『越智系図』における越智の信憑性 『二中歴』との関連から 八束武夫(会報87号)
「温湯碑」建立の地はいずこに 合田洋一(会報90号)第十八回 河野氏関係交流会参加と伊予西条の遺跡を訪ねて
豊中市 木村賢司
十月十九と二十日の二日、上記の旅をした。交流会参加は早くから決めていたが、西条訪問は急遽決めた。それは、九月例会で正木さんが伊予西条に「熟田津」の候補地がある、と報告されたので、その場所をこの目で見ておきたいと思ったからである。元々の予定は南伊予の大洲と宇和島を訪ねるつもりであった。
十九日午前六時発の新幹線に乗り、岡山で潮風1号に乗り換え、伊予北条に着いたのは午前十時前にであった。北條を訪ねるのは四度目である。交流会は十二時三十分からである。早速、鹿島の見える波止場に行き竿を出した。本ベラと磯ベラばかりで魚の値打ちはないが、入れ食いで三十尾程釣り満足。釣り場で昼食を済ませて会場の北條ふるさと館に向かった。
県外者受付で氏名表を提出すると、会長を呼ぶので待てという。竹田会長、新田さん、合田さん等のなつかしい顔が現れ挨拶。早速「ふるさと館」の四階の四方ガラス張りの部屋に入る。東西南北、即ち西の鹿島、北の恵良山、東の雌甲山、南の宅並山より狼煙をあげられるのを見るイベントである。残念ながら白煙が空の色と同じで雌甲山から以外はよくわからなかった(黒煙のほうが良かったかも)。
講演会場に入るとすぐに「来島水軍狼火太鼓」の演奏が始まった。七名のうち六名が女性演奏者、でも、迫力満点、最前列で聞いたので、なおさら太鼓の音が腹に響いた。毎年のことながら講演前の楽しみの芸能行事で今年もよかった。
講演前の竹田会長の挨拶で大阪から木村さんが今年もこられた、と北海道からこられた林様と一緒に紹介され、面はゆい思いをした。来賓の祝辞の跡、いよいよ講演。今年の演題は「来島から珍島へ」である。いつもと違う演題に少しとまどっていたが「来島保存顕彰会事務局長の村瀬牧男氏」の話は日韓友好の民間実践進行形の実話で実に気持ちよかった。私は今年、はじめて韓国を訪ね、話の中心の韓国の英雄「李舜臣」の銅像を釜山の丘で見てきているので、より親しみを覚えた。
講演の概略はこうだ。秀吉の朝鮮侵略時に三島村上水軍の一つ、「来島通総」が三百余艘の軍船の大将として、朝鮮側の李舜臣の有名な「亀甲船」わずか十二隻と戦い大敗北した(慶長の役)。戦った場所が珍島と半島の狭い「鳴梁海峡」であった。通総は五本の矢を受け海に落ちたところを敵船に上げられ殺された。大将を失った日本軍船は士気が衰えたところを、総攻撃を受け、海峡海流と船の構造の違いもあって大敗北をした。多数の戦死者が海岸に打ち上げられた。それを珍島住民が「倭徳山」というところに葬り、これまで四百年余供養し続けてこられた。これを伝え聞いた来島保存顕彰会の方々が今年の八月十五日に現地を訪れ、お墓参りと現地の方々に御礼をした。これが韓国のTV、新聞に大きく取り上げられ、民間友好として高く評価された。友好はその後も続いている。「韓国珍島郡」の官民あげて歓迎を受けた様子を詳細に報告された。
