九州年号で見直す斉明紀・ 安倍比羅夫蝦夷討伐と有間皇子の謀反」(『古田史学会報』80号2007年6月)
「筑紫なる飛鳥宮」を探る 正木裕(会報103号)
「斉明」の虚構
川西市 正木 裕
私は『古田史学会報』八〇号で、『書紀』斉明紀の「有間皇子謀反」は近畿天皇家有間皇子の、『書紀』では「斉明」とされている九州王朝の天子への謀反未遂事件であり、「斉明」の筑紫遠征や喪の航海の記事も、九州王朝の天子の牟婁温湯行幸記事からの盗用・剽窃であると述べた。
本稿では紙面の都合上八〇号では割愛した、九州王朝の天子の「牟婁温湯行幸の真実」と『書紀』の盗用の手口を明らかにし、あわせて「斉明」の筑紫遠征記事中の「御船還りて娜大津に至る」との字句に何の不思議も無いことを示す。
一、有間皇子の謀反の真相
まず「有間皇子謀反」について「九州年号で見直す斉明紀・ 安倍比羅夫蝦夷討伐と有間皇子の謀反」(『古田史学会報』八〇号二〇〇七年六月・古田史学会HPに掲載)から、その一部を要約する。
1、謀反の対象は九州王朝の天子
『書紀』では、「斉明」は斉明四年(六五八)十月甲子(十五日)紀温湯に行幸。有間皇子はこれを機に「斉明」に対し謀反を企図した。謀反は未遂に終わったが、十一月甲申(五日)蘇我赤兄に捕らわれ、紀の湯に送られ絞殺された。しかし、
(1) 有間皇子の立てた、「牟婁津を封鎖し淡路国をせん断、一家に籠る」という謀反の作戦は、有間皇子は淡路島より東、つまり近畿天皇家の人間であり、「斉明」側の主力は淡路島の西、九州方向にある事を前提とする。(註1)
(2) 赤兄のあげつらった「斉明」の失政とされる「狂心の渠」等の事業は九州王朝の天子の事績と考えられる。(註2)
(3) 牟婁津へは「海路」であり、封鎖に多数の「船師(軍船団)」を動員する作戦上、皇子が「先ずに燔(や)くべき宮室」は、位置や重要性から見て難波津に面する難波宮のはずで、難波宮は古賀達也氏が「九州王朝の副都」とされている事。等により、有間皇子謀反の対象は近畿天皇家「斉明」ではなく、「九州王朝の天子」である。
2、謀反事件は斉明三年の出来事
謀反の年代については、『書紀』斉明紀には重複記事や記年のずれが多く、記事の実年の確定には、事実関係の論理的な検証が必要であり、以下の理由から皇子謀反は斉明三年とすべきである。
(1) 皇子は、斉明三年(六五七)九月「斉明」に「陽狂(ウツホリクルヒ・躁鬱病か。この場合は鬱症状)」が治癒すると偽り、牟婁温湯行幸を勧め、「斉明」は「悦び、往して観むと思欲」したとされる。
『書紀』記事から「斉明」の行幸の動機は建王の薨去による心痛を癒す為である事は明白だから、建王の薨去は「四年」五月ではなく、「三年」五月でなければ「斉明」は三年九月時点で気鬱にはならず、皇子が「治癒」を理由に行幸を勧める意味がない。
(2) また、勧められてから四年十月の行幸まで一年余の期間があるのは心痛を癒す旅行として不自然で、行幸も三年十月、謀反も同月と考えられる。
要するに、皇子の謀反は、建王の薨去を契機に立案された九州王朝に対するクーデターで、その内容は「九州王朝の天子(『書紀』では『斉明』)を牟婁温湯に呼び寄せ、守りが手薄になった九州王朝の副都『難波宮』を焼き、 早急に牟婁津を遮り、天子を襲撃・監禁し、淡路島を封鎖し近畿に閉じこもって硬く守るれば成功する」というものだった。
