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白雉年間の難波副都建設と評制の創設について 正木裕 (会報82号)
古田史学会報81号 2007年8月15日
薩夜麻の「冤罪」I
川西市 正木 裕
はじめに
持統四年に唐より帰国し、持統より恩賞を得た大伴博麻の倭国への貢献は、氷連老らを筑紫君薩夜麻に謁見させ、彼の封禅の儀への参列を倭国に知らせたことであり、薩夜麻自身の帰国とは直接関係しないこと、従って薩夜麻が家臣を奴隷に売って帰国したとの解釈は、全くの冤罪である事を示す。
大伴部博麻の帰還
日本書紀によると、持統四年九月丁酉二三日、白村江の戦いで捕虜になって唐に送られていた大伴博麻が、筑紫に帰還した。同年冬一〇月乙丑二二日、持統天皇は、博麻が天智三年に「唐人の計」を聞き、自らを奴隷として売り、天智一〇年一一月の郭務宗*らの遣使時に、薩夜麻らを帰国させ、郭務宗*の来意を予め筑紫大宰府に連絡した。その功績に対し恩賞を与えた。博麻の自己犠牲により筑紫君薩夜麻らを帰国させたことで有名な記事だ。
■(持統四年九月)丁酉(二三日)、大唐学問僧智宗・義徳・淨願、軍丁筑紫国上陽[口羊]郡大伴部博麻、従新羅送使大奈末金高訓等に従ひて、筑紫に還至れり。(略)
(冬一〇月)乙丑(二二日)、軍丁筑紫国上陽[口羊]郡の人、大伴部博麻に詔して曰く、天豊財重日足姫天皇(斉明)の七年、百済を救う役に、汝唐の軍の為に虜にせられたり。天命開別天皇(天智)三年に泪*(およ)びて、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝児、四人、唐人の計る所を奏聞さむと思欲へども、衣粮無きに縁りて、達ぐこと能ざることを憂ふ。是に、博麻、土師富杼等に謂りて曰く、「我汝と共に、本朝に還り向かむとすれど、衣粮無きに縁りて、倶に去ること能はず。願ふ我身を売りて、衣食に充てよ。」富杼等、博麻が計りことの依に、天朝に通くことを得たり。汝、独り他界に淹く滞まること、今卅年なり。朕、厥の朝を尊び国を愛ひて、己を売りて忠を顕ずるを嘉ぶ。故に務大肆、并て五匹・綿一十屯・布三十端・稲一千束・水田四町を賜ふ。其水田は曾孫に及至せ。三族の課役を免じて、以て其功を顕す。
[口羊]は、口偏に羊。JIS3水準ユニコード54A9
泪*は、三水偏に自。JIS3水準ユニコード6D0E
宗*は、立心偏に宗。JIS3水準ユニコード60B0
この記事の筑紫君薩夜麻について、古田武彦氏は「古田武彦と百問百答」で次のように述べている。
「天智一〇年一一月には、注目すべき人物が返されています。『筑紫君薩夜麻』です。これは、九州王朝の天子であり、白鳳元年(白村江戦の直前)六一一年に、天子だった人物です。(記紀関係・問三三)」
その上で、博麻に関する書紀の記事は「家来を奴隷に売ってまで、自分の命だけ生き延びて、逃げて帰った卑怯な男という黒いイメージを塗りつけるもので、これは怪しい(白村江関係・問七」との見解を述べられている。
■(書紀天智一〇年)十一月甲午朔癸卯、対馬国司、遣使於筑紫大宰府言、月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人、従唐来曰、唐国使人郭務宗*等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、総合二千人、乗船[立苛]七隻、倶泊於比知島、相謂之曰、今吾輩人船数衆。忽然到彼、恐彼防人、驚駭射戦。乃遣道久等、預稍披陳来朝之意。
