2008年 6月 6日

古田史学会報

86号

1 洛中洛外日記
第174話 2008/05/03
古写本「九州年号」の証言
 古賀達也

2 伊倉いくら 5
天使宮は誰を祀るか
 古川清久

3自我の内面世界か
 俗流政治の世界か
『心』理解を巡って(三)
 山浦純

伊勢王と
筑紫君薩夜麻の接点
 正木 裕

5「白鳳以来、朱雀以前」考
『続日本紀』神亀元年、
聖武詔報の新理解
 古賀達也

「トロイの木馬」メンテナンス
 冨川ケイ子

私の古代史仮説
 水野孝夫

 

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漱石『心』の理解を巡って    山浦純


自我の内面世界か俗流政治の世界か

漱石『心』の理解を巡って(三)

豊中市 山浦純

田遠論文と私の『心』理解との違い
 (再整理)

 以上、田遠氏の作品理解と私の作品理解の相違を述べてきた。両者の違いを今一度新しい視点も交えて整理してみると次のようになろうか。

(1)作品の基本構造の把握について

田遠氏:
(1)漱石は、真のテーマ(明治四十三年〜四十四年に起こった大逆事件と日韓併合問題に対する政治的回答)をこの作品に封印した。
(2)「先生の遺書」は読者を意図的な誤読に誘う「罠」である。
(3)百年後の読者に、真のテーマが開示されることを望んだ漱石は、「百年の孤独」をかこつことになった。
(4)今ようやく、私の「論証」によってその謎─「書かれなかった真実」が解き放たれたのである。
山浦:
(1)漱石が『心』に書いた通りに素直に理解すればいい。「自我の自由と確立」を求めた明治の人・「先生」が、恋に盲しいてエゴを剥き出しにした結果、Kを自死に追いやり、苦悩の果てに「自我を崩壊」させる他なかった人間の淋しさと自罰というテーマを追求しているのである。
(2)読者を意図的な誤読に誘う「罠」はない。漱石が読者を意図的な誤読に誘っているのではなく、氏こそ読者を意図的な誤読に誘っているのである。その為に「先生の遺書」を「罠」として全面的に否定しなければならない立場に追い込まれているだけの話である。
(3)解かれるべき特別な「謎」もない。
(4)漱石は「百年の孤独」をかこつことなく、彼の意図は多くの人々に理解されながら読み継がれてきた。


(2)『荀子・解蔽編』から得られる理解

田遠氏:
(1)漱石が、『心』初版本の装丁に『荀子・解蔽編』の漢文を含めた意味は大きい。「心というものは肉体の君主であり、精妙の主体(神秘的な知能の主体─山浦注)である」という漱石の引用文を検討する必要がある。
(2)さらに続けて以下のような文章が続く。
 「心というものは命令を自分から出すところであり、命令を受けるところではない。心は、他人からの強制によって動くのではなく、自ら禁じ、自ら使い、自ら取り、自ら行き、自ら止まる。」(引用文A)
 「口はおどしつけて黙らせたり言わせたりすることができるし、体はおどしつけて屈ませたり伸びさせたりすることができるが、『心だけは外部から脅しつけてもその意志を変えさせることはできない。』」となる。(引用文B)
 引用文Bを日露戦争から第一次世界大戦にかけての状況(権力側の民衆弾圧─山浦注)の中で読むと、新しい意味となる。先生が「古い不要な言葉(引用文A、B)に新しい意義を盛り得たような心持ちとなった」とあるのは、その意味である。
(3)さらに、『荀子・解蔽編』には、「蔽塞」という言葉が出てくるが、漱石はその言葉のようにこの時代を「蔽塞の時代」と捉えていたのであり、一歩進めれば、「蔽塞する時代を解き放て!」となるのである。

