盗まれた「国宰」 第二章 国宰から国司 へ
盗まれた「国宰」
川西市 正木裕
第一章 消された「国宰くにのみこともち」
古代の行政単位について、七〇〇年以前は「評」、七〇一年の大宝律令制定後は「郡」であったが、日本書紀において「評」は全て「郡」と書き改められていた。これは戦後の井上・坂本両氏の「郡・評論争」において、藤原宮木簡等の発見により決着した事だ。また、「評」は六四〇年代後半に設立されていた事も風土記等により確実視されているところだ。
しかし、何故書紀は「評」を「郡」に書き換えたのか、また「評」は何時、誰によって施行されたのか、また「郡」を建てる詔勅が何故記されていないのか、等の疑問は、「郡・評」論争決着後の古代史学会においても依然残されたままとなっていた。
こうした中、古田武彦氏は、「評・評督」は九州王朝の制度であり、「郡・郡司」は九州王朝を襲った近畿天皇家が律令(七〇一)によって創設した制度である事、書記編者は九州王朝の存在を隠す為、「評」を「郡」に書き換えた事を解明された。
また古賀達也氏は、「評・評督」は孝徳期に九州王朝が創設した事、「郡・郡司」の創設は、近畿天皇家により九州年号大化期(六九五~)に詔が発せられ、七〇一年に施行された事、その詔勅は書紀の大化二年の改新詔第二(六四六)に移されたとされた。(1)
本号では、こうした「郡・評」の関係と同様に、「国司」も、大宝律令制定以前は「国宰」という職であり、「国宰」は九州王朝が六四〇年代前半に創設した事、書紀編者は「国宰」を「国司」と書き換え、この事実を隠していた事を述べる。
また次号では、九州年号「大化」期に、近畿天皇家は「国宰」から「国司」への転換を強硬に進め、大宝律令により新統治制度として確立した事、その経緯は続日本紀のほか、書紀の大化改新詔(東国国司詔等)にも移されている事を明らかにする。
I 「国司」はいつ創設されたか
始めに「国司」の創設について簡単に触れておく。
八世紀初頭の律令制整備を通じ、国司・郡司等の地方統治制度が確立していったが、その創設は大化改新時とされ、書記大化二年(六四六)正月の改新詔第二に「初めて京師を修め、畿内に国司、郡司を置く」とある事が根拠に挙げられている。(2)
■其の二に曰はく、初めて京師を修め、畿内国の司(畿内に国司)、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置き、鈴契を造り。山河を定めよ。凡そ京には坊毎に長一人を置け。(以下略)
しかし、古賀達也氏は、この詔は五〇年後の九州年号大化二年(六九六)から移された持統天皇の「建郡詔勅」であり、大和朝廷が、大宝律令制定(七〇一)による「廃評建郡」の施行に向け、五年の歳月をかけて周到に準備した事を示すものであるとされた。そして、この詔が五〇年後のものである根拠として、詔中の畿内の定義や、藤原京でしかありえない条坊制の記述などを挙げられている。
この説に随えば、国司も七世紀末に近畿天皇家によって創設された事となるが、その経緯については次号で述べる事とし、本章では、書紀において「国司」が存在したとされる、大化期から七世紀末までの地方統治制度の実際について検討しよう。
II 書紀から消された「国宰」
書紀には全く書かれていないが、この改新詔(孝徳期)以降も七世紀末まで、諸国の風土記や木簡等には「国宰・国之宰」あるいは「宰(みこともち)」という職が記されており、国司に先行する制度であったことはほぼ認められている。
「国宰」の資料状況を見ていこう。
1). 『常陸国風土記』には、久慈郡の章に「国宰久米大夫」、行方郡に「国宰当麻大夫」とあり、年代は概ね孝徳~天智期とされ、この時点で「国宰」が存在していたと考えられている。(3)
2). 『播磨国風土記』讃容郡では、天智期に、道守臣が国宰とされている。
■(讃容郡)船引山。近江天皇(天智)の世、道守臣を此の国の宰となし、此に官船を造る。
3). 同飾磨郡では、庚寅年(持統四年・六九〇)に上野太夫を宰とする記述があり、持統期にも「国宰」職の存在が認められる。
