2008年12月16日

古田史学会報

89号

1洛中洛外日記より
大化二年改新詔の考察
 古賀達也

2「藤原宮」と
大化の改新についてIII
なぜ「大化」は
五〇年ずらされたのか
 正木裕

「動歩」と「静歩」
 不二井新平

伊倉(いくら)7
天子宮は誰を祀るか
 古川清久

5第十八回
河野氏関係交流会参加と
伊予西条の遺跡を訪ねて
 木村賢司

 

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伊倉1          ーー天子宮は誰を祀るか


伊倉 7

天子宮は誰を祀るか

武雄市 古川清久

伊倉 三十一 
“熊本県芦北町の新たな天子宮の発見”

 荒金卓也氏は二〇〇二年に『九州古代王朝の謎』(海鳥社)を世に問われましたが、その一章をさいて天子宮問題を展開されています。
 中でも旧免田町久鹿の天子神社を始めとして人吉盆地に集中する天子宮、天子地名(二十三ケ所)をかなり重要な要素とされています。このことは、同著の裏表紙に久鹿の天子神社の写真を掲げられている事でも明らかです。
 これまで氏の調査を信頼し、また、重複をさける意味からも、荒金卓也氏が取上げられなかった領域の調査に重点を置いてきましたが、この人吉盆地については個人的な関心(川辺川ダム問題、民俗学、地名、河童伝承・・・)もあることから、改めて全体を確認する必要があると思うようになりました。
 このため、既に天子宮を意識したうえで一度は簡単な調査しましたが、再度、荒金氏が調査された範囲を全て自分の観点で確認し、さらに、人吉盆地に分布する大王神社(五、六社はありますが、恐らくこれは天子宮の敵対物と考えています)と、以前から気になっていた王宮(オウグウ)神社までを対象にして調査することを思い立ちました。
 結果、大王神社については全く進展がありませんでしたが、王宮神社についてはささやかな成果を得ることになります。実のところ個人的には実に驚くべき確信を得るに至ったつもりでいます(これについては別稿とします)。
 ともあれ、九月八日(金)の夕方から人吉に向かいました。時間を有効に使うために、仕事を終えると直ちに車で八代まで移動しました。いつものように民俗学者を気取った高速道路を使わない旅ですが、古川定跡によって同伴者は落語だけとなります。今回は桂米朝全集(CD)から一〇枚二十噺ほどを持ち出しましたが、米朝師匠を同伴する実に楽しい旅だった訳です。実のところ私の夏休みとは毎年このようなことの繰返しばかりです。さあ、二度目の人吉天子宮調査の始まりです。

 

 行き掛けの駄賃

 佐賀を通過し柳川に向かって走っていると、以前、熊本県芦北町湯浦温泉に天子宮があることを教えて頂いた吉田先生から携帯に連絡が入りました。
 湯浦の天子宮を確認して感触を得たことから、先生に芦北町史や津奈木町史を調べてもらっていたのですが、「芦北町にいくつか把握していない天子宮があることが分かったので資料を送ります」とのことでした。このため、「今、八代に向かっており、芦北経由で人吉に入る(八代球磨村よりも芦北町球磨村ルートの方が楽なのです)予定です」とを告げて、翌朝ご自宅に伺うことにしました。
 資料を見ると、天子宮について肝心の『芦北町史』にはほとんど記述がないのですが、『津奈木町史』の方には同町平国の天子宮に合わせて芦北町、田浦町の天子宮にふれてあったのです。

 景行天皇を祀る神社として平国の天子宮(てしぐう)(平国神社)、芦北町湯浦町天子宮(栫より移す)、同町道川内の天子宮(道川内神社)、同町乙千屋の天子宮(乙千屋神社)、田浦町宮浦の天子宮(宮浦神社)がある。

 翌日、吉田先生との話もそこそこに、さっそく、この道川内と乙千屋の天子宮を見に行きました。現在、芦北町は佐敷川と湯浦川が海岸付近で合流し海に注いでいますが、恐らく、『万集集』の時代には四、五キロは内陸部まで湾入し、道川内も乙千屋も汀線にあったと思われます。

  野坂の浦(『万葉集』巻三)
 芦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ
        (『芦北町史』より)

