「藤原宮」と大化の改新についてIII
なぜ「大化」は五〇年ずらされたのか
川西市 正木裕
「大化」年号の五〇年ずれ
これまでの藤原宮関連記事の分析で、書紀の「大化」年間(六四五〜)の「宮」関連記事が、五〇年後の九州年号「大化」時代(六九五〜)の藤原宮関連記事から持ち込まれた事を明らかにした。同時に古賀氏の分析で、大化二年改新詔(「建郡の詔勅」)も同様であり、九州年号の大化二年(六九六年)に藤原宮で出されたものであることが分かってきた。(1) 本稿では、書紀大化と九州年号大化が「何故」五〇年ずれているのかの検討を行なう事とする。
九州年号「大化」は六九五〜七〇三年。(2) 一方書紀年号「大化」は六四五〜六四九年で、両者元年は五〇年ずれる。
i 記事をずらせた目的
「何故」とは二つの意味がある。一つは「記事をずらせた目的」であり、書紀編者はどういう意図でずらせたのかと言うこと。もうひとつは何故「五〇年」なのかという「年数の意味」、すなわち何故四九年とか五一年とかではないのか、だ。年次をずらせた記事の例としては、古田武彦氏が明らかにされた持統天皇の吉野行幸記事に代表される書紀の「三四年遡上現象」がある。この「ずらし」の目的は、九州王朝の事跡の盗用であり、白村江敗戦の翌年(天智三年・六六四)から書紀の末年(持統十一年・六九七)まで三四年間の歴史の抹消・改変だった。(3)
これと同様、「大化」のずれは、
(1).先ず、九州王朝が常色期(六四七〜六五一)に行なった「評制施行」等の改革を近畿天皇家のものとする事があげられる。(4) 多数の木簡によってまた、七〇〇年以前は評制であったことが確かめられ、大化五年(六四九)には、常陸国風土記や神宮雑例集で、常陸や伊勢への評制施行が記されているにもかかわらず、何時・誰が施行したのか書紀に記述が無く、始めから「郡」とある。これは、「評」が近畿天皇家ではなく、九州王朝の制度である事を示し、書紀天武十二年(六八三)に記す「伊勢王の天下巡行、諸国境堺限分」が、三四年遡上した大化五年(六四九)の九州王朝の天子の評制施行記事と考えられる。(5)
(2).次に、九州年号「大化」期(六九五〜)に、近畿天皇家が九州王朝から権力を奪取し実施した「郡制施行」等の改革を五〇年以前の事とし、その時点で「既に天皇家が倭国全体を統治していた」とする為だ。
(3).また、前期難波宮(六五二完成)についても、藤原宮造宮(六九四)記事を遡らせる事により、近畿天皇家の造宮であったように見せる。
等を目的としたものであった。
ii 何故「五〇年」なのか
それでは何故「大化」は書紀と九州年号で五〇年ずれているのだろうか。九州王朝の事跡の盗用であれば四九年でも五一年でも良いはずなのに五〇年となっている。これは偶然なのだろうか。
「三四年遡上」現象の場合、「三四年」遡上すれば、九州年号で「朱鳥元年(六八六)が白雉元年(六五二)、大化元年(六九五)が白鳳元年(六六一)」となる。これは書紀の編纂過程で、「九州年号同士の入れ替え」により九州王朝の史書からの転用(盗用)が行なわれた結果であり、三十三年でも三五年でもこうはならないのだ。(4) 「大化」の五〇年ずれについても同様に「九州年号」に基づく盗用が行なわれているのではないか。
五〇年ずれは「大化」だけでない
前号で、皇極元年(六四二)九月辛未(十九日)の「造宮の詔」記事も、五〇年後の持統六年(六九二)の藤原宮の造宮の詔であり、五〇年ずれは「大化」だけでなく、皇極紀にも現れている事を示した。
本来は1). 持統六年(六九二)正月戊寅(十二日)「天皇、新益京の路を観す」2). 五月丁亥(二三日)「藤原の宮地を鎮め祭らしむ」3). 同年六月癸巳(三〇日)「天皇、藤原の宮地を観す」の後、
■皇極元年(六四二→持統六年六九二)九月辛未(十九日・持統六年九月には辛未は無いため、八月辛未九日か一〇月辛未一〇日となる)、天皇、大臣に詔して曰はく、「この月に起して十二月より以来を限りて、宮室を営らむと欲ふ。国々に殿屋材を取らしむべし。然も東は遠江を限り、西は安芸を限りて、宮造る丁を発せ」とのたまふ。
の記事が入り、次に4). 持統七年(六九三)二月己巳(一〇日)「堀せる尸を収めしむ」と続くのだ。
九州年号と持統即位年号
皇極元年は九州年号では命長三年にあたる。五〇年後は同朱鳥七年(持統六年)で一見「年号」に対応性が無いようだが、持統天皇の治世で「称制」は元年(六八七)〜三年(六八九)だから、即位元年は持統四年(六九〇)となる。従って、
(1) 持統六年(六九二)は持統天皇即位三年。
(2) 皇極元年(六四二)は九州年号命長三年。
「持統即位三年」と「九州年号命長三年」の三年同士での記事の移動となっているのだ。
以下、次表の様に、持統即位六年(六九五・九州年号大化元年)は、五〇年ずれると九州年号命長六年(六四五・書紀大化元年)となり、「六年」同士と両「大化」年号が一対一で対応する。しかも「書紀年号六年・九州年号大化」のセットを「九州年号六年・書紀年号大化」とひっくりかえしたのだ。また、文武元年(六九七)も九州年号常色元年(六四七)と、元年同士が対応する。従って「大化」年号の五〇年ずれも、三四年遡上と同様に、九州年号に基づく盗用手法を示すもので、この場合は「九州年号命長・常色」と近畿天皇家の持統(即位)・文武年号との入れ替えが行われたものと考える。
