「動歩」と「静歩」
交野市 不二井新平
(1) 「ミステリーサークルの真相」
「ミステリーサークルの真相」というテレビ番組(二〇〇八年二月二八日・木)を見た。イギリスのいろんな片田舎の麦畑で永年に渡って起きていた珍事件。いろんな幾何学模様に麦が倒されてできるミステリーサークルの話だ。宇宙人の仕業とか、超常現象とか、専門の宇宙物理学者まで登場して謎解きがされた。ところがどっこいその謎は意外なものだった。二人の茶目っ気な男の人二人(テレビではもう相当の年配者)がいたずら心で始めた事件だったという種明かし。しかも作っていく内にだんだん上達。スキー板状の長い板の両端にひもをかけ、そのひもを首にかけ、両手でひもを持って、その板を持ち上げては片足で麦を踏み倒していくというのだ。夜間、ミステリーサークルを短い時間で一挙に作りあげる様は見事だった。この時なるほど人間って考えることは一緒だなと思うことがあった。それは直線の作り方。巻き尺なども無しにまっすぐに麦畑を踏み倒していく方法だ。それは帽子の先に針金の輪っかをつけること。遠くにある目標物を決め、その目標物を針金の輪っかの視界からはずすことなく、それをめがけて踏み倒していくというものだった。
私も運動場に直線を引くことが得意だった。巻き尺など使わないでライン引きを転がすだけで見事な直線を引くことができた。やり方は同じだ。運動場の端にある木とかブランコの柱とか、とにかく何か目標物を決め、それをただひたすら見つめながらライン引きを転がしていくのだ。横を向いたりせず、じっと見つめながら前進するのだ。このやり方で白線引きをやっておられる先生方はたくさんおられ、背を丸め、白線引きに覆い被さるようにして一点めがけて引く人、ライン引きを後ろに片手で無造作に持ち、一点を見つめ、とろとろ歩いて引く人。でも遠くの目標物めがけて歩くことは一緒だった。人間の測量方法というのは同じだなあと思った。しかも驚くほど精確な直線が道具も無しに、作りあげることができる。ナスカ高原の地上絵も宇宙人の仕業ではなく同じ方法でやった人間業だ。
人間が巻き尺や機械なしに、自分の体を使ってする測量方法は時代や地域に関係なく同じ方法で行うものだと思った。机の上で考える宇宙物理学者より、体を使って考えた茶目っ気な老人の方が、麦畑での実際の測量技術は上だった。
足だけを使って測量するとき私は「動歩」と「静歩」という二種類の方法を用いた。この二種類の測量方法は周の時代の人も同じように使ったのではないか。「動歩」と「静歩」という測量方法で古代中国の「里」について考えてみた。
(2) 中国における「里単位の歴史」
はじめに中国における「里単位の歴史」を古田先生が発見された「短里」の概念で見てみよう。『古代史の「ゆがみ」を正す・「短里」でよみがえる古典』(古田武彦・谷本茂共著)の七四頁を引用してみる。
「短里」とは、一里が約七六cm七メートル、その里単位を指す概念である。中国の周代に、公的な里単位として採用されていた。ところが、秦の始皇帝がこれを廃棄し、かわって「長里」を公的な里単位とした。「長里」とは、一里が約四三五メートル、その里単位を指す概念である。漢も、これを継承した。しかし、魏は、この「長里」を廃棄し、「周の短里」に復帰した。晋(西晋)もまた、この「短里」を継承した。これが「周・魏・西晋朝の短里」である。
しかるに、東晋はこの「短里」を廃棄し、「秦・漢の長里」に復した。以後、現代中国に至るまで(若干の変動はあっても)大異なく、現在(一里は約五〇〇メートル)に至っている。(古田武彦)