 この道川内の天子宮、乙千屋(オトジヤ)の天子宮は、『万葉集』の野坂ノ浦と思われる場所にあるのです(野坂ノ浦については田浦説、芦北説を始めとして明治以来の論争があります)。
 道川内は佐敷小学校付近、乙千屋は芦北高校付近といずれも芦北町の中心部に近い、かなり奥まった集落でしたが、現地に行くと、『津奈木町史』に書かれたとおり、鳥居には確かに天子宮と書かれていたのです。
 今のところ、二社ともに古くは「天子宮」と呼ばれていたものが「天子神社」「○○神社」と名を変えているということ。また、二社ともに、恐らく公的には祭神を景行天皇としてはいるものの、景行が対外的に天子を名乗ったという話もなく、表看板としての祭神では判断できないということ。むしろ、地元において「天子宮」と語り継がれて来たことにこそ重要性を認めるべきである。というところまでは言えるのではないかと思います。

 栫地名について

 なお、『津奈木町史』の(栫より移す)の栫、囲(かこい)は中九州以南に目立つ地名であり、熊本地名研究会を中心に蝦夷征伐によって移配された俘囚、俘虜の居留地を意味する地名ではないかと考えられています。
 既に報告した湯浦の天子宮は、現在、湯浦小学校のある小丘にあるのですが、地名成立時代において、この小丘の下にも海が深く入っていたと思われます。そして、今も、この湯浦小学校と湯浦中学校の間には「栫」という地名があるのです。
 ここで、いつもの“思考の冒険”をお許し願いますが、もしも「栫」地名が蝦夷からの俘囚を居留させた所であるとした場合、この蝦夷からの俘囚を熊襲、隼人に向けた可能性があること。敵を敵に向けて戦わせるという戦略の中で、本来、天子神社が存在したとされる場所が俘囚の居留地(駐屯地)として占領された可能性があることを見たいのですが、無論、想像の範囲を超えるものではありません。

 

伊倉 三十二
 “錦町の天下神社は天子宮か?”

 芦北の新たな天子宮二社の発見は気持ちを高揚させるに十分でしたが、逸る気持ちを抑え、次の調査地である人吉盆地に入りました。
今回で二度目になる人吉の天子宮調査は、とりあえず、天子地名のある場所を全て踏むという非常に場当たり的なものでした。インター・ネットなどによる事前の洗い出しによっても具体的な社祠などが発見できず、前半は全く成果が上がらないものでした。とうとう疲れ果て、天子地名があることになっている辺りの源泉掛け流しの共同浴場に入って地元の人に聴き取りするというお粗末な調査をするはめにもなりましたが、その後、三つの天子宮と思えるものに出くわす事になります。私流に格好良く表現すれば「知的探検」ですが、やはりフィールド・ワークはやめられません。

 天下神社の感動

 荒金卓也氏の『九州古代王朝の謎』(海鳥社)に書かれていた二十三ケ所の天子地名を確認する作業の中で、氏も指摘されていた天下、天降、天師といった呼称を変えた、もしくは表記を変えたと思われる地名がいくつかあります。
 これについても可能な限り現地を踏んだのですが、大半は字名だけとか通称地名だけが残っている程度で、既にそれさえも忘れ去られつつあるというものが実態でした。しかし、稀には天子宮の原形ではないかと思われるものに出くわします。
 人吉市の東隣の錦町に入り、天子地名があるという一帯を走り回っていると、“ここはどうも何かありそうな”と思える一角に辿りつきました。
 車一台がやっと通るような谷底に下る林の中の小丘に天下(アモリ、アモイ)神社を発見しました。祭神は阿蘇神社と同体であると、後に合祀された八坂神社(旧称祗園社)の縁起に書かれていました。一回限りの現地調査ではこれ以上のものは何も分かりません。年号を記載した碑文とか起源を記した文書などが簡単に発見できる事は通常ありません。最低でも土地の古老数人にじっくり話を聴く必要がありますが、これは絞り込んで永く通わなければ不可能です。幸い私自身が入会している熊本地名研究会(住吉献太郎先生をヘッドに多良木町地名研究会だけでも三十名以上の会員がおられます。住吉先生については別稿で詳しくお話します)のルートがありますので、いずれ試みて見たいと思います。このような素朴な社殿を見ると、なにやら面白い話でも聴けるのではないかと考えています。
 仏教(多数派の浄土教系)では造像起塔を戒めるのが本来の考え方ですが、これと同じ事は神道でも言えるでしょう。時の権力からの支援や保護を受けずに人吉盆地でひっそりと息づいてきた天子宮(天下神社)の原初的な形態を発見した思いがしてしばし感動を抑えられませんでした。民衆の自らの存在を確認する思いとはかくも強いものなのです。
 また、社の右手に小さな祠があり仏像が納められていましたが、光背を見るとなにやら釈迦三尊像でも見るような思いがします。

