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明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点 正木裕(会報84号)
常色の宗教改革 正木裕(会報85号)
薩夜麻の「冤罪」 III
川西市 正木裕
薩夜麻の「冤罪」IIでは、海外国記の分析をもとに、筑紫君薩夜麻が「牒」を郭務宗*に託し、倭国に届けたが、倭国側は「門前払い」した、と述べた。本稿では「薩夜麻の帰還」についてその時期・背景・唐との交渉経緯等を探っていきたい。
疑わしい天智一〇年筑紫君薩夜麻帰還
薩夜麻の帰還については、書紀では次の通り天智一〇(六七一年)年一一月とされている。
■(書紀天智一〇年)十一月甲午朔癸卯(一〇日)、対馬国司、使を筑紫大宰府に遣して言さく、「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首(ぬのしのおびと)磐、四人、唐より来りて曰さく、唐国の使人郭務宗*等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、総合二千人、船四十七隻に乗りて、倶に比知島に泊りて、相謂りて曰く、『今吾輩が人船数衆(かずおお)し。忽然に彼に到れば、恐るらくは彼の防人、驚き駭(とよ)みて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預め稍くに来朝の意を披陳さしむ』とまうす」とまうす。
しかし、この記事は次の点で不審だ。
(1) 郭務宗*ら唐使の天智一〇年来朝は書紀では六回目。(三年五月・四年九月・六年一一月・八年是歳・一〇年正月・一〇年一一月)対馬も何回も経由している。にもかかわらず大部隊だからといって警告を発するのは不自然。白村江後間もない頃とすれば合理的に理解できる。
(2) 一〇年正月辛亥(一三日)に、百済の鎮将劉仁願の李守真等派遣記事があるが、劉仁願は三年前天智七年(六六八年)八月に雲南へ配流されており、この記事は三年以上前に遡上る。
■(書紀天智一〇年)春正月(略)辛亥(一三日)百済の鎮将劉仁願、李守真等を遣して、表上る。(古田武彦氏も「古田武彦と百問百答」の「古田持論」の中でこの事を指摘されている。)
(3) 冊府元龜の咸亨元(六七〇)年(天智九年・九州年号白鳳一〇年)三月記事に、「倭國王遣使賀平高麗」と、倭国王の朝貢記事がある(日本書紀には記録がない)。
(4) またこの年画期的な「庚午年籍」が全国で作成されており、「天子不在」では不可能。従って薩夜麻が倭国王なら、この時点で帰国していたはず。
等の理由により「天智一〇年薩夜麻帰還」は疑わしいのだ。
天智六年と一〇年、二つの遣使記事
ところで、先に掲げた六回の遣使中、注目すべき記事がある。それは天智六年一一月劉仁願が、境部連石積等を筑紫に送った記事だ。
■(書紀天智六年)十一月丁巳朔乙丑(九日)、百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。己巳(一三日)、司馬法聰等罷り帰る。小山下伊吉連博徳・大乙下笠臣諸石を以て、送る使とす。
この記事は劉仁願配流記事で触れた一〇年の四年前で、(2) の条件に合致する。更に月も同じ一一月なのだ。この記事を詳しく一〇年記事と比較してみよう。
(1) 一〇年記事は「対馬到着以前」の記述。二〇〇〇人もの唐の来朝にもかかわらず、その後の経過は何も触れられていない。一方、六年記事は大幅に省略されているが「筑紫都督府に送る」以降の経過で、相互に補完。