ちなみに魏・呉・蜀の三国時代は、魏が周の古聖に復し、周の短里を採用していたのに対し、蜀と呉は長里を採用していた。
魏と蜀が相手の長里(蜀)と短里(魏)をそれぞれ非難し合っていた様がわかる資料を古田先生が『古代は輝いていたcm』(朝日新聞社)の二〇四頁で紹介されています。
[言焦]周曰く「歩は、人足を以て数と為す。独り秦制のみ然るに非ず」と。(史記、秦始皇本紀、注)
[言焦]周(しょうしゅう)の[言焦]は言編に焦。JIS第3水準ユニコード8859
[言焦]周(しょうしゅう)は蜀朝の天子の師を務め、『三国志』の著者、陳寿の師でもあった人。蜀の平和的降伏に大きく関係した人。この資料は長里を採用していた蜀に対して(魏の)非難があったことを物語る。そしてその非難に対して[言焦]周は私達(蜀)が採用する長里は秦が無理に六をもってきて作った歩ではなく、「人足」という自然な人間の歩き方を元にしてできた歩であると言っている。この「人足」という言い方は、周の歩が「貍歩」という野良猫の忍び足を元にしてできた歩であるとしての皮肉・非難となっている。「貍歩」についても古田先生が発見・紹介されている。
「鄭司農」は後漢の人。「今に於いて」は後漢代。
貍歩を以てす(周礼、夏官、射人)
〈注〉鄭司農云、貍歩は、一挙足して歩を為すを謂う。今に於いて半歩為り。
(3) 周代の「里」について
周代の「里」に関する資料を見る。
古者三百歩、里と為す。(穀梁伝、宣、十五)
周制三百歩、里と為す。(孔子家語、王言解)
唐以降は「三百六十歩=一里」となったが、周代以降、ながらく「三百歩=一里」の制が守られていた。
「周朝の一里」は「短里」であり、約七六cm七七m。
「周朝の短里」にもとづく周朝の「一歩」は、「周制三百歩、里と為す」ことから「約二五・五cm」となる。(七六cm七七)m÷三百歩≒二五・五cm/歩
(4)秦・漢代の「里」について
秦・漢代の「里」の資料を見る。
数は六を以て紀となす。符、法、冠、皆六寸。而して輿は六尺。六尺、歩と為す。(史記、秦始皇本紀)
秦の始皇帝は、五行説に立ち、水徳に当たる「六」で中国を統一。火徳の周朝に勝つことをしめそうとした。「六尺一歩の制」は、秦朝、創出の新制。
六尺を一歩にするとはどういう意味か。そして周朝は何尺を一歩にしていたのか。周代の人も秦代の人も同じ人間、その歩き方に変化はない。歩き方に変化はないはずだが、後漢代に次のような資料がある。
貍歩を以てす(周礼、夏官、射人)
〈注〉鄭司農云、貍歩は、一挙足して歩を為すを謂う。今に於いて半歩為り。
【鄭司農注】河南の鄭氏は王莽の時代に鄭興が劉〜から春秋左氏伝を教授されて以来左氏伝を家学にした。後漢書に鄭興の伝があり、子の鄭衆は大司農となり左氏伝・周礼の注を作り、鄭司農注と呼ばれた。
「貍」は“野猫”。「忍び足」の様子をした歩き方をいう。一挙足する歩き方。一挙足した「一歩」は、後の歩き方の「半歩」に当たるという。後とは秦・漢代を指す。言い換えれば秦・漢代の「一歩」は周代の一挙足した「二歩」に当たるという。秦・漢代は六尺を「一歩」にし、その「半歩」が周代の「一歩」。つまり周代の「一歩」は六尺の半分、三尺となる。
周朝の一里の六倍を持って秦朝は一里を制定している。周代の「一歩」が秦・漢代の「半歩」に当たることからどう説明がつくのか。「周制三百歩、里と為す」ことを含め、「静歩」「動歩」という考え方を入れて説明してみよう。
(5) 「静歩」と「動歩」から「短里」と「長里」を考える
