「オオスミ」の国 水野孝夫(会報82号)
私の古代史仮説 水野孝夫(会報86号)../kaihou86/kai06707.html
私の古代史仮説
奈良市 水野孝夫
江戸時代から、いわゆる「邪馬台国論争」があり、三世紀ころ日本列島にあった邪馬台国の所在地には近畿説と九州説があって、現在も決着していないとされていることは新聞紙などでよくお目にかかるところ。古田武彦氏は史料に忠実なら、その国名は「邪馬台国」ではなくて「邪馬壹国」であり、その所在地は「九州にあり」、その後継者に「九州王朝」の名を提唱され、会員各位の多くはその論理に従っておられるものと思う。また世の中には古田説とは無関係に「九州説」のひともある。一方、八世紀以降は中国にも承認された「日本国」の歴史には謎は少なく、十六世紀・戦国時代以前の権力の中枢は近畿地区にあったと思われる。そうすると、古田氏を含む「九州説」の方々には、権力中枢の九州から近畿への移動が、いつ、どのようにして、行われたかを説明して欲しい、これがわたしのような歴史学の素人の希望ということになる。
すでにいろいろな権力中枢の「東遷」説が発表されており、古田説の影響を受けたことに触れつつ、古田氏より先行して、この権力移行事情を説明する著書や論文を書かれた方も少なくない。古田武彦氏ご自身も最近は著書『壬申大乱』以後、この時期の研究を進められており、同好の会誌や講演などでも部分的には触れられている。
わたしも例会での会員がたの研究や、上述の著書、講演などに刺激されて、研究会などで触れたりしているが、口で述べただけでは証拠にならないので、こんなことを考えた奴も居たということを記録に残す意味で、この文章を書かせていただくことにしたい。もちろんこまかく論証するなどは後日の問題。いまは小説の世界だと考えていただければよい。
さきに結論を述べてしまうと、九州王朝の後継者が七世紀末に近畿を中心とする勢力を征服・統合し、九州はもちろん、東北地方などを除く中部から西日本を統一して日本国とした、という、「九州王朝大和へ横すべり」説である。その時期は九州年号が「大化」になる直前(六九四年ころ)で、都を九州・久留米から『書紀』の描く新益京(いわゆる藤原京)へ移した、と考える。この統一事業の成功こそが年号「大化」の意味である。以下簡単に説明する。
「九州王朝」があり、近畿にも有力な勢力があったとして、結果的に最後にこの両勢力がひとつに統一された場合、考えられるのは、どちらかがもう一方を滅ぼすか、吸収するかしたということである。そしてその方法としては、武力による征服か、平和的な禅譲が考えられる。わたしは武力による征服だったと考える。「乙巳の変」とされ「虫の如く入鹿を殺す」ことになったクーデターがそれであるが、『書紀』では五十年ほど時間軸を繰上げて描かれている。
『旧唐書』には「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。」の記事がある。中国・周(武則天女帝)の長安三年(日本の大宝三年・西暦七〇三)、日本国の遣唐使(大使・粟田真人)は周都に到着し、結果として「日本国」は「中国」に承認された。遣唐使たちは唐朝へ行くつもりだったが、到着してみると、相手の国号は「周」だときいてビックリした筈だが、先方も「日本国」という初耳の国号にビックリしたと思う。「倭国」とはどう違うのか?、先方は聞いたに違いない。こんなとき、大使の公式説明は一種類のはずだが、先方は疑っているのだから、使節団員たちに非公式に聞いてまわったように思う。このときの伝聞が『旧唐書』の「或曰・・、或曰・・」の記事になっているのではなかろうか。きっとモメたと思うのだが、とにかく武皇帝の政治的決断で「日本国」は承認された。
よく知られているように『古事記』本文には推古天皇までしか記事がない。舒明〜持統間の記事は『書紀』は書き放題で、古事記によって検証できない。その舒明天皇の歌とされるのが『万葉集』の第二番歌、「山常には群山あれど〜」の「天香具山」の歌である。この「天香具山」は古田武彦氏によって別府・鶴見岳の歌と論証され、わたしも鶴見岳を「天香具山」とする別府市に伝わる文献の存在を見出した。『万葉集』の最初の方、少なくとも巻一の大部分は「九州での歌」ではないか?もわたしは仮説としている。そうすると舒明〜持統間の全天皇は九州王朝の王者ではないか?も仮説に加わる。近畿地区に居た王者は「蘇我氏」として書紀に描かれている。それでこそ「蝦夷・馬子・入鹿」などと動物にかこつけた蔑称らしい名が使われているように思われる。
わたしが、このように考えるようになったのは、「淡海」という用語の研究からである。伊勢神宮に伝わる文献『倭姫命世記(紀が正しいのかも)』によれば、「淡海」は「塩味の淡い海」であって「淡水湖」ではなく、従って淡海は「近江=琵琶湖」ではない。そこは熊本県球磨川河口=八代、拡張して「八代海(不知火海)」で、伊勢神宮も近くにあった。(1)
しかし現・伊勢神宮は三重県にあり、『続日本紀』の記事は「淡海=近江」と理解させるようになっている。九州の地図を紀伊半島から近畿地区に重ねるような工作(地名などの移動)が行われている、と考えるものである。
注(1)水野「阿漕的仮説ーさまよえる倭姫ー」会報六十九号および会誌『古代に真実を求めて』第九集。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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