(2) 対馬国司が使いを大宰府に派遣した「癸卯」は天智六年では一一月に無く、一〇月一六日が癸卯。司馬法聡らは六年一一月乙丑九日に大宰府着であり、いずれも六年の事とすれば、日の干支から見た対馬・大宰府間の行程とも符合。
(3) 六年帰国の大山下境部連石積は天智四年、劉徳高の遣使時に、守君大石と共に唐に渡り、これは封禅の儀に参画するためといわれている。冊府元亀によれば封禅の儀には「倭国酋長」が高宗に従駕していた。そして「倭国酋長」とは筑紫君薩夜麻以外に考えられない。薩夜麻は石積らと共に帰還したとするのが自然。
(4) 六年記事では「百済の鎮将劉仁願」とか、「熊津都督」とか百済が強調されているが、記事に登場する石積は唐にいた。また、一〇年記事では「唐より来曰」とか、「唐国の使人」と唐が強調されているが、報告は対馬国司だから、当然百済経由の来日。百済・唐と使い分けられ、一見別の記事であるかのように見えるが、両記事の実態は同じ。
(5) 六年「筑紫都督府」一〇年「筑紫大宰府」と呼称こそ違え、目的地は同じ大宰府。
(6) 両記事に分かれて登場する劉仁願と郭務宗*は、次の通り上司と部下の「ワンセット」。
■(書紀天智三年)夏五月戊申朔甲子(一七日)、百済の鎮将劉仁願、朝散大夫郭務宗*等を遣して、表函と献物を進る。
薩夜麻帰還は天智六年一一月
以上により、「書紀天智一〇年一一月癸卯(一〇日)対馬国司報告以下の薩夜麻帰還記事は、天智六年の劉仁願の遣使記事から切り取られたもので真の帰還は天智六年一一月」だと考えられる。書紀編者は六年記事を一〇年に「切り取る」に際し、登場人物も「唐」「百済」等に切り分け、別記事であるかのように装ったのだ。
唐は天智五年から七年にかけて高句麗討伐の大軍を派兵していた。その最中二千人もの大軍が突如対馬に現われたとしたら、対馬の防人は一〇年記事が記すように「驚き駭(とよ)みて射戦はむ」となったことだろう。
先に、「大部隊だからといって警告を発するのは不自然。これは白村江後間もない頃のこと」としたが、もっとピントを絞ると、唐の高句麗討伐戦の最中の天智五年から七年の間こそ、警告を発するにふさわしいのだ。この警告譚もこの記事が天智六年だということを支持している。
それでは何故六年記事を切り取り一〇年に貼り付けたのだろうか。答えは明白。書紀持統四年に記す「天命開別天皇(天智)三年」の博麻の身売り美談と薩夜麻帰還を関連させ、彼を貶めるためだ。実際は天智「称制」三年の封禅の儀に関する「唐人の計」と博麻の美談を、「即位」三年すなわち「称制九年」のように思わせ、これに合わせ薩夜麻の帰還記事を「称制一〇年」に貼り付けたのだ。
薩夜麻帰国の背景
天智四年の守君大石等の派遣と薩夜麻の封禅の儀参加は、倭国の降伏と唐への服従の証しであり、もはや薩夜麻を唐に留め置く必要は消滅した。一方、天智六年(六六七年)高句麗に内訌がおこり、国政を摂ていた大兄男生入唐し、「其の国(高句麗)を滅ぼさむことを謀(書紀・同年一〇月条)」った。これにより唐は攻勢を一層強め、天智七年一〇月唐将軍英公によって高句麗は滅ぼされた。このような時代背景を見れば、天智六年薩夜麻を倭国王として帰国させ、対高句麗戦に協力させることに、唐として大きなメリットがあることとなった。
斉明七年末から天智元年にかけて唐・新羅の連合軍は、岩波補注(二六-九)が「六六二年(天智元年)春、高句麗征伐をあきらめた唐は兵を引きあげ、新羅軍の主力もまた帰国した」と記すように、高句麗攻略に失敗した。この敗北の大きな要因が、倭国の高句麗支援だった事は想像に難くない。岩波解説も「日本が高句麗にも旧援軍を分遣しようとしたことは(略)確かであろう」とするが、書紀斉明七年に、