そして、皇子の謀反を斉明三年として、関連する『書紀』斉明紀の記事を再構成すれば、「斉明」の紀温湯行幸も、筑紫出征と熱田津寄港・娜大津帰還も、喪の航海も、九州王朝の天子の紀の湯行幸記事からの剽窃であり、全くの虚構である事が明白となる。
(註1)皇子の計画について『書紀』は、「或本に云はく、有間皇子曰はく、『先づ宮室を燔(や)きて、五百人を以て、一日両夜、牟婁津を邀へて、疾く船師を以て、淡路国を断らむ。牢圄(ひとやにこもる)が如くならしめば、其事成し易けむ。』といふ。」と記す。この「船師(軍船団)」出動の前提として、事前の難波宮制圧が必要であること疑い得ない。
(註2)赤兄は「天皇の治らす政事、三つの失有り。大きに倉庫を起てて、民財を積み聚むること、一つ。長く渠水を穿りて、公粮を損し費すこと、二つ。舟に石を載みて、運び積みて丘にすること、三つ。」と指摘。古田武彦氏はこれを福岡県の水城や神籠石等の事とされ(「狂心の天皇」『多元』三八号)、古賀氏は福岡県浮羽町(朝倉橘広庭宮と近接)の「天の一朝堀」や杷木神籠石・高良山神籠石等であり(「天の長者伝説と狂心の渠」『古田史学会報』第四〇号)、両者ともこれらの「失」は九州王朝の事業だとされる。
二、斉明の筑紫遠征はなかった
1、「斉明」の牟婁温湯行幸は九州王朝の天子の航海
次に、『書紀』斉明紀の、温湯行幸、筑紫出征と熱田津寄港・娜大津帰還、喪の航海記事の分析を通じ、失われた斉明三年の「九州王朝の天子の紀の温湯行幸」記事を復元する。
i. 「歴日干支」による『書紀』記事の再構成
復元の鍵は「暦日干支(日の干支)」だ。
暦日干支は史書の基本インデックス(索引)であり、中国の史書でも『旧唐書』『隋書』『三国志』『後漢書』始め暦日干支は必ず記載されている。史書が原資料を基に暦日干支を頼りとして編纂されるのは必然で、これを無視出来ない。
従って『書紀』から原資料を復元するにあたっての鍵は「暦日干支は保存される」という点にある。
つまり、『書紀』編纂で、原資料を引用(盗用)する際、その歴日干支を基に該当する年次と月に記事を貼り付ける。そして、原資料と異なる年次に貼り付ける場合も、月次は原資料と同月に貼り付ける。そして「同月に」該当する干支の日が無い場合は「直近の月に」となるという事だ。
これは古田武彦氏が「持統吉野行幸の三四年遡上盗用」を発見された契機とされている『書紀』編纂手法なのだ。
古田氏はその著『壬申大乱』中で、「『日本書紀に記す、持統三年(六八九)から十一年(六九七)にかけての持統天皇の三一回の『吉野行幸』は、九州王朝の天子の、朝鮮半島出兵等の軍事基地たる『佐賀なる吉野』視察記事の盗用である。また、持統十一年(六九七)六月の行幸記事は、三四年前の天智二年(六六三)、白村江の戦直前の最後の行幸」とされた。またその際、持統が「吉野宮より至る」日付の持統八年(六九四)四月「丁亥」は存在せず、三四年前の斉明六年(六六〇)四月には存在する事、等を根拠として挙げられた。
私はこうした「記事の年次を変え」て貼り付ける手法は『書紀』中に数多く見受けられ、その代表事例が「三四年遡上盗用」であると指摘し、例として天武紀の「難波宮造営」や持統紀の「蝦夷朝貢」ほか多数を挙げ、これらは全て九州王朝の事績を近畿天皇家の事績にすり替える事を目的とした「九州王朝の史書からの盗用」記事であるとした。(註3)
