武烈天皇紀における「倭君」 冨川ケイ子(会報79号)
トロイの木馬 冨川ケイ子(会報84号)
アガメムノン批判 冨川さんの反論に答えて 古田武彦(会報85号)
「トロイの木馬」メンテナンス 冨川ケイ子(会報86号)
「遠近法」の論理 再び冨川さんに答える 古田武彦(会報87号)
トロイの木馬
相模原市 冨川ケイ子
■はじめに
このごろ古田武彦氏が『東京古田会ニュース』や講演・セミナーなどでプラトン著『ソクラテスの弁明』(以下「弁明」と記す)を話題にされている。筆者の理解するところによれば、ひとつは、ソクラテスは『弁明』の中で、叙事詩『イーリアス』の作者であるホメロスと、そこに描かれたトロイア戦争における英雄アキレウスを尊敬し、あの世に行ったらぜひ会いたいと語っている。それはどういう理由によるか、という問題である。もうひとつは、告発されたソクラテスの罪状と、それに対する判決とのバランスが悪い。死刑に相当するような、何をしたのか、という疑問である。
古田氏によれば、「このような問いに対して、今回の「ホメロス問題」は、新たに、重要なテーマを浮びあがらせた。即ち、「現在のギリシャの富裕と繁栄」自体、アン・フェアな「トロヤ大虐殺」の結実として、これを否認する。─これがホメロスの立場、そして彼を尊敬するソクラテスの思想性だったのである。」(古田武彦「学問論(第七回)ホメロスとソクラテス」Tokyo古田会News第一一七号、二〇〇七年十一月)
トロイア戦争は紀元前一二〇〇年頃の出来事である。これを叙事詩「イーリアス」に歌ったホメロスが活躍したのは同じく前八〇〇年頃。一方、ソクラテスが刑死したのは前三九九年である。
ソクラテスの時代から見て、トロイア戦争は四〇〇年前の人が描いた八〇〇年前の出来事である。ギリシアの当時の繁栄は八〇〇年前の不正行為の結果である、という考えは、時間の隔たりが大きすぎて非現実的ではあるまいか。トロイアから略奪した富がギリシア各地の権力者をうるおしたとしても、人類初めての民主政を実現したギリシアの繁栄は、ギリシア人自身の数百年にわたる努力の賜を物だったというべきであろう。
それならば、ソクラテスがアキレウスを手本に死を賭けてまでしたことは何だったのであろうか。概説書を拾い読みしながら考えたことを書き綴ってはみたが、知識の貧しさは歴然である。先学の方々のご教示をお願い申し上げる。
■敗戦
結論から言えば、ソクラテス刑死の背景にあったのは、不正行為の結実としての繁栄ではなく破滅であった。ソクラテス裁判の実相は、破滅的社会状況の中で、それをもたらした責任を自ら問わない人々が、それを問うソクラテスを罪に問うた点にある、と考える。
前四〇五年、アテナイは海軍の大半を失い、海陸ともにペロポネソス同盟軍に封鎖された。冬から籠城し、飢餓に耐える。が、翌前四〇四年春、ついに降伏して二七年にわたるペロポネソス戦争は終わった。アテナイは敗戦国になった。
この事態が何を意味するかというと、第一に、籠城した段階でアテナイは国家としても国民としても消滅する危機に立たされた。実例を挙げると、これに先立つ前四二七年、小アジアのミュティレネが反乱を起こして鎮圧されたとき、アテナイの民会はその成年男子を全員処刑し、婦女子は奴隷に売る、と決議したことがある。しかし、反対論者が一夜にしてこれをくつがえしたので、ミュティレネは事なきを得た。
前四一六年、アテナイはキクラデス諸島南西端のメロス島を拠点にしようと企てたが、中立を望むメロス人がこれを拒否したので戦端を開いた。やがてメロスが降伏すると、その成年男子全員を処刑し、女子どもを奴隷にした。そして、その後には植民を行った。
これらを見てもわかるように、成年男子の処刑、婦女子の奴隷化は、この時代、敗戦国民が受ける待遇であった。