■是歳(略)又日本の、高麗を救ふ将軍等、百済の加巴利浜に泊りて、火を燃く。
とあり、救援軍は確かに派遣されていたのだ。
唐はこの轍を踏む事を避けたのだ。また高句麗戦中、南方から倭国に参戦されれば百済の地にある唐軍は南北から挟撃される。これも避けねばならなかった。薩夜麻の帰還は唐の最大の懸案、対高句麗戦勝利のためにも不可欠な措置だったと考えられる。
なお古田氏は、先の「百問百答」中「古田持論」として、劉仁願が七年八月に雲南へ配流された事などから、筑紫君薩夜麻帰還は七年であろうという説を述べている。これも十分説得力のある論だ。ただ、本稿では (1)天智六年記事の分析 (2)天智七年の一一月付近に該当する遣使記事がない事 (3)警告は高句麗遠征最中にふさわしい事 (4)天智即位記事の分析(補論参照)等から六年の事とした。
總*の異体字。糸編の代わりに手編。JIS第三水準ユニコード6460
「天子の牒」は「薩夜麻の降伏・講和文書」
次は薩夜麻帰国に関する唐との交渉経緯を、海外国記に記す郭務宗*等への対応から探ってみよう。海外国記によれば、倭国側は天智三年の郭務宗*等唐の使者を「天子の使者、牒」でないので、京にも入れず、朝にも上げなかったとする。早い話が「門前払い」だ。これは戦勝国唐の使人への対応としては極めて不審だ。
この点は前稿で、海外国記に示された「牒」の扱いから「郭務宗*の齎した牒は、唐の天子の牒ではなく、唐の捕虜となった倭国の天子(筑紫君薩夜麻)の牒だった」と推論した。以下推測を重ねるようだが、その牒の内容を検討してみよう。
天智四年の劉徳高遣使後、倭国王は「封禅の儀」に臣従していた。そしてそれ以降書紀において (1)高句麗との関係を含む半島での記録消滅 (2)唐の二千余人の筑紫進駐 (3)郭務宗*への武器・衣料「下賜」など唐への服従が示されていく。薩夜麻の「牒」は、こうした唐への服従を自国に指示する文書(勅)でなかったのか。そして、郭務宗*はこれを筑紫に届けた事となる。
旧唐書、劉仁軌伝に
■仁軌、倭兵と白江の口に遇ひ、四戦捷つ。其の舟四百艘を焚き、煙焔*天に漲り、海水皆赤し。賊衆大潰し、(略)偽王子、扶余忠勝・忠志等、士女及び倭衆と耽羅国使を率いて、一時に竝び降る。
とあるとおり、倭国は白村江戦で壊滅的打撃を受けた。薩夜麻が捕虜となっていたなら、彼は降伏(あるいは屈辱的講和等)をせざるを得なかったであろう。彼は本国にこのことを「勅」したのだ。
焔*は、焔の異体字。表示不可。JIS第3水準ユニコード71C4
なぜ郭務宗*を「門前払い」したのか
唐に服従するか否かは、国の命運に係わる重大な選択。唐の使者に薩夜麻の「勅命(指示)」だといわれても彼は唐・百済の地に抑留されている。その真意も確認できず、議論も意見具申も不可能な状況下でそのような意思決定はきわめて困難だ。
五月に受けた書面への返事を九月に郭務宗*に伝えており、さらに郭務宗*は一二月まで留まっている。事態の処理に半年以上かけているのが、如何に倭国が対応に困惑したかの証拠だろう。そのあげく倭国が下した結論が「門前払い」だ。
「来る牒を披覧し、尋(引き続いて)その意趣を省(せいす・細かに分析して調べてみる・広辞苑)ると、それは(倭国の)天子の使者や書ではなく、ただの總*管の使い、乃ち執事の牒だ、正式に取り上げられない」と、苦しい言いがかりをつけて門前払いにした。いや、当時の力関係からすれば「お引取り頂いた」とすべきだろう。
總*の異体字。糸編の代わりに手編。JIS第三水準ユニコード6460
