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松本深志の志に触れる旅 輝くすべを求めて 松本郁子(会報84号)
松本からの報告--古田武彦講演 学問の独立と信州教育の未来 松本郁子(会報85号)
祭りの後「古田史学」長野講座 松本郁子(会報87号)
松本深志の志に触れる旅
輝くすべを求めて
京都市 松本郁子
松本深志は、私の憧れの学び舎である。若き日の古田武彦先生が教鞭をとり、私の敬愛する中嶋嶺雄先生や荻上紘一先生を輩出した、松本随一のエリート校。
古田先生は、一九四八年(昭和二三)三月東北帝国大学法文学部日本思想史科(1) を卒業後、岡田甫教頭(一年後、校長に就任)の招きを受け、長野県立松本深志高等学校に国語科の教師として赴任した。古田先生によると、松本深志で過ごした二十一歳から二十七歳までの六年間は、ずいぶんと型破りではちゃめちゃな教師生活だったようである。
古田先生は、折に触れて深志時代の逸話の数々を私に語って聞かせて下さる。
たとえば、県営球場における野球の学校対抗試合での武勇伝。古田先生は、生徒の応援に夢中になるあまり、シャツを脱いで上半身裸になって深志の応援旗を振っていたそうである。後日保護者会の会長から、「あの旗を振っていた生徒はなかなか元気がよかったですね」という話が出ると、岡田校長が「いや、あれはうちの先生ですよ」と答え、一同爆笑したという話を聞いた。これは古田先生の破天荒な教師ぶりを最も端的に表すエピソードといえよう。
授業の進め方においても、古田先生は自己流を貫き通したようだ。国語乙の授業では、教科書をつかわず、『ソクラテスの弁明』(2) 全編を教科書代わりにして教えたという。このような古田先生の授業のやり方に対して、学校側からも生徒側からも、何一つ異議は出なかったそうである。私も古田先生としばしば『ソクラテスの弁明』の読み合わせをするが、その度に先生は、「以前読んだ時には気付きませんでしたが、この部分にはこういう意味があったんですね!繰り返して読むと、また新しい発見があるものですね!」と言って感嘆の声を漏らされる。深志時代にも、同じように唾を飛ばしながら生徒たちに熱弁を振るっておられたであろうことが察せられ、当時の深志の生徒たちのことを羨ましく思った。また、世界史の平林先生といって、一年間ギリシャについてしか授業をしない先生もいたという。生徒から「受験に出る内容をやってください」という抗議の声が上がると、平林先生は「そんなの自分でやれ」と一喝したという。
こんな話も聞いた。古田先生は学校の前の尚志社という寄宿舎に寄宿していたが、その四畳半の部屋の中に、生徒の百瀬伸夫さんをさらに寄宿させていた。先生は百瀬さんと一緒に「フェニックス・クラブ」という文化クラブを作り、日本や西欧の名作をガリ版で切って、実費で学校の下駄箱の前に置いて無人販売をした。空き箱に入れてもらった料金は、一円たりとも狂いがなかったという。
このような古田先生の型破りな教師生活を、校長の岡田甫先生はじっと見つめ、見守っておられたということである。岡田校長は、「校長の任務は、人間を集めることだ。後はいざという時に責任をとればいい。それだけしか校長の役割はないよ」と言っておられたという。このような自由な雰囲気の中で、古田先生は教師として成長してゆかれた。
また、古田先生の在任時代より後になるけれど、一九六〇年(昭和三五)から一九七二年(昭和四七)にかけて、「クロ」という雌犬が学校に住み着いた。生徒たちや教職員、そして用務員さんに可愛がられ、職員会議にも必ず出席し、一同の議論を聞いていたという。この事実は、一部フィクションを織り交ぜて二〇〇三年(平成一五)に「さよなら、クロ」(3) として映画化された。深志の校舎が、「クロ」や生徒たちを温かく包み込む、一軒の大きな家のように映ったのをよく覚えている。
その深志に私は憧れた。私自身はもちろん、深志の卒業生ではないけれど、第二の母校のように感じ、憧憬の念を憶えずにはいられないのである。その松本深志の志に触れるべく、私は旅に出た。二〇〇七年(平成一九)の秋の日のことである。旅立ちにあたって古田先生は、松本深志高等学校第三回卒業生卒業四〇周年記念文集『深山の蜻蛉四〇年』(4) を持たせて下さった。私は旅に出る時、ガイドブックを持たない。足の向くまま、気の向くまま、町を見て歩くのを常としている。しかし今回の旅では、この文集がガイドブック代わりとなった。