五〇年の記事移動が示すもの
九州年号同士の入れ替えで、九州王朝の過去の事績を白村江後に異動させた「三四年遡上」と異なり、「大化の五〇年ずれ」は持統・文武の「天皇の年」と九州年号を対応させ過去に移動させている事からも、移された「改新」の事績は、「近畿天皇家の事跡」であり、出所は近畿天皇家の史書(資料)である可能性が大だ。改新詔に続日本紀の文武即位の宣命等に見られる「宣命体」があることもその証だろう。これは持統即位から文武即位の間に九州王朝から近畿天皇家に権力の移動があった証明となるのではないか。
(注)
(1) 古田武彦氏は、七〇〇年を画期とする「評」から「郡」への移行と、九州年号大化から大宝への移行が機を一にするところから、大化の改新の時期をここに設定されておられる様である(但し「乙巳の変」は白村江直前とされる)。(九州王朝の成立と滅亡について ーー「大化の改新」批判二〇〇八年七月五日久留米大学公開講座)
古賀氏は大化二年(六四六)の改新詔の分析(藤原京の条坊制、「建郡」の命令等)や、藤原宮遷都が六九四年十二月であることから、改新詔は九州年号大化二年(六九六)のものとされる。(古賀達也「『大化二年』改新詔の真実」(古賀事務局長の洛中洛外日記第一八九、一九〇話 二〇〇八)
(2) 古賀試案を採用。九州年号「大化」は七〇三年で終わり、七〇四年の「大長」に続く。但し二中歴ほかでは七〇〇年までで終わり、以降は近畿天皇家の年号「大宝(七〇一〜)」となる
(3) 『日本書紀』「持統紀」の真実 ーー書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号」(『古代に真実を求めて』第十一集二〇〇八・三・三一明石書店)
(4) 「常色の宗教改革」(古田史学会報八五号、二〇〇八・四・八)「白雉年間の難波遷都と評制の創設について」同八二号、二〇〇七・一〇・一〇)
(5) 「伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点」(同八六号、二〇〇八・六・六)
持統即位元年と命長元年をフックとした五〇年対応年表
西暦 | 書紀年号 | 干支 | 天皇 | 九州年号 | 西暦 | 書紀年号 | 干支 | 天皇 | 九州年号 | 五〇年対応年 | |
686 | 朱鳥元年 | 丙戌 | 天武15 | 朱鳥年号 | 636 | 丙申 | 舒明8 | 僧要 2 | |||
687 | 年号無し |
丁亥 | 持統1 | 2 | 637 | 丁酉 | 9 | 3 | |||
688 | 戌子 | 2 | 3 | 638 | 戌戌 | 10 | 4 | ||||
689 | 己丑 | 3 | 4 | 639 | 乙亥 | 11 | 5 | ||||
690 | 庚寅 | (即位1)4 | 5 | 640 | 庚子 | 12 | 命長元年 | 持統即位元年 | |||
691 | 辛卯 | (即位2)5 | 6 | 641 | 辛丑 | 13 | 2 | ||||
692 | 壬辰 |
(即位3)6 | 7 | 642 | 壬寅 | 皇極1 | 3 | ||||
693 | 癸巳 | (即位4)7 | 8 | 643 | 癸卯 | 2 | 4 | ||||
694 | 甲午 | (即位5)8 | 9 | 644 | 甲辰 | 3 | 5 | ||||
695 | 乙未 | (即位6)9 | 大化元年 | 645 | 大化元年 | 乙巳 | 孝徳1 | 6 | 書紀大化元年 | ||
696 | 丙申 | (即位7)10 | 2 | 646 | 2 | 丙午 | 2 | 7 | |||
697 | 丁酉 | 文武 1 | 3 | 647 | 3 | 丁巳 | 3 | 常色元年 | 文武元年 | ||
698 | 戌戌 | 2 | 4 | 648 | 4 | 戊申 | 4 | 2 | |||
699 | 乙亥 | 3 | 5 | 649 | 5 | 己酉 | 5 | 3 | |||
700 | 庚子 | 4 | 6 | 650 | 白雉元年 | 庚戌 | 6 | 4 | |||
701 | 大宝元年 | 辛丑 | 5 | 7 | 651 | 2 | 辛亥 | 7 | 5 | ||
702 | 2 | 壬寅 | 6 | 8 | 652 | 3 | 壬子 | 8 | 白雉元年 | ||
703 | 3 | 癸卯 | 7 | 9 | 653 | 4 | 癸丑 | 9 | 2 | ||
704 | 4 | 甲辰 | 8 | 大長元年 | 654 | 5 | 甲寅 | 10 | 3 |
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