天智四年劉徳高派遣の目的
しかし唐としては、薩夜麻の唐への服従(講和)の意思を明確に伝え、倭国を事実上の支配下に置くことは、来るべき対高句麗戦(天智五年唐は対高句麗戦開戦)勝利のために不可欠の措置であった。従って天智四年劉徳高・郭務宗*を再度筑紫に派遣したのだ。
■(書紀天智四年)九月庚午朔壬辰(二三日)、唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。等とは右戎衛郎将上柱国百済祢軍・朝散大夫柱国郭務宗*を謂ふ。。凡て二百五十四人。七月廿八日、対馬に至る。九月廿日、筑紫に至る。廿二日、表函を進る。
冬十月己亥朔己酉(一一日)大きに菟道に閲す。
十一月己巳朔辛巳(一三日)劉徳高等に饗へ賜ふ。
十二月戊戌朔辛亥(一四日)物を劉徳高等に賜ふ。
是月、劉徳高等罷り帰りぬ。
是歳、小錦守君大石等大を大唐に遣すと、云々。等といふは、小山坂合部連石積・大乙吉士岐弥・吉士針間を謂ふ。蓋し唐の使人を送るか。
この時には、薩夜麻の冤罪Iで述べたように、氷連老や趙元宝などを同行させた。彼等から薩夜麻の意志を倭国に伝え、唐への服従を受け入れさせようとしたのだろう。
前年には「門前払い」した倭国側も、唐に抑留されていた者達の証言により、唐の圧倒的な優位という東アジアの政治状況や薩夜麻の意思や状況など、事態が明白になるにつれ、唐への降伏と服従を決断せざるを得なくなったものと思われる。また、「封禅の儀」も迫る「タイムリミット」寸前、急遽小錦守君大石ら高官を派遣したのだ。
隠された目的・場所・日時
劉徳高等の行程は分注に(1)対馬七月二八日。(2)筑紫着九月二〇日。(3)表函進上九月二二日とある。一方、本文の劉徳高、郭務宗*遣使は翌二三日。岩波解説は「本文では壬辰(二三日)に使者を遣わすとあり、この日付と矛盾がある」とするが、これは、前回門前払いを受けた経験から、表函は氷連老等に先に提出させ、筑紫君薩夜麻の書、彼の意思であることを証言させた証しだろう。
なお、(1)表函を進上した先は書かれていないが、日付から当然「筑紫」。一連の記事は筑紫での出来事。(2)「誰が進ったか」も記載されていない。(3)守君大石らの唐への派遣日時と目的も「是歳」「蓋し唐の使人を送るか」とぼやかされている。
天智三年郭務宗*派遣記事における海外国記と書紀の関係から見て、書紀天智四年の劉徳高派遣記事の背後にも、相当詳細な記事があったと思われる。しかし、今挙げた様に、書紀編者は薩夜麻と九州王朝に関する外交記事部分をカットした形跡が読み取れるのだ。
薩夜麻の冤罪まとめ
今まで見てきた薩夜麻関連記事からは、書紀編者の姑息な編纂手法が浮かび上がってくる。
(1) 天智称制三年の唐人の計を、即位三年(称制九年)のように思わせる(薩夜麻の冤罪I)
(2) 天智六年の薩夜麻の帰還を一〇年にすり替え(薩夜麻の冤罪III)二つの事件を重ね合わせた。
(3) 持統四年博麻身売りの「美談」の中に「薩夜麻」の名を挿入し、「卑怯・卑劣な薩夜麻」というストーリーを組み立てた。
(4) 海外国記ほか各種資料から、薩夜麻に関すると思われる唐の使人との交渉や封禅の儀参加等の外交記事一切をカットし(薩夜麻の冤罪IIとIII)書紀を編纂した。それは薩夜麻を貶めるのみならず、九州王朝の存在を消去しようとする「書紀編者の悪意に満ちたわな」だった。