教師だった経験から運動会や朝礼、体育の授業などで、運動場に石灰でライン引きをする。距離測定には巻き尺が必要になる。しかし巻き尺は複数の人間が要る。巻き尺の始点を押さえる人、巻き尺を持って測定地点まで動く人、印を打つ人、ライン引きの人。しかし、結構、教師一人だけでライン引きをしなければならない場面が多くある。巻き尺などに頼っておれないときがある。ドッジボールのコートぐらいなら、自分の歩幅で横十五歩、縦三〇歩とかして、つまり個別単位で用を済ませる。運動場でいつもとは違う場所へ全校児童(生徒)を整列させるときがある。こういうときも巻き尺を使うことなく、一クラスの幅を、足の長さ5つ分、6つ分して区切ることがある。5つ分と6つ分、1つ分の違いは並び方に大きく影響してくる。5つ分だとちょっと狭いとか6つ分だとゆったりめだとか。足1つ分は意味があり、歩幅の一歩では誤差が大きすぎて、やはり足の長さのいくつ分の測り方が大事になってくる。大まかな測定では歩幅の一歩、細かな測定では足の長さいくつ分の一歩だ。
巻き尺のなかった古代の人も、足を使っての長さの測定方法は同じだったと思う。歩幅で測るやり方と、足の長さいくつ分で測るやり方の二種類があったと仮定。ドッチボールなどのコートを測るときの「歩」を「動歩」、足跡を一つずつ重ねて置いていく足の長さいくつ分の「歩」を「静歩」と呼ぶことにする。
「動歩」の一歩は「静歩」の三歩
足を使っての長さの測定法には二種類あったと仮定する。足の長さを隙間なく重ねていく測定法を「静歩」と名付け、歩幅による測定法を「動歩」と名付けてみる。どちらもその個別単位名を「歩」と言ったと仮定する。
「静歩」は片方の足のつま先にもう一つの片方の足のかかとを接するようにおろし、次におろした足の前に片方の足を継ぎ足し、これを繰り返して、足(の長さ)いくつ分で長さを測定する。
「動歩」は右足一歩、次に左足一歩と交互に足を出して歩く歩幅をいうことにする。周の時代、『周礼』によれば「忍び足」、「一挙足する」歩き方を距離測定に使う一歩にしていたという。これは誤差なく足の長さ3つ分を動歩一歩分で刻むための工夫だ。「静歩」と「動歩」の関係は約3対1だ。「動歩」の一歩は「静歩」の三歩分。私の場合、実際に歩いてみるとそうなる。「静歩」と「動歩」の関係が約3対1になる。統計平均しなければならないが、約3対1を大きくはずれることはない。
インターネットで「万歩計」を検索。現代日本人の成人男子の歩幅の平均が七六cmと書かれている。一歩の歩幅、英米陸軍では「ペース」といい、やはり一歩が七六7・二cmという。ドイツではシュリットと呼び、一歩は七一cm七五cmいう。適正歩幅というものがあり、日本人が身長マイナス九〇cm、西洋人が身長マイナス一〇〇cmのようだ。
足の長さの平均もインターネット情報だが、二五cm二六cmのようだ。ただしこの場合靴の長さだ。裸の足の長さはもう少し短い。靴の長さの足長を「履足」と名付け、靴を履かない裸の足の長さを「裸足」と名付けてみる。「動歩」と「静歩」の比率が約3対1であることは概略で言えるが、より詳しくは今後の調査による。
「動歩」百歩は「静歩」三百歩にあたる。「動歩」も「静歩」も、初めは個別単位として存在した。「静歩」の方は、より誤差を小さくしたい測定結果の時に用い、「動歩」の方は、ある程度誤差が出ても測定結果に影響が少ない時に用いた。「動歩」で百歩歩けばそれが一里。これが一里の最初ではなかったか。単位設定時に三百という中途の数を持って一里とするのは疑問だ。より精確を期する為に「動歩」一歩がおおよそ「静歩」三歩に当たる。逆に誤差のない「静歩」三歩を「動歩」一歩と定め、より確かな一里としたのではないか。