九月二〇日(木)、東京で行われた松本深志高等学校第三回卒業生の同窓会に参加させていただいた。この同窓会は、毎月第二木曜日に開かれるため、二木会と呼ばれている。幹事の丸山和道さんから古田先生の弟子だと言って紹介があると、一同から一斉に「古田屋 (5)の!」と歓迎の声があがった。宴が始まった後、参加者から古田先生の近況について尋ねられたので、「お元気でご活躍なさっていますよ」と答えた。すると、「古田先生は生徒よりも生徒らしい先生であった」という批評が出たり、「あんな先生に習ったから出世できなかった」という「批判」(親愛の情の逆説)などを聞かされた。
二十三日(日)、東京古田会主催の古田先生の講演会に参加した後、二十四日(月)、松本に入った。
二十五日(火)、同じく第三回卒業生の佐藤玲子さんと矢ヶ崎啓一郎さんにお会いした。佐藤さんは松本の郷土史研究の先達、矢ヶ崎啓一郎さんは塩尻のワイン製造会社アルプスの社長である。佐藤さんのご自宅(松本市内)を訪れ、落ち合った後、電車で塩尻に向かった。矢ヶ崎さんが塩尻駅で出迎えて下さり、ワイン製造工場を案内して下さった。印象的だったのは、漂ってくるのが果実の純粋な香りのみで、化学的な匂いの一切しないことであった。ワイン作りにかける矢ヶ崎さんのこだわりを感じた。深志出身の精鋭が信州松本近辺で活躍しておられる姿を見た。
二十七日(木)、古田先生の恩師、岡田甫校長のお墓を訪れた。古田先生からその偉容について何度も聞かされていたので、松本を訪れたら是非墓参をさせていただきたいと思っていたのである。古田先生の教え子、北村明也さんから場所を教えていただいていたので、簡単に探し当てることができた。岡田先生のお墓は、松本市街を少し外れたところにある日蓮宗安立寺というお寺の管理墓地の一角に、ひっそりと建てられていた。墓石の背後に小さな石の突起物のようなものが据えられていると古田先生から聞かされていたが、確かにそれは存在していた。風化していて造形が崩れていたが、目、鼻、口のような形に石が掘り込まれており、小さな石の人形のように見える。なぜこのような「人形」をお墓に据えつけたのか、これを建てられた岡田先生の意志が知りたいと思った。
二十八日(金)及び二十九日(土)、いよいよ憧れの深志高校を訪れた。深志には現在、鈴岡潤一先生といって、希望者に対して行われる「尚学塾」という課外授業(土曜日)で古田説による古代史の授業をされている社会科の先生がおられる。古田先生に紹介を受け、電話で事前に授業を参観したい旨を申し入れると、「なぜ深志の授業を参観したいのですか」と聞かれた。「古田先生に深志の話を聞いて、憧れまして」と述べたところ、お許しの言をいただき、金曜日の世界史の授業と土曜日の課外授業を参観させていただけることになった。
二十八日(金)、初めての深志高校。憧れの校舎を前にして、胸が熱くなった。職員玄関でスリッパに履き替え、社会科準備室へ。そこで初めて鈴岡先生にお目にかかった。先生に伴われて教室に向かう。廊下で生徒たちが他のクラスの生徒たちと雑談を交わしている。「授業が始まるぞ、早く席につきなさい」という鈴岡先生の声に促され、生徒たちがめいめい教室に駆け込んでいく。休憩時間終了、残り一〇秒前のあわただしい一時、懐かしい光景である。私は鈴岡先生に後ろの空いている席に座るよう指示され、おずおずと席についた。いち早く「突然の来訪者」の存在に気付いた生徒は、「誰、この人?」という好奇の眼を私に向けている。
授業開始前、鈴岡先生が「後ろに座っているあの美人は誰だろう、とみんな気になっていると思う。あの方は、松本郁子さんといって、私が尊敬している古田武彦先生のお弟子さんで、京都大学で博士号をとられた方です。それでは松本さん、簡単に自己紹介をお願いします」と、冗談交じりに紹介して下さると、生徒たちが一斉に後ろを振り返った。クラス中の瞳がこちらを見つめている。緊張した。「歴史研究者の松本郁子です。松本という苗字だからというわけではありませんが、松本が大好きです。松本という土地に深い縁を感じています。今日は鈴岡先生に無理にお願いして、授業を参観させていただけることになりました。一時間、よろしくお願いします」と、一気に自己紹介をした。
自己紹介が終わると、すぐに授業が始まった。イスラム帝国の成立と衰退がテーマだった。さすがに進学校だけあって、進度が速い。生徒たちは黙々と先生の板書をノートに写している。私も小さな木の机にノートを広げて、高校時代に戻ったかのように必死でノートをとった。鈴岡先生は熱心で、生徒たちも静かに先生の話を聞いていたが、古田先生からいつも聞かされていた、先生をとっちめ困らせる生徒たちの姿を見ることは残念ながらできなかった。