 京ヶ峰横穴古墳群

 さて、穴掘り考古学については門外漢ですが、この九州限定の横穴墓は熊本県の玉名市、菊池市外に数多く認められる墓制です。門外漢の私でさえ人吉盆地の京ヶ峰横穴古墳群の名前だけは以前から知っていました。そして、この遺蹟がある場所は前述の天下神社の直下なのです。 
 してみると、天下神社がある小集落が京ヶ峰であり、峰とは川に臨むこの断崖のように思えてきます。実は、この墓制にそっくりなものが揚子江流域の少数民族の一帯にあります。極端なものに至っては桁だけを掛けて崖の中ほどに木棺を渡すものまでありますので驚愕の墓制なのです。 
天下神社を守ってきた人々のルーツが揚子江流域から渡って来た呉越の民に思えるのですが、無論、他に根拠があっての話ではありません。何やら「呉は太伯の後」が気になってきます。

 

伊倉 三十三
 “八代徳淵港の正倉院説と、天子宮調査のお粗末な実態”

 今回の人吉の天子宮調査は鼻から濃厚なものでした。まず、八代で一泊し八代河童共和国大統領の田辺達也のご自宅を早朝から訪問しました。朝食をご馳走頂き、調査をお願いしていた件の結果をお聴きできるからでした。
 お願いしていた件とは、鏡町の印鑰神社に八代市教育委員会による解説があるのですが、そこに八代の徳淵港に正倉院があったとの記述があったからでした。この徳淵港は中国から河童の渡来伝承のあるところであり、鏡町は大統領の母上の出身地でもあったためでした。地元八代史談会など強力なネットワークをもたれる大統領ですから直ちに第一段階の資料が入手できました。
 どうも根拠は小早川文書の記述のようであり、『肥後国誌』にも「徳淵川端ニアリ或説往古ノ正倉院・・・」という記述があるのです。
 当然ながら早々に官邸を飛び出し現場に向かいました。「かつて徳渕港に正倉院があった」という現場に到着するや、そこに密やかな春日神社があることが確認できます。言うまでもなく、春日大社とは藤原氏の一族繁栄の為に常陸の国から戦神(イクサガミ)を移したものですから、早くも様々な妄想が廻ります。当然ながらこれは別稿とします。
 さて、芦北に向かうことになります。八代から芦北へは新直轄方式の無料の高速道路(日奈久?田浦)が部分的に完成していますので三〇分もあれば着いてしまいます。
 芦北の新たな二つの天子宮の発見は既に報告した訳ですが、結果、正倉院の確認と併せて半日を費やしました。このため、人吉盆地での初日の調査は半日足らずとなり、錦町の天下神社(これも報告済み)を確認できた以外は目立った収穫もなく、ただただ、天子地名の存在する辺りを何か見つからないかと走り回った以外は大した成果もなく疲れ果てて宿に向かう事になります。予約しておいた源泉掛け流しの良泉を持つ三浦屋ビジネスホテルに着くのは八時頃となります。といっても、休憩と称して未湯の温泉に入るのですから遅くなるのは当然です。この日も昼から名旅館「翠嵐楼」を始めとしてしっかり三つの温泉に入って三浦屋の温泉にも入るのですから、天子宮の調査なのか温泉旅行なのか分からなくなってくる始末です。しかし、この三浦屋の温泉は源泉賭け流し目白押しの人吉でも特筆大書の温泉になるでしょう。本当は温泉の話を書く方がよほど気楽なのですがそういう訳にも行きません。
 ともあれ、こうして人吉における二日目の調査が始まりますが、こちらは熊本地名研究会の重鎮住吉献太郎先生のご協力を得ることになりました。既に、前日と前回の調査で、単なる天子(天下、天降、天師・・・)地名の痕跡はほとんど回っていましたので、先生とは朝九時に多良木町役場で待ち合わせ、天上楽園の人吉でも分水峯を越えた謎の隠れ里集落槻木(ツキギ)に入ることとしました。ここは、昨年、直径一.四メートルの石球が出た所です。現在、真言の大師堂に置かれているのですが、そこに樹齢六百年の高野槙があるため出かけてきたのでした(思いつきに過ぎませんが、百済の王族が送ったとされ石上神社に祭られる七支刀のイメージとはこのような高野槙の大木なのかもしれませんね)。
 ここは、二十年ほど前に一、二度民俗学的興味で入った集落ですが、住吉先生のご案内で、外にも色々と興味深い中世の史跡などを見せて頂きました。役場から片道一時間の集落である槻木から戻ると早くも昼食時間になります。久米とか思川(オメイゴウ)といった興味深い集落などを方々見て回るとどうしても直に時間が消えてしまいます。
 お昼は住吉先生行きつけのラーメン屋でご馳走になり、再度、調査に周りました。実はここから新たな二つの天子宮の発見になるのですが、これも別稿とします。
 二日目も未湯の温泉をプラスして人吉盆地の定宿「松屋ビジネス・ホテル」に泊まることになります。この源泉掛け流しの内湯「朝日温泉」も特筆大書ものですが、皆さんも一度人吉においでになりませんか?元湯を筆頭に共同浴場だけで十?二十はある人吉は、知られざる名湯の泉都でもあるのです。

