日本書紀の編纂と九州年号(三十四年の遡上分析)(会報79号)
白雉年間の難波副都建設と評制の創設について 正木裕 (会報82号)
「斉明」の虚構 正木裕(会報102号)
九州年号で見直す斉明紀
安倍比羅夫の蝦夷討伐と有間皇子の謀反事件
川西市 正木 裕
本稿では、日本書紀・斉明紀の重複記事や年次のズレを九州年号を元に検討し、安倍比羅夫の蝦夷討伐は斉明四年四月二十七日、有間皇子の謀反事件は斉明三年で、牟婁温湯に行幸した九州王朝の天子への謀反計画であったことを明らかにする。
書紀斉明紀の一年ズレ現象は「九州年号白雉」と「斉明年号」の混同
斉明紀には一年ズレの重複記事が見受けられる。明確なものとしては斉明四年と五年に重複する安倍比羅夫の蝦夷討伐斉明六年と七年に重複する福信の唐捕虜献上などだ。
書紀の一年ズレの原因について、「孝徳逝去は十月なので、この年を斉明元年とする異伝があった(斉明即位年のずれ)」というのが単純な解釈だろう。しかし、ここでは「三四年遡上」の分析同様、九州年号を基に「一年ズレ」を解釈してみよう。
それは次のようになる。
(1) 九州年号白雉と斉明年号の混同(十三年)
斉明元年は九州年号「白雉四年」だ。その「四年」を「斉明四年(六五八年)」と誤認(混同)すれば九州年号では白雉七年になる。
(2) 九州年号白雉と書紀白雉のズレ(一二年)
そして、九州年号白雉七年を書紀の白雉と看做せば、書紀の白雉七年=斉明二年だから結局もとの斉明元年記事が二年に移ることとなる。
もともと斉明元年だったのが、差し引き一年プラスしてズレるのだ。
この場合(1)の段階の資料、つまり「三年ズレ」資料が存在すれば、この手法の大きな根拠となるだろう。それは存在する。斉明四年是歳条の西海使の「百済、新羅を伐ちて還る」との報告内容は、三国史記等で「斉明元年」の事とされている。
斉明元年の重大事件を三年後に報告した、などと解釈する事は到底出来ない。また書紀或本は、これを将来(六年庚申)の出来事の「応(きざ)し」として扱っているが、「斉明元年の報告内容は、斉明六年庚申の事件の応しであり、そのことを書紀の斉明四年に記録した」などと言うわけの分からない説明は決して説得力を持たないだろう。これは斉明元年の記事が斉明四年に持ち込まれたのだ。
この現象は斉明即位年のずれでは説明できないと思われる。また(2)による二年ズレも存在する。安倍比羅夫の粛慎討伐記事は四年と六年に存在する。斉明六年は九州年号白雉九年、これを書紀白雉九年に移せば斉明四年になる。白雉改元記事の移動と同じ手口だ。
安倍比羅夫遠征記事の重複
一年ズレの例として、「四年夏四月」と「五年三月是月」の安倍臣蝦夷討伐重複記事を分析しよう。
「斉明四年(九州年号白雉七年)」と「斉明五年」のズレは、
(1) 書紀編者は九州年号「白雉七年」を「斉明七年」と看做す(混同)。(斉明七年は九州年号では白鳳元年となる)
(2) 九州年号白鳳元年を書紀の白鳳元年と看做せば、白雉の二年遡上をうけ、書紀白鳳元年=斉明五年となったのだ。本来の安倍臣蝦夷討伐は「四年夏四月」だ。
次に斉明七年の福信の唐捕虜献上記事についてはどうだろう。
■(斉明七年)日本世記云、十一月、福信所獲唐人続守言等、至于筑紫。
■庚申年(斉明六年)、既云福信、献唐俘。故、今存注(おきてしるす)。其決焉(それさだめよ)
福信が王城防衛戦で新羅を破り、唐の侵攻を許さなかったのは斉明六年庚申七月。その十月に唐の捕虜を献上して救援を請うたというのが合理的。正しいのは斉明六年(九州年号白雉九年)と考えられる。
