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大山祇神社の由緒・神格の始源について -- 九州年号を糸口にして 八束武夫 (会報88号)
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「温湯碑」建立の地はいずこに 合田洋一(会報90号)
越智国に紫宸(震)殿が存在した! 今井久(会報98号)
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「温湯碑」建立の地はいずこに
松山市 合田洋一
はじめに
二〇〇八年十一月一日、多くの方々のお力を戴き幸いにも拙書『新説伊予の古代』(創風社出版)を上梓することができた。しかし、その中にあって一 部に検証不足のところがあったことから、作業仮説とせざるを得なかった。その後日をおかずしてそれらの幾つかに重要な発見・進展があったので、なお研究の 途上ではあるもののその一端をここに発表することにした。
それは、聖徳太子道後来湯説を物語る唯一の根拠であった『伊予国風土記』逸文に遺されていた「温湯碑」建立の地は一体何処であったか、その真実に迫るものである。
一,伊予の古代を飾る「珠玉の伝承」の検証
古今、道後温泉や道後平野の古代史を物語るものとして、聖徳太子来湯説にまつわる『伊予国風土記』の「温湯碑(湯ノ岡ノ石碑)」や「伊社邇波いざにわの岡」、また『日本書紀』記載の舒明天皇の「温湯宮」、斉明天皇の「熟田津石湯行宮」、そして『万葉集』の額田王や山部赤人にまつわる「熟(飽)田津」・「射狭庭いさにわの岡」などが燦然と輝いていたのである。それに対して私は、拙書『新説伊予の古代』の中で通説の道後ではなく、その地は越智国内の朝倉及び西条であると論じた。その所以を以下の諸点において論証した。
1,聖徳太子は作られた虚像であったこと。それは、大和王朝に先立つ王朝であった九州王朝の“日出ずる処の天子・天多利思北孤”の事績を抹殺して、大和王朝の厩戸皇子に換骨奪胎したものだったこと。
2,松山市道後には舒明天皇や斉明天皇の行宮跡の遺構も伝承もないこと。
3,道後平野(松山平野)には熟田津の地名遺存も伝承の地名もないこと。
4,奈良時代以前においては伊予の温泉は道後だけではなく、越智国内の朝倉(現今治市)にも温泉があり (1)、また西条市にも温泉があったと思われること。(2)
5,道後の地名及び温泉郡の行政区分は、奈良時代中期以降の設置であること。
6,現在道後にある伊佐邇波神社は、伊社邇波の岡との関連は不明であること。
7,山部赤人が「伊予の高嶺たかね」と詠った石鎚山を望む地は、道後ではなくその情景は西条が最も相応しく思われること。
8,西条の「橘新宮神社」にあるご神像の内部及び『旧故口伝略記』に“熟田津は西田なり”とあり、また『萬年山保国禅寺歴代畧記』(保国寺縁起)にも同様の記述があること。(3)
9,朝倉に斉明天皇の行宮伝承の「木の丸殿」(所在地・行司原)があること。
10,朝倉に伝・斉明天皇陵(所在地・朝倉上)があること。
11,朝倉に斉明と言う地名があって(所在地旧名・皇之原、現地名・太之原のうち)、ここは斉明天皇の「橘広庭宮跡」とも言われる伝承地であること。
12,朝倉の無量寺に伝わる『両足山安養院無量寺由来』に斉明天皇朝倉行幸の記事があること。
13,同書に朝倉天皇・長坂天皇・長沢天皇などの不思議な天皇名(九州王朝の天子名か)の記述があること。
14,同書の「十方寺由来」に舒明天皇朝倉行幸の記事があること。