第二に、籠城の餓死と降伏後の刑死のはざまで、アテナイは第三の道、条件付降伏を受け入れた。その条件は、アテナイの城壁ならびにペイライエウス港への長壁を全部取り壊すこと、領土はアッティカとサラミスのみとし、海外領土を全部手放すこと、軍船は十二艘以外は全部没収されること、国外追放にされた人々の帰国を許すこと、スパルタの同盟国になり、スパルタの指揮に従うこと、であった。(参考文献(4)五二〇頁による。(3)六〇四頁は無条件降伏だったとする。) これによってアテナイはからくも生きのびた。しかし、城壁のない都市国家を想像してみるとよい。軍事力はないも同然。長い戦争で国庫も底をついていた。スパルタはアテナイに目付け役と兵士を駐屯させた。彼らはアクロポリスを占拠した。その武力を背景に三〇人による政府が樹立され、民主政もまた失われた。
第三に、食糧事情は敗戦後もなかなか回復しなかったのではなかろうか。外国軍の侵攻によってアテナイ周辺の農地は荒らされて生産が減り、海外に持っていた交易の拠点も壊滅的打撃を受けたはずである。ために生活必需品の物価は上がる。貧しい層を中心に、大商人が売り惜しみや価格のつり上げで不当な利益を得ている、という不満の声が高まる。どんな政府でも乗り出さないわけにはいかない。それが、三〇人政府がたちまち暴政と化し、富裕な市民への処刑と略奪に走ったといわれる背景であろう。ソクラテスもまたある市民を逮捕する仕事に動員されたが、『弁明』でこの時代をこう回想している。「実にこのようなことをたくさんあの連中はたくさんな人々に命じたものだった、出来るだけ多数の人々を罪に連座させようと思って。」(参考文献(3)六〇四頁は反対派の摘発を含む恐怖政治としている。(8)も含め、そうなった理由が記されていない。そこで右のように戦後の食糧事情を想定してみた。)
三〇人政府はまもなく倒れ、民主政に復するが、軍司令官とスパルタ王の間に確執が生じた結果であるという。アテナイに国家としての自立性はなかった。
第四に、アテナイはまた精神的にも荒廃したはずである。スパルタは戦争でアテナイを倒したが、アテナイ人を虐殺も奴隷化もしなかった。それどころか、前四〇五年にはメロス島をアテナイの支配から解放し、元の住民を帰住させたという。これにまさるメロス政策批判はあるまい。スパルタ人は質朴尚武の戦士であって、アテナイとは異なり、後世にこれといった文化遺産を残さなかった。しかし、アテナイはスパルタでさえしないことをした。アテナイ人は戦いに敗れ、メロス人と同じ運命をたどってもしかたのない立場に立たされたが、勝者のスパルタがそうしなかったおかげで救われた。アテナイの道義は地に落ちた。心あるアテナイ人は、恥ずかしくて死んだ方がまし、と思ったことであろう。
■悲劇
アテナイ敗戦のおよそ一〇年前、メロス事件の翌年に当たる前四一五年、三大悲劇作家の一人、エウリピデスはトロイア戦争に材をとった作品「トロイアの女」を上演した。陥落直後のトロイア城が舞台である。ギリシア軍は殺戮と略奪ののち、城に火をかけた。生き残った女たちは奴隷にされ、ギリシア各地へ連れられて行くことになった。彼女たちが互いの運命を嘆き、別れを告げあうだけの単純な筋書きであるが、それにとどまらない。
第一に、神々は怒っている。ギリシア軍はトロイア城のみならず神々の祭壇や神像までも破壊した。神々を祭る人々を根絶やしにした。神々は神罰を下そうと相談している。なかんずくアテナイの守護神アテナの怒りには特徴がある。彼女は決して犯人個人に対して怒っているのではない。それを咎めなかった人々に対して立腹している。彼女は仲よく不正を隠す行為を許さない神である。
第二に、エウリピデスはトロイの「木馬のたくらみ」をすぐれた戦術だったと賞賛するどころか、「呪いの刃を秘めた木馬」「兇刃を秘めたる馬」という描写が示すように、うわべと中身がちがう「だまし」の道具、勝つために手段を選ばない策略として描いている。
エウリピデスは警告したのである。不正な手段での攻撃。落城のあとの略奪と虐殺。女たちの奴隷化。観客は、その前年のメロス事件を想起せざるをえなかったであろう。エウリピデスはポセイドン神にこう言わせている。「愚かなる人間どもめが。町を壊(こぼ)ち、神の社や死者の聖なる墓所をば荒した咎で、こんどはみずから潰(つい)え去らねばならぬとは。」メロス事件は神々の怒りに触れないわけがない。アテナイに不吉なことが起こるよ、という警告であろう。(それは的中した!)
