白村江の会戦の年代の違いを検討する
中国山東省曲阜市 青木英利
白村江の会戦の年代は、朝鮮側、中国側、日本側の資料で六六三年、六六二年の違いが従来から有った。日本書紀は六六三年、旧唐書・百済伝は六六二年、三国史記・百済本紀は六六二年、資冶通鑑は六六三年である。古代史書で違いが有って、現代の日本と中国の議論では、全て六六三年なのは既にご存知の通り。特に、中国では疑問も発せられていない。私は、この問題を真正面から、取り上げた。方法は追体験の方法である。古い順番から漏れなく原文を読むことである。
一、日本書紀(七二〇年)
日本書紀は六六三年である。詳細は後に各所で触れる。
二、旧唐書本紀、百済伝、劉仁軌列伝(九四五年)
旧唐書本紀第四高宗上顕慶五年(六六〇年)八月に蘇定方等は百済を討伐王扶余義慈を捕らえる。百済都熊津等五箇所に都督府を置く。十一月に蘇定方は王、王子等を洛陽則天門にて高宗に献上、帝は責め許す。六六一年には、蘇定方の平壌への遠征、六六二年には同からの撤退があるが、以後にも白村江の記事は無い。百済は六六〇年の併合で終わっているという事である。本紀そのものには六六二年白村江の記述は無い。
旧唐書百済伝は龍朔二年(六六二年)七月の段落が該当する。全部で十二行。白村江の戦いが十一行まで、最後の十二行目は劉仁軌の下での新羅と百済の和睦(六六五年)の記載である。七行目で六六二年と六六三年に分ける解釈もあるが、文面上は連続した文章であり、なんら分けなければならない根拠はない。この全文章は後代の叙述の基本になる。六六二年である。
旧唐書劉仁軌列伝は全百二十行約四八〇〇字一二段落の長文である。内三段落が関係個所である。総三十二行。初段は六五九年の劉仁軌の青州刺史就任で直ぐ六六〇年、六六一年の夏までの記載で終わり、次の段は「尋而」で始まる。ほどなく、長時間の経過が無い事を示している。六六一年の七月の蘇定方の平壌討伐が失敗して、六六二年の二月に撤退するのだが、劉仁軌は熊津に留まり、二月中に新羅親征郡が到着して合流、新羅からの兵站が繋がることで唐軍が意気盛んになる三月でこの二段目は終わる。そして、第三段目は「俄而」で始まる。ほどなくの意味である。扶余豊が福信を殺して、高句麗と、倭国に援軍を要請する。(つづいて)孫仁師の水軍が到着するのである。(この孫仁師の水軍の到着は新唐書の本紀では六六二年の七月と明記されているが、ここには時期の明記はない。)そこで、扶余隆も含めた、軍議を開き周留城への攻撃を決定、この攻撃の中で、白村江の海戦が起こる。この様に第二段は尋而、第三段は俄而とその間に時間の連続が示されていて、同年であることに疑いはない。六六二年である。
三、新唐書本紀、百済伝、劉仁軌列伝(一〇六〇年)
新唐書本紀第三高宗の、六六二年七月には「孫仁師以伐百済」の進軍到着の記事がある。これは、旧唐書の本紀では書かれていなかった。そして、六六三年九月には「孫仁師及百済戦於白江、敗之」となっている。これは、非常に重要な記述だ。本紀に書かれている事なのだから、確定である。六六三年が新唐書の立場だと言っても過言では無い。
百済伝では旧唐書の伝と比べるとまず、五行に成っていて、旧唐書の伝の十二行から半分以下の量になっている。この文は旧文と同じく六六二年七月から始まっているので、この文の白村江を六六三年の九月に比定する為には、中間に、「この年も暮れ、翌年九月」とか、「しばらく混戦、明けて九月」とか、一年二ヶ月の時間の経過を読み込む必要があるが、文面上にはこの種の文字は無い。つまり、新規に漢字の四文字ぐらいの挿入が有れば、完全に六六二年と六六三年に分解できるのだが、そういう文字は無い。だから、百済伝は六六二年となる。
劉仁軌列伝は、六六二年二月の高宗の勅に対して、彼は撤退せずに留まり、皇帝の高句麗討伐の礎となる有名な演説があり、その後、新羅の親征軍が到着して、新羅との兵站が繋がり、休息していると六六二年七月の孫仁師の水軍が到着、扶余隆の糧食の水軍も到着して軍議、陸軍と水軍が周留城を責める為に各々出発、白村江で合流、水軍はさらに賊扶余豊の水軍と白村江の口で遭遇したので、之を四度攻め皆勝つという内容になる。これも、六六二年である。
このように本紀以外は六六二年である。しかし、ここで、重要なことは、何故、本紀が六六三年なのか、その根拠が何かである。