 恐らく、古代においても大和朝廷の侵略軍であった大友旅人や久米の一党も、また、それを迎え撃った熊襲(隼人)の先住者達も温泉で疲れを癒していたのでしょう。江戸落語、古今亭志ん生の「黄金餅」の序のような話ですが、「私も少々くたびれた・・・」。

 

伊倉 三十四
 “球磨焼酎と多良木町久米の天子”

 九月九日、人吉調査の二日目です。昼食を済ませて住吉先生のご案内による地名、民俗に関する現地踏査を行なっていると、突如、地元の造り酒屋に連れて行かれました。 
 この醸造家は先生の教え子だったのですが、人吉盆地で最も小さな酒屋ながら国際モンド・セレクション二〇〇六、二〇〇七年金賞受賞(「鴨の舞」)という球磨焼酎を造っておられたのです。(有)那須酒造:多良木町久米695。
 現地は多良木町大字久米の球磨川左岸に広がる農耕地ですが、元は扇状地であり湧水に頼った耕作が行なわれていたものと思われます。 
 それはともかくとして、先生は「たぶん天子を知っているだろう・・・」と言われておられましたので、ここに天子があることはご存知だったのでしょう。造り酒屋の奥様の案内で数百メートル離れたところにある畜産農家(乳牛の肥育)に伺いました。丁度、遅いご昼食中でご迷惑をおかけしたのですが、お話によるとほ場整備事業が始まる前までは六畳程度の湧水地があり傍らに小さな祠があったが、それが天子で現在は自宅の敷地に移している。水はほ場整備によっても止まらず、暗渠排水を入れて水路に流しているとのことでした。しかも、住吉先生がお持ちになった字図を見ると確かに天子という字が確認できたのです。また、石塔には「水神塔 八月吉日 明和七庚寅 天子」と書かれていました。
 一般的に、ほ場整備事業が行なわれると、その換地工区内の字名の変更、新設が行なわれる場合が多く、地区外の宅地だけに旧字名が残り、ほ場整備の行なわれた場所は田圃の形状変更に止まらず、字名までも一変することが多いのですが、幸いな事に「天子」字、造り酒屋のある「宮田」字は残ったものと思われます。
 また、宮田、神田、祭田、(寺田は寺院ですが)といった地名はその地域の鎮守社維持のための共同耕作田であった事が多いようですので、この宮田字ももしかしたら「天子」のためのものであった可能性があります。
 現地と天子字が一致していることから、この一帯のほ場整備の工事工区と換地工区が小さくほぼ一致していたことから消されなかったものと思われます。もちろん、現在でも昔のほ場整備以前の従前図は残されている可能性はありますが(換地計画書は熊本県が保存しているはずです)、現段階ではそこまで調査する必要はないでしょう。天子と天子字は一致しているのです。
 石塔の天子の「子」の字は欠落しているようですが、天子と書かれているはずです(なお、明和は1764.6.2?1772.11.16)。
 住吉先生は、以前お話した時も「人吉盆地の天子という地名は湧水のあるところに多い」と言われていましたが、これなどまさしく典型といえるでしょう。
荒金卓也氏が拾い上げられた人吉盆地の天子地名二十三個はこのようなものが大半で、旅行者程度の目に留まる社祠にまで高まっているものはほんの一部に限られるようです。
これが、一応全部を踏査しても旧免田町の久鹿の天子神社、旧深田町草津山の天子神社や錦町京ヶ峰の天下神社のようなはっきりしたものにはなかなか出くわさなかった理由のようです。
 住吉先生のような地元の伝承に明るく現地を知り尽くした方がおられなければ、おいそれと成果は出ないものなのです。この例でも、外来の単独の調査では大半を見過ごしていただろう事は間違いないでしょう。
 この事について別の側面からも考えて見ます。現在では水道の普及によってあまり問題が生じないのですが、今でも神社を移設し新たな社殿などを造営する時には、必ず水があるところを選ぶという風習が生きています。少し考えれば分かる事ですが、ほとんどの神社には必ず御手洗水があるものです。これが、「神さんには水がなきゃいかん・・・」という意味であり、湧水の多い人吉にそれだけ多くの天子社が広範に分布していたということを意味していると考えられるのです。また、同時に権力からの支援を得ることができなかった小さな祠程度のものが大半であった事を示しているのではないでしょうか。