書紀編者は正直に一年ズレた「二種類の資料」の存在を表明している。この場合、白雉九年が「斉明九年」と混同された事になる。つまり(1)段階で書紀編者は「斉明の九年」という年を意識していたことになる。天智紀の称制元年と即位元年(七年)の混同を見るとき、斉明の没年も再検討すべきだろう。
安倍比羅夫蝦夷討伐出兵は「斉明四年四月二七日」
安倍臣蝦夷討伐につきもう少し詳細に検討しよう。
斉明五年三月には吉野行幸と肆宴(とよのあかりきこしめす)記事がある。
(1) (斉明五年六五九年)三月戊寅朔(一日)、天皇幸吉野、而肆宴焉。庚辰(三日)、天皇幸近江之平浦。(但し行幸日と肆宴日が同日というのは不自然。この戊寅は肆宴日と解するべきだろう。)
これも一年ずれた斉明四年(六五八年)の事とすれば、日の干支から伊勢行幸・肆宴は四月戊寅二六日、平浦行幸が四月庚辰二八日となる。
古田説を敷衍して、これを軍事基地吉野での蝦夷討伐軍の激励の行幸と宴とみれば、斉明四年夏四月の安倍臣遠征時期と一致する。出陣は斉明四年四月末(二六日戊寅の肆宴から二八日庚辰帰還の間、おそらく二七日か)となる。
にわかに信じ難い方も多いと思うが、この重複記事には特徴がある。斉明四年は四月、斉明五年は三月と「月がずれている」事だ。斉明四年四月の干支は一日癸丑(干支番号四九番)から二九日辛未(同一七番)まで。一方五年三月は一日戊寅(同一三番)から二九日丙午(四二番)。双方重複するのは干支番号一三番から一七番まで、言い換えれば四月二五日から二九日までにすぎない。そのなかに「二六日戊寅肆宴から二八日庚辰帰還」がすっぽり収まる。そして、その干支(戊寅から庚辰)は一年ずれた斉明五年に当てはめると三月一日戊寅から三日庚辰となる。つまり、日の干支上、斉明四年四月遠征が五年三月にずれる期間、書紀どおりの重複記事となるほんのわずかな可能性を、この仮定日は満たしているのだ。
斉明紀の一年ずれと有間皇子謀反
次に一年ズレを踏まえて有間皇子の謀反事件を再検討してみよう。
日本書紀によれば、有間皇子は斉明四年一一月、蘇我赤兄に「天皇(斉明とされる)には民財収奪(酷税)渠や石垣などの無駄な大工事のあやまりがある」とそそのかされ、一度は「兵を用いるべき時」と謀反を企画した。しかし結局中止したにもかかわらず、赤兄の讒言により捕らえられ、紀の湯に送られ絞殺されたという。勿論、これは斉明と中大兄の策謀であり、その意を受けた赤兄の計に陥れられたものとされていること、周知の通りだ。
第一疑問・有間皇子謀反の矛盾
しかし、この一連の有間皇子謀反関連の記事には、見過ごせない矛盾と疑問点がある。その第一は皇子の「謀反計画」の内容だ。書紀の一書(或本)では有間皇子は斉明四年謀反の立案に際して、次のように言った。
■「或本云、有間皇子曰、先づ宮室を燔(や)きて、五百人を以て、一日両夜、牟婁津を邀(た)へて、疾く船師(いくさ)を以て、淡路国を断(さいぎ)らむ。牢圄(ひとやにこもる)が如くならしめば、其事成し易けむ。」
宮を焼いた後、牟婁温湯にいる斉明を、五百人の手勢で、牟婁津一両日さえぎって(逃げ道をふさぎ襲撃・監禁し)、淡路国を絶って堅く守れば事が成る」との作戦だ。
誰に備えて淡路をさえぎるのか