また、「三四年遡上盗用」以外でも舒明・孝徳両紀には重複記事や記年のずれが多く、これらの実年は「暦日干支は保存される」事を踏まえ一つ一つ条理に基づき再構築する必要がある。
以下はこうした考えに基づき、『書紀』における様々な「斉明」の事績記事を、九州王朝の天子の牟婁温湯行幸記事として再構成するものである。
(註3)詳細は『古代に真実を求めて』及び『古田史学会報』の「三十四年遡上」関係諸論文を参照願いたい。
ii. 「斉明」の「喪の航海記事」は「紀温湯行幸記事」からの盗用
『書紀』で「斉明」は、斉明四年(六五八)冬十月甲子(十五日)に、紀(牟婁)の温湯(今の和歌山県田辺市付近といわれる)に建王を憶びながら旅立つとあり、これは斉明三年なら十月甲子(九日)にあたる。
◆斉明四年冬十月庚戌朔甲子(十五日)、紀温湯に幸す。天皇皇孫建王を憶でて、愴爾み悲泣びたまふ。乃ち口号して曰はく
(1) 山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の中は 忘らゆましじ
水門の 潮のくだり 海くだり 後ろも暗に 置きてか行かむ
愛しき 吾が若き子を 置きてか行かむ
秦大蔵造万里に詔して曰はく、斯の歌を伝えて、世に忘らしむること勿かれ
『書紀』では出発後の「斉明」の行動については何ら記されていない。
しかし、そこで注目されるのは斉明七年(六六一)、「斉明」が朝倉宮で崩御した後の「筑紫」から「難波」への喪の航海の記事だ。
◆斉明七年十月己巳(七日)に、天皇の喪、帰りて海に就く。是に皇太子、一所に泊てて、天皇を哀慕ひたてまつりたまふ。乃ち口号して曰はく、
(2) 君が目の 恋しきからに 泊てて居て かくや恋ひむも 君が目を欲り
乙酉(二三日)に、天皇の喪、還りて難波に泊れり。
両記事は亡き人物を悼み口号するという点で極めて類似しており、『書紀』中で同様の趣旨の「口号」は建王の薨去に関係するものしか無い。方や「斉明」が「建王」を憶び、方や「中大兄」が「斉明」を憶ぶとされてはいるが、両方の唱を並べれば、一見して、本来はどちらも同じ人物が同じ時期に唱えた「口号」だと推測できる。(註4)
(註4)「斉明」は建王の薨去に際し、同趣旨の「口号」を作歌し唱え「悲哭」している。
斉明四年五月に、皇孫建王、年八歳にして薨せましぬ。今城谷の上に、殯を起てて収む。天皇、本より皇孫の有順なるを以て、器重めたまふ。故、不忍哀したまひ、傷み慟ひたまふこと極めて甚なり。群臣に詔して曰はく、「万歳千秋あらむ後に、要ず朕が陵に合せ葬れ」とのたまふ。廼ち作歌して曰はく、
(3) 今城なる 小丘が上に 雲だにも 著くし立たば 何か歎かむ
射ゆ鹿猪を 認ぐ川上の 若草の 若くありきと 吾が思はなくに
飛鳥川 漲ひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも
天皇、時々に唱ひたまひて 悲哭す。
この (1)〜(3) まで三箇所の口号の類似性(XがYを偲び「口号・唱歌」し各「悲泣」「哀慕」「悲哭」すという構成と内容)は疑いえず、中大兄の口号とされる (2) も、「斉明」とされる九州王朝の天子の口号と考えるのが合理的だ。しかも (1) と(3) はいずれも「航海」途上の「口号」である事も一致する。