 

伊倉 三十五
 “人吉盆地最大の天子神社の発見(多良木町王宮神社)”

 王宮神社と書いてオウグウと読みます。人吉盆地に五つある大王神社とは異なります。もちろん、大王神社も調べる価値があるのですが、どうも天子宮とは全く異なるもの
との印象を持っています。
 関東御家人の相良氏が頼朝の命により人吉の荘の地頭として下向して以来、その地形からして隠れ里的な場所だけに、在地権力を徹底して叩き潰し大規模な焚書も行なわれた形跡があると聞きます。このため、相良以前の記録が殆ど残っておらず、はっきりしたものにはなかなか辿りつかないようです。
 王宮神社の話に戻りましょう。この神社は人吉盆地の東半の中心地である多良木町役場から球磨川を渡った右岸の黒肥地(くろひじ)地区にあります。
 まず、人吉盆地最大の神社は人吉市街地の中心部に鎮座まします青井阿蘇神社ですが、第二の神社はと考えるとこの王宮神社になるのかも知れません。それは社殿の規模による印象に過ぎませんが、どうもこの神社が天子宮に思えるのです。この神社は前日下見をしていましたが、表看板としては神武天皇が祀られており、今まで見てきた天子宮とは異なります。
 しかし、その後驚く事に気が付くのです。きっかけは、伊倉 三十四“球磨焼酎と多良木町久米の天子”に登場頂いた住吉先生との雑談でした。久米の天子に天子という字地名と湧水地が一致していた事を確認した直後でしたから、なお一層鮮明でしたが、実は先生のお住まいの場所が王宮神社の裏手の集落で「天子前」だと言うのです。私は「じゃあ、天子とは王宮神社の事じゃないですか・・・(そうに決まっていますよね)」「そうじゃないと思っていたが、あんたの話を聴いていると考えが変わってきた・・・」といった会話が車中で飛び交ったのでした。
 今後、王宮神社について『肥後神社誌』などの調査を行う事、字地名と現在の王宮神社の位置関係の確認、神社自体の調査が必要になります。しかしこれらの基礎的な事を既存の地元郷土史に明るく熊本地名研究会の重鎮でもある住吉先生がご存知でないはずはないのであって、それほど期待はできません。八世紀に消された古代王権の痕跡が探れ、既存の残存史書からその片鱗が簡単に発見できるとは考えられないからです。
 ここでの考え方として注意すべき点があります。それは、元々「天子」があった場所の上に破壊的に王宮神社が造営されたのであり、本来の天子宮とは全く性格の異なるものであるとも考えられるのです。言い換えれば、反「天子」とでも呼ぶべきものである可能性も否定できないのです。しかし、仮に、反「天子」が「天子」の上に聳え立ったのであれば、隣接する「天子前」なる字名を残しておくとは考え難いのですがいかがでしょうか。
 社伝からすれば、神社の造営は征服者であるはずの大友、久米によるものであると言えるでしょう。もしも、大和朝廷の武闘派が征服後に持ち込んだ神社であれば、「八幡」とか「伊勢」とかにしそうじゃありませんか。
 私見はこうです。社伝に「・・・帝廟(天子のみたまや)を勧請した・・・」とあるように、やはり元は天子宮だったはずなのです。それは破壊した後の再建である可能性が否定できません。球磨川左岸には大字久米があります。恐らく征服者達は征服後の抵抗と多くの残虐行為への謝罪を込めて天子宮を復活せざるを得なかったのでしょう。しかし、「天子宮」、「天子の御霊廟」との名称は残す事ができずに、折衷的な「王宮神社」とされたように思うのです。
 もちろん、字地名(原初地名)の成立の時期をどこまで遡るかの問題はあります。一説ではありますが、この王宮神社は「久米の元天子」と呼ばれていることがネット上に出てきます。さらに、王宮神社の下手から多良木中学校に渡る橋があるのですが、それが天子橋という名なのです。どう見ても王宮神社は天子宮に思えるのですが、これも住吉先生から教えていただいた事です。
 また、「その後、現在地に遷座したもので祭神は神武天皇である。」との社伝ですが、地元の被征服者に対しては「天子神社」、公式には神武天皇としたため「王宮」神社となったとも思えるのです。