「動歩」百歩を一里とした始源的「里」の文明中心は中国(周の国)ではなかったと思われる。もちろん中国はその文明圏の一員のようだ。しかし中心ではなかった。周の国がその文明圏の覇者となったとき、新たな基準を宣言した。それが「周制三百歩」だった。「周制三百歩」には俺たちはより精確な測り方をもって一里を定めたぞという誇りが感じられる。単位設定から言えば「百歩一里」が自然である。しかしその百歩が「動歩」であるとき、より誤差の少ない「静歩」で表現するなら、そこに誇りが生まれる。「動歩百歩」による「短里」の痕跡がどこかに残っていないか。「動歩」百歩を一里とした記録・言い伝えが古代中国にないとしたら、「動歩」百歩を一里とした文明中心は古代中国ではなかったといえる。課題として残る問題だ。
個別単位段階の「短里」は「動歩」の百歩分、「静歩」の三百歩分だが、精確を期するには「静歩」の「歩」で表現。しかし個別単位「静歩」も「動歩」同様、人さまざま。いくつもの個別単位の「静歩」の中から「一寸千里の法」が成立する長さの「静歩」を採用。つまり「一寸千里の法」による日影差一寸に一番近い個別単位を採用したのではないか。
いくつもの個別単位の「静歩」
足の長さは人さまざま。一寸千里の法においてどの個別単位の「静歩」を採用したか。
足の長さ二五cmの「静歩」
二五cm×三百歩×千里=七五cm
足の長さ二六cmの「静歩」
二六cm×三百歩×千里=七八cm
足の長さ二七cmの「静歩」
二七cm×三百歩×千里=八一cm
足の長さ一cmの違いは千里では三cmもの違いとなってくる。谷本茂氏の実測値からの計算では、南へ千里、北へ千里が七六・九cmと七五・三cm。〇・六cmの違いしかない。従って約二五・五cmの長さの「静歩」を普遍単位として採用したとみたい。「静歩」約二五・五cmなら千里で七六・五cmとなる。
こんなことを仮定してみた。「静歩」を測るための専用の靴が存在したのではないかと。歩測のための靴だ。古代の中国に「歩測靴」が存在していたのではないか。約二五・五cmの靴が。中国の博物館等で調査すれば存在するのではないか。歩測の為の靴と認識されないまま展示されている「歩測靴」があるのではないか。「履足」と「裸足」の考えをいれなければならないが「履足」による「静歩」の一歩を「尺」と同じ長さとした、あるいは採用した「履足」による「静歩」の一歩を「尺」と同じと見た。単位としての「尺」はこれ以前に肘の長さで存在したはずだが、「裸足」の一歩はこれより短い。しかし「履足」の一歩は「尺」と同じぐらいの長さになる。「六尺一歩」の表現はこれを想定させる。
普遍単位としての「一里」を制定。より誤差の少ない「静歩」で一里を表現。「周制三百歩、里と為す」時の歩は「静歩」の「歩」だ。「古者三百歩、里と為す」時が「一寸千里の法」成立以前なら「歩」も「里」も個別単位の段階となる。普遍単位として成立した「一里」の三百分の一を普遍単位に昇格させた「尺」あるいは「歩」とした。個別単位「動歩」百歩→個別単位「静歩」三百歩→一寸千里の法→普遍単位「短里」「静歩の歩」成立。「静歩三百歩一里」として制定。一歩・一尺は「約二五・五cm」。周朝の「短里」一里は約七六cm七七m、「短歩」は約二五・五cm。
今に於いて半歩為り
「今に於いて」の「今」とは後漢時代のことだ。周代の一歩が秦・漢代の半歩に当たるという。秦・漢代が六尺をもって一歩とすることから周代の一歩は半分の三尺となる。周代の一歩は「動歩」の一歩でもあり、「静歩」の三歩でもある。そこで次のような仮説をさらに導入したい。
「片足動歩」と「両足動歩」