15,旧東予市の須賀神社の祭神は中河天皇という不思議な天皇名であり天皇多元説を思わせる地であること。
16,朝倉に天皇橋があり、またこの近辺の越智国内には天皇という地名が二ヵ所もあること。
17,西条に斉明天皇行宮伝承のある御所神社(所在地・古川)や石湯八幡宮(旧所在地・安知生、現在地・洲之内の橘新宮神社)があること。
18,西条に天智天皇行宮説のある御陵神社(所在地・早川)があること。
19,今治に天智天皇にまつわる中之大兄社(所在地・宮ヶ崎)があること。
20,『伊予国風土記』に出雲の神である大己貴命・少彦名命による温泉開発説話は、湯郡とあることから従来説はその地を温泉郡にある道後温泉としていた。 しかしながら、前述の通り温泉郡の設置は奈良時代中期以降であり、また朝倉中心の越智国には出雲の影響が数多ある(隠岐島産の黒曜石の鏃出土や、神社の祭 神は出雲系が多く見られ、特に牛頭天王<スサノオノ命>を祀る神社がやたらと多い)ことからこの説話も道後ではなく朝倉中心の越智国であった と思われること。
以上のごとくこれだけの論証に値するものが道後ではなく朝倉・西条にあるということを、これらの歴史に関心のある人たちは、率直に受け入れなけれ ばならないであろう。そこで、「温湯碑」建立地の比定地を論ずるのであるが、その前に少し整理しておきたいことがある。以下にそれを述べる。
二、「いさにはの岡」
先ず、「伊社邇波いざにわの岡」もしくは「射狭庭いさにわの岡」について、である。すなわち、前者は僧・仙覚が『万葉集註釈 (4)』に、『伊予国風土記』に収録されていた「温湯碑」(湯ノ岡ノ石碑)が建てられた岡を、「伊社邇波の岡」と記述していたことによる。
また、後者は万葉歌人・山部赤人が「伊予の温泉に至りて作れる歌一首并に短歌」(『万葉集』巻三・三二二・三)に詠った「伊予の高嶺の射狭庭の岡に立たして」によったものである。
両者は同じ岡を指していると思われるが、この岡が道後温泉の側らにあったというのが通説である。但し、場所は特定できていない。そして、石碑も江戸時代より盛んに探索されたが、今日に至るまでも発見されていない。では具体的に見ていこう。
仙覚が著した『万葉集註釈』には、『伊予国風土記』に遺された「温湯碑」の碑文全文は記されていないが、碑文に対する風土記編者の記述のところに、湯の岡の側らにある岡を、石碑建立の地として伊社邇波の岡と記している。すなわち、
「時に、湯の岡の側らに碑文を立てき。その碑文を立てし処を伊社邇波の岡といふ。伊社邇波と名づくる由は、当土このくにの諸人等、その碑文を見まく欲おもひて、いざない来けり。よりて伊社邇波といふ。本ことのもとなり。」
それに対して『釈日本紀 (5)』は、「温湯碑」の全文を収録しているが、そこには、「時に湯の岡の側らに碑文を立てき記して云へらく」
とだけあって伊社邇波の岡の記載はない。
それでは、仙覚は何を根拠に石碑建立の地を伊社邇波の岡としたのであろうか、考えられることは、仙覚が見た風土記逸文にそのように書かれていたのか (6)、 或いは山部赤人の歌から採ったのかどちらかである。後者の場合、この歌の註釈として『伊予国風土記』を引用し解説を加えていることからそのように思うので ある。「本なり。」の字句がその証左であろう。そもそも『万葉集註釈』の性格上、これはあくまでも仙覚独自の註釈書であるからである。
私は『新説伊予の古代』の「聖徳太子の虚像」において、『万葉集註釈』と『釈日本紀』を比較して両書の史料価値を検証した結果、『釈日本紀』を重視したのである。従って、「伊社邇波の岡」は仙覚が加えた註釈であったと見做したい。