この作品を含む一連の作は二等に入っている。ほどほどの評価を得たわけである。ソクラテスはこの上演を見たであろうか。彼が演劇とかかわりが深かったことは、プラトンの『饗宴』が描いている。第一に、それは悲劇作家アガトンの家での「饗宴」である。(メロス事件と同年の前四一六年のことであった。)第二に、客の一人にアリストパネスがいた。彼はギリシア古喜劇の代表的作家である。ソクラテスを登場させた作品があることでも知られる。もっとも、その作られたイメージが一人歩きして、ソクラテスが迷惑していることが『弁明』に記されているが。第三に、この日の討論のテーマを提案した人物は、その発言の冒頭に悲劇作家エウリピデスを引き合いに出している。第四に、饗宴の終幕、酔いつぶれて眠る人々の中で、ソクラテスがアガトン、アリストパネスを相手に演劇論をしかけている。つまり、ソクラテスは劇作家と交友関係があり、また演劇について独自の意見を持っていたわけで、エウリピデスの「トロイアの女」を見逃したとは思いにくいのである。
■告発
前三九九年、ソクラテスは告訴されて弁明を行なった。五〇〇人の裁判官がまず一回目の弁明を聞いて六〇票の差で有罪とし、二回目の弁明の後、二二〇票の差で死刑を宣告したという。つまり、二八〇対二二〇が三六〇対一四〇になったわけで、はじめ無罪とした裁判官のうち八〇人が死刑に意見を変えたわけである。量刑弁論の趣旨は、自分は正しさで国家に貢献したので国賓として饗応される資格がある、今後も言論活動をやめるつもりはない、罰金を払う、の三点である。第一点は、彼自身は大まじめだったかもしれないが問題外である。彼がポイントを落とした原因は、追放ではなく罰金を選び、今後もアテナイで言論活動を続けるとしたことであったろう。
ソクラテスの言論には行動の裏づけがあった。『弁明』に、自分のしたことを語っている部分がある。政治活動の危険について「このことの大きな証拠を私の方から提供しよう、それは言葉ではなくて、諸君の尊重するもの、すなわち、事実である」と前置きして、文字通り命をかけた二つの行動を挙げている。ひとつは民主政の時代、前四〇六年に、過失のあった十人の将軍のうち八人を裁判にかけ、六人を処刑するという事件があったとき、逮捕される恐れがあったにもかかわらず、ただ一人反対し、反対に投票した。もうひとつは寡頭政の時代、三〇人政府が暴政をしいたとき、政府に呼び出され、サラミス人某を逮捕してくるように命じられたが、従わなかった。
死を恐れることなく正義と法律に従って行動した、とソクラテスは自負している。しかし、そうではない人々がいた。アテナイ人は、ソクラテスを告訴した人々はもちろん、五百人の裁判官は、それらの事件のときにどういう行動をとったのであろうか。彼らは自発的か心ならずもかはともかく、将軍たちを処刑し、命じられるままに誰かを逮捕した過去を持っていた。
ソクラテスの「ノー」はそれだけにとどまったであろうか。たとえばメロス島事件である。前に述べたように、彼は法によらずに誰かを逮捕したり処刑したりすることにはっきり反対である。こういう態度から推すと、メロス島の成年男子を皆殺しにし、女子どもを奴隷にするというアテナイ政府の方針に決して賛成しはしなかったであろう。もうひとつの理由に、『弁明』でアキレウスとホメロスを尊敬すると述べていることを挙げたい。その名を聞けば、誰もがトロイア戦争を思い起こす。ホメロスが『イーリアス』で描いたのは、アキレウスやヘクトルなどの英雄たちの正々堂々の戦いの物語であった。しかしアキレウスの死後、現実にはギリシア軍は「木馬」のだまし討ちでトロイアを滅ぼした。エウリピデスが「トロイアの女」で描いたように、男たちを殺し女たちを奴隷にした。メロスでもアテナイはそうした。古ギリシア軍と現アテナイに対して、ソクラテスがアキレウスの側に身を置くということは、メロス大虐殺を拒否したことを意味すると見ていいのではなかろうか。
しかし、残念ながらプラトン『弁明』はメロス事件に言及していない。ソクラテスには自著はないし、アテナイ人が進んでこの問題に触れるとも思えない。すでに述べたように、それはアテナイの自尊心にとってあまりにも大きな傷だったはずである。しょせんは闇の中、であるにせよ、闇は無ではない。何らかの手がかりが見つかることを期待したい。