しかしこれは地理的におかしい。斉明は和歌山の紀の湯(牟婁温湯)にいる。牟婁津をさえぎってこれを討ち、その後「淡路国を絶ち堅く守る」ということは、淡路島の「西」からの攻撃に対する備えだ。つまり「斉明や中大兄」の本拠は淡路島の西にあるということだ。「西」とは瀬戸内から九州にかけてのこと、明白だ。若し「斉明」の脱出阻止としても同じ。淡路島の「西」に逃げるのを防ごうと言うのだから。
通説のように斉明が孝徳の死去後難波宮から戻り、四年当時の都は、奈良県明日香村岡にあったとされる「後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)」だとすれば、こんなおかしい話は無い。中大兄らの本拠奈良・明日香から和歌山への反撃を防ぐのに、なぜ淡路島を守らねばならないのか。
焼くべき宮室はどこなのか
この時代、近畿天皇家の実権は中大兄にあるはず。中大兄のいる飛鳥の宮室を「先ず焼く」事は、極めて困難。また「斉明」のみをターゲットに、牟婁の行宮を焼いても効果は無い。中大兄も斉明と行動を共にしたとしたら、本拠を焼き、この二人を手中におさめればクーデターは成功。この上何で「淡路島」を守るのか。不審だ。いったい何処の「宮室」を燔き、誰を除こうと計画したのか。
近畿天皇家の「有間皇子」は九州王朝への謀反を企画
そこから導かれる仮説は以下の通りだ。
(1) 「有間皇子」は淡路島より東、つまり近畿天皇家の人間。
(2) 九州王朝の天子(書紀では「斉明」とされている)を牟婁温湯に呼び寄せ、
(3) 天子ほか九州王朝の主要メンバーが九州に帰り不在で、守りが手薄になった九州王朝の近畿支配拠点「難波宮」を焼き、
(4) 早急に牟婁津をさえぎり、天子を襲撃・監禁し、
(5) 淡路島を封鎖し近畿に閉じこもって硬く守るという作戦を立てた。
そうすれば九州王朝に対するクーデターは成功すると考えたのだ。敵は淡路島の西・九州あるいはその同盟者の吉備にあったと考えれば何の不思議も無い。
また皇子が九州王朝の者であれば、緊張する半島情勢にかんがみ、大土木工事や財源確保のための増税は必ずしも否定されるべき事ではない。クーデターをおこす十分な動機を持つのは、これによって重税や徴用・動員を求められ近畿天皇家を始めとする九州王朝配下の諸豪族だ。「斉明・中大兄」とされているのは九州王朝の天子や皇太子、「有間皇子」は近畿天皇家の当主か、対九州強硬派・反九州王朝派の皇子だったのだろう。
第二疑問・謀反計画前に謀反実行着手
第二の疑問は、謀反の手順前後だ。「有間皇子」は斉明三年九月、斉明に「牟婁温湯行き」を勧めた。
■(三年)九月、有間皇子、性黠(ひととなりさと)くして陽狂(うほりくるひ)すと、云々。牟婁温湯に往きて、病を療(おさ)むる偽(まね)して来、国の体勢を讃めて曰、纔(ひただ)彼の地を観るに、病自づからに[益*蜀]消(のぞこ)りぬ、云々。天皇聞しめし悦びたまひて、往しまして観さむと思欲す。
[益*蜀]は、益*の別字(FA17)編と蜀。JIS第4水準ユニコード8832
有間皇子は牟婁温湯で陽狂が治癒したと「偽り」、天皇はこれを聞いて、悦んで「行きたい」と思ったとある。「病が治ると偽って牟婁温湯行きを勧め、斉明も喜んで行く事にした」ということだ。
それでは何故有間皇子はこのような「ふり」をしたのか。斉明を牟婁温湯に誘い出す「謀反」計画の一端としか考えられないではないか。これは手順前後だ。斉明四年一一月に赤兄の教唆を受けて、謀反の計画を立てたとされるが、三年九月に病が治ったと「偽って」斉明を湯に行く気にさせたとの記述を信じるなら、この時点でもう作戦が開始されている。逆に言えば四年一一月のこととされる謀反立案は三年九月以前の事と考えねばならない。