敵を祭る。四百年余その事実を知らなかった日本人。知って訪れ、友好を深めてきた、来島保存顕彰会の素朴で真摯な行為に感動を覚えた。この講演が何故河野氏交流会で実施されたか。通総の父、通康は河野弾正通直の娘を嫁とした。通直は一時家督を通康に譲った。が河野一族に不満が起こり、結局通康は河野の家督を継ぐのを諦めた。でも、河野の家紋等は受け継ぎ戦国の世を生き残り、河野本家は滅亡したが通総の子供、通親から久留島一万二千石、豊後森藩として残り、明治まで続いた。いわば来島(久留島)は村上であり、河野氏一族であった。また、通総は当時、ここ北條に領地を与えられていた(風早千四百石)。「古田史学の会・四国」の竹田会長も珍島の現場を訪れ共に墓参りと友好を深められた、とのこと。鳴梁海峡は来島海峡によく似た激流とのこと。底の浅い亀甲船に有利で、船底の深い日本船は不利であった。
講演は終わった。明日は西条「熟田津」候補地を訪ねる。今回も新田さんが車で案内してくれるという。合田さんが「新説伊予の古代」と云う本を数日の内に発刊予定とのこと、そこでも西条「熟田津」について触れているという。今回は正木さんの資料を元に訪ねることにしている、と伝える。
翌朝八時に例年の旅館(太田屋}に新田さんと友達(お名前失念)が迎にきてくれた。車に乗るとすぐ斉明天皇の行幸伝承記載の「無量寺由緒」コピーを戴く。そこで斉明天皇行幸伝承場所(朝倉)等も案内頂くこととした。
最初に案内頂いたのが、今治市「宮ケ崎にある八幡神社」斉明天皇が行幸され、丘(冠山)から朝倉郷等を国見して、ここに宇佐より八幡宮を勧請した、との由緒。階段は苦手と云うと、いきなり坂道を歩かされた。今は鉄筋の八幡宮、脇宮に中大兄社あり。京の石清水八幡より古いが自慢のようだ。創建紀元六五一年。
次は旧朝倉村古谷にある「竹林寺、文殊尊、牛神古墳公園」である。この谷の奥に「多岐神社」があり、そこの古墳群は前回訪れている。次は上朝倉にある「無量寺」を訪ねた。途中に天狭貫(小千御子の子)を祀る「矢矧神社」があるが前回に訪ねているので割愛した。無量寺の由緒に『当寺はその昔、阿弥陀寺と号せしが歳月を経て車無寺と云い山号を「両足山、院号を安養院または天皇院」ともいい、・・・斉明天皇当国に巡狩し給える時、供奉の中に無量上人・・・一寺を建立・・・聖徳太子が一刀三礼の作、阿弥陀如来を以って本尊とする。・・・』とあり、また、両足山安養院無量寺由来に越智の系譜を踏まえた,斉明帝との関わりなど奇怪な文がある。山間にあるにしては、かなりの寺で棟瓦等に菊の紋、桐の紋を施していた。
次はその「斉明天皇の供養塔」を訪れた。寺からそう遠くない山畑の片隅の木の元にそれがあった。小さな五輪塔まがいの墓であった。大小二基あり斉明天皇だけではないようだ?