本稿では、書紀や他の史書の分析から、筑紫君薩夜麻は博麻を売って帰国したのでは無く、従って「筑紫君薩夜麻の卑怯」は全くの冤罪である事を明らかにしたい。
天智即位三年では博麻は「唐人の計」を聞くことが出来ない
まず、記事中で博麻らが「唐人の計」を聞いたとされる「天命開別天皇(天智)三年」とは一体何年なのか、から始めよう。
博麻の献身を、薩夜麻の帰国と関連付ける観点からの解釈では、天智三年は「即位三年」、従って天智称制九年(六七〇年)と見る。
岩波解説では「三年とは、もし即位三年の意ならば称制では九年。筑紫君薩夜麻の帰国は同一〇年一一月条に見える。」と「慎重な言い回し」であるが、そうした観点をも踏まえて解説している。
しかし、この解釈には極めて不審な点がある。それは、共に唐人の計を聞いた捕虜達の帰還についてだ。
白雉五年二月条所引の伊吉博徳の言によれば、文中に名のある氷連老(人)、倭種趙元宝(児)については、
■「伊吉博得の言(略)智宗庚寅の年(持統四年)新羅の船に付きて帰る。(略)定恵、乙丑(天智四年)の年を以て、劉徳高等が船に付きて帰る。(略)学生氷連老人(略)あわせて一二人、別に倭種韓智興・趙元宝、今年使人と共に帰れりといふ」とある。
彼等が帰還した「今年」が何年かについて、
(1) 日本書紀通釈は天智四年とする
(2) 岩波解説者は「定説無く、四年から七年までとされている(岩波解説)」としている。「七年」というのは、文中の「使人」を博徳と考え、彼が唐使司馬法聡の送使(天智六年)の任務を終え、帰還したのが天智七年だからだという。(和田英松・奈良朝以前に選ばれたる史書)
(3) 坂本太郎氏は所引条の白雉五年とされる。そうでなければこの記事を白雉五年に置く理由がないからだと言う。(日本古代史の基礎的研究上)
しかし、
(1) 直前の記事には庚寅・乙丑と年の干支がちゃんと記されているから、白雉五年なら年号或いは干支で書いて然るべきだ。
現に、斉明五年(己未)七月条所引の伊吉博徳書では「己未の年の七月三日をもって」と「今年」と書かず干支で記している。
(2) 書記本文の年号だから略したとするなら、少なくとも「(白雉五年)・・今年・・乙牛(天智四年)・・」といった並びで「今年」は先に記述されるはずだろう。
(3) 博徳は「白雉五年」に「今年」といったわけではない。従って、編者が「何時かの時点」で博徳が言った「白雉五年」を、一読してもいつか分からない「今年」に改定したこととなる。これは、無理だ。
(4) 何よりも、倭人だけでも総勢一四人という多数の帰還であるのに、白雉五年には本文に帰還記事も無ければ、「唐の使人」の来訪記事もない。これに対し、天智四年劉徳高の遣使は本文に詳しく記載されている上、総勢二五四人の多数。加えて、是歳条の守君大石大唐派遣に関して、「蓋し唐の使人を送るか。」と、劉徳高等を唐の「使人」とする語句も見られるのだから。
■(書紀天智四年)九月壬辰(二三日)「唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。 等といふは、右戎衛郎将上柱国百済禰軍・朝散大柱国郭務宗*を謂ふ。凡て二五四人。七月二八日に、対馬に至る。九月二〇日に、筑紫に至る。二二日に、表函を進る。(略)是歳、小錦守君大石等大を大唐に遣すと、云々。等といふは、小山坂合部連石積・大乙吉士岐弥・吉士針間を謂ふ。蓋し唐の使人を送るか。」
従って、「伊吉博徳の言」の「今年」すなわち氷連老、倭種趙元宝らの帰還は、通釈どおり「乙丑の年(天智四年・六六三年)」の劉徳高等の遣使時とするのが正しいだろう。