そうだとすると、『釈日本紀』の観点からすると、温湯碑建立の地と「伊社邇波の岡」は関係がなく、山部赤人が詠った「射狭庭の岡」とは遠く離れていても 良い。一方、『万葉集註釈』の観点は言うまでもなく温湯碑建立の地と「伊社邇波の岡」は同じでなければならない。それにしても、山部赤人が詠った「射狭庭 の岡」と『万葉集註釈』にある「伊社邇波の岡」が同じだとして、よしんばそれが石碑建立の地だったとしても、側らの「湯の岡」とは全く別である。
私は、これらのことを踏まえて「温湯碑建立の地」と「伊社邇波の岡」は別であると考えている。なお、『日本書紀』「舒明紀」の“温湯宮”、「斉明紀」の“熟田津石湯行宮”、そしてこの「風土記」の“湯の岡”は、それぞれ時代も場所も施設の形態も別であり、これらは全て越智国内にあったと考えている(後述)。
次に、万葉歌人・山部赤人が「伊予の温泉に至りて作れる歌一首并に短歌」であるが、
「(前略)伊予の高嶺の射狭庭の岡に立たして(後略)」
反歌
「ももしきの大宮人の飽田津に船乗りしけむ年の知らなく」(『万葉集』巻三・三二二・三)
この「伊予の高嶺の射狭庭の岡」の解釈は、伊予の高嶺にある射狭庭の岡か、または射狭庭の岡から見える伊予の高嶺かのどちらかである。この解釈によって その比定地は大きく違ってくる。つまり、前者はそこからは必ずしも伊予の高嶺は見えなくても良いと思うが、後者は必ず見えなければならないであろう。これ は、言うまでもなく射狭庭の岡から伊予の高嶺が美しく見えなければならない、と考える。私は歌の情景から考察すると後者の観点に立つ。
その上で、拙書では「伊予の高嶺」とは石鎚山であるとしたが、その後これは少し違うのではないか、と思うようになってきた。それは、石鎚山だけではな く、瓶ヶ森・笹ヶ峰を加えた石鎚連邦ではないか。そう思ったのは赤人が石鎚山だけを詠うのであれば「石鎚山の射狭庭の岡」、あるいは“富士の高嶺”のよう に「石鎚の高嶺の射狭庭の岡」とすれば良く、敢えて伊予の高嶺としなくても良いはずである、と。
そうなると、西条からの景観が素晴らしいと言えども、三峰を真っ正面から一望にできる所は旧市内でもそんなに多くはないようである。しかし、その中でも 最も歌の情景に叶っている場所があった。三峰を仰ぎ見るに天気の良い日は絶景であり、真南に石鎚山が見えるその場所とは、「橘島・祭ヶ丘」である。ここに は古代から「石岡いわおか神社」が鎮座している。ここは氷見ひみ地区の古代の海岸線の突端にあり、二万平方メートル以上もの相当広い地積である。
石岡神社の歴史として、「神功皇后・武内宿禰・皇子が三韓から凱旋の際、この岡に上陸し、天神地祇を奉斎したので、清和天皇の貞観元年(八五九)宇佐よ り勧請奉祀した。現在まで一一四九年の歴史がある」(由緒書)。また、境内社として「高良神社」・「猿田彦神社」などもあり、九州王朝の色彩が濃厚であ る。
石岡神社の前・宮司家の玉井忠素ただもと氏(7) によると、「高良神社は玉井家の祖・武内宿禰を祀っている」とのこと。思うに、これは筑紫にある「高良大社」と同じく九州王朝の天子を祀っているのではないのか。そして何よりも、「日出ずる処の天子・天多利思北孤」のこの地への行幸を記念して建立されたのではないか、と。
また、玉井氏によると、石岡の語源は「神功皇后のこの地への凱旋を祝って“祝い岡”となり、その後石岡となった」。そして、玉井家の敷地内に古代 からの井戸があって、現在も使用しているとのこと。元は“紀”であった姓をこの井戸水に因んで四十一代前玉井姓に変えた。なお、社殿及び史料は「天正の陣」で全て焼失したとのことである。