山浦:
(1)漱石が、『心』初版本の装丁に『荀子・解蔽編』の漢文を含めた意味は氏が言われるように検討に値する。
(2)氏の引用文A、Bは先生の心の動きにぴったりと当てはまる。
 先生は、「心」の赴くままにKを出し抜いてお嬢さんと結婚し、Kが自死すると、自分の中に悪人が存在することを自覚し、そのことで苦悩し、「心」の赴くままに「世間を捨て、自我を崩壊させ」、ついには「心」の赴くままに「明治の精神に殉死」するという「自死」の道を選んでいる。誰も先生の生きかたや死に方を強制しているものはいない。先生の心の動きは、江藤淳氏が『漱石と中国思想─『心』『道草』と荀子、老子』で正確に言われているように『荀子・解蔽編』で述べられた「心の定理」をそのまま証明しているようなダイナミズムである。
 また、先生は、自分の財産を横領した叔父だけが悪人だという認識で生きてきた幸福な時代は去って、自らの内部に悪人を見いだしている。まさに、江藤淳氏が述べているように、「荀子の考え方の根本に、自然状態における人間というものは、他の人間存在と調和して生き得ない性質を持っていて、従ってその性、悪と言わざるを得ない、という人間観が潜んでいることは明らかだと思われます。・・・、漱石の『心』という小説は、以上に述べたような荀子の人間観を念頭に置いて読んでいくと、あたかも厳密な方法を用いて荀子の定理の証明を試みている小説だという印象を抱かされます」と。私は、この江藤淳氏の説に全面的に賛意を表するものである。
(3)氏は、『荀子・解蔽編』から「蔽塞の時代」と「時代」というキー概念を導き出しているが、そのような「時代」という概念は氏の主観を出るものではない。集英社発行の『全釈漢文体系8─荀子』には、「解蔽」と「啓蒙」は原義が同じとある。心が覆いとらわれないよう道という一定の標準を立てることが必要であり、その為には心を虚にし、一にし、静にすべきことを説いている、心のダイナミズムを明かす書が『荀子・解蔽編』である。
 しかも、漱石は『心』のための次のような広告を出している。《自己の心を捕らへんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む》と。この広告こそ『心』の創作意図を正確に示すものである。
(4)また、「古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような気持ち」とある「古い不要な言葉」とは『解蔽編』の言葉ではない。氏は、ここでも完全に作品の文脈を踏み外されて、誤読をされている。「先生と遺書(五十六)」のこの言葉の少し前から作品を読めば、誰でも簡単に判るように、「古い不要な言葉」とは「殉死」という言葉を指している。主君の死に殉じて死ぬ行為としての「殉死」は、江戸時代(一六六三年)に禁止されていて、明治時代には「古い不要な言葉」になっていたのである。それを「主君の死に対して」ではなく、「明治の精神に対して」「殉死する」という先生の考えが、「殉死という古い言葉に新しい意義」を「盛り得た」のである。自身の「自死」の意味を模索していた思想家としての先生の新しい発見だったのである。
(5)『荀子・解蔽編』を持ち出すまでもなく、「自我の自由と確立」及び「自我の崩壊」というモチーフは、明治という時代の文脈の中で読み解けば、一層、リアリティを獲得することができる。『荀子・解蔽編』に関係なく、『心』もまた、時代精神の子なのである。

まとめ

 以上を要約して締めくくりとしよう。
(1)漱石と同時代の作家の資料状況から、氏が分析された前提そのものが「なかった」。
(2)再整理の(1)で提示している「作品の基本構想の理解」で氏が示した理解は、リアリティを著しく欠如させたものである。
 氏の分析が革新的であるためには、氏の理解が、今までの作品理解より一層、リアリティを持って迫ってくるものでなけらばならないが、それはないのではなかろうか。
(3)また、「漱石『心』の理解を巡って(その一)」で提示している「作品の基本構想の理解」では、氏の説明が極めて複雑なのに比べ、私の説明は極めて簡明である。
 世にいわゆる「コペルニクス的転回」という言葉がある。アリストテレスをはじめ、多くの学者は天動説の観点から、「球の中の球、球に接する球など、五十五もの天球がそれぞれ神秘な力に導かれ、独自な回転をする複雑極まりないモデルを考えた。それに対して、コペルニクスは、太陽を中心にした星の運行モデルの方が星の行動を簡明に説明でき、かつ「美しい」と述べた。その後、望遠鏡の発達により、多くの星の観察結果が得られるようになり、ついには「それでも地球は動いている」という呟きになり、転回が現実のものとなった。それは、複雑から簡単へ、美しくないものから美しいものへ、という道順である。
 『心』に則して言えば、コペルニクス的転回とは、氏の複雑な説明モデルから私(やその他大勢)の単純な説明モデルへ、リアリティのない説明からリアリティのある説明へ、の道順である。
(4)氏の論理構造は、次のようなダブルスタンダードだと判断される。「今までの理解は、漱石が誤読に誘ったものである。その理解が如何にリアリティがあっても問題ではない。作品に封印されたもう一つの『書かれなかった真実』の追求は、リアイリティの問題ではなく、象徴的な暗号解読の問題なのである。リアリティの有無を言われても私の『論証』とは無縁である。」しかし、象徴的な暗号解読、記号論理学の問題に視野を限定しても、氏の方法は基本的に誤読と駄洒落に基づく論理であり、限定的な視野の中でも破綻している。
 最後に再び私はこう言わなければならない。やはり、漱石の「百年の孤独」は「なく」、氏の「百年の誤読」があるだけである。『書かれなかった真実』は『なかった』のである。と。(終わり)

 参考文献
○吉田精一編『日本文学鑑賞辞典』(東京堂出版)
○全釈漢文大系刊行会編『荀子(上)・(下)』(集英社)
○碓田のぼる著『石川啄木と『大逆事件』』(新日本出版社)
○平野謙著『石川啄木と大逆事件』(筑摩書房『啄木全集』より)
○窪川鶴次郎著『啄木の短歌|近代主義と社会主義』(『文芸臨時増刊・石川啄木』)
○江藤淳著『漱石と中国思想 ーー『心』『道草』と荀子、老子』


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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