そして、この記事が四年ずれた斉明三年なら、十月「己巳」(七日)は十月「己巳」(十四日)になる。これを一所に泊した日とすれば、「十月甲子(九日)に筑紫を出航し十四日に『一所(どこか)』に寄航した。そして、出航から寄航までずっと建王を憶で、『愴爾み悲泣び』或いは『哀慕ひ』口号していた」という極めて合理的な記事となる。
斉明七年の中大兄が「斉明」を難波に送る「喪の航海記事」は、実際は、斉明三年の九州王朝の天子の「紀温湯行幸記事」からの盗用だったのだ。
iii. 九州王朝の天子の難波到着寸前に皇子は捕縛され謀反は阻止された
更に、その先の行程は、「乙酉(二三日)、天皇の喪、還りて難波に泊れり」とあるが、斉明三年十月には「乙酉」は無いから、十一月「乙酉」(一日)に難波に泊った事となる。
有間皇子の謀反が発覚し、赤兄に捕縛されたのは斉明四年十一月「甲申」(五日)で、斉明三年なら十月「甲申」(二九日で月末)夜半。まさに「斉明」即ち九州王朝の天子の難波着の直前だったのだ。皇子の謀反は天子到着寸前、水際で阻止されたのだ。
そして、有間皇子は斉明四年十一月「戊子」(九日)に牟婁温湯に送られ誅殺されているから、その時期「斉明」らは牟婁温湯に出発していた事になる。斉明三年なら十一月「戊子」(四日)だ。
iv. 九州王朝の天子は年末に紀温湯より難波宮に至(かへりいた)った
「斉明」の帰還は、斉明五年(六五九)正月「辛巳」(三日)とある。斉明三年なら十二月「辛巳」(二七日)となる(四年一月に「辛巳」はない)。
◆斉明五年春正月己卯朔辛巳(三日)、天皇、紀温湯より至りたまふ
この句中の「至(かへりいた)りたまふ」とは、当然に後飛鳥岡本の宮に帰ったと考えられている。しかし原文にはどこに「至」ったかは記述されていない。
「牟婁津を封鎖する」とある以上「斉明」即ち九州王朝の天子は「海路」で紀温湯に向かった事は疑えず、帰りは当然難波に寄港する事となる。これが十二月二七日であれば、暮から正月にかけての諸行事を執り行う為の寄港であり、その場所は難波宮と考えられよう。
2、「斉明」の筑紫遠征は九州王朝の天子の筑紫への「帰り」の航海
i. 「斉明」七年の筑紫遠征記事は斉明四年からの盗用
こう考えた時注意を引かれるのが、斉明七年(六六一)一月「壬寅」(六日)の「御船西に征きて、始めて海路に就く」以下の斉明の筑紫遠征に関する記事だ。
◆斉明七年春正月丁酉朔壬寅(六日)に、御船西に征きて、始めて海路に就く。
甲辰(八日)に、御船大伯海に到る。時に大田姫皇女、女を産む。仍りて是女を名けて、大伯皇女と曰ふ。
庚戌(十四日)に、御船、伊予熟田津石湯行宮に泊つ。熟田津、此をば[イ爾]枳柁豆といふ。
三月丙申朔庚申(二五日)に、御船還りて娜大津に至る。磐瀬行宮に居ます。天皇此を改めて、名をば長津と曰ふ。
[イ爾]枳柁豆の[イ爾]は、人偏に爾。JIS第3水準ユニコード511E
これは疑いもなく朝鮮半島出兵の為の「斉明」の出征記事と思われてきた。しかし、この記事が三年ずれたなら、斉明七年一月「壬寅」(六日)の「御船西征」は、斉明四年一月「壬寅」(十九日図○6)となる。そして三月「庚申」(十四日)の娜大津帰還は、斉明四年三月に「庚申」が無いため、二月「庚申」(七日)となる。
この「御船西征」以下の記事こそ、『書紀』では「斉明」とされる九州王朝の天子の、牟婁温湯行幸時の難波から筑紫への「帰還」記事だと考えられるのだ。
つまり斉明三年十二月「辛巳」(二七日)に、九州王朝の天子は紀湯から難波津に戻り、正月を難波宮などで過ごした後、同四年一月「壬寅」(十九日)に娜大津目ざし出発した事になるのだ。