更に、現・石岡神社宮司越智基晃もとてる氏によると、本殿を建てる際、その下に何か重要な物を埋めたとの伝承があり。またこの地は「いさにはの岡」という伝承もあって、それが「いさおか」となり、その後「いわおか」となった。(8)
と。しかしながら、先の玉井氏に伺うとこのような伝承はなかった、とのことである。ちなみに「いさには」の語源は古田武彦氏の「言素論 (9)」によると、
イは、伊予や壱岐と同じように“神聖な”の意。
サは、土佐・宇佐などに見られる地形名詞で、領域を示す語。
ニは、祭祀を行う。
ハは、広場。
従って、「いさには」は「お祀り広場」の意であり、「祭ヶ丘・祝ヶ岡」と同義語である。
そのようなことから、山部赤人が詠う「伊予の高嶺」を美しく望見できる「いさにはの岡」の比定地は、この岡がピッタリ、との想いに至った。
ところで、石岡神社の近くを流れる猪狩川の古名が“伊雑里いざり川”であり、また西田甲の小字(石鎚神社がある所)に“伊雑”があった。(10) これは現在の地名は“いぞう”であるが、明治時代までは “いざ”と言われていたようである。(11) これらは伊社邇波いざにわの伊社いざと関係があるようにも思えるが、今のところ不明である。
三、「温湯碑」が示すものは湯ではなく水である
これで、「いさにはの岡」は石岡神社の岡で決まりと思っていたところへ、今井久氏(12) よ り私に電話があり、思いもかけぬ質問があった。「温湯碑に記載されている“神井”とは一体なんでしょうか」と。咄嗟にハッと思った。“水”だ。今井氏に 「水ですよ、“水の都”で有名な西条の水のことではないですか」と。それにしても今まで何で気が付かなかったのだろう。拙書は「温湯碑」の“法王大王”が 聖徳太子であるのか否かを論証するのが主眼であったので、それに躍起となっており、これについてはそれこそ全く“抜けて”いたのである。次に「温湯碑」の 全文を掲げる。(13)
于時立湯岡側碑文記云「法興六年十月。歳在丙辰。我法王大王與惠總法師及葛城臣。逍-遙夷與村。正-觀神井。歎世妙驗。欲叙意。聊作碑文一首。惟 夫日月照於上而不私。神井出於下無不給。萬所以機妙應。百姓所以潜扇。若乃照給無偏私。何異于壽國。随華臺而開合。沐神井而癒疹。[言巨]升于落花池而化 溺。窺-望山岳之[山嚴][山咢]。反冀子平之能往椿樹相[广/陰]。而穹窿實相。五百之張盖。臨朝啼鳥而戯吐下。何曉亂音之聒耳。丹花巻葉映照。 王菓彌葩以垂井。經-過其下可優遊。豈悟洪灌霄庭意與才拙實慚七歩。後定君子幸無蚩咲也」(傍線筆者)
[言巨]JIS第3水準ユニコード8A4E
[山嚴]JIS第4水準ユニコード5DD7
[山咢]は、山編に咢。
[广/陰]は、广編に陰。
(読み下し文)(14)
時に湯の岡の側らに碑文を立てき、記していへらく。「法興六年十月。歳ほし丙辰に在やどる、我法王大王との法師及葛城の臣と、夷與の村に逍遙いてまし、正に神の井を観み、世の妙験を歎かひたまふ。意を叙べまく欲ほり、聊かに碑文一首を作る。惟おもひふれば夫それ日月上うえに照りて私せず。神井下したに出でて給つかずといふことなし。万機所以ゆえに妙くわしく応あたり、百姓所以に潜とほく扇あおぐ。若もし乃ち照給せふそうに偏私へんし無し。何ぞ寿国に異ならむ。華台に随ひて開け合ひ。神井に沐ゆるみて疹やまひをいやす。[言巨]なにぞ花池に落ちて化羽くわうすることに升たがはむ。窺ひて山岳の[山嚴][山咢]やまざしを望み。反まさに平子(15)が能く往きしことを冀ねがふ。椿樹つばき相[广/陰]おほひて穹窿まかる。実に五百いほつ盖きぬがさを張れるかと想ふ。臨朝あさされば鳥啼きて戯れさえづる。何ぞ乱さわく音こえの耳に聒かこしきことを暁さとらむ。丹花葉を巻きて映え照らひ、王菓葩はなびらに彌みちて井に垂る。其の下に経過よきれば、優に遊ぶべし。豈もし洪灌霄庭意を悟らむか。才拙くして、実に七歩に慚はづ。後の君子、幸くは蚩咲あらわざふことなからむことを。」