その点、トゥキュディデスがその著『戦史』にメロス事件を書き残した意義は大きい。彼はアテナイの非道な行為を後世に伝えた。しかし、彼にそれができたのは、そのとき国外追放の身でアテナイにいなかったからではなかろうか。彼自身が手を汚していなかったからだ、とまで言ってしまうのは酷であるが。
エウリピデスは、神々は、犯罪行為そのものより、それを咎めない人々に怒りを下す、としていたが、ソクラテスもおそらく同じ考えを持っていた。『弁明』に「一日中いたるところで、そばにくっついて坐り、諸君の一人一人を目覚す、つまり説得し、非難することを決して止めないような性質のものとして、私は神様からこの国にくっつけられている」と言うように、人々に警告することを自分の使命とした。
しかし、正しさを求めて恥部を暴くソクラテスは、尊敬されるよりも憎まれる。(彼は嫌われることを知っていた)やましい人々は、昔のことを根掘り葉掘り質されるより、ほうっておいてもらいたいと願っている。ソクラテスにはもう黙ってもらいたいのである。あの言論活動を続けられてはたまらない。無罪派が死刑に転じた理由はこのへんにあろう。確信をもって有罪・死刑に投じた一派は言うまでもない。罪状はソクラテスではなく、原告や裁判官を含むアテナイ人のほうにあった。
では、ソクラテスを告訴した人々の正体は何であったろう。敗戦からすでに五年が過ぎていた。その原因を探り、失政の責任を問う声が出てきてもいいころだったのではなかろうか。身に覚えのある当事者たちは、ソクラテスの言論に刺激された人々がいつそれを公然と口にしはじめるか怖かった。それで先手を打ってソクラテスを告訴した。いや、手先を使って告訴させたのであろう。言いがかりに近い罪状で死刑を要求したのは法廷技術でもあって、ソクラテスを黙らせることができれば量刑は何でもよかったのかもしれないが、ソクラテスは相手の真意を百も承知で言論活動を続けることを言明し、ここでもその場しのぎのうそをつかなかった。そのために死ぬことになろうとも。
アキレウスは自分と友人の名誉のためには死を賭して戦うが、敵を倒した後は、その遺骸を家族に返し、葬儀の間、攻撃を停止する、という騎士道精神の持ち主である。そのアキレウスを尊敬し、あの世で会いたいというソクラテスは、自分もまたアキレウスのように死ぬべきときに死ぬことを望んだように見える。そのアキレウスはトロイア落城の悲惨を見ることなく死んだ。ソクラテスは敗戦後のアテナイ人の精神的腐敗を見届けて死ぬことになった。
ギリシアの神々は不正を咎めない人々を咎める。ソクラテスはただ一人咎める人だった。彼は知っていたのだ。臆病者たちのかばいあいが国を滅ぼす。無邪気をよそおった「トロイの木馬」のように。
付記
ソクラテスが処刑された真因は、アテナイ人の弱点をえぐったためだ、という発想を示してくださった古田武彦氏に感謝する。そしてまた、しろうとの思いつきに耳を傾け、学問に育てようとしてくださる古田史学の会の皆様へも心からの感謝を。
エウリピデスの『トロイアの女』を、前年のメロス島虐殺事件とかかわりがあるとする解説は見る(松平千秋氏など)が、ソクラテスの告発・処刑を、アテナイの敗戦前後の諸事件なかんずくメロス事件に関連付けた論者はおられるのだろうか。きっとおられる、と筆者は信じる。ご存じの方があったら教えていただきたい。筆者は喜んで拙文を取り下げる。
参考文献
(1) 『日本大百科全書』CD-ROM版 小学館
(2) プラトン著、山本光雄訳『ソクラテスの弁明』角川文庫、昭和二九年
(3) プラトン『饗宴』 田中美知太郎責任編集『プラトン I』世界の名著6、中央公論社、一九七八年、所収
(4) トゥキュディデス『戦史』 村川堅太郎責任編集『ヘロドトス トゥキュディデス』世界の名著5、中央公論社、一九八〇年、所収
(5) エウリピデス、松平千秋訳『トロイアの女』 松平千秋訳者代表『ギリシア悲劇全集第三巻』人文書院、昭和三五年、所収
(6) 呉茂一訳者代表『ギリシア・ローマ集』筑摩世界文学全集4、筑摩書房、昭和四七年(この書にも松平千秋訳『トロイアの女』が所収されている)
(7) サルトル著、芥川比呂志訳『トロイアの女たち』サルトル全集第三三巻、人文書院、昭和四一年
(8) 村川堅太郎編『ギリシアとローマ』世界の歴史2 中央公論社、昭和三六年
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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