新唐書の日本伝に根拠がある。ここに原因がある。日本伝で、日本書紀を日本の正式の「史書」として認定したのである。これも、新唐書の史書としての役割である。旧唐書とここが違う。日本書紀のどの部分を認定したのか? 全部である。神武天皇以来、五十八代光孝天皇・唐朝僖宗光啓元年(八八五年)までの日本の歴史を認定したのである。この事は決定的に重要である。新唐書以後、日本書紀を、信頼できる第一次歴史資料として、日本史の基準文献として、「日本の史書」として認定したのである。これは、旧唐書での不採用を百八十度変更したのであり、中国歴史「学会」の一大事件であり、新唐書の旧唐書に対する批判と共に、日本書紀に市民権が与えられたのだ。
四、 資冶通鑑の白江 (一〇八四年)
資冶通鑑は司馬光の編年史で、後代・現在の影響力は絶大である。また、新唐書の僅か二五年後の成立で、その記述は新唐書の方針を受け継いでいる。新唐書の百科辞典の様な豊富な項目の索引を前提にできあがったものであり、「通典」(八〇一年)「冊府元亀」(一〇一三年)の類書等の、史書に漏れていた記述も拾い集めて作られているので、その総合性・整合性で抜群の「史書」と言える。つまり、人々は、この資冶通鑑を読んで歴史を知るのである。
司馬光「資冶通鑑」の白江は六六三年である。結論を言うと、「唐書」の「劉仁軌列伝」を六六二年と六六三年に振り分けて、他の史実の記載の間に挿入したのである。「白江」の文字の有る文章は六六三年に、その前の文章は六六二年に挿入した。
資冶通鑑の龍朔二年(六六二年)一一の条に「劉仁軌列伝」の六六二年二月、高宗の熊津撤退の勅書に対して劉仁軌の有名な残留宣言に当たる演説が挿入される。その後、六六二年七月に熊津の東の四城を攻略してさらに、新羅の親征軍が到着して兵站が繋がり、さらに、孫仁師の水軍援軍七千人が熊津に到着した所までが挿入される。その後の八月からは、全くの別の事件の記載である。
そして、龍朔三年(六六三年)九月の条に「劉仁軌列伝」の続き、つまり、孫仁師も到着したので、唐軍も元気になり、ここで軍議を開き、加林城を攻めるか、周留城を攻めるか検討し、劉仁軌の提案で周留城を攻める事に決し、水軍は熊津江を出発、陸軍と白江で合流、一緒に周留城に向けて進軍、(ところが偶然)劉仁軌水軍が倭兵の水軍と遭遇して、白江口で戦うこと四度全て勝つ。が挿入される。
二箇所に振り分ける事で、この時間差一年二ヶ月は一挙に解決される。六六三年の九月のこの条の前後は百済とは全く別の記事であり、六六二年二月の記事も表面的には前後の記事との矛盾はない。
但し、さらに詳しく見ていくと、劉仁軌列伝の文章との違いが全く無い。実は旧唐書百済伝は劉仁軌の水軍の相手は扶余豊で、劉仁軌列伝では倭兵である。資冶通鑑の倭兵は日本書紀からの採用であるとは言い切れない。さらに、唐書は会戦場所は白江口で日本書紀は白江である。この点は資冶通鑑は唐書を採用している。海戦であり、淡水での戦闘ではない。又、日本書紀では扶余豊はこの壊滅した水軍から小船で脱出して高句麗に逃げ、周留城は十日後に降伏した事になっているが、資冶通鑑は劉仁軌列伝どおり周留城の陥落は殊更の記載なく、扶余豊は逃げ、王子は師卒ともに降伏したと成っている。又、倭船は四〇〇艘炎上するが日本書紀にはこの点は見当たらない。
資冶通鑑の立場は新唐書の見解の表現である。先行する歴史史料の中で六六三年と記載しているのは日本書紀以外は存在しない。六六三年が真実なのか、六六二年が真実なのかの問題ではない。此の時点で考古資料が有って、年代問題が検討されている事実は無いし、となれば、新唐書の見解を取る以外ない。六六三年の採用は当然で、日本書紀の史料採用は当然である。何故、それでは、劉仁軌列伝を基本文書としているかの問題がある。全部、日本書紀の文書で書き換えたら良いのに、列伝を基準文書にしたかの問題がある。それは、劉仁軌の偉大さにある。かの六六二年の高宗の撤退命令にかかわらず、戦線を維持し、百済の残党掃討に成功し、以後も高句麗戦線で奮闘して、ついに、高句麗征伐の歴史的偉業を成し遂げた唐朝の勲臣である。諸侯に列せられ、死に当たり、歴代皇帝の陪臣墓を与えられ、墓守三百戸を与えられている。彼の列伝を非採用にする事は冒涜である。中華民族に唾することになる。全く不可能である。学問ではなく、別の問題であった。白村江は六六三年とするが、文章は劉仁軌列伝を使わなければならない、それならば、二箇所に振り分ける以外に方法はない。