 ・・・多良木源島に帝廟(天子のみたまや)を勧進した。その後現在地に遷座したもので、祭神は神武天皇である。
   楼門の解説(熊本県教育委員会)

 非常に限られた条件を素直に理解すれば、看板は架け替えてはいるものの「王宮神社」という異質な名称からして、やはり天子宮であったと考えるべきではないかと思うのです。
 少なくとも宇佐、西都原方面から大和朝廷による侵攻が行なわれたことは間違いないでしょう。そして、この人吉盆地では大和朝廷と熊襲、隼人の勢力が激突したはずです。そうであるならば、大宮神社の規模からして、侵攻によって生じた被征服者の犠牲者とその祭神を追悼したものであると思うのです。さらに思考の冒険を進めれば、大和朝廷が人吉に侵攻した理由は、白村江の敗亡によって生じた九州王朝抵抗派が隼人の領域に亡命地を求め楯篭ったからであり、多良木はその連合軍の最大拠点であったと考えたいのです。
 なお、この王宮神社は多良木町大字黒肥地にあり、字名は「是居下」「瀬居」(住吉先生によれば「ゼイで構わない。地籍調査時の問題で是居が正しい」との事でした。)であり「天子」ではありません。久米から移されたのですから、元々は、伊倉 三十四“球磨焼酎と多良木町久米の天子”に登場した「天子」字にあったのかも知れません。
 してみると、住吉先生はこの黒肥地の「元天子」王宮神社の監視役にも思えるのですが、どうでしょうか。住吉とくれば当然ながら、まず海人族です。宇佐、中津に近い福岡県築上郡吉富町には八幡小表神社(細男の舞で有名です)がありますが、元正天皇の御代、この一帯からも隼人征伐に住吉の民が動員(動員は陸軍であり、海軍は出師と書くのが正しいですか)されたはずです。ここから先は冗談ですが、恐らく住吉先生はこの大和朝廷の海軍陸戦隊の生残りであり、復員できなかった住吉の民の末裔ではないでしょうか。そうでもなければ、海人族がこのような山奥にいるはずがないのです。
 王宮神社の下手から多良木中学校に渡る橋があるのですが、それが天子橋という名なのです。


 これは会報の公開です。

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