対して、古田先生の本による知をまとめてみました。
 バスは福岡市へ入る。雨は止んでいた。古田先生は早良区役所前で降りられた。バス内の解説有難うございました。私達は福岡タワーに上った。海岸の造成とビルの乱立の街には何の魅力もない事を私は確認した。天神で自由の一時間、博多らーめんを食べた。そして小倉港へ。二十一時乗船。合田さんの司会で二日間の感想を述べ合った。旅の世話を引き受けられた大政さん、御苦労さま。
 吉武高木遺跡はまだ未調査多し。太宰府の調査不充分。伊都国ー・奴国の丘ーとネーミングの誤りがある。博物館・資料館の図録等に誤り多し。
 今度の見学旅行で思う事は、批判したら私はこうだと提示しなければならない。その一つは、魏使はどのあたりに上陸したか、そして方向と距離を伴う末盧国、伊都国、奴国、不弥国、邪馬壹国を現在地にあてはめたらどうなるか。なるべく正確な地図づくりをすることである。
 現地を知らずにしゃべっていた事が、いかに軽い知識でしか無いか、痛切に感じた次第です。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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