岩波書紀解説の「天命開別天皇(天智)三年とは天智称制九年のこと」との「仮定」は成立しない。
何故なら天智四年(又は七年)に帰還した者たちが、天智九年の「唐人の計」を聞いたことになるからだ。これは不可能だ。
勿論彼等と共にいた博麻も「唐人の計」は聞くことができないのだ。
結局、博麻が「唐人の計」を聞き、身を売って彼らを帰国させようとした「天命開別天皇(天智)三年」は、氷連老ら帰還以前の天智称制三年(六六四年)の事となる。
博麻は七年先の「唐人の計」を聞いたのか
その場合、筑紫君薩夜麻帰還は七年も先の天智一〇年だから、博麻は身を売って七年後薩夜麻を帰還させたことになる。また彼が知らせたとする「唐人の計」も七年後のこととなろう。(例えば七年後郭務宗*ら大部隊を倭国に遣使する)
こんなばかばかしい話は到底信じられない。せいぜい「計」は一〜二年先の事だ。そう考えないと「奏聞(きこえもう)さむと思欲」う事とはならない。
従って、書紀の持統四年記事の「博麻の恩賞と唐人の計」のエピソードは、博徳の言の帰還者のうち、天智四年に帰還した氷連老らに関係する事であり、天智一〇年の筑紫君薩夜麻の「帰還」は、天智三年の博麻の身売りとは、直接関係しないと考えざるを得ない。
なお、氷連老らと共に唐人の計を聞いた「筑紫君薩夜麻」の帰還は六年後、天智一〇年一一月で彼一人別行動。その際の同行者沙門道久・韓嶋勝娑婆・布師首磐は「唐人の計」を聞いた顛末譚には登場せず、他の記録にも見えず、とされる。また、博麻が相談した相手として薩夜麻の名は無く、土師連富杼しか挙げられていない。この事は、博麻と薩夜麻帰還に直接の関係が無かった事を暗示しているばかりか、薩夜麻が彼等と共にいた事すら疑わせる。
(登場人物一覧)
(1) 天智三年「唐人の計」を聞く=土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝児(持統四年記事)
(2) 天智四年「劉徳高同行」=氷連老人、趙元宝(白雉五年二月条所引野伊吉博徳の言)
(3) 天智一〇年「郭務宗*同行」=沙門道久・筑紫君薩夜麻・韓嶋勝娑婆・布師首磐(天智一〇年記事)
解けない「唐人の計」
それでは、氷連老らの帰還に関係づけられる「唐人の計」とは何だろうか。
岩波解説は「未詳」としている。
一説には、天智三年五月の百済鎮将劉仁願の郭務宗*の派遣及び、同年と翌年の対馬・壱岐・筑紫への防・烽の設置、筑紫水城建造、大野城・椽城の築城など「戦の備え」の記事が存在するため、「唐による倭国侵攻計画」があったとする。
しかしこの説は不成立だ。
斉明五年の遣唐使に対し、対百済戦(海東之政)に備えて、倭国遣唐使を帰還させず、隔離幽閉した例からみても、「侵攻計画」といった内容を捕虜たる博麻が事前にキャッチし、本国に知らせる事など不可能だ。氷連老人、趙元宝も、「侵攻計画」を漏らす可能性があるのだから、彼らを帰還させるはずはない。
■(書紀・斉明五年秋七月)(略)勅旨、国家、来年、必有海東之政。汝等倭客、不得東帰。遂匿西京、幽置別処。閉戸防禁、不許東西。困苦経年。
また、仮に郭務宗*や劉徳高らの遣使が事実上の「侵攻軍」だったとしたら、これが唐人の計でないのは一層明らか。「侵攻軍と同行」して「侵攻の計画」を伝えるなどと言うのは、支離滅裂だからだ。
「唐人の計=侵攻計画」は成り立たない。
天智三年の「唐人の計」は高宗の封禅の儀
それでは書記の記すように「天智三年に唐人の計と呼べる出来事」があったのか検討しよう。
「唐人の計」はあった。しかも「おおあり」の類の事が天智三年に唐で企画された。
岩波書紀の解説(補注巻第二七の七)をそのまま引用する。