筑紫君薩夜麻の汚名を「これは あやしい(百問百答)」とされた古田疑問は正しかった。朝鮮半島での「唐・新羅連合」と「高句麗・百済及びこれを支援する倭国連合」の激突、白村江敗戦と百済滅亡、唐・高宗の封禅の儀、高句麗討伐戦といった大きな東アジアの激動を視野にいれつつ、九州王朝説を踏まえ、書紀や海外国記、旧唐書・冊府元龜などの史料を検討したとき、新たな倭国王としての筑紫君薩夜麻像が浮かんできた。
こうした作業によって、千三百余年の「筑紫君薩夜麻の冤罪」に終止符を打つ事が出来たとすれば幸いである。
(補論)筑紫君薩夜麻帰還と天智即位について
書紀には天智即位記事が「七年一月戊子(三日)」と「六年三月」の「二つ」存在する。
■(書紀天智七年)春正月の丙戌の朔、戊子(三日)に、皇太子即天皇位す。在る本に云はく、六年の歳次、丁卯の三月に、位に即きたまふ。
岩波解説は(六年三月について)定都と即位をすぐ続けて記す「帝記ふう書き方」としているが、天智天皇は近畿天皇家にとって最も重要な天皇であるにもかかわらず、二説並立するのは何としてもおかしい。
天智元年から六年の「天智称制」の間は、当然ながら「天子は不在」なのだ。そして遅くとも天智七年一月にこの状況が「解消」した事となる。
「九州年号で見直す斉明紀」中、「斉明の虚構」で述べたが、斉明の死去に伴う中大兄の難波帰還記事は、九州王朝の天子の紀の湯行幸記事からの盗用で、斉明の死去も虚構であった可能性が高い。
更に天智六年二月戊午(二十七日)に「斉明」と間人皇女が小市岡上陵に埋葬されている。
■(書紀天智六年)春二月壬辰朔戊午(二七日)。天豊財重日足姫天皇と間人皇女を小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す。
これは「六年三月」の天智即位とよく整合する。近畿天皇家において「斉明」とされる人物が六年に死去し、中大兄が跡を継いだ事を示しているのではないか。
一方、薩夜麻が六年一一月に帰国したとすれば、七年一月の「天智」即位と整合する。
従って「天子の不在」とは「斉明」の不在ではなく、「九州王朝の天子・薩夜麻の不在」であり、彼の帰国と即位により「天子不在」状況が「解消」した。これを書紀では「天智即位」と入れ替えた。これが「天智称制」と二つの「天智即位」記事の真相なのではないか。
(補論II) 軍丁が身を売ったぐらいで「倭王」は帰国できない
先に博麻の身売りと筑紫君薩夜麻の帰還とは、その時期から見ても直接関係が無いと述べた。彼が倭王として封禅の儀に参列したと考えればこの事は一層明確となろう。唐は、捕虜とした国王の帰国について極めて重要な問題として扱っている。唐の百済・新羅・高句麗各国の王への扱いを調べてみよう。
(1) 百済平定(六六〇年)
五年後(六六四年)には王子扶余隆が許され、旧都の熊津(現、広州)へ都督として戻され、新羅文武王と和解(義慈王は長安ですぐに亡くなった)
(2) 高句麗を平定(六六八年)
降伏した宝蔵王を九年後(六七七年)に開府儀同三司・遼東州都督とし、朝鮮王に封じ送り返す。
(3) 戦勝国新羅(六六三年鶏林大都督府設置)文武王は鶏林大都督に任命。
(川端俊一郎「隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変」より抜粋)
これらの例から見て、筑紫君薩夜麻も、彼等と同様に、いや、従来の外交政策を翻し高句麗を支援せず唐に協力することを約したとすれば、より丁重に送り返されているはずだ。家臣が身を売って資金を作るような話には決してならないのだ。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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