第三疑問・斉明の牟婁温湯行幸動機とその時期
「斉明」も「陽狂(うほりくるひ)」
疑問の第三は、斉明の牟婁温湯行幸動機とその時期だ。有間皇子の進めに対して、「斉明」は、何故「悦びたまひて、往しまして観さむと思欲」したのだろうか。有間皇子は「陽狂」のまねをした。「斉明」も「陽狂」だったからだ。「自分の病も治癒する」と思ったからこそ「斉明」は悦んだのだ。有間皇子の(仮)病は、斉明の病を模したものだった。そして、皇孫建王の死で悲嘆に暮れていた「斉明」へ牟婁温湯行幸の進言をおこなったのだ。聞いた「斉明」は喜んで行く事とした。そうでなければ「ふり」をする効果がないのだ。「斉明」は即位後、「宮室を起つ」「田身嶺に垣を周らす」「観(高殿)を起つ」など「時に興事を好む」とあり、その所業は「狂心」とさえ言われている。
一方、斉明紀において斉明四年五月の「皇孫建王の死」関連記事は、斉明の異常な「悲嘆ぶり」で極めて異彩を放っている。「時時に唱ひたまひて悲哭」する、あるいは「口号」しつつ「愴爾悲泣」するとある。「狂心」と言われるほど「時に興事を好」み、時に「愴爾悲泣」する様は「感情の起伏」が異常をきたしたとも思えるほどだ。
現代で言えば「斉明」は「躁うつ病」ではなかったのか。そして、最愛の人建王の死を契機に極度の「鬱」状態となったのだろう。岩波解説には「陽狂は古訓にウホリクルヒとある。ウホリはウツホリの略」とある。「陽狂」とは「躁うつ病」かそれに近い精神疾患だったのではないか。「うつ」は「棄つ」か。上代語で捨てるの意。「ほり」は「欲り」か。「ほしがる、願い望む」の意。事物を打ち棄てるかと思えば、異常に求める、これは躁うつ病だ。書紀が「斉明」を「狂心」と述べているのも、この「病状」故だろう。
牟婁温湯行幸は斉明三年・「皇孫建王の死」も斉明三年
牟婁温湯行幸時期について、書紀では四年十月とされているが、これは皇子の進言から一年以上経過している。三年九月の「天皇聞しめし悦びたまひて、往しまして観さむと思欲す。」の後「是歳」の新羅遣使や翌年の蝦夷征伐、五月の建王の死の等があり、年月が一周した翌十月の行幸だ。「悦んだ」わりには、忘れた頃の行幸で違和感はぬぐえない。病気治癒に関する事だ。「三年九月に進言を受け、三年十月に行幸=効能を聞いてすぐ行幸した」ほうが自然だ。牟婁温湯行幸記事は一年ずれているのだ。
また、斉明の病の原因が「皇孫建王」の死であり、有間皇子の進言により直ちに牟婁温湯に行幸したとすれば「皇孫建王の死」も一年ずれて斉明三年の事だ。結局、建王の死、有間皇子の謀反の立案と進言、牟婁温湯行幸もセットで斉明三年のこととなろう。
第四疑問・「蘇我赤兄」の立場と術策の動機
蘇我赤兄は九州王朝の配下
第四は何故「蘇我赤兄」か、だ。馬子の孫と言われる赤兄は娘を中大兄・大海人両名に入れている。蘇我氏は馬子、蝦夷、入鹿など一貫して「近畿天皇家」に対して重要な役割を果たしてきた。いや、入鹿が一二階の外にある「紫冠」をかぶるなど、或る意味では天皇家を上回る権威を持っていたとされる。彼らは九州王朝の臣・系列として天皇家を監督する立場にあったのだろう。赤兄は後壬申の乱で、大友皇子の近江朝の左大臣となるが、極刑には処せられず、配流されている事からもその立場が憶測される。赤兄は、九州王朝の施策に不満を持ち、これに反対する天皇家の「有間皇子」を、術策を労し落としいれ、抹殺したのではないか。