■「旧唐書、本紀などの海外資料によると、唐の高宗は麟徳元年(六六四年天智三年)七月に、三年正月を期して泰山に封禅の儀を挙げる旨を天下に告げ、諸王は二年(六六五年天智四年)一〇月に洛陽へ、諸州刺史は同一二月に泰山へ集まる事を命じた。同二年、冊府元亀、外臣部によれば、その八月以後、百済にあった劉仁軌も新羅・百済・耽羅・倭人ら四国の使いを領して西還し、泰山に赴いた。また同書、帝王部は、一〇月に洛陽を発った高宗に従駕した諸蕃酋長の中に東西アジア諸国と並べて倭国を挙げている。」
(原文は以下の通り)
■麟徳二(六六五)年、封泰山。仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會、高宗甚悦、櫂拜大司憲。(舊唐書 列傳第三四 劉仁軌)
■仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四國使、浮海西還、以赴太山之下。(冊府元龜 巻九八一 外臣部 盟誓 高宗麟徳二(六六五)年八月条)
■二年十月丁卯、帝發東都、赴東獄。從駕文武兵士及儀仗・法物相繼數百里。列營、置幕、彌亘郊原。突厥・于[門/眞]・波斯・天竺國・ケイ*賓・烏萇・崑崙・倭国、及新羅・百濟・高麗等諸蕃酋長、各率其屬、扈從。穹廬氈帳及牛羊駝馬、填候道路。是時、頻歳豐稔、斗米至五錢、豆麥不列于市議者、以爲古來帝王封禪、未有若斯之盛者也。
十二月丙午、至齊州,停十日。丙辰、發靈巖頓、至於太嶽之下。庚申、帝御行宮牙帳、以朝群臣。(冊府元龜 巻三六 帝王部 封禪二 麟徳二(六六五)年条)
[門/眞]3 95D0
ケイ*賓(けいひん)国のケイ*は、四頭の下に、厂。中に[炎リ] JIS第4水準、ユニコード7F7D。
封禅の儀は古代中国、天子が行った天と地(山河)を祀る一大祭祀。秦の始皇帝も紀元前二一九年、漢の武帝も同一一〇年に盛大な儀を催している。高宗は東夷を平らげたことを契機に、これに習い、いや「以爲古來帝王封禪、未有若斯之盛者也。」とするほどの一大祭祀を計画した。
これこそまさに「唐人の計」だ。そして麟徳元年(六六四年)こそ天智三年にあたる。
高宗の封禅の儀は「天下に告げられた」のだから、大伴部博麻らがこの情報をキャッチしたのは当然の事だ。
「唐の秘密」を知り倭国に伝える、などと無理な想定をする必要は無いのだ。
氷連老らの帰還と封禅の儀
それでは、氷連老らの帰還と封禅の儀にどんな因果関係があるのか。
上掲の冊府元龜の麟徳二年(六六五)年十月丁卯記事によれば、「突厥・于[門/眞]・波斯・天竺國・ケイ*賓・烏萇・崑崙・倭国、及新羅・百濟・高麗等諸蕃酋長、各率其屬、扈從(こじゅう=主君のお供をする)。」と、封禅の儀に倭国の酋長が洛陽から泰山へと高宗に扈從している。
また旧唐書によれば同年、仁軌は泰山で倭の酋長を高宗に引き合わせている。高宗は極めて悦んだと言う事のようだ。
そして、自ら唐に赴いたか、捕虜となって連行されたかは別として、唐にいた倭国の人物で、仁軌が領(ひきつれ)たという「倭国の酋長=倭王」にふさわしい名を持つ者、それは書紀を見る限り「筑紫君薩夜麻」以外には無いのだ。
これを否定するためには「倭国酋長とは倭国の使者だ」という以外に無い。
しかし考えても見よう、「旧唐書」の中でも自国に関する記事であり、しかも唐の国威が最大限に誇示された封禅の儀の記事に「誇大広告」を載せて済むものだろうか。いわんや諸蕃の酋長悉く参加している中でのことだ。
旧唐書ほかに「倭国酋長」とあるからには「酋長=倭王」であると言わざるを得ない。