両足をそろえ、右足を一歩出す。この時一歩と数えない。次に左足を出す。これを一歩と数える。左足だけの歩数で数えていく。一歩が足の長さ、六つ分になる。片足だけの「動歩」だと「静歩」の六つ分になる。つまり右足は数えない。常に左足だけの歩数で一歩にする。もちろんその逆でも構わない。とにかくどちらかの足の歩数だけで「動歩」とする。この動歩を「片足動歩」と呼ぶことにする。地を離れた足が次に地に足をつけるまでを一歩と見て、これを「片足動歩」と名付ける。この「片足動歩」を、従来は「複歩」とか「二挙足」という言い方をしてきた。左足もしくは右足どちらかに注目してほしい。地を離れた足が次に地につくまでを一歩と見るほうが自然といえる。歩く人の歩みを横から観察したらよく理解できる一歩だ。「複歩」「二挙足」はここが理解されていない言い方であり、今後用いて欲しくない用語だ。
一方、左足一歩、右足一歩と数えていく「動歩」を「両足動歩」と呼ぶことにする。秦・漢の一歩は「片足動歩」の一歩である。「片足動歩」一歩は、周代の「両足動歩」の二歩となる。つまり秦・漢代の「片足動歩」の一歩は周代の「両足動歩」の二歩となり、「静歩」の六歩・六尺となる。この仮説から「六尺一歩の制」「今に於いて半歩為り」がうまく説明できる。
歩幅の一歩は一定しにくく狂いやすい。一定幅にするため「貍歩」の歩き方をした。
「秦・漢代」の歩き方は「人足」だから普通に歩いての測定。この時、片方の足だけに注目した歩幅を一歩とすれば、六尺一歩になり、しかも、数えやすい。実際に歩いて確かめると納得できる。左足、右足それぞれを一歩として数えていくより、普通の歩き方で、片方の足の歩幅だけを数えるほうが安定していて、しかも数えやすい。
古代ローマにおいて一歩の歩幅を「パッスス」といい一歩の長さは一四七・九cmという。これも秦・漢代と同じ「片足動歩」だ。世界の東西で同じ時期に同じ歩幅の測定法が存在したわけだ。
「六尺=一歩」の定式から、尺の実物(秦、漢等)によって知られた実長(二三・〇四cm)等も考慮して秦・漢代の「長里」を算出してみる。
周朝の短歩(短尺)二五・五cm×六×三〇〇=一五三cm×三〇〇=四五九m
従来の尺二三・〇四cm×六×三〇〇=一三八・二四cm×三〇〇≒四一五m
約四三七m前後と見たい。秦・漢代の「長里」は、「約四三七m(前後)」。秦・漢代の「長里」に基づく「長歩」は一三八cmcm一五三cm。従来の尺は「裸足」に関係しているように思われる。周朝の短歩(短尺)は「履足」に関係している。両者の関係がわからないので中をとって約四三七mとしておく。
(6)秦・漢代の「六尺一歩」による「一里」は、周代の「周制三百歩一里」による「一里」の六倍
秦の始皇帝は、五行説に立ち、水徳に当たる「六」で中国を統一。火徳の周朝に勝つことをしめそうとした。「片足動歩」の考えを入れることで周朝の「短里」の六倍の「長里」を作りあげることができた。「周制三百歩一里」は、「両足動歩の百歩」であり、「静歩の三百歩」である。秦の始皇帝の「六尺一歩」による「一里」は「片足動歩の三百歩」であり、周朝の「一里」の六倍となる。「片足動歩」は「両足動歩」の二倍。「片足動歩による三百歩」は「両足動歩による百歩」の六倍となる。
周の一里=「両足動歩の百歩」=「静歩の三百歩」≒七六・五m
秦・漢の一里=「片足動歩の三百歩」≒四三七m
(7) 卑弥呼の墓の大きさ「径百余歩」