ii. 「御船西征」は難波津出航
この条には、飛鳥から難波に向かう記述は一切なく、いきなり「御船西征、始就于海路」とあり、内陸の「飛鳥」ではなく海に面した「難波宮」から、西の筑紫を目指して出航する記事に相応しい。
即ち、河内潟の難波宮から北に船出し、西中島か難波堀江あたりで西に舳先を向ければ、そこで「始めて」大阪湾から瀬戸内海の「海路」に就く。「御船西征、始就于海路」の文通りなのだ。
以下、斉明七年(六六一)の記事を、暦日干支を基に四年(六五八)の日付として修正すると、
1). 斉明四年一月「甲辰」(二一日)大伯海で大田姫皇女の出産。(→書紀では斉明七年一月「甲辰」八日図○7)
2). 一月「庚戌」(二七日)「伊予熟田津石湯行宮に泊つ」(→同一月「庚戌」十四日図○8)
3). 二月「庚申」(七日)「御船還りて娜大津に至る」(→同三月「庚申」二五日図○9)となる。
iii. 九州王朝の天子は娜大津に「還った」
「三月丙申朔庚申、御船還至于娜大津」の文中に「還りて」とあるが、飛鳥から筑紫に遠征したはずの「斉明」が娜大津に「還る」のは不可解であり、加えて、航路ならわずか四〜五日の距離である伊予の熟田津から娜大津まで『書紀』では二ヶ月と十日を要しているのも説明がつかない。
諸氏はこの解釈に苦慮し、岩波の書紀では「(伊予)熟田津は寄り道。本来の航路に戻って」としている。 しかし、これを九州王朝説と『書紀』記事の年次のずれを踏まえれば明快な結論が得られる。
斉明三年十月甲子(九日)に娜大津を出発した九州王朝の天子は、斉明四年二月庚申(七日)に再び娜大津に帰還したのだ。(註5)
iv. 「二ヶ月余の航海」は盗用に伴う「暦日干支」のマジック
熟田津泊の斉明七年一月「庚戌」(十四日)は斉明四年なら一月「庚戌」(二七日)となり、娜大津着は七年三月「庚申」(二五日)が四年二月「庚申」(七日)となる。その間僅か九日。熟田津での滞在を考えれば短い位だ。『書紀』での二ヶ月余の航海は、こうした盗用に伴う「暦日干支」のマジックだったのだ。
難波から大伯海(岡山)まで二日、以後出産を含み伊予まで六日、更に伊予温湯滞在を含んで筑紫まで九日というのは妥当な日数だ。
ちなみに熟田津の比定においては、半島出兵の大船団が停泊する事が前提になっているが、牟婁温湯への行幸であれば、伊予の通常の湊・泊で十分で、私は現地資料や古代地形、「斉明」の航路等から、『書紀』斉明紀に記す「熟田津」は伊予今治・西条地域が有力と考える。
(註5)山田宗睦氏が「御船還りて娜大津に至る」について「還はぐるっと回って出発点へ戻る意。石湯に行ったのは北九州大王か」とされているのは、当を得た解釈といえる。山田宗睦『原本現代訳日本書紀(下)』(ニュートンプレス二〇〇〇年)
v. 一所とはどこか
ところで、斉明七年十月己巳(七日)斉明の喪の航路で「中大兄」が泊した「一所(あるところ)」とはどこか。その条件は、
1). 「あるところ」と名が隠されているところから見ると、明らかに出来ない場所、すなわち「喪」の道中として不自然な場所。
2). 十月甲子(九日)に筑紫出航で、十四日「一所」に寄航なら、博多湾から五日以内で行ける場所
この条件にピッタリなところがある。それは「伊予の熟田津の石湯行宮」だ。
