自我の内面世界か俗流政治の世界か
漱石『心』の理解を巡って
豊中市 山浦純
(一)はじめに
本論は、田遠清和氏の「『心』という迷宮─漱石『心』論」への二度にわたる反論を要約したものである。氏は、〇六年五月と十二月に刊行された『なかったーー真実の歴史学』の創刊号及び二号に前掲論文を発表されている。古田史学会の内部では、私の反論は二度にわたって発表されているが、紙上に発表されるのは初めてである。貴重な紙面を提供して下さった編集部に深く感謝するものです。
(二)「明治の精神」とは何か
氏と私との方法論や作品解釈の違いを明らかにするために、まず漱石が『心』に書き込んだ「明治の精神」について私の考えを明らかにしよう。『心』という作品は、「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の三部から構成されている。漱石は「先生と遺書」の(五五)から(五六)にかけて次のように書いている。
(1) 「夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。」
(2) 「私は妻に向かってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積もりだと答えました。」
この二つの記述で私と言っているのは「先生」である。これらから明らかなように「先生」は「明治の精神」というものを強く意識していることが判る。
では「明治の精神」とは何だろうか。
この問いに対して、氏は次のように言われる。明治の精神には二つの側面がある。それを仮にAとBとする。
(1) まず、明治の精神(A)とは、「万世一系を標榜する天皇主義・忠君愛国的な軍国主義・社会主義への過酷な弾圧・植民地主義、そして派閥主義・金権主義」を総称したものである。
(2) また、明治の精神(B)とは、漱石の肉声であり、「吾は天皇に復讐したぞ。無実の思想家を処刑したり、隣国の民を支配し植民地化したお前たち!諸君に徳義があり良心があるなら天皇の後を追って殉死した乃木のごとく、諸君も殉死したまえ。殉死せよ!殉死だ! 殉死だ!」という復讐と糾弾の叫びである。と。
氏の述べる内容で、前者は、批判的な視点から明治の精神を規定したもので、一つの見識ではある。だが、後者も含めこのような記述は、『心』には書かれていない。あくまでも氏がそう考えておられるだけで、作品の外部から持ち込まれた、極めて恣意的なものである。作品からの演繹は全くない。幻視と幻想によって導かれている。それは論理ではない。
一方、私はこの問いに対して、「明治の精神とは『自由と独立と己れに充ちた現代(の時代精神)』だ」とひとまず答えたい。この表現は「先生と私」の(一四)に「先生」の言葉としてそのまま出てくるものである。
私は図書館で吉田精一編『日本文学鑑賞辞典』をひもといてみた。その中で『心』の「梗概」と「鑑賞」を書かれた井上百合子氏が「明治の知識人として、作者は明治を自由と独立と己れに満ちたよき時代と考え、次の若い世代の真面目と純情に期待する」と書かれているのを発見した。意を強くする発見だった。
だが、同時にその文章の限界も感じないわけにはいかなかった。なぜなら「先生」は「明治の精神とは『自由と独立と己れに充ちた現代』だけとは言っていないのである。「先生」は「自由と独立と己れに充ちた現代に生まれた我々は」の後を次のように続けている。「その犠牲としてみんなこの淋しみを味はなくてはならないでしょう」と。つまり、「自由と独立と己れに充ちた現代」と「其犠牲としての淋しみ」をトータルして「明治の精神」と言っているのである。そして、『心』という作品の精神世界は、後者の方に力点が置かれているのである。
(三)淋しさは何処から来るのか
事実、「先生」の心象風景を最も特徴づけているものは、この「淋しさ」である。
(1). 「私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。」(「先生と私」(一四))
(2). 「私は寂寞でした。何処からも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のしたこともよくありました」(「先生と遺書」(五三))
このような「淋しさ」は一体、どこから来るのだろうか。私は、『心』という作品を「先生の『罪と罰』の物語」だと考えている。「先生の自我ーこころと言ってもいいーがエゴイズムを剥き出しにして親友Kのこころを殺した」物語、しかも「先生」とK以外には誰一人その罪に気づくことのない「完全犯罪」の物語なのである。「先生の淋しさ」は「この拭い切れない罪の意識」からやって来る。
一方、田遠氏は、「『先生』とKの間に起きた悲劇は、『お嬢さん』の『無意識の偽善』に直接の原因があり、『先生』とKはその意味で『お嬢さん』の犠牲者」であるとされる。つまりは、明治天皇の化身であるお嬢さんは、乃木将軍の化身である先生に殉死を唆して死に至らしめ、「体制の過激な批判者」を象徴する無実のKを葬り去った、という訳である。
氏の「論理」に逐条的に反論しても作品の本質とは無関係な枝葉末節をいじる非生産的なものにしかならないが、ここで二つだけ、氏の分析に付き合ってみよう。
まず、お嬢さんを明治天皇の化身とする氏の分析について。