このように、「温湯碑」の中には“神井”が三ヶ所“井”が一ヵ所記されている。この短い文章の中に、である。私は、風土記編者のコメントの“湯ノ 岡”に囚われ過ぎて「温湯碑」の真意を見失っていたのである。“温泉に浸かって周りの風景を愛でた”と。とんでもない誤解であった。温泉の文字は全く出て おらず “神井”によって「百姓が恩恵を受け、また“神井”によって病気も沐む」ことを愛でているのである。この中で今井氏も指摘しているように「沐」の字を使っ ているので、温泉に浴するのではない。水なのである。そして、“法王大王”が温泉の本場九州から来ているのであれば尚更のこと温泉は珍しくない、と。つま り、温湯碑の中身は「神井」が主役であり、その近くにある「湯ノ岡」が脇役の存在であったのだ。
ところで、愛媛県民ならば誰もが知っていることであるが、ここ西条は「水の都」であり、しかも極めて良質の水がいたる所で出ている。それを「うちぬき」 と称しているようである(全国的には「ほりぬき」と呼称されている由)。しかし、これは人の手を加えることにより水を噴き出させたものなので、違っている と考えた。それは「泉」でなければならないであろう。そこで西条史談会の前会長・全国地下水利用対策団体連合会特別顧問の三木秋男氏に“神井”のことを話 し、その探索のためご多忙の中をご案内頂いた。(16) 泉も各所にあり、万項寺の泉・蓼(たで)原の泉・権瑞(ごんずい)な どもあるが、それらの中でも「芝井の泉(芝井加持水)」の前に立ったとき、感極まって“ここだ、ここが神井ですよ”と思わず叫んでしまったのである。小さ いながらも立派なお堂(大師堂)が建っており、泉の周りは石積みで囲われていた。そこに建てられていた石碑には「天の井」「加持水」と彫られていた。また 案内板には「長寿水」とも書かれていた。「天の井」は天多利思北孤を思わせる。「加持水」とは加持祈祷の水であり、正に“病気も沐む水”となろう。三木氏 によると、この泉は彼の弘法大師も愛でたとの伝承があって、古代よりコンコンと湧き出でているとのことである。この泉の裏には造り酒屋が“行光”と言う酒 を造っていた(安政二年創業)。ここは石岡神社から真南に一キロメートル以内の所にある。
四,「温湯碑」建立地と「湯ノ岡」の考察
「芝井の泉」が「温湯碑」の“神井”であるならば、この近くにかつて温泉が出ていなければならないであろう。つまり、そこが“湯ノ岡”である。そ して、その側らに「温湯碑」の建立地があるはずである。そもそもこの芝井の泉がある所自体が岡の上にある。この氷見地区は岡だらけの地形であり、“高尾神社(祭神・牛頭天王)の岡(明治時代の地名は井口)”や、「天正の陣」の際高橋美濃守の居城であった高尾城の出城の里城跡と言われている“尾土居”、そし て墓地となっている“岡林”などがあり、その中でも芝井の泉に隣接している高尾神社の岡が「温湯碑」の建立地だった可能性が極めて大きい。石岡神社のある 橘島もすぐ近くに見え、ここからの景観は素晴らしいものがある。そうなると、何分にもこの付近に温泉湧出の痕跡がなければならない。それも前述の六七八年 以前において。