朝倉村から周越トンネルを抜けると平野が広がる、西条市である。新田さんと友達がこの平野は「道前平野」であると云われた。松山が道後平野であるのに対しての名前である。国道一九六号線に入り、今治市側にバックして、「永納山」古代山城に案内すると云う。私は知らなかったが古田先生も合田さん等と見られたとのこと。さして高くない山の頂上近くに神籠石の様な石垣が回っていた。隙間のない石組みでないので、一般に云われる朝鮮式石組み風であった。まだ、調査中なのか青いビニールシートが被せてあるところがあった。私がこれまで見てきた山城の中で最も低い位置で、規模も小さそうであった。
東予市に入ったので国道沿いの「鷺の森神社」に寄った。「河野通盛」が海岸を埋め立てて、伊勢神宮を勧請した。植えた楠木が大木となり、鷺が群れるようになったのでこの名前がついた。二度目の訪問である。さらに少し国道を進むと「長福寺」である。「河野通有」の墓がある。通盛の父で蒙古合戦(弘安の役)の勇者である。ここも二度目であるが寄った。河野の紋(折敷縮み三文字)は当然であるが、何故か山門に足利の紋(丸に二引)もあった。通盛も通有も私の遠い祖先ということになっている。
さて、いよいよ「熟田津」の候補地の西条市に入った。「新中山川」右岸に沿って河口に出た。広々とした河口であった。でも、小さな釣り船が少し係留されているだけ、大型の船は入れないようだ。河口の先端を回ると今度は「加茂川」左岸になる。これまた、広大な河口である。でも、船は見えない。新中山川河口右岸と加茂川河口左岸の堤防の内側は運河で水郷のようになっている。新田水郷である。万葉の時代はまだ海の浅瀬であった筈と解った。
正木さんが訪ねよ、と云われるJR予讃線石鎚山駅近くにきた。先ず「湯の谷温泉」を訪ねた。平野の真ん中に一軒あった。温泉宿の雰囲気は全くない、大きな寂れた銭湯といった感じであった。ピンとこなかった。そこから、石槌山神社参道の朱色の大鳥居が見えた。まあ、温泉があることは確認できた。
次は安知生というところにある「石湯八幡宮旧跡」を訪ねた。寺の裏地にあった。周りは田んぼである。五〇坪ほどの空地があり、そこに「石湯八幡宮旧跡」と「西条史談会」名で書かれた票柱が立てられ『現在川之内の橘新宮神社に遷宮している石湯八幡宮の旧跡である。熟田津の伝説の地とされている』とあった。
そこからは真南に「伊予の高嶺(石槌山)」が晴れていれば見える。この日は残念ながら薄曇で手前の山脈は見えたが奥の石槌山は確認できなかった。なお、新田さんは松山道後平野からは「高縄山」は見えない。高縄山は伊予の高嶺とは云い難いと云われた。私も北條(風早)の高嶺か・・・と思った。現在は海岸から遠い、ここ石湯八幡宮旧跡は、万葉時代には近くまで海が入り込んでいた、と想像しなければならず、そうかなー・・・という感じである。
最後に南の高台にある、「橘新宮神社」に寄った。そこの脇宮として「石湯八幡宮」があった。橘新宮神社も古く千三百年祭が近年に行われていた。また、本殿の形式や鳥居の形などにその古さ(伊勢神宮式)が感じられた。そして、ここからは西条市街が見渡せる。
旅は終わった。JR西条駅まで送ってもらい、新田さん等と別れた。感謝・大感謝である。ホームに入ると、雄大な石鎚山の絵看板が掲げられ、西日本最高峰、伊予観光名所、ナンバーワンとPRしていた。そういえば、越智・河野の系譜に石鎚山のこと、一言もないな・・・。高縄山はあるのに・・・何故か?
帰阪して、この旅行記を書き初めていると、合田さんから「新説伊予の古代」が贈られてきた。早速読んだ。幸いそこに書かれている場所は殆ど訪ねている。だから、地理感はバッチリである。今一度ゆっくりと読み、私なりにウンウン、イヤイヤ、を楽しみたい。それにしても、合田さんはすごい、えらい。新田さんが、愛媛の古代史関係の中には合田さんに批判的な人もいる、と心配される。私は古田史学の宿命、まだこれから、楽しんで、待って、希望したい、と思った。
さて、さて、熟田津。これで私は熟田津候補地と云われる「松山市三津浜」「西条市石湯八幡跡」「北九州遠賀川流域の鞍手町新北」「佐賀県の筑後川河口の諸富町旧新北村」の四箇所共に訪ねたことになる。西条説、確かに有力であるが、何故「津」がなくなったのか、洪水、地震説では、なお疑問。
*伊予の国、古代の謎を、解く鍵を、蔵する土地か、合田・正木の発掘期待。
‘〇八.十一.十五
これは会報の公開です。
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