伊倉いくら 5
天使宮は誰を祀るか
武雄市 古川清久
伊倉 二十一
“太宰府二日市温泉と安楽寺”
この間、伊倉として天子宮について書いてきましたが、今回は一休みして軽い話をしましょう。私は将棋連盟の某支部の末席を汚していますので、九州、山口で行なわれる将棋のタイトル戦の大盤解説会にはほとんど出かけています。
当然ながら夏は王位戦になりますが、今年の王位戦第四局は福岡県筑紫野市の二日市温泉「大丸別荘」で行なわれました。結果は角替り腰掛銀の先手番を持った深浦康市八段が羽生王位に勝ち、王位奪取まであと一勝としました。
最高一日九湯、自宅の風呂で一湯、年間二百湯という温泉好きの私のことですから、ここの名湯を無視できるはずもありません。当然ながら解説会の合間を利用して源泉掛け流しの名泉「次田の湯」に二度、三度と入った訳です。
将棋の観戦記でも温泉のガイド・ブックでもありませんので、浴場に向かう途中、立会の田丸八段とすれ違ったこととか、この浴場の造りの素晴らしさや泉質の良さを書く事は致しませんが、風呂場の入口に掲げられていたこの湯の由来に『梁塵秘抄』を引用したものがあり妙に面白かったので紹介することにしました。
この温泉が歴史として登場するのは奈良時代まで遡ります。ただし二日市温泉という呼称は昭和二十五年からのものであり、古くは武蔵温泉、薬師温泉などと呼ばれ、奈良、平安期には次田温泉(スイタの湯)と呼ばれていたのです。
カメラを持っていった訳では有りませんので、不正確かも知れませんが、『梁塵秘抄』を引用して書かれた次田の湯への入湯の優先順位について再現します。
“次田の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺四には四王寺五侍六せんふ七九八丈九[イ兼]丈十には国府の武蔵寺”
[イ兼]JIS第3水準ユニコード5094
一は太宰府の高官、二は丁つまり観世音寺の僧侶、三に安楽寺(太宰府天満宮)の僧侶、四に四王寺、五、六に太宰府の武士、料理人・・・七、八は意味不明、九に太宰帥警護の武士、十に武蔵寺の僧侶ということになるようです。恐らく平安末期のざれ歌の類と思いますので、この順位が七世紀末から八世紀まで遡れるかどうかまでは分かりません。
一方、太宰帥であった大伴旅人の書いた歌(『万葉集』の詞書)に次田の湯の事が出ていますので、彼が二日市温泉を知らなかったはずはありません。
りょうじんひしょう【梁塵秘抄】
平安後期の今様(いまよう)歌謡集。撰者は後白河法皇。成立年代不詳。歌謡集・口伝集各10巻があったとされるが,・・・(中略)・・・平安末期の庶民感覚が生き生きと表現されており,文学史・音楽史のみならず風俗・思想史上にも重要な資料である。(マイペディア)
さて、私たち九州王朝を考える者にとっても、太宰府に最も近い二日市温泉には多少は関心を向けても良いのではないでしょうか。
安楽寺は太宰府天満宮以前、神仏混交期の名称ですので、単純に九州王朝と関係付けて考えてしまいますが、やはり重要なのは観世音寺であり、その事が『梁塵秘抄』においても確認できるように思います。
大伴旅人は太宰帥であった時期(七二八〜七三〇)があることはもとより、七二〇年には征隼人持節大将軍として薩摩、大隈に征討に向かっていますので、その前後、この「次田の湯」に入ったことは、まず間違いがないでしょう。
律令時代に入ると、一帯は御笠郡とされ、大野、次田、御笠、長丘の四郷となります。
白村江の戦、敗戦後の唐軍による占領、九州王朝の消滅・・・という激動期にも二日市温泉には豊な湯が沸いていたのです。