■(飾磨郡)志貴島宮御宇天皇(欽明天皇)の世、私部弓束等の祖、田又利君鼻留、請ひて此の処に居す。故に私里と号づく。以後、庚寅年(六九〇)上野大夫宰なりし時、小川里と改む。一に云、小川、大野より此の処に流れ来る。故に小川と曰ふ。
更に、七世紀末と考えられる藤原宮(六九四年遷居)木簡に「粟道宰熊鳥(淡路国宰の意味)」との文字が確認され、文献や出土品から、孝徳期から七世紀末までの「国宰」の存在は明らかだ。
III 書き換えられた「国宰」
「書紀には『国司』とあり、『国宰』は存在しないが、木簡や他の文書に現れる」という資料状況は、郡・評論争における「郡」と「評」の関係と極めて類似しており、また、『古事記』の「針間国之宰」山部連小楯が、『書紀』では「播磨国司」と改められている事などから、書紀において「国宰」が「国司」と書き直されている事は確実と思われる。(4)
IV『続日本紀』に見える「国司」と「国宰」
律令制定前に「国宰」
一方、書紀と異なり、八世紀末の編纂である『続日本紀』には、「国司」と並んで「国宰」が記されている(律令制定以前では「国宰」は二箇所)。
1). 文武元年八月(六九七)庚辰(十七日)の文武即位の宣命第一詔に「国々の宰等に至るまでに」とあり、国宰が全国から招集されたとされている。
■是を以て、天皇が朝庭の敷き賜ひ行ひ賜へる百官人等、四方の食国を治め奉れと任け賜へる国々の宰等に至るまでに、国の法を過ち犯す事無く、明き淨き直き誠の心を以て、御稱稱りて、緩び怠る事無く、務め結りて仕へ奉れと詔りたまふ大命を、諸聞きたまへと詔る。
2). 文武二年(六九八)の詔に、「国司、郡司」とある。
■三月庚午(十日)諸国の郡司を任けたまふ。因りて詔したまはく、「諸国司等は、郡司を銓擬せむに、偏党有らむこと勿れ。郡司は任に居たらむに、必ず法の如くにすべし。今より後は違越せざれ」とのたまふ。
3). 文武四年(七〇〇)二月に「上総国司」とある。
■二月乙酉(五日)上総国司、安房郡の大小領に父子兄弟を連任せむことを請ふ。これを許す。
4). 文武四年八月に「諸国司」とある。
■また、巡察使の奏状に依りて、諸国司ら、その治能に隨ひて、階を進め封賜ふこと各差有り。阿倍朝臣御主人、大伴宿祢御行に、並に正廣參を授く。
5). 大宝元年四月には、田領の巡検も国司の職権とされた。これは律令による新「国司」を意味する。
■四月戊午(十五日)田領を罷めて国司の巡検に委ぬ。
6). 大宝元年(七〇一)六月己酉(八日)の大宝令による施政宣言で、事務や税の取り扱いの変更が国宰・郡司に指示されている。
■勅したまはく、「凡そ其の庶務、一ら新令に依れ。又国宰・郡司、大税を貯へ置くこと、必ず法の如くすべし。如し闕怠有らば、事に隨ひて科断せむ」とのたまふ。
国司・国宰のいずれを使うかが書き手の好みや原資料のばらつきの問題なら、続紀編纂時に統一されていて然るべきだが、そうはなっていない。記事の内容を見ると 1).,6). は既に就任している者に「国宰」と記している。これに対し、2).,3).,4).,5).は郡司等の新任や位階の昇任、或いは新職権付与に関して「国司」と記すと言う様に使い分けていると考えられる。このことは後掲の 7).~11). で「国司」が同様の文脈で用いられている事でも明らかだ。
これは律令制定直前では、一時期「国司」と「国宰」という新旧二つの制度が並存・混在していた事を示すものではないか。
律令制定後は「国司」
次に、八月の大宝律令制定以降はどうだろう。
■大宝元年八月癸夘(三日)三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、從四位下下毛野朝臣古麻呂、從五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養らをして律令を撰び定めしむること、是に始めて成れり。大略、淨御原朝庭を以て准正とす。仍りて祿賜ふこと差有り。