五、三国史記の記述 (一一四五年)
百済本紀の文章は全く旧唐書百済伝と同じである。百済は滅亡したので、百済記・百済本記・百済遺記にとってはこの時代の記録は最後の部分で、後代の意図的な改作余地が無い。ましてや、唐朝の圧倒する影響を受けていて、日本書紀の影響を受けていない。大和王朝は倭国の簒奪者、百済にとっては仇敵も同様である。日本書紀は糞同様の代物である。六六二年である。
新羅本紀は六六三年であった。しかし、六六二年三月から無意味な記述が有ってこの年は終わり、六六三年の記述も六六〇年の百済併合と、扶余豊の逃亡、王子の投降が一緒に書かれていて、さらに白村江の合戦の記述は無い。つまり、混乱の代物である。
ただ混乱していない記述があった。新羅第三〇代文武王の六七一年の回想である。回想とは六四〇年以来の、数十年の回想の中に、六六三年の記述がある。この記述は出物である。全体に、この回想は新羅の状況を赤裸々に描いていて信頼が置ける。その中の六六三年の一節である。「龍朔三年になると、総管の孫仁師が兵を率いて熊津府城を救援にきました。新羅軍もまたこれに同行して、出陣し、両軍が周留城にきたとき、倭国の兵船が百済を救援にきました。倭船は千艘もいて、白沙に停泊し、百済の精鋭な騎馬隊が、その岸辺で船団を守っていました。新羅の強力な騎馬隊が、唐軍の先鋒となって、まず、岸辺の陣地を撃破しました。これを聞いた周留城の百済軍は落胆して、ついに降伏しました。」(平凡社、三国史記、井上秀雄訳注)
五、その他の関係書
蘇定方列伝、通典、冊府元亀、には白村江の記載はない。現代の中国の歴史書、論文は全て六六三年で揃っていて、年代の問題にふれている著書は皆無である。また、六六三年にかかわらず、唐・百済戦の記述には大量に日本書紀の記述が採用されていて、むしろ、日本書紀の内容が圧倒している。日本書紀には、年月日朝昼午後などの記載が詳細にあり、かなり、物語性が有るので、競って採用引用されている。文献主義の方法論を重視するので、この日本書紀の引用文を根拠にして各論が発展している。笑える状態ではない。深刻な状態である。一流の学者がこの状況に有る。もはや、年代問題は単に年代問題に終わらない状況となっている。
六、 結論
大都督府は万単位の兵士に多くの文官・官僚を含めて行軍し、占領地にはさらに行政官が大量に派遣される。百済・高句麗の占領併合地には四万四千人の野戦司令部が増設されているので前後合せると九都督府に相当する陣容になり、文官の人数は一五〇〇余人となる、占領が危うくなってくると、この大量の行政官も早々に撤退する。日本書紀にも劉仁願の派遣した朝散大夫柱国郭務宗*の名がある。大夫は従五品下以上の文官の身分を示し、朝散大夫はその従五品下である。職務名として柱国は勲臣の意味で、皇帝の代理として来日した全権大使である。つまり、当時の軍には文官が同行して軍の事務と、占領地の行政を行うのである。彼等は文字文書で仕事をする。周王朝が戸籍の作成から国事を始めたが、これは、識字官僚の存在を証明している。将軍や大臣が文書事務をしているのではない、大量の文官が文書事務をしている。彼等の持ち帰った、あるいは現地からの報告書で、暦に合わせて、文書は整理される。皇帝の年号に合わせて、暦年史料は整理される。絶対年号の意識もある。この中国で、此の時期戦乱で、文書が消失したり、政争で文書が改作された事件はない。旧唐書の六六二年を疑う理由は一切無い。
宗*は、立心偏に宗。JIS第四水準ユニコード60B0
問題は、大和王朝と唐朝の間で、暦に対して認識の違いが有ったのではないかという、問題である。七世紀を遠く離れた時期の日本と中国の間で、同一の事件について年代の認識の違いが発生していることは承知している。だが、此のことをこの七世紀の日本書紀の編者大和と中国の編者の間に、適用することは出来ない。できるなら、この時代の他の事実で異なる事例を挙げる必要がある。私は、知らない。
それでは、何故、日本書紀は、間違っている六六三年を記載したのかと言う問題に移る。