根拠はありませんが、二日市温泉はその開湯を四世紀から五、六世紀ぐらいまで遡ることができるかも知れませんので、倭の五王も柿本人麻呂も、そして、もしかしたら卑弥呼もこの湯に入ったのかも知れないのです。
伊倉 二十二
“佐賀県鹿島市七浦の天子神社”
長崎本線を佐賀から長崎に向けて下ると、有明海沿いに肥前鹿島、肥前浜、肥前七浦、肥前飯田、肥前多良(太良町)・・・と、肥前を頭に付けた駅が連続しますが、この肥前七浦駅の奥に音成(オトナリ、オトナシ)という奇妙な名の集落があります。今回はこの音成の天子神社の話です。
まず、佐賀県の有明海側では鹿島市一帯まで来ると浦地名が目立ち始めます。それ以前の港、例えば、旧有明町(現白石町)の廻里津や川津(白石町)などは、干拓が進んだために内陸に埋もれています。いずれにせよ、浦地名は鹿島市と旧塩田町、旧有明町(現白石町)との境界の深浦、浅浦辺りから始まるのです(西浦、谷浦、提ノ浦など武雄市周辺にも多くの浦地名も内陸部に埋まっていますが)。
鹿島市を海沿いに南下すれば、南舟津から母ケ浦(ほうがうら)、七浦、嘉瀬ノ浦、竜宿浦(やのうら)、飯田浦、江福、伊福(太良町)と多くの浦地形と浦地名が認められますが、その全てが戦国期辺りからの篭(こもり)干拓を経て、長崎本線の建設(昭和十年前後)に伴う小干拓(長崎本線の鉄道路を事実上の干拓堤防としたその内側の耕地化)によって、指先を広げた指先のような地形が消え、河童の水掻きのような地形になっているのです。難しく表現すれば、
多良岳裾野の放射状谷は浸食谷であるが、「佐賀県地質図」によると、殆んど沖積層の記号で描いてあるが、それは、雨水や河川の浸食作用による浸食谷か形成された後、地質年代でいう沖積層(一万年前〜至現在)に土・砂礫の埋積が行なわれたからである。
『ふるさと七浦誌』七浦学校同窓会発行
と、なります。
この天子神社がある音成地区もそうした一つになりそうです。今は周りが水田に変わっていますが、かつては入江に突き出した岬であり、その先端に天子宮があったはずです。現在でもその一の鳥居があるように、恐らく、古代においては船で先端に着けていたのでしょう。それを物語るかのように岬の裾には今でも海食崖の痕跡があります。
とりあえず、郷土史などの資料を見てみましょう。
祭神 瓊々杵尊
合祀 大山祇神 武甕槌神 経津主神 菅原道真
天平年間(七二九〜七四八)に日向の国高千穂の大神を分祀したと伝えられ、昔は日出岡神社と称し相当な大社で、七浦中(西葉浦、母ケ浦、塩屋浦、宮道浦、音成浦、嘉瀬浦、龍宿浦の七浦)の鎮守社であった。祭日には郷中の者がその前日から参詣して奉仕した。・・・
鹿島市誌資料編第六集『鹿島の神社と寺院』
村社 天子神社
祭神
大山祗命
瓊々杵尊 武甕槌命 菅原道真
經津主命
『佐賀縣県神社誌要』洋学堂(大正十五年印刷を平成七年に復刻したもの)
三の鳥居には「昭和十二年奉献皇紀二千六百年」と、ありましたが、前述したように、この一、二年前に長崎本線が開通していますので、鉄路の建設が事実上の干拓堤防の建設に当りますからそれに併せたもののようにも思います。
ここには三本の鳥居がありますが、船着場だったと思われる一の鳥居(一の鳥居とは社殿の一番外側の鳥居です)から石段を登ると岬の突端に社殿があります。二の鳥居は山王神社とされていますが、一、三の鳥居には「天子神社」と書かれています。
一方、この天子神社は浮流(フリュウ、フウリュウ)と呼ばれる舞が廻れることでも有名なところです。万葉集(16)「ここに前さきの采女うねめあり、| 浮流の娘子おとめなり」・・・(広辞苑)
この浮流と九州王朝の関係については古賀達也氏も言及されていますが、これも宮廷舞の可能性が十分にありそうですね。
伊倉 二十三
“岡山の武苔むとう神社は天子宮か?”