「有間皇子排除」は蝦夷・粛慎討伐が目的
これが斉明三年のことなら、翌年の安倍比羅夫の蝦夷討伐や六年の粛慎討伐がよく理解できる。九州王朝にとって見れば、近畿より東の蝦夷らを討伐するには、近畿天皇家の絶対的服従を必要としたのだ。東国の蝦夷討伐遠征中に近畿に叛かれてはたまったものではない。その危険を排除するための陰謀が「有間皇子へのぬれぎぬ」だったのだ。かくして近畿天皇家の絶対的服従を確立し、九州王朝は「後塵の憂い」無く、蝦夷・粛慎討伐に乗り出していったのだ。
まとめ 事実関係の再整理
今一度、一連の流れを整理してみれば、以下の通りとなろう。
斉明三年(六五七年)
(1) 五月・「皇孫建王」が死んだ。斉明は悲嘆のあまり鬱(陽狂か)状態となった(書紀では斉明三年五月条)
(2) 有間皇子はこの機を捉え、牟婁津でのクーデターを企画した。(同斉明三年一一月条「或本」)
(3) 九月・皇子は「斉明」に「陽狂治癒」を偽り、牟婁温湯行幸を進言し、「斉明」は喜んでこれを受け入れた。(同斉明三年九月)
(4) 十月・甲子九日「斉明」牟婁温湯に行幸。(同斉明四年十月甲子一五日)一年ズレ
(5) 十月・壬午二七日有間皇子クーデター計画す。(同斉明四年一一月壬午三日)一年ズレ
(6) 一一月・戊子四日計画発覚。皇子は捕らえられ、紀の湯に送られ、藤白坂で絞らる。(同斉明四年一一月戊子九日)一年ズレ
(7) 一二月・辛巳二七日か四年二月・辛巳二八日「斉明」紀温湯より帰る。(同斉明五年正月辛巳三日)一年ズレ
有間皇子の謀反に関しても、先に述べた「書紀斉明紀の一年ズレ事象」をもとにすれば、合理的に説明できる事となった。
「斉明」の虚構について
本稿での分析はここまでとしたいが、三年ずれを意識するとき、見逃せない記事がある。それは斉明七年一月壬寅六日の御船西に征きて、初めて海路に就く。以下の記事だ。これは何の疑いもなく朝鮮半島出兵のための斉明の出征記事といわれている。しかし、三年ずれ(遡った)た時、それは斉明四年一月壬寅一九日となり、紀の湯行幸の帰還時期に当たるのだ。以下大伯海での大田姫皇女の出産、伊予の熱田津の石湯仮宮行幸、二月庚申七日(書記では三月庚申一四日)の「御船還りて那大津に至る」と続く。
「還りて」の意味は様々議論されてきたが、決め手はなかった。しかし、三年ずれで考えれば何の不思議もない。筑紫から紀の湯に行幸していた「斉明」一行が、帰路伊予の湯にも立ち寄った後、那大津に帰ってきたのだ。更に言えば斉明七年十月己巳(七日)(斉明三年なら十月己巳は一四日)天皇の喪、帰りて海に就く。是に皇太子、一所に泊てて、天皇を哀慕ひたてまつりたまふ。乃ち口号して曰はく、「君が目の 恋しきからに 泊てて居て かくや恋ひむも 君が目を欲り」
これは書記斉明四年冬十月甲子(一五日)「斉明」が紀の湯に行幸する際、御孫健王を偲んで口号した状況とそっくりではないか。(斉明三年なら十月甲子は九日)
斉明三年十月甲子九日、「斉明」は健王を偲び口号しつつ紀の湯に出発。一四日「一所(どこか)」に泊した時も王を偲んで口号していた。斉明の筑紫出征も、熱田津行幸も、その死も、喪も、九州王朝の天子の紀の湯行幸記事からの剽窃であり、まったくの虚構であったのだ。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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