ところで、この辺りは、岡村断層があることから温泉が出ても不思議はない、と土地の人は言う。その証拠になるかどうかは定かではないが、地名に高峠城址 の山麓に「風呂ヶ谷」(保国寺の近く)という小字があり、また現在黒瀬ダムの湖底に沈んでいる地名に「湯久保」があるので、これらの地名から推し量ると、 この辺りにはかつて温泉があった可能性を垣間見ることができる。しかしながら、肝心の「芝井の泉」からは少し離れ過ぎており、この泉のある氷見地区からは 温泉湧出の痕跡、あるいはそれにまつわる地名がまだ見つかっていない。これが解れば、石岡神社がある橘島の「いさにはの岡」・芝井の泉の「神井」、そして 「温湯碑の建立地」と側らの「湯ノ岡」という四ヶ所が近接している構図となり、確かな論証となり得る。この辺りから石碑が発見されたならば、決定的な証拠 となり、何人も異をはさむ余地はなくなることであろう。ことほどさように、ロマン溢れるこの地には益々興味は尽きなくなってきたのである。
そのような中で、前出の今井久氏は「熟田津石湯行宮」の石湯は、この地方に数多く見られる“石風呂”であるという。一考を要するのでこの石風呂説を検証してみたい。氏の論証の概略は次のようである。(17)
橘新宮神社の『旧故口伝略記』に「橘天王石湯を造り」とあることから、自然の温泉ではなく、造られた湯であること。
『日本書紀』では、「舒明紀」にあるごとく温泉は「温湯または湯」と記されており、この「斉明紀」のみ「石湯」とあるので、これは通常の温泉とは思いがたいこと。
この辺りの桜井・河原津・船屋・磯浦には石風呂があって、石風呂文化圏であったこと。
などである。そして、「石風呂」について、今井氏がご教示戴いた真鍋達夫氏(18)の解説は解りやすいので次に掲げる。
海岸淵の自然の洞穴や岩崖に穴を掘り、石を積み上げて石窟を造る。幅一メートル程度の出入り口を設け、濡れ筵を戸口にかける。その中で羊歯や柴木 を燃やして室内を高温にし、濡れ筵を敷きその上に人は座って汗をかく。汗をかいたら海水に浸かりそれを繰り返す。要は原始的なサウナ健康法である。現在 今治市の桜井海岸に復活している。
と。思うに『旧故口伝略記』に出現する“橘天王”とは、『日本書紀』で「橘広庭宮」を構えたとされる斉明天皇の可能性が極めて大である。これにより斉明天皇来湯の有力な根拠となろう。
そこで考えてみると、私は石湯とは岩の間から流れ出る温泉をイメージしていたのであるが、今井氏の石湯すなわち石風呂説は大変おもしろく説得力がある。しかしながら、「熟田津石湯行宮」跡があったとされる安知生(あんじゅう)の地には、果たして石窟を造れる地形があったかどうか検証しなければならないであろう。
いずれにしても、この小論のテーマは「温湯碑」の“湯の岡”であるので、これに限るならば“湯”であるので、今井氏の論に従っても温泉となろう。そして、“石湯”の定義もさることながら、「熟田津石湯行宮」もまだ検証すべきことが多い。
ところで、「舒明紀」の“温湯”の記述は、拙書『新説伊予の古代』でも述べている通り朝倉の『十方寺由来』で裏付けられる。それは、
「舒明天皇當国金谷村ヱ天クダリ玉ヒ當郡川之内村国山之湯(現在の本谷温泉の辺り)、越智郡鈍川村楠窪之湯(現在の鈍川温泉峡の辺り)温泉郡道後ノ湯右三ヵ所御泉湯ノ間金谷村ニ久敷御逗留(後略)」
とあって、これらは全て温泉であるからである。この中で舒明天皇は伊予に五ヶ月間滞在しているので、越智国内を主体に逗留していてもその間“温泉めぐり”で道後温泉に行幸した可能性は否定できない(但しこの時代道後の地名はまだない)。
むすび