これ以降は「国宰」は消え、「国司」一色となる。
7) 八月丁未(七日)には、「対津嶋司と郡司の主典巳上とに位一階を進めたまふ」、
8) 冬十月戊申(九日)には、「従へる官併せて国・郡の司等に階を進め」、
9) 大宝二年二月乙丑(二八日)には、「諸国司等、始めて鎰(かぎ)を給はりて罷る。是より先、別に税司の主鎰有り。是に至りて始めて国司に給ふ」、
10) 夏四月乙巳(八日)には、「その国司目上と瑞を出だせる郡の大領とには位各一階を進め、禄賜ふこと差有り」、
11) 冬十月丁酉(三日)には、「唱更の国司等(今の薩摩国なり)」、
以上の記事から、律令制定以前は、既存の職としては「国宰」が、新任・新職務に関しては「国司」が使われ、律令制定以降は「国司」がほぼ全てにおいて用いられている事が理解出来るだろう。
また、律令成立後から書紀が成立し(七二〇)、「国宰」が「国司」と置き換えられるまででも(続紀では巻八・養老五年・七二一まで)、「国司」の語は五十九回あるが、国宰は無いのだ。(5) この様に、律令成立以前に「国宰」制度が存在し、律令によって「国司」に変わった事は続紀の記述からも確かだと考えられる。
V 「国宰」は何時施行されたか
それでは国宰制度は何時、誰が施行したのだろうか。
大化五年(六四九)に「国」の下部として「評」が施行された事は、常陸国風土記や皇太神宮儀式帳等によって裏付けられている。また、「国」より広範囲(後の「道」か)を所管する「総領」の存在も同年に記されており、その中間の「国」の政を掌る国宰も同時期には存在したと考えられる。風土記は現地での施行を示すもので、中央における総領・国宰の制度創設はこれ以前となろう。
皇極二年(六四三)の「前の勅」とは何か
ここで注目されるのは「皇極二年十月」の国司任命に関する「前の勅」記事だ。
■皇極二年(六四三)冬十月丁未の朔己酉(三日)に、群臣・伴造に朝堂の庭に饗たまひ賜ふ。而して位を授けたまふ事を議る。遂に国司に詔したまはく、「前の勅せる所の如く、更改め換ること無し。厥の任けたまへるところに之(まか)りて、爾の治す所を慎め」とのたまふ。
この趣旨は「前の勅に従い、示された任地に行き、政事を行なえ。変更はしない」と言う事だ。
「前の勅」については、書紀には記述が無く、その内容は不明であり、岩波注釈は、
「標注は国司の交替を停めたのだと解し、通釈は勅はいかなるものか知り難いという。「前に命じてあるような方針に従って任国を治めよ。特にかわったことはない」と詔したとも解せられる。」(『標注』は『日本紀標注(敷田年治)』、『通釈』は『日本書紀通釈(飯田武郷)』)
とするが、結局「前の勅」、「前に命じた方針」とは、いかなるものか判然としない。書紀で「国司」の創設を記す大化以前に「国司」の記事があるのは不信だが、皇極二年の勅が「国司」の任命に関するものであることは明白だ。従って、この記事が「国司」に先行する「国宰」の任命を潤色したものであるのは確実だろう。
更に群臣等を一堂に会して議した結果とあるからは、個別の国司(国宰)についてではなく、「全国的」な任命についての勅であることも疑えない。従って「前の勅」とは、皇極二年の勅の直前に発せられた、「国宰」の任命に関する最初の詔勅であると考えられる。つまり「皇極二年の直前に勅が発せられ、国宰が全国に任命された」事となるのだ。 天武五年(六七六)の国司任命はなかった
ところで、古田武彦氏は、書紀の「持統天皇の吉野行幸」記事は三十四年遡上した、白村江以前の九州王朝の天子の、佐賀なる吉野行幸記事であるとされている。三十四年遡上記事は吉野行幸以外でも天武・持統紀において頻出し、いずれも九州王朝の史書からの盗用であると見られる事は、私も再三にわたり指摘してきたところだ。
こうした天武・持統紀の三十四年遡上現象を踏まえれば、「前の勅」が浮かび上がってくる。それは書紀天武五年(六七六)の国司任命にあたり、人選や任地の条件を課す旨の詔だ。