インターネット検索という便利なものが登場し、知識や情報というものが広範に共有されてしまった結果、もはや、それを唯一独占してきた大学の支配的学派や学閥というものが、第一義的には権威も意味も失ってしまいました。学問や科学としては、その爆発的に膨大する情報を加工できる創造性、独創性こそが問われる時代になったように思います。このような時代にこそ、古田史学は実に切れる鋭利なメスと言えるのであり、また、そのようにあらねばならないと考えています。
それはさておき、東北の天子はひとまず置くものの、ネットに掛かってきた愛知県刈谷市小山町の天子(あまこ)神社と岡山県小田郡矢掛町小田の武荅(むとう)神社=通称名 武荅天子宮(むとうてんしぐう)は気になります。
武苔天子宮については、「祭神はスサノウを祀り、従来は武荅天子宮と呼んでいたが、明治六年武荅神社と改称した。」と、されているようですので、この方面の古田史学の会会員で調査して頂ける方、また、当方のホーム・ページ(旧「有明海・諫早湾干拓リポート」現「アンビエンテ」)の読者で情報をお持ちの方は、当方までご連絡下さい。ここでは、愛知県と岡山県に天子宮の可能性のあるものが在るということだけに留めておきます。いずれ、岡山までは現地踏査に行くつもりです。
直接で面食らわれたようですが、兵庫県在住の永井正範氏に同社の調査をお願いしています。
署名論文を頂けるかも知れません。
伊倉 二十四
“愛知の天子あまこ神社は天子宮か?”
愛知県刈谷市に天子(あまこ)神社があります。さすがに遠方のために単独での調査はなかなかできません。そこで、古田史学の会の事務局に相談したところ、古田史学の会(東海)に協力を要請して頂いたようです。二日後にはメールによる初期的調査報告を頂きました。さすがは全国組織と感心したものです。
まず、その概略をご紹介しましょう。刈谷市の天子神社は「あまこ」と呼ばれています。以下は東海の会の林俊彦氏から事務局長の古賀達也氏へのメールです。
とりあえず現地に行ってみました。神主さんや地元の人には会えませんでした。「由緒書」は以下のとおりです。
鎮座地=刈谷市小山町六丁目七拾壱番地
神社名=天子神社(あまこじんじゃ)
祭神=少彦名命(すくなひこなのみこと)大国主命と兄弟相和して国土経営にあたられ、才知・健康・産業を守られる神で 特に医療・温泉・醸造・農業方面の信仰を司る。
由緒=後奈良天皇天文二十一年八月十五日(昭和五十六年より四百三十年前)に伊勢国住人小山太郎・加藤藤麿等と共に来住し先ず正殿を創立、爾来当地の氏神として奉齋し天子大明神と崇める。是れ小山村の総鎮守にして 初め小山は小池村と称したが神徳日に盛んにして小山太郎の子孫二宮氏繁栄し 小池を改め小山と称した。国内神明帳所載の小山天神は当社である 明治維新の際天子をテンシと音読し 誤って八幡宮と改められ後再び訂正された 明治五年村社に列せられ 同四十年神祇幣帛料供進神社に指定せられ 昭和二十一年制度改訂により神社本庁に所属。
境内末社=稲荷社・山神社
祭祀=九月末日曜日 例大祭 十二月九日新嘗祭、一月一日新年祭、三月九日祈念祭、毎月九日月次祭
境内面積=八百四十六坪
氏子戸数=二、二二三戸(明治六年二五一戸)
その他=当社の境内は愛知県指定の文化財にして刈谷西部の縄文遺跡である。また社前の椋は鎮座記念の伝えある刈谷市文化財である。 以上
神社の創立はたてまえとしては天文二一年(一五五二)で戦国時代末期でしかありませんが、境内内外は縄文時代後期の代表的遺跡が広がっており興味深いところです。