翌二十九日(土)は古田史学による古代史の授業を参観した。わずか三人(男子一名、女子二名)という少人数の授業だったが、鈴岡先生の準備は万端だった。教材は『世界を読み解くために』(6) という鈴岡先生手作りの分厚い冊子で、内容は古今東西多岐にわたっていた。その日のテーマは「『三国志・魏志』東夷伝・倭人」(7)。鈴岡先生はテキストに掲載された資料を読み、従来説の立場と比較しながら、古田説の正当性について論じた。生徒も興味深そうに先生の話に聞き入っていた。高等学校の授業とはとても思えない、学問的にレベルの高い内容だった。
授業終了後、職員室で休んでいると、三人のうちの一人の女子生徒が入ってきた。鈴岡先生に前回の授業の時に約束していた資料を借りに来たとのことであった。実は彼女は授業中にも一番熱心に先生の質問に答えていて、最も印象に残っていた生徒である。彼女も私と何か話したそうにしていたので、「歴史、好きなの?」と話しかけた。彼女は「はい」と恥ずかしそうに答え、「昔の人も、文字を書いたり、色々なことを考えたりしていたんだなあと思うと、すごく興味がある」と続けた。いい答えだ。私が太田覚眠研究(8) の一端を話して聞かせてあげると、「一つのことをすごく極めている感じがして、立派だと思う。自分はとてもそこまではできないけれど、松本さんは頑張ってください」と激励された。私も「あなたはこれからの人だから、私よりもっと頑張ってね」と激励した。
鈴岡先生にお礼とお別れの挨拶をし、再会を約して深志を後にした。正門を出た後、振り返って校舎を仰ぎ見た。あの歴史好きの女子生徒も、近い将来この門をくぐって深志を巣立って行くことだろう。夢見る心を忘れずに、真っ直ぐに育っていってほしい、心からそう思った。
京都に戻ってきてから、ドラマ「白線流し」(8) のDVDを全巻レンタルビデオ店で借りてきて一気に見た。松本の美しい自然と町を背景に、松本市の松本北高校 (10) 卒業間近の三年生を中心とした男女七人の間で繰り広げられる青春物語で、偶然出会った定時制生徒との恋愛や友情を高校卒業まで綴っていくドラマである。長瀬智也と酒井美紀主演で、一九九六年(平成八)一月から三月、フジテレビ系列で放送された。私の高校時代である。勉強の合間に、自分の青春と重ね合わせながら、夢中になって見たことを覚えている。白線流しとは、岐阜県高山市にある岐阜県立斐太高等学校の卒業式の日、学校前を流れる大八賀川に卒業生たちが学帽の白線とセーラー服のスカーフを一本に結びつけ流す行事である。これを真似て主人公の七人が松本市の中央を流れる女鳥羽川に白線を流し、卒業していくシーンが、最大の見せ場となっている。
しかし今改めて見直してみると、何か物足りない。登場人物たちが、何のために勉強するのか、これからどうやって生きていくのか、それぞれ必死にもがいている姿が描かれているのだが、単なるセンチメンタルに終わり、青春のほとばしる力強さや希望に欠けているのである。最終話で酒井美紀演じるヒロイン七倉園子が漏らす、「卒業するって、こんなに簡単なことだったのか。本当に、これでいいのだろうか」という一言に端的に示されている。しかしこれはあるいは、日本の学校教育の「実態」をリアルに反映しているものとも言えるかもしれない。未来を切り拓く教育、未来を切り拓く本当の学問が、必要なのではあるまいか。私には、そう思われる。
(注)
(1) 現在は東北大学文学部日本思想史学科。
(2) プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波文庫、一九二七年。
(3) 「さよなら、クロ」シネカノン、二〇〇三年、松岡錠司監督、妻夫木聡主演。
(4) 松本深志高等学校第三回卒業生卒業四〇周年記念文集『深山の蜻蛉四〇年』深山会、一九九一年。
(5) 深志時代、古田先生は生徒たちから「古田屋」の愛称で親しまれていた。
(6) 鈴岡潤一編『世界を読み解くために』第六版、長野県松本深志高等学校社会科、二〇〇六年。
(7) 同上、二三一〜二三四頁。
(8) 太田覚眠研究については、拙著『太田覚眠と日露交流ーーロシアに道を求めた仏教者』ミネルヴァ書房、二〇〇六年一二月、参照。
(9) 「白線流し」フジテレビ、一九九六年一月〜三月、木曜二十二時〜二十二時五十四分。
(10)実際のロケは松商学園で行われたが、松本深志高校が松本北高校のモデル校であると言われている。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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