淡海をはしる 甲良神社と林俊彦さんへ
林俊彦さんとのえにし 林俊彦さんを悼む 事務局便り
林俊彦さんとのえにし
早すぎる古代史の戦士の死
東大阪市 横田幸男
古田史学の会・東海の代表故林俊彦さんは、平成十九年九月二九日(土)午前、奥様と買物中に脳溢血で倒れ、国立病院機構名古屋医療センターへ救急車で搬送されました。ですが意識は回復せず、十月五日(金)午後一時四分、ご家族に看取られながら永眠されました。享年五五才でした。
林俊彦さんは、平成七(1995)年二月、三重県津市・桑名市にいたわたし横田と長老の故福田正雄氏と共に「古田史学の会・東海」の設立呼びかけ人となっていただきました。旧市民の古代とは関係のない、いわば第二世代の参加者の代表として参加していただきました。
しかし同年九月、わたしは思いもよらぬ転勤の辞令が下り後を林さんに託するほかはなくなりました。ですから、そのあとの林さんの苦労はいかばかりと思うしだいです。わたしもその後は、義務感から名古屋の例会に率先して参加し関西例会の話題を東海の例会に提供するなど林さんのサポートを続けました。
その林さんのひそかな転機とわたしが思うのは、わたしが多元的古代関東の会などが主宰する古田武彦氏が同行した九州旅行に参加し、九州王朝の事績を例会で報告したことに発奮されたことです。それから林さんは九州王朝へのアプローチをいくつも提案され、また九州への旅行を毎年行ないました。それらの活動と三回行なった古田武彦講演会を通じて、十人以下の参加者と低迷していた例会が、十五人をこえ会として回転し始めました。これは林さんの会報誌「東海の古代」を毎月発行、月例会開催(会場の確保等)の準備、年に2回の「史跡めぐり」の企画、会員論集「古田史学資料集」の発行など、八面六臂の活躍があったからに他なりません。仕事もこなし、かつそのような会の激務をもくもくとこなしていた林さんにわたしたちは頼り切った感はなかったのか反省するしだいです。しかも東海の会の規約を決め、仕事を少しでも分散できる準備をしておられたのに、そのような組織上の成果を見ることなく亡くなられたことは残念です。
研究の上では、「一大国は天国」の提言を受け、中国語の漢和辞典や諸橋大漢和辞典に用例を見つけることが出来、下支えできたことは大きな思い出になりました。また林さんの研究上の提言を受けて考えることは多々あります。たとえば暦は旧暦で考えること、お盆と七夕は一連の行事であることなど多くの示唆を得ました。現に九州福岡市志賀島の志賀海神社は八月六日から七日にかけて七夕祭りが行なわれ、また福岡県築上郡吉富町(大分県中津市)の八幡古表神社も八月七日に七夕祭りが行なわれる。もちろんお盆の行事も。これらの取材の上に以前に行なわれた佐賀を初めとする九州への取材を通して九州王朝の事績を検討することを、わたしから林さんに提起していましたが、なんらの成果も得ず報告できないことが悔やまれます。
わたしとしておおいに悔やまれるのは、インターネット事務局を兼任しているため林さんの見解にじゅうぶんな反論を怠ったことです。お酒を飲みながら考えている林さんに、好きなお酒を控えてでも考えなければならないレベルの有効な反論を提出できたなら東海での討論が新しい機軸を打ち出せたと今なお思うしだいです。好きなお酒が、八面六臂の活躍を支え逆に命を縮める結果になったと思うと、わたしの精神面のフォローが足りなかったことが、今にしてたいへん残念です。
最後にインターネット事務局として、次の世代に対するアプローチを考えつつ、地道ではありますが、わたしの提起した問題、神武問題や長者問題で新しい視点を東海や関西の例会で提起することが、わたしの責務として感じるしだいです。
林俊彦さんを悼む
古田史学の会代表 水野孝夫
古田史学の会全国世話人で、東海の会・代表の林俊彦さんが十月五日午後に亡くなりました。五五才でした。ご家族と一緒に買物中に脳溢血で倒れられたとのことです。
「東海の古代」というA4版2ページものの独自の支部会報を、ほとんど独力で編集・発行され、最近九月号は通算第86号となっています。
東海の会は月例研究会を開催、またホームページももたれ、遺跡等の見学会も行われてきましたが、これらを主導されてきました。関西での総会、講演会、その他の催しにもよく参加され、懇親会でご一緒したこともあります。東海の例会で今後発表予定だった論考がわたしの手元に残されています。「わたしひとりの「磐井の乱」2─磐井死すとも史実は死せず」と題するものです。その先頭は「私は古田史学の学徒です。その実証主義の精神をこよなく愛し、古田先生の推し進めた多元史観による研究の精華である邪馬壱国と九州王朝の実在を固く信じています。だからこそ最近出ている「磐井の乱はなかった」説はどうしても受け入れることができません。」となっています。氏自身の表現ですが「なんとしても自分自身で考えて、自分自身で道を切り開こう」とされた方でした。
わたしは三重県・津市(安濃津)が「日本三大港のひとつであった」と中国の文献にあるとのHPに気づき、この説は『安濃津物語』(叢書名“津の本”)から出ているが、この本は三重県立図書館にしか見あたらないため氏に調査をお願いしておりましたが、結果を氏からお聞きする機会はなくなりました。十四世紀の中国人に知られた日本三大港の他のふたつは、「九州の博多と坊津」ということなので、ひとつだけ東海へ飛ぶのはおかしいのです。
東海の会は今後も、竹内強氏、林伸禧氏が中心となって、活動されるということで、故人も安堵いただけることと思います。ご冥福をお祈りします。
事務局だより
▼会員論集『古代に真実を求めて』十一集の採用稿が決まり、編集に入っています。来年三月頃には発行されます。
▼古田先生編集の『なかった』も順調に号を重ね、近く四号も出されます。お楽しみに。
▼秋らしい秋もないまま冬に突入したような寒さです。皆さま、良いお年をお迎え下さい。本年中のご愛顧に感謝申し上げます。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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