九月九日が東海の会の例会ですので、呼びかけてみます。私自身も関心を持ちましたので、もっと調べてみます。
古田史学の会・東海 林 俊彦
いずれ、東海の会から調査結果が送られてくることでしょう。果報は寝て待てですね。
伊倉 二十五
“福岡県筑後市水田天満宮の天子神社”
福岡県筑後市といえば、九州王朝論の展開により新たに想定されている久留米市南部、三潴の皇都(筑後遷都説)/“大王は神にし座せば水鳥のすだく水沼を皇都となしつ”(『万葉集』)に接続する隣市ですが、太宰府天満宮に並ぶと称せられる水田天満宮があることで九州王朝論者の間ではかなり知られているところです。
もちろん、水田という地名のとおり、この地は広く平らな農地が広がる穀倉地帯です。そして、その中心にこの神社があるのです。ここは太宰府天満宮の荘園があったところですが、同社の由緒書きにもそのように書かれています。
御祭神 菅原道真公 由緒沿革
鎌倉時代の嘉禄二年(一二二六年)に菅原長者大蔵卿為長朝臣が後堀川天皇の勅命により建立し、明治維新までは後堀川天皇勅願所の提灯が御本殿の左右に灯されました。・・・中略・・・水田天満宮は、大宰府天満宮と御縁深く、菅原道真公の御霊魂を祀り、太宰府天満宮の重要な荘園「水田の荘」の守護神でありました。・・・中略・・・水田天満宮は太宰府天満宮に次ぐ九州二大天満宮として人々の信仰は極めて篤く、その伝統を守り続けています。
境内末社
恋木神社、靖国神社、日吉神社、玉垂命神社、稲荷神社、今宮社、今尾社、若宮社、藤太夫社、菅公御子社、坂本社、天子社、八十御霊社、広門社、荒人社、八幡神社、素盞鳴神社、月読神社、屋須田神社、下宮御旅所
(恋木神社以下の傍点は古川が付したものです。この五社は改めて九州王朝との関係を思わせますね。)
インターネット上には“、”がなく坂本社天子社と出ていました。付近には坂本地名がないため何の事だか全く理解できずに現地を確認しに行ったのですが、やはり坂本社と天子社は別のものでした。宮司のお話によると「坂本社は静岡県から持ち込まれた大山祇神社である」とのことでした。また、予想していたとおりですが「天子社については一切分からない」ようです。この分からないということも一つの情報なのです。
また、由緒沿革では天子社とありますが、社殿裏の祠には天子神社、祭神天子神とあります。そろそろ、天子宮、天子社、天子神社の呼称の差も何か法則性があるのではないかと意識し始めているところです。
ここでは、今まで筑前と筑後では確認できないと考えていた天子宮が存在していたことを報告しておきます(二〇〇七年八月二六日午前)。
仮に天子宮が九州王朝の天子を祀るものとして、その中心地である筑前、筑後の領域に存在しないことこそが逆の証明とも言えそうです。ではその存在を消し去ったのは白村江の敗戦後の唐占領軍なのか、その後の大和朝廷なのか、一切手がかりがないため、未だに何も分かりません。しかし、何事についても完全に消し去る事は不可能なのであり、やはり、何らかの形で継承されてきたのであることが想像できるのです。
私には筑後川北岸の北野天満宮も重要に思えるだけに、「九州二大天満宮」との表現はそれだけで九州王朝の二都制(太宰府、久留米)と絡み極めてリアルに思えるのですがどうでしょうか。なお、九州王朝の二都制、筑後遷都については古田史学の会のホーム・ページ「新古代学の扉」をご覧下さい。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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