終わりにあたって私は、『日本書紀』の「熟田津の石湯の行宮」の「熟田津」と山部赤人が『万葉集』で詠った「飽田津」は同じ場所を指しており、西 条の安知生にあった、また「万葉八番歌の熟田津」は有明海の最深部にある諸富町新北であったと考えている(熟田津多元説、拙書『新説伊予の古代』で詳 述)。
ところで、「神井」に比する泉なり井戸は道後温泉近辺には全く見当たらない。この存在の有無だけでも「温湯碑」が建立された地を道後には比定できないの である。それなのに、何故道後に比定されたのか、それはとりも直さず奈良時代中期以降道後温泉が盛んとなり、平安時代の後半から伊予の覇者が越智氏から河 野氏へ移り、南北朝時代より道後平野が伊予の中心になったことによるのではないのか。その際、道後温泉にある伊社邇波神社の存在も大きな要因であったに違 いない。そのような中で、西条の郷土史家の先達が「西条熟田津説」を唱えても、関心事になることはなく、とにもかくにも道後平野説が主流を占めていたよう である。
本論において、「いさにはの岡」「神井」「温湯碑の建立地」「湯ノ岡」、そして「熟田津」について論じた。これらの「珠玉の伝承」の比定地は、通説とし て人口に膾炙していた道後温泉・道後平野ではなく、越智国内・現在の西条市加茂川左岸一帯から氷見地区まで、と結論づけた。これにより、聖徳太子ならぬ九 州王朝の天子・天多利思北孤が、支配圏の巡察のためにこの地に来ていたことになる。
また、舒明天皇・斉明天皇の伊予行幸の主要舞台も朝倉及び氷見地区であったのである。これについては、かつて私自身見誤っていた。それは、拙書『聖徳太子の虚像』において天多利思北孤・舒明天皇・斉明天皇の来湯は道後温泉であるとしているからである。しかしその後、越智国の研究を深める中で、これはおか しい、その地は道後ではないと気づいたのである。そして、『新説伊予の古代』では“清水の舞台から飛び降りる”心境で、まだ検証不足ながら、その地が越智 国である可能性について論究した。次いで本論において、道後説を明確に否定する結果になったのである。天多利思北孤・舒明天皇・斉明天皇の来湯の地は越智 国であった、と。
ここで、論述していることがらは、通説となっていた道後地区の人たちからは“輝ける古代史”を奪うことにもなり、甚だ申し訳ないことになるが、その帰結は同じ愛媛県内のことであるのでどうかご容赦願いたい。
ところで、この中で「いさにはの岡」は石岡神社であり、「神井」は芝井の泉であることは、ほぼ比定できたと思っている。しかし、「温湯碑の建立地」、 「湯ノ岡」の比定地については、この氷見地区にあったことは間違いないものと考えているが、残念ながらまだ確証を得るまでには至っていない。このような中 とりわけ「温湯碑」の発見に至れば“世紀の大発見”となる。そのような思いを抱きつつ、とり敢えずではあるが拙書上梓後の新たな発見・進展をここに論じた 次第である。
付記 ーー「遠土宮」
さて、もう一つ検証不足で保留にしていた大三島にある大山祇神社の『御鎮座本縁並寶基傳後世記録』に出現する「遠土宮」の読み方と場所についてここで述べることにしたい。
読み方として、國學院大學の研究チームは「とうつちのみや」とルビしていたのを、私は「おちのみや」と読めるとしていたが、その根拠を明確に論証できないでいた。ところが拙書を読んで下さった山野びっき氏(19)より思わぬご教示を頂いた。それは、「遠近」と書いて「おちこち」と読むので「おちのみや」で良いのではないか、と。なるほど、“遠”で“おち”。もしかして、それまでは小千命(おちのみこと)に因む「小千」だったのが、元明天皇の和銅七年五月二日の詔に「郡・郷の名称は好い字を選んでつけよ」に起因するのかも知れない。また、二字表記で“土”を付けて「遠土」とし、「遠土宮」としたのでは、という思いに至る。一時期「遠土氏」を名乗ったか。