倭人伝の卑弥呼の墓の大きさ「径百余歩」は短里で計算すべきだ。魏・西晋朝は「短里」を採用。二五・五cmの百倍ちょっとだから、三〇m前後の墓となる。箸墓古墳(墳丘の長さ・・・二七六m、後円部の径・・・一五六m 高さ・・・二七m)を卑弥呼の墓としたい学者、マスコミ等はこの「短里」については一切言及しない。「短里」にふれるとすべてがひっくり返る。本場中国に「短里」の研究が無いことをいいこ
とにして「短里」問題を無視。しかし、「短里」をいつまでも隠し通せるものではない。
(8)量概念と単位設定の四段階
量を二種類に分類することができる。リンゴや車のように一つ一つが分離していて「いくつ」と数えることができる分離量と、水や金属のように、一つにつながっていて「いくつ」と数えることができない連続量だ。分離量は1,2,3,4,・・・・という整数だけでことがすむ。分数や小数を使う必要性はない。連続量は「あわせる」ことと「わける」ことが自由にできる。二つのバケツのなかにはいった水を一方にうつすと、難なく一体の連続した水となるし、また、逆に、二つにわけることも容易にできる。連続量の特徴は合併と分割とが自由にできることだ。連続量から分数や小数がうまれる。世界には分数文化圏と小数文化圏があり、中国、日本などは小数文化圏に属する。連続量では単位を定めても半端が出ることが一般的で、半端をどう処理するかによって分数か小数かの分かれ道になる。『周髀算経』において半端をどんどん十等分に細分化していく記述が出てくる。小数文化の成り立ちを記述している。もちろん分数萌芽の記述も見られるが。
分離量と連続量、これは同時に現れたわけではなく、分離量が先で、連続量があとだ。連続量をはかることは、分離量をもとにしている。ある糸の長さが三cmであるというのは、その糸を一cmずつに区切って、いちおう分離量に変化させ、そのうえで、それを数える(実際にはそんなことを意識してやっていないが)。はかることは数えることにもとづいており、はかられた連続量は、ある意味で分離量になっている。
分離量は「数える」、連続量は「はかる」のだが、数えるまえから分離量は存在し、はかるまえから連続量は存在している。
分離量はだれが数えても同じ数になるが、連続量は単位の取り方で、数値が違ってくる。ある長さを、ある人は一〇mといい、ほかの人は三三尺という。三百歩を一里といったり、百歩を一里といったりするとき、一里が同じ長さとするなら、三百歩と百歩のそれぞれの歩の単位が違うのだ。私の仮説で歩に二種類、「動歩」と「静歩」があるとするなら、しかもその二つの歩の関係が3対1なら、「動歩百歩」=「静歩三百歩」となる。長さ(連続量)は単位の取り方で、数値が違ってくるものなのだ。単位の取り方で数値が違ってくること、これは長さが連続量であることから避けられない運命なのだ。牛(分離量)はどこの国、いつの時代であろうと1匹は1匹。分離量は誰が数えても同じ数になる。ところが長さは時代により、文明により単位の取り方次第で数値が違ってくる。長さが連続量である限り避けられないことなのだ。
もともと連続量をはかるという操作そのものが複雑な操作であり、連続量をいちど単位毎に分けて分離量化し、それを数えることから成り立つ。「六尺一歩」とか「貍歩は今の半歩なり」の言い方は、単位の取り方の違いを言っているのだ。単位の取り方を宣言しないと長さの測量は成り立たないのだ。単位の取り方を宣言しなければならない状況を考えてみる。宣言するということはその宣言の前の単位の取り方とは違うんだということを示している。六尺が一歩でなかったから「六尺一歩」を制定したのだ。そうなると、「周制三百歩一里」も三百歩が一里ではなかったからそれを制定したと見ることができる。しかも1).足の測量法に二種類あっただろうということ、2).中国のような小数文化圏、十進法を単位とする文化圏において、初めての単位設定に三百という中途の数を使うことはないだろうということ、そして3).歩幅が足の長さの約3倍だといえることなどから、「百歩一里」の存在が「三百歩一里」の前に存在していたのではないかと考えることができる。歩という同じ呼び方の中で起きた単位の取り方の違いが存在していたのではないか。「動歩」と「静歩」という言葉でそれを区別したとき、疑問が解けてくる。