娜大津への「帰路」に熟田津の行宮に泊したのだから、常識的には「往路」でも行宮は既に設営されていたと考えられる。九州王朝の天子一行は、紀の湯の往復に伊予の湯に立ち寄った。しかし、『書紀』編者は、これを「斉明」の喪の航海として盗用する際、喪中に温泉旅行は相応しくないから「一所」と隠したのだ。
この航海は九州王朝の天子の牟婁温湯・伊予温湯をめぐる「湯治」旅行だった。そして、『書紀』に於ける「斉明」の筑紫出征記事も、熟田津行幸も、喪の航海も、『書紀』編者による、九州王朝の天子の紀の湯行幸記事からの剽窃と、九州王朝の天子と「斉明」や「中大兄」とのすり替えの産物だったのだ。
三、改変された行幸記事
1、史実改変の手法
一連の切り貼りによる史実改変で書紀編纂者は何をしようとしたのか。
九州王朝の天子の斉明三年(六五七)十月から翌四年(六五八)二月までの牟婁温湯行幸記事を、次のように剽窃・改変した。(以下については資料「斉明牟婁温湯行幸全行程」を参照されたい)
(1) (筑紫娜大津から)牟婁温湯に出発した斉明三年十月「甲子」九日の記事(図○1)を斉明四年十月「甲子」十五日に移し、以降の牟婁温湯行きの航海は切除した。
(2) 出港後「伊予の熟田津の石湯温泉」寄港(斉明三年十月「己巳」十四日図○2)以降の航海は、遠征先筑紫からの「斉明」の喪の航海として、斉明七年十月「己巳」七日以降に移した。その際「天皇の喪、帰りて海に就く」と「帰る」を付記して、近畿への帰路であるかのように装った。
(3) 「伊予の熟田津の石湯温泉」寄港は、「斉明の喪の航海」として「温泉」は相応しくないので「一所に泊す」と場所をごまかした。
(4) 難波寄港(斉明三年十一月「乙酉」一日図○5)を、「天皇、還りて難波に泊れり」と「還る」を付記して斉明七年十月「乙酉」二三日に移し、「斉明」の遺骸の難波帰還と装った。
(5) 九州王朝の天子が牟婁温湯からの帰路に難波に立ち寄った(「至」った)記事(斉明三年十二月「辛巳」二七日図5)を斉明五年正月「辛巳」三日に貼り付け、ここで「斉明」の牟婁温湯行幸が終わったように見せかけた。
(6) 斉明四年一月「壬寅」(一九日)から二月「庚申」(七日)の難波から筑紫への帰りの航海部分(図○6から○9)は、「斉明」の「難波から大伯、伊予から筑紫への遠征」として斉明七年一月「壬寅」(六日)から三月「庚申」(二五日)に貼り付けた。
つまり、九州王朝の天子の筑紫から牟婁温湯への往復の航海を斉明四年と七年に分離し、「斉明」の牟婁温湯行幸と喪の航海という別の事件を装ったのだ。
2、改変の狙いは九州王朝の天子と「斉明」の入れ替え
記事の盗用と改変の真の「ねらい」は以下の通り「東西」の逆転、すなわち「九州王朝の天子と近畿天皇家の天皇」の入れ替えなのだ。
【改変前】【西(筑紫) → 東(難波) → 西(筑紫)】
○1「筑紫(娜大津)発 → 伊予の熟田津の石湯仮宮 → 難波(以上斉明三年十月〜十二月)」 → 牟婁温湯 → ○2「難波 → 大伯 → 伊予の熟田津の石湯仮宮 → 筑紫(娜大津)着(以上斉明四年一月〜二月))」
という、「西」の九州王朝の天子の牟婁温湯往復の行程を、○1の筑紫から難波への「行き」と、○2の難波から筑紫への「帰り」とに分解の上、斉明七年に移し、かつ時間順をも次のように逆転させ、
【改変後】【東(難波) → 西(筑紫) → 東(難波)】