また、その宮が置かれた場所について、大山祇神社の『社記』に次のようにあった。
「而到二名洲、風早浦起行宮。是謂う遠土宮。今在于風早浦國津彦神社。」
風早国(旧北条市・現松山市)にある式内社の國津彦神社が遠土宮であるとしている。この説話は、孝元天皇の皇子彦狭男命が祝祭した時の宮を「遠土宮」と いっているのだが、この時二名国分彦命またの名を風早国分彦命が参会したとする。しかしながら、この説話は時代が全く合わない。何故なら拙書で述べている ように、孝元天皇云云は天孫降臨ニニギノミコトの置き換えと考えられ、紀元前二百年頃の弥生時代のことであり、そして二名国分彦命またの名を風早国分彦命 も、もう少し後ではあるが弥生時代の人物と考えている。一方、社名が國津彦神社となったのは奈良時代以降と考えられるからである。また、越智国と風早国は 対等で“個別独立に存在”しているので、よその国に宮を造るということはおかしいことになる。従って、この説話は後の世に越智氏が伊予での覇者たることを 誇示するために創ったものか、或いは別の史書の“はめ込み記事”か、と推察する。結論としては、「遠土宮」の読みは“おちのみや”であったが、その宮の場 所は残念ながら特定できなかったのである。
注
(1) この地の温泉は『日本書紀』天武天皇七年(六七八)十二月の記事にある大地震により壊滅したと思われる。
(2) 現在は各所に温泉施設がある。
(3) 先学の労作・真鍋充親著『伊豫の高嶺』新潮堂書店 昭和四十四年八月、長井義隆著『古代の灯び』文芸誌アミーゴ所収でも述べている。
(4) 『万葉集註釈』仙覚著 万葉集の注釈書 鎌倉時代の文永六年(一二六九)成立。
(5) 『釈日本紀』卜部兼方著 『日本書紀』の注釈書 鎌倉時代中期成立。
(6) 古田史学の会事務局長・古賀達也氏のご教示による。
(7) 石岡神社の入り口に居宅を構えていて、本来は四十一代目に当たるそうであるが、現在近くにある高尾神社宮司。
(8) 古田史学の会幹事・今井久氏、同・大政就平氏同行。
(9) 古田武彦氏の「言素論」は『多元』で連載中。
(10) 古田史学の会関西・正木裕氏よりご教示頂いた。なお、正木氏より石岡神社の存在や当小論に対する様々なご教示も戴いた。
(11) 『新居郡地誌』明治十年代作成 愛媛県行政資料所収 西条史談会高橋重美氏にご教示戴いた。
(12) (8)に同じ。
(13) 『釈日本紀』所収。
(14) 「愛媛県史 資料編 文学」より。
(15) 底本の「子平」は「平子」の誤りとする小島憲之氏の説による。
(16) 今井久氏も同行。
(17) 先学の久門政雄氏『言葉の自然』、久門範政氏『西条市誌』、明比学氏『西条の歴史探訪』でも述べている。今井久氏の論考は(18) 『熟田津の石湯の実態とその真実』。
(19) 西条市文化財保護審議会委員。
(20) 久万高原町在住。
当小論研究にあたり、西条史談会前会長三木秋男氏、西条史談会高橋重美氏、高尾神社宮司玉井忠素氏、石岡神社宮司越智基晃氏、古田史学の会事務局 長古賀達也氏、古田史学の会・関西正木裕氏、古田史学の会・四国今井久氏、同・大政就平氏、山野びっき氏にご教示・ご助力を賜りました。衷心より御礼申し 上げます。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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