長さという外延量が何里というかたちに数値化されるまでの過程を考えてみる。外延量の単位設定には段階がある。直接比較、間接比較、個別単位、普遍単位の四段階だ。量の始まりは比較だ。2本の棒、A、Bの長短を較べるには、直接並べてみればわかる。これを直接比較と呼ぶ。直接並べて比較できないときには媒介物をもってきて比較する。間接比較だ。媒介物が指の幅や歩幅になったとき個別単位の段階、方法が稚拙でも「一寸千里の法」で設定された一里は普遍単位といっていい。
二五・五cmの歩測靴があるのではないかという話をした。では千里を歩測靴で測るかといえばそんなことはない。歩測靴で十倍、百倍、千倍し、それを測量棒・測量縄に置き換えなどして、つまりは単位設定の各段階を織り交ぜながら、実際の距離測定を行っていったのだ。
(9)個別単位「静歩」で補正された普遍単位「里」
一寸千里の法で成立した普遍単位「里」は個別単位「静歩」で補正された単位だったようだ。
一寸千里の法を初めて知ったとき、「寸」が先か、「里」が先かを考えた。当然八尺の棒が存在し、影長を一尺六寸として実測し、影長差一寸をもって千里と制定したのだから、「寸」が単位成立としては先に違いない。しかし「動歩百歩一里」が「一寸千里の法」より先に成立しているだろうこと、影の境界がぼやけることから影長差に厳密な測定を期待できないこと、それなのに北千里、南千里の影長差一寸による千里の誤差は〇・六cmしかないことなどを考えると、普遍単位「里」は個別単位「静歩三百歩一里」の助けを借りてできあがったと考えざるを得ない。影のぼやけによる影長測定は厳密とは行かない。低緯度、偶然近似値として存在、によって、しかし普遍単位を成立させようという考え方はすばらしかった。普遍単位を作ろうとした考え方まではすばらしかったが、方法は稚拙だし、天文学の未発達による限界があった。
(10) 『司馬法』
西周時代から伝わる古代の兵法書に『司馬法』と言う書物があり、漢代の解説に「およそ人の一挙足を[足圭](き)といい三尺にあたる。二挙足を歩といい六尺にあたる」とあるそうだ(『古代史の「ゆがみ」を正す・「短里」でよみがえる古典』(古田武彦・谷本茂共著)の一四一頁)。
「足圭(き)」が普通に数える歩幅の「両足動歩」、「歩」がどちらかの足だけで数える「片足動歩」だ。
『司馬法』には「古は、敗走する敵を百歩以上は追撃しなかった。」などとも書かれているそうだ。この百歩は「両足動歩の百歩」だ。「二挙足を一歩とした百歩」とは違う。西周時代には「二挙足の歩」(片足動歩)はまだ存在しなかった。秦の時代に「二挙足の歩」(片足動歩)ができたとき、それまでの「一挙足の歩」を「[足圭]き」と名付けたのだ。「貍歩」と「[足圭]き」は同じ「両足動歩」だ。歩み方に違いがあったのだろう。「貍歩」が大きく足を挙げての歩み方に対して、「足圭き」は普通の歩み方か。
[足圭](き)は、足編に圭。JIS第4水準ユニコード48DEC
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