■天武五年(六七六)春正月の庚子の朔に、群臣百寮拝朝す。(略)甲子(二五日)に、詔して曰はく、「凡そ国司を任けむことは、畿内及び陸奥・長門国を除きて、以外は皆大山位より以下の人を任けよ」とのたまふ。
この記事を三四年遡上すれば皇極元年(六四二)となり、皇極二年の記事で「前の勅」と表現するに相応しいものとなる。(6) また天武三年(六七四)三月に対嶋国司が銀を献上したことに対し「小錦下」位が授けられているが「小錦下」は冠位二六階の第十二階、これに対して大山位は第十三~十五階にあたる。
「皆大山位より以下」との詔が天武五年であれば、その例外として、直前に大山位以上の位階を授けたはずの対嶋が、畿内等と並んで記述されていないのは不自然。かえって、それまで「大山位」(皇極期の大礼位相当)以下であった対嶋国司に、天武期になって、「銀献上の功績により例外的に陸奥・長門並みの位階を与えた」とすれば自然で、この事も天武五年記事が三四年遡上するものである根拠となる。
つまり、天武五年(六七六)一月甲子(二五日)の詔勅こそ、書紀に記されなかった、皇極二年の勅に言う「前の勅」であり、三四年前の皇極元年(六四二)一月甲子(八日)に発した、「国宰」任命の詔勅と考えられる。
そして、三四年遡上現象は、九州王朝の史書からの盗用を示す事から、国宰任命は九州王朝によって行われた証明となるのだ。九州王朝による「国宰」任命記事は皇極元年から盗まれ、「国司」と変えられた上、三四年後の天武五年に挿入されていたのだ。
VI 「国宰任命」「評制施行」は何故この時期か
天武五年記事での陸奥・長門重視について、岩波注釈は「東北・西海の辺防のために特に高位の者を任命したのであろう」とするが、天武五年に蝦夷や半島の情勢が特段緊迫したという事実は無い。しかし、三四年前の皇極元年は、舒明期末から皇極期にかけての、蝦夷の反乱、百済情勢の急変の只中だった。
1). 蝦夷について、舒明八年(六三六)是歳条に「是歳、蝦夷叛きて朝でず。即ち大仁上上毛野君形名を拝して、将軍として討たしむ。還りて蝦夷の為に敗たれて、走げて塁に入る」とある。
2). 半島情勢について、書紀皇極元年正月条に「然も其の国(百済)は、今大きに乱れたり」とある。舒明十三年(六四一)に即位した百済義慈王が、翌皇極元年(六四二)二月に弟王子、子ら王族と高名な家臣ら四〇余名を島に流し王権を強化。七月に新羅に出兵し、八月には大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃、城主一族を斬首、男女千名を捕虜とした。
同じ皇極元年、高句麗でも蓋蘇文がクーデターで栄留王や重臣を誅殺し、宝蔵王を立て実権を握った。皇極二年に高句麗と百済は同盟し新羅進攻を図ったが、唐の介入で攻撃は中止された。
こうした皇極元年の内外情勢は、陸奥・長門を特別重視する天武五年の勅の内容とよく一致し、この記事が三四年遡上することを物語っている。総領・国宰・評督等の記事は、広域(道)に総領、国に国宰、評に評督という九州王朝による中央集権体制の確立を意味する。地方に国宰があるからには、中央に「太宰」と「大宰府」があって当然で、「太宰府」が存在する筑紫こそ倭国の首府だったのだ。
皇極元年の詔発から一年余の間に、具体的な国宰の人選や任地に対する、種々の要望や不満などが出された可能性は高い。また、これに組み込まれる在地勢力の反発・抵抗も強かった事は風土記等からも伺え、国宰の派遣には一定の困難が伴った事は確かだろう。(7)
こうした抵抗・障害を排除し、断固たる改革遂行姿勢を示したのが皇極二年(六四三)冬十月の詔だ。この詔を受け、翌皇極三年(六四四)には国宰が各地に赴任し、九州王朝の全国的な評制施行・集権体制確立への取り組みが始まったと考えられる。こうした集権体制の確立は、先述の百済義慈王の王権(集権体制)の強化、覇権主義の台頭、百済・高句麗の同盟と新羅との紛争など、半島での政治・軍事情勢と無関係であるはずはない。
