自我の内面世界か俗流政治の世界か
漱石『心』の理解を巡って(二)
豊中市 山浦純
大逆事件と同時代作家の資料状況
そもそも私には、田遠氏の「論証」の大前提に対する根本的な疑問がある。それは、漱石は本当に氏が力説されるような「大逆事件や日韓併合問題に対する政治的回答」を『心』という作品に封印するような動機と資質を持った作家なのだろうかという疑問である。
漱石と同時代の他の作家・文学者たちは、これらの政治問題にどのように対応したのだろうか。そのことを、もう一度、根本に立ち戻って、確認してみる必要がある。そうすれば、漱石という作家の同時代における位置(=資料状況)を知ることができる。
問題を単純化する為に、検討の対象を「大逆事件」に絞ってみたい。
氏は、漱石は、「大逆事件や日韓併合問題」が起こった明治四十三年〜四十四年前後の時代を「蔽塞の時代」と認識していたとされる。そこで、思い出される作家・歌人と言えば、「大逆事件」が起きたほぼ同時代に『時代閉塞の現状』という優れた評論を書いた天才詩人・石川啄木が思い出される。
今、私の手元に築摩書房の『啄木全集』と『文芸臨時増刊・石川啄木読本』がある。
前者に収録された平野謙氏の「石川啄木と大逆事件」に次のような一節がある。「大逆事件に関する文学者の態度決定としては、鴎外・荷風・啄木の三人によって代表させていいように思う。(中略)。この三人はそれぞれ支配者の立場、知識人の立場、人民の立場から大逆事件とまともに取り組み、その資質・教養・社会的環境に応じて文学的に造形している。」
また、後者に収録された窪川鶴次郎氏の「啄木の短歌ーー近代主義と社会主義」にも次のような一節がある。
「明治四十年代における日本の帝国主義への急速な発展は同時に日露戦争における幸徳秋水、堺利彦らの非戦論の運動から大逆事件にかけて階級対立の自覚は急激に労働者階級及びインテリゲンチャの間に広がっていった。与謝野晶子の日露戦争に対する「君死に給ふこと勿かれ」をはじめ、与謝野寛の「誠之助の死」や佐藤春夫の「愚者の死」(『スバル』明治四十四年三月発行)の詩など大逆事件をするどく風刺したものなど、(中略)、この階級対立への認識が無意識のうちにもひろく浸透しつつあったことを物語っている」
右に見た引用文中の作家の作品を確認していく前に、筆者の私的な事柄に言及することをお許し頂きたい。
私は、田遠氏への反論(その一)『素人読みの『心』覚え書き』を、市民読書会で偶然、お会いした大田正紀先生に見て頂いた。しばらくして、先生よりお手紙を頂いた。そこには「基本的に漱石は、北村透谷と同じ平民主義の理想を受け継いだ作家という評価は平岡敏夫氏などによって定着したといえます。さらに、帝国主義に対する反対の意向を持っているというところで、古くは伊豆利彦氏から小森陽一氏まで、代々木(日本共産党のこと?筆者注)の歴史観にのっとって漱石を位置づけています。私は、少しこじつけのような気がしますが、漱石論の主流になっています。」
と望外とも言うべき丁寧なご返事が書かれていた。
田遠氏の「論証」もこの流れの中にあるのかも知れない。
それはさておき、本論に戻ろう。
田遠氏の論調は、明らかに漱石の「反帝国主義」を前提とされている。従って、ここでは、大逆事件に反応した作家・文学者の中でも、田遠氏の描く漱石の立場に近い人々や作品を取り上げてみよう。
まず、与謝野寛(鉄幹)の詩「誠之助の死」。
この詩がどんな詩であったか私が調査した範囲では不明であるが、その対象が大逆事件に連座して処刑された紀州新宮出身の医者・大石誠之助であることは確かである。彼が、与謝野寛が主宰する「明星」の詩人であった関係による。ここでは、この詩の創作が、明治四十四年三月と大逆事件で多くの処刑者を出した同年一月二十三日の直後であったことを確認しておこう。
次に、佐藤春夫の「愚者の死」。
この詩も大石誠之助の死を歌ったものである。大石と同じ紀州新宮の出身で、若き日に新宮中学の「不良学生」だった佐藤春夫は、その後上京し、明治四十四年三月の「スバル」で次のように歌った(ここでは省略する。)
この詩を「啄木のロマンティシズムーー啄木と春夫」で紹介されている山本健吉氏は、次のようにこの詩の感想を述べている。
「この詩は、大石の愚を笑うという形で、反語的に支配者への精一杯の抗議を投げつけているが、同時に恐懼する「町人の町」新宮の愚をも笑って、故郷への青年らしい嫌悪を表現している。(中略)。この詩に見られる調子も、非常にシニカルに突き刺さるものがありながら、支配の犠牲に供された同郷の先輩に対する、こみ上げてくるような慟哭がある。」と。
佐藤の詩がいかに、反語的でシニカルだったとしても、強圧的な官憲の検閲の目が光る中、大逆事件直後にこの様な詩を発表したことは、大変な勇気がいったことと思う。「スバル」三月号が検閲の結果、どのような処遇にあったのか定かではないが、佐藤のやむにやまれぬ反骨の文学的営為だけは確認できるであろう。
最後に、大逆事件に最も敏感に反応した文学者といえば、やはり石川啄木であろう。
啄木は、明治四十四年二月六日、大島経男宛の手紙の中で、「大逆事件」との遭遇を「知らず知らず自分の歩み込んだ一本路の前方に於いて、先に歩いている人達が突然火の中に飛び込んだのを遠くから目撃したような気持ちでした」と書いて、その衝撃の大きさを告白している。