日本書紀は唐朝に提出をすることを前提に作られている。唐朝に提出する必要がなければ、卑弥呼の事跡も、倭の五王の事跡も全部大和の天皇の事跡に書き換えることができる。全ての先行する史書は手に入っている。倭国の文書は全て没収、禁書も徹底している。簡単だ。ところが、先にも言ったとおり、唐朝に提出する事を前提に作ったのだ。私は、独自の仮説として、唐からの要求で作ったと考えている。古事記も唐からの要求であった。古事記が提出されなかったのは、書き直しを要求されたからである。此の問題は、日本書紀の記載の仕方に、特別の書き方の峻別を与えている。七世紀に限って言えば、大和天皇家と隋・唐との交流の事跡は正確に書く、倭国と隋・唐との交流は一切書かない。大和の国内での活動は真偽取り混ぜて国内向けに書く。此の書き方の峻別を行っている。唐と倭国の戦闘は、これは唐と倭国の外交の延長線上の問題である。大和は参戦せず、逆に大和の遣使は中国で戦後処理で密約を行っていたのである。となると、唐は、百済のこの白村江の海戦に、大和は関わっていないことを百も承知である。
しかも、細かいことは、当事者でなかった大和に分かりようがない、倭国から権力を簒奪した大和に、百済の遺臣が状況を細かく話して、気持ちを分かち合う姿勢は期待できない。一般に伝わっていた、日本人の英雄譚を中心に、再構成したのがこの白村江の合戦である。従って、旧唐書に先立つ二二五年前に唐朝に提出した際、この部分は唐の当代の認識と大きく異なることは承知である。本来は、大和と唐朝の間の事件でないわけで、書く必要がないのだが、七二〇年の段階では過去の歴史、誰もが広く知っている事なので、齟齬の無いように適当に書いたのだ。六六二年なのは百も承知だが、故意に六六三年に書き換えて、唐朝に大和の無関与を暗に訴えたのである。
それと、唐朝側の態度も事を明確に証明している。この事のほうが重大である。日本書紀が成立したのは七二〇年であるが、先行する古事記は日本語で書かれ、推古朝までであって、当代の所謂現代史が書かれていなかった。古事記は七一二年の成立であるが、七一三年の遣唐使の時、閲覧した唐側が史書に成っていないと批判をしたのは確実だ。だから、日本書紀の作成を始めたのだ。仲麻呂の在唐期間の早い時期に、再度の提出がされたが、これは、「倭国書」の提出に成っていない、「大和天皇家の年紀」である。中国の伝統の前王朝史を提出すべきなのに、「大和書」を提出したのである。
唐朝は、六五〇年間、倭国が日本の朝廷で有ったことを知っている。大和は、七二〇年の段階では紛れも無く日本の朝廷だが公元前六六〇年から引き続き日本の朝廷で有った事実はない。夢物語に付き合うほど、唐朝の朝廷は愚かではない。不快感と警戒を大和に感じたはずである。中国の中華思想が判断の基準である。事実、仲麻呂の努力にかかわらず、この常識はずれの史書は日本の「史書」として、提出されてからも一度も評価される事はなかった。その何よりの証拠が、旧唐書の日本伝の内容で有る。提出されてから二〇〇年も経過しているのに、日本書紀の四文字の表記も存在しない。日本書紀を最後まで「偽史書」としていた時代精紳が旧唐書の精神である。
これは、新唐書が旧唐書を自大主義・大唐主義・排外蔑視主義と批判した事が全体的には正解であったとしても、こと日本書紀に対する唐朝の判断には、この批判は当てはまらない。この事が、最大の回答である。
事実は、簡単な事情であるが、この六六二年が、後代、新唐書の登場によって、六六三年に変更され、普及して、今日に至っている。
この事が、同時に、古代日本史の秘密を解明する鍵になった。年代問題は難しい前提の議論を必要としない、大衆承知の事実である。いつでも、誰でも、この年代の違いに検討を開始することが出来るし、また、私たちは、この問題を大いに提起できるし、きっと、私以上にこの問題を旨く説明できるだろう。
追記、劉仁軌列伝と文武王六七一年の回想は、当事者の傍らに常に記録する文官が居た事を物語っている。劉仁軌の六六二年二月の演説は、生き生きした臨場感があり、後代の作文では造作不可能である。また、文武王の回想も国内の国民の窮状、唐軍への兵站の援助、国力の息詰まり、戦況の危機的な実態、等どれもこれも具体的で、記録なしには回想を語れない事これも明らかだ。この様に見てくると、当時の国家的な大事件の記録には基本的な誤りは無いと見ておかなければならない。むしろ、後代の解釈で、事実がねじ曲げられて伝わってきたと見て取ることが出来る。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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