半島での紛争は、これ以降六四〇~六五〇年代を通じ激しく継続する。九州王朝は、こうした情勢に対応するため、従来の国造等在地勢力を通じた支配形態を改め、国力を総動員できる体制の確立を目指していくことになる。この具体的現れが国宰任命や評制施行だったと考えられるのだ。
次号では、大化改新詔と続日本紀の記事を比較することにより、九州年号大化期の記事が、書紀大化期に持ち込まれている事、国宰が国司に移行する過程での激しい権力闘争の跡が記録されている事等を示し、九州王朝から近畿天皇家への権力移行の過程を追っていきたい。
(注)
(1) 九州王朝説による「大化改新」と「評」制につついては、
1). 古田武彦著「総力特集 大化改新批判」(「なかった ーー真実の歴史学」第五号・ミネルヴァ書房 二〇〇八年六月三〇日発行)、古賀達也「古賀事務局長の洛中洛外日記」第一四〇話「天下立評」(二〇〇七・八・二六)古賀達也「大化二年改新詔の考察」(古田史学会報八九号・二〇〇八・一二・一六)拙稿「『藤原宮』と大化の改新について I 『移された藤原宮記事』」(古田史学会報八七号)、同II「皇極紀における『造宮』記事」(八八号)、同III「何故『大化』は五〇年ずらされたのか」(同八九号)等に記す。
(2) ただし、大化改新そのものの存在について疑問視する説、国司制度の成立時期をより後期に求める説、改新期には一部地域に施行されたに止まるという説、「国司」ではなく「国宰」であったと言う説等、大化改新で国司が創設された事に対する異論も多い。以降の「国宰」制度論については、亀井輝一郎「大宰府覚書(三)国宰・大宰とミコトモチ(福岡大学紀要第五五号第二分冊・二〇〇六)に負う。
(3) 常陸国風土記中の「国宰」は次の通り。
(久慈郡)国宰久米大夫之時に至り、河に鮭を取りしにより、名を改め助川とす
(行方郡)国宰当麻大夫の時に池を築きし所、今路の東に存す
(多珂郡)国宰川原宿祢黒麻呂の時、大海の辺の石壁に、観世音菩薩像を彫造し、今に存す。因りて佛浜と号づく。
風土記等によれば、孝徳期に広域(道)支配のために「総領」が任命され、国には新たに「国宰」職が、その下に「評」が設けられ「評督」が任命された。これは全国的に集権体制が確立した事を意味する。なお、国宰久米大夫について、秋本吉郎氏らは、天武紀元年に見える河内国主久米臣塩釜と見る。
(4) 『書紀』には国宰の表記は一例もないが、この事は大化改新詔をめぐる「郡評論争」で周知の様に、評の字が大宝令によって全て郡の字に換えられたのと同様に、国宰の表記が国司に書き換えられた結果と考えられる(亀井輝一郎『大宰府覚書』より)。なお喜田貞吉氏は古事記と書紀で「山部連小楯」の官職名に差がある事をもって、「国司・国宰の同一なるは知らるべく」としている。(『喜田貞吉著作集』三、国司制の変遷)
(5) その他続日本紀で「国宰」は七三八・七七九・七八六の三箇所に見られるが、律令制下での国宰職の実在を示すものではない事は当然である。
(1)天平十年(七三八)冬十月に「巡察使を七道諸國に遣はし、国宰政の黎民勞逸の迹を採訪さしむ」
これは「国の宰政」の意か。
(2)宝亀十年(七七九)五月、唐の使節との応対の中に「国宰」の語があるが、唐の官職の影響か。
(3)延暦五年(七八六)四月「国宰郡司」とある。同じ四月条の末尾に「太宰帥」とあって、「国司と太宰」を一括し「国宰」と述べたものか。
(6) 「大山位」は大化五年から天武十三年までの冠位。皇極元年で「大山位」に相当するのは「大礼位」。本来「大礼位」とあったところを、天武期ではその位階がなかった為に、位階を潤色したものと考えられる。
(7) 『常陸国風土記』行方郡の記事には、孝徳期に新任の壬生連麿に対する在地勢力の抵抗とその抑圧の模様が記されている。
盗まれた「国宰」 第二章 国宰から国司 へ
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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