「先生が奥さんを呼ぶ時の『妻君』という言葉を分析すると、『妻』+『君』であり、『君』は天皇の意であるから、明治天皇の化身である」と氏は言われる。原作を読まずに、氏の論を見ると『心』全編にわたって先生は奥さんを「妻君」と呼んでいるように錯覚する。実は、「妻君」と呼んでいるのは、「先生と私」(十)の箇所だけなのである。他は全て「妻(さい)」もしくは「静」と呼んでいる。つまり「妻」という呼び方が主流で、「妻君」という呼び方は例外なのである。仮に氏の分析方法を認めるとしても、氏は「妻」という呼び方を分析するべきなのである。氏の分析方法を適用すれば、氏の論証は煙のごとく消える他ない。無論、妻君という言葉を「妻」+「君」と記号論理学よろしく分析する手法が、トリッキーな論理以前であることは言うまでもないだろう。お嬢さんを明治天皇の化身などとする論は成立しない。
遡って、「お嬢さんの無意識の偽善が先生やKを自死に追いやった物語」という氏の作品の基本構想の理解もまた、成立しないことを物語っている。
次にお嬢さんが乃木将軍の化身である先生に殉死を唆し、死に追いやったという分析について見てみる。それは以下に引用する「先生と遺書」(五五)の先生と奥さんのやりとりの傍線部を指している。
「夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まり天皇に終わったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残っているのは畢竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私はあからさまに妻にそう云いました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯(からか)ひました。」
この傍点部を「殉死の唆し」というのである。しかし、それは氏の完全な誤読である。先生は、以前から「世界でたった一人で生きているような孤独感」から「自死」を決めていて、例え奥さんが生きていてくれと頼んでも、「自死」の決意は揺らぐものではなかった。それが先生の本当の「心」だからである。奥さんの「殉死でもしたら」という冗談は、自身の「自死」の意味を模索していた思想家としての先生に「明治の精神に殉死する」という新しい意味を発見させるためのステップなのである。この前後の先生と奥さんのやり取りを「殉死の唆し」と受け止める読者は、まずいないだろう。お嬢さん=殉死の教唆者=加害者、先生=殉死を教唆された人=被害者という、氏が描こうとした構図はまったく作品の文脈を外れ、リアリティを欠いた的外れなものであることは明らかである。
(四)「明治の精神」を要約する
私は(二)で「先生の考える明治の精神とは、自由と独立と己れに充ちた時代精神であり、その犠牲としての淋しさ」である、と言った。先生のその言葉を明治という時代の文脈の中に解き放ってみよう。
「自由と独立と己れ」という言葉から導かれる観念は、人間の精神世界に照準を当てれば、「自我の自由とその確立」という観念ではないだろうか。
明治とは、維新の変革によって、江戸徳川封建体制から解放された自我の自由の獲得とその確立の時代だったということである。少なくとも、その意識に目覚めたことは確かである。しかし、その自我の自由が実は他者との自我と衝突し、自己を貫こうとすれば、他者を犠牲にするしかないというエゴイズムにも目覚めさせるものであった。つまり、自我の自由の獲得という光の部分に寄り添うようにエゴイズムという影(犠牲)が付きまとう。安定した自我の確立など望むべきもないのではないか。先生の淋しさは、お嬢さんとの自由な恋愛によって、自我の確立を目指したものの、エゴイズムが犯した罪意識によって自我を崩壊させた人の淋しさである。それは、維新によって目覚めた分だけエゴイズムの問題意識も、他のどの時代よりも新鮮で強烈だったはずだ。先生は「この時代精神の影の部分としての淋しさを抱いたまま、死んでいくこと」を「明治の精神に殉死する」と表現しているのだろう。それは、死後もこの淋しさから離れられないという自罰の意識でもあろう。
(五)「古い不要な言葉」の真の意味
最後に、「先生は古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような気持ち」になったとある。「先生と遺書(五六)」のこのフレーズが出てくる少し前から作品を読めば、誰でも簡単に判るように、「古い不要な言葉」とは「殉死」という言葉を指している。主君の死に殉じて死ぬ行為としての「殉死」は、江戸時代の早い時期(一六六三年)に禁止されていて、それから二百年以上もたった明治時代末には「古い不要な言葉」になっていたのである。それを「主君の死に対して」ではなく、「明治の精神に対して」「殉死」するという先生の考えが、「殉死という古い言葉に対して新しい意義」を「盛り得た」のである。自身の「自死」の意味を模索していた思想家としての先生の新しい発見だったのである。
以上、当たり前のことを当たり前に言ったのは、田遠氏が「古い不要な言葉」を筍子「解蔽編」の中の言葉とされているからである。それは次の様な連想ゲームを媒介としている。殉死→筍子→「解蔽編」→「蔽塞」という手順で「蔽塞」という言葉に辿り着き、漱石の生きた時代を「閉塞の時代」と看破しているという論理なのである。
一般の読者が、殉死→筍子と連想する確率は極めて低い。また、筍子→「解蔽編」と連想しても、その中から「蔽塞」という言葉に辿り着く確率は殆ど〇である。この様に氏の「論証」は、極めて複雑で煩瑣なものである。氏のこうした「論証」の前では、当たり前の分析が価値あるものに見えてくるから不思議である。当たり前のことを当たり前に論じたゆえんである。(以下つづく)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。Created & Maintaince by" Yukio Yokota"