○2「難波 → 大伯 → 伊予の熟田津の石湯仮宮→筑紫(娜大津)(斉明七年一月〜三月)」 → (斉明の死) → ○1「筑紫発 → 一所(伊予の熟田津の石湯仮宮) → 難波(斉明七年十月)」
という、「東」の近畿天皇家「斉明」の○2難波から筑紫への「遠征」と、○1筑紫から難波へ「帰る」喪の航海に仕立て上げた。しかも「伊予の熟田津の石湯行宮」を「一所」と隠した。更に「健王(九州王朝の早世した皇子の潤色か)」を悼む「九州王朝の天子」の口号まで、「斉明」を悼む「皇太子」の口号にすりかえたのだ。
3、書紀編者の前科
しかも、書紀編者には「前科」がある。それは山田宗睦氏が明らかにされた、仲哀紀の周芳沙麼之浦(防府)から筑紫橿日宮への行幸だ。(註6)
「穴門豊浦宮」(下関)の仲哀を「岡県主」の祖熊鰐が「周防沙麼」に迎えに行くのだが、岡県は遠賀川周辺。東から周芳沙麼 ーー 穴門 ーー 岡(遠賀)だから、この時点で熊鰐は穴門の仲哀を追い越している。
次に熊鰐の引率で岡津に泊した仲哀を、筑紫伊覩県主の祖五十迹手が穴門に迎えに行くが、これも行き過ぎだ。そして五十迹手の引率で儺県、橿日宮に着いたというのだ。
つまり仲哀は沙麼 ーー 穴門 ーー 岡 ーー 儺県(橿日宮)と西に航海したように記述されているが、迎えに行く熊鰐や五十迹手が「行き過ぎている」という矛盾が発生するのだ。
山田氏はこの矛盾を分析し、実際は大和の天皇家の誰彼ではなく橿日宮を本拠とする人物の、
○1儺県(橿日宮) ーー 岡 ーー 穴門 ーー 周芳沙麼という「東へ」の航海を
○2周芳沙麼 ーー 穴門 ーー 岡 ーー 儺県(橿日宮)という「西へ」の航海にひっくり返したものだとされた。
周芳の先、大和方向から来る人物を「向かえに行った」のではなく、儺県(橿日宮)を出航した人物を、五十迹手が儺県から岡津を経て穴門まで、熊鰐は岡津から沙麼まで「送っていった」のであれば、矛盾は発生しない。
先に述べた斉明の航路を逆転させたのと同じ手口なのだ。
(註6)山田宗睦「日本書紀の地名、二つ」(『古田史学の諸相・季節通巻第十二号』発行・エスエル出版会・一九八八年八月十五日)『学士会会報』より再録とある。
4、暴かれた欺瞞
しかし『書紀』編者は「斉明紀」でも「仲哀紀」の「追い越す」矛盾同様重大なミスをおかした。それは娜大津に「御船還りて」の句を残した事だ。難波から筑紫への航路で「還りて」は理解不能だが、筑紫発・筑紫着なら何の不自然もない。もう一つ。「暦日干支」を保存した事だ。
この二点によってかろうじて書紀の「からくり」が暴露できた。いや、健王にも「口号」、斉明にも「口号」と同じ句を使用しているのには「この欺瞞を誰か見破って欲しい」との編者の良心が現れているのかも知れない。
「万世一系」の呪縛に囚われて書紀を読む限り、この「しかけ」は誰にも解けなかった。いや千三百年の間疑う人とて存在しなかった。
古田武彦氏は、『盗まれた神話』『失われた九州王朝』以来、『書紀』は九州王朝の歴史からの「盗作の史書」であることを次々と明らかにされてきた。
こうした古田氏の見地に依拠する事により、『書紀』斉明紀における「斉明」の牟婁温湯行幸や筑紫遠征の欺瞞の一端でも暴けたなら望外の幸せである。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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