その啄木が明治四十三年八月に書いた『時代閉塞の現状』は、同年八月二十二日と二十三日、『東京朝日新聞』の文芸欄にのった、魚住折蘆(せつろ)の評論「自己主張の思想としての自然主義」に対する批判として書かれたものであった。この評論は文学論の形式を取りつつ、自然主義文学は、ついに国家=強権を敵とする視点を持ちえなかったとして、自然主義を乗り越えようとするものであった。
ここで、国家・強権と言っているのは、大逆事件を仕組んだ絶対主義天皇制国家であることが、先人の研究によって明らかになっている。明治四十三年五月に一連の逮捕者を出して以降、朝日新聞の校正係をしていた啄木は、六月、七月、八月とそこに集まる内部情報によって、刑法第七十三条の「大逆罪」の嫌疑で逮捕者が拘束されていることを理解していたのである。
啄木は、その評論で次のように訴える。
「我々青年を圍繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなった。強権の勢力は、普く国内に行亘っている。」
「斯くて今や我々青年は、此自滅の状態から脱出する為に、遂に其『敵』の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。・・我々は一斉に起って先ず此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷めて全精神を明日の考察?我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである」
こうして、啄木は、遂に、「近代的自我」の敵としての国家・強権(絶対主義天皇制)の存在に突き当たったのである。
啄木は、この評論を朝日新聞紙上に掲載する意図を持って書いたが、編集部の検閲を恐れる方針から、掲載されなかった。そして、啄木の死後、大正二年五月二十五日、土岐善麿氏の手により『啄木遺稿』として東雲堂書店から刊行された。(漱石の『心』が朝日新聞に連載された大正三年四月二十二日〜八月十一日より約一年前であったことは、注目に値する)
さらに、啄木は、「大逆事件」用とも言うべき『明治四十三年歌稿ノート』に、「九月九日夜」として、三十九首の歌を書きつけた。その中から、本論に関係深い三首を挙げてみる。
○時代閉塞の現状を奈何にせむ秋に入りてことに斯く思ふかな
○地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く
○明治四十三年の秋わが心ことに真面目になりて悲しも
一首目は、大逆事件以後の時代閉塞の重みと「ことに斯く思ふかな」の巧みな屈折感が表現されている。
二首目は、日韓併合という日本帝国主義の植民地政策への批判を歌いあげたもので、「くろぐろと墨をぬり」が印象的である。これらの歌は、若山牧水が主宰する雑誌『創作』十月号の原稿として、「九月の夜の不平」と題して送られている。明治四十三年の十二月に東雲堂書店から発行された歌集『一握の砂』にはこれらの歌は収録されなかった。『一握の砂』からこれらの歌を除いた時の啄木の心境は、時代の反動と立ち向かいながら痛切な思いであったにちがいない、と『石川啄木と大逆事件』の著者・碓田のぼる氏は述べている。
資料状況から演繹される結論
与謝野晶子の「君死に給ふこと勿かれ」を含め、これら諸作家の例から次のようなことが言えるのではないか。
作家・文学者は、それが公表されるかどうかは別として、烈しく内面を揺さぶる事件や問題に対しては敏感に反応し、手紙、日記、作品等に表現するものである、ということである。逆に言えば、彼らが、後世に託して「作品への、謎の封印」などという、持って回った方法は取らないことをも暗に逆照射するものである。
啄木が、クロポトキンなどの無政府主義者に共鳴して書いた一連の詩集『呼子と口笛』は、その内容からして、絶対主義的天皇制が崩壊する、昭和二十年八月まで公開されることはなかった。このような作品こそ後世の読者に託した作品ということが言えるが、それは、読めば直ちに理解可能な表現になっている。田遠氏が『心』で、名探偵よろしく、極めて難解な謎、奇跡的に救済されるような封印された複雑怪奇な謎など、啄木の作品には何もないのだ。
少し抽象的なことを言えば、「本質は現象する」という言葉がある。心に思っている真実は、外に現れるものであるということを少し生硬に表現したものである。晶子、鉄幹、佐藤、啄木等の例は、いずれも内心の烈しい意欲を作品や日記・手紙として迸らせている典型的な例である。もっと端的な例は、大逆事件で幸徳秋水ら十一名が処刑された一週間後の徳富蘆花の演説である。彼は、新渡戸稲造が校長をしていた一高で講演し、「これは処刑ではない、暗殺、暗殺である!」と叫んだのである。
翻って、漱石はどうだったのか。それについては、博覧強記の田遠氏が膨大な資料を渉猟しておられるにも係わらず、大逆事件や日韓併合に直接言及した、日記、手紙、エッセーなどは何ら示されていない。そのような資料状況からすれば、「現象してないものは、本質としても『なかった』」ーー漱石の場合、この帰結にたどり着く他ないのではないか。
やはり、漱石の「百年の孤独」は「なく」、氏の「百年の誤読」があるだけである。『書かれなかった真実』は『なかった』のである。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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