氷連老らと封禅の儀を結ぶ線、それは倭王筑紫君薩夜馬の参列であったのだ。
古田氏も百問百答で「倭の酋長=薩夜麻」は、むしろ「必然」といえるかもしれません。と述べられている。(中国史書関係・一〇)また川端俊一郎も「隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変」において、筑紫君薩夜馬が唐の捕虜となっていたと述べられている。
天智三年の「唐人の計」は高宗の封禅の儀。そして氷連老らが封禅の儀に関して、倭国に「奏聞」するとすれば、それは倭国王「筑紫君薩夜麻」の参列以外には無い。
そして博麻は身を売って氷連老らを帰国させ、この事を倭国に知らせたのだ。
博麻らは何故薩夜麻の参加を知らせたかったか
それでは何故博麻は身を売ってまで、筑紫君薩夜麻の封禅の儀参加を倭国に知らせる必要があったのだろうか。
その答えも冊府元龜の記事の中にある。
高宗が泰山に向かう記事中で、「諸蕃酋長、各率其屬、扈從」とある。
しかし、倭国についてはその体面を保つため「率」いるべき「其屬」は確保できていたろうか。これは困難、いや不可能だったと思われる。
戦時下で捕虜となった薩夜麻の周囲には、同様に捕虜となった敗残兵や遺民はいたとしても、天智三年の時点で、倭国王の威厳を示せるような其屬(従者群)はいるはずもない。また、倭国からの使節の派遣もありえなかった。
何故なら、白村江以降唐との接触・連絡記録は書紀では天智三年五月の郭務宗*遣使のみ。なおかつ海外国記によると、この時は「(唐の)天子の使人ではない」として門前払いした経過があり(当然送使も無い)、唐への戦後初の遣使は、天智四年劉徳高の来朝を受けての守君大石派遣を最初とするからだ。
博麻自身も洛陽・泰山に赴き封禅の儀に参加したかった事だろう。
しかし、少なくとも「酋長」としての待遇は受けていたであろう薩夜麻とちがい、一介の軍丁(兵士)の捕虜博麻にそうした資格も資源も無い。そこで自らを売って、白雉四年来、遣唐使として長く唐に留まっていた氷連老(人)や留学生趙元宝(児)等、唐で一定の地位のある人間を薩夜麻に謁見させようとした。「天朝に通(とど)く」とは、そのことを指している。
(「天朝」は天子の意(広辞苑)。倭国についての「本朝(わが国・同)」と区別している。)
その上で、薩夜麻の消息やその言葉・意志を倭国に伝える事、これが最も重要な任務だったと思われる。
もちろん他に重要な目的は有ったのかも知れないが、書紀・旧唐書・冊府元龜・海外国記等の文献上で推測される範囲ではこれ以外には考えられない。
大伴部博麻の恩賞のもととなった行動とは、
「博麻が、筑紫君薩夜麻の封禅の儀への参加を知り、自ら身を売ることによって、氷連老らが倭王薩夜麻に謁見し、その消息と「天意」を倭国(本朝)に報告すること。そして、封禅の儀で倭王と倭国の体面が保てるよう尽くした事」だ。
これこそ博麻の「厥の朝を尊び国を愛ひて、己を売りて忠を顕ずる」行動、「朝=天子」への献身・忠節だったのだ。
「薩夜麻は部下を奴隷に売って、自分だけ帰還した」などとんでもない濡れ衣、冤罪だった。
(注)なお、文中に引用の旧唐書・冊府元龜資料はHP「九州王朝説批判」のなかで「これは、少なくとも唐代に「九州王朝」なるものが存在したとする説にとっては、致命的な史料事実である」とされているものだ。
しかし本稿で述べたように、「倭国酋長の封禅の儀参加」を記録するこれらの記事は、逆に「九州王朝実在の決定的史料事実である」と私は考える。
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