第一章 消された「国宰くにのみこともち」(会報90号)
「大長」末の騒乱と九州王朝の消滅(会報92号)
盗まれた国宰
川西市 正木裕
第二章 国宰から国司へ
I 大化元年八月の東国国司詔は国宰召集
前号では、孝徳期から七世紀末まで、天皇家の創設した律令制「国司」に先行して、九州王朝の「国宰」制度があった事について述べたが、本号では大化改新詔や『続日本紀』(以下『続紀』とする)の記事から「国宰」から「国司」への移行と、その背景にある九州王朝から近畿天皇家への権力移行の実態についてについて検討する。
その前に、「大化」年号については、書紀の大化(六四五~六四九)とは別に、九州年号大化(六九五~七〇三)が存在する。前者が白雉・朱鳥とともに孤立した年号であるのに対し、後者は継体(五一七)から連続する三十一の年号の一つである。
古田武彦氏は、九州年号こそ近畿天皇家に先行する九州王朝の建てた年号であり、書紀年号はこれを盗用したものであるとされた。この観点からは、書紀の「大化」期の記事も、九州王朝の「大化」期の記事から盗用されている疑いが生じるのだ。以下、書紀大化期に記す「東国国司詔」を通じて検証していこう。
大化元年の「東国国司発遣詔」
書紀大化元年(六四五)八月に、「東国国司発遣の詔」(以下「発遣詔」)が記されている。
[発遣詔]大化元年八月庚子(五日)に東国等の国司を拝(め)す。仍りて国司等に詔して曰はく、「天神の所奉け寄せたまひし随に、方に今始めて万国を修めむとす。凡そ国家の所有る公民、大きに小きに領れる人衆を、汝等任に之りて、皆戸籍を作り、及田畝を校へよ。其れ薗池水陸の利は、百姓と倶にせよ。又、国司等、国に在りて罪を判ること得じ。他の貨賂を取りて、民を貧苦に致すこと得じ。京に上らむ時には、多に百姓を己に従ふること得じ。唯国造・郡領のみを従はしむること得む。但し公事を以て往来はむ時は、部内の馬に騎ることを得、部内の飯[冫食]ふこと得。(以下介・判官他についての規定・略)若し名を求ふ人有りて、元より国造・伴造・県稲置に非ずして、輙(たやす)く詐り訴へて言さまく、『我が祖の時より、此の官家を領り、是の郡県を治む』とまうさむは、汝等国司、詐(いつはり)の随に便く朝に牒(まう)すことを得じ。審に実の状を得て後に申すべし。又、閑曠(いたずら)なる所に、兵庫を起造りて、国郡の刀・甲・弓・矢を収め聚め、辺国の近く蝦夷と境接る処には、尽に其の兵を数へ集めて、猶本主に仮け授ふべし。其れ倭国の六県に遣はさる使者、戸籍を造り、并せて田畝を校ふべし。〈墾田の頃畝及び民の戸口の年紀を検覈るを謂ふ。〉汝等国司、明に聴りて退るべし」とのたまふ。即ち帛布賜ふこと各差有り。
[冫食]は、JIS第4水準ユニコード98E1
この詔は六四五年の近畿天皇家による国司制度の創設、或いは全国的な国司の任命と考えられているが、はたしてそうだろうか。詔の前文に「東国等の国司を拝す」とある通り、その中身は国司の招集と訓示であって、国司制度の創設や国司の任命は述べれられていない。
前号で、天武五年(六七六)正月の詔に、「凡そ国司を任けむことは、畿内及び陸奥・長門国を除きて、以外は皆大山位より以下の人を任けよ」とあるのは、三十四年遡上した六四二年の九州王朝による国宰任命記事であると述べたが、この詔には国司(国宰)の任命基準が述べられているのと大違いだ。
また、書紀では個人名を付した任官記事も多く、大化二年の国司賞罰では国司の個人名も挙げているのに比して、均衡を欠く記述だ。更に、国司制度の創設なら、先ず国司の職権(何を行なうべきか)が述べられるべきはずだが、逆にその制限(禁止)が主題である事、次の通りだ。
1).裁判権の剥奪2).徴税権の制限3).馬・飯等公財産の私的利用禁止4).国造等の恣意的任命禁止等だ。
職を新設するのに禁止事項をもっぱら規定するのは不可解であり、これは既にその職にある者、すなわち現職の国宰に対し、その権限を制限・変更する詔であるとすれば、よく理解ができるのだ。
要するに[発遣詔]では、「既に国司(国宰)が存在している」事が前提になっているのだ。また「西国の国司」についての記事がないのは、全国の国宰中、東国の国宰(畿内を含む)のみの召集を意味し、九州を始めとする西国には統治権が及んでない事を示すものだ。つまり、その記述に統治支配力の濃淡が現れており、それは1).畿内=倭国の六県(校田・造籍等具体的な統治行為の指示。既に実効支配が行われている)2).東国(一般的な規範の指示。新規に支配地域に編入された)3).西国(記述無し。未だ統治権及ばず)という順なのだ。
詔の内容、記事の文体は七世紀末
次にこの詔の発せられた時点を検討しよう。
「校田・造籍」は公地公民・班田収受制の前提であり、武器庫の整備は令制にある軍団制に類似するとされる。これらの制が確実に施行されたのは律令制定以後だ。(注1) また、裁判権の国宰からの剥奪は、これら権限の中央への集中を意味し、この実施には、律令の整備が前提となる事は言うまでもない。
更に「天神の所奉け寄せたまひし随に、方に今始めて万国を修めむとす。」との語は文武即位の宣命と類似し、こうした宣命体の成立は早くとも七世紀後半以降とされている。つまり、詔の内容や文体から、この詔の成立は律令制を前提とした七世紀末以降であると考えられるのだ。
古賀達也氏は大化二年(六四六)正月の改新詔第二を、九州年号大化二年(六九六)に発せられた持統天皇の「建郡詔勅」とされ、近畿天皇家は以降五年をかけて律令整備を進めていったとされた。[発遣詔]もこれと同様だとすると、こうした分析結果と整合するのだ。
前号で述べた通り、国宰は九州王朝の六四〇年代に創設した制度である。一方、[発遣詔]の内容は、近畿天皇家が七〇一年以降に施行した律令制に沿うものであるから、結局東国国司発遣詔とは、「九州年号大化期に、九州王朝が任命していた国宰のうち、まず既に配下としていた畿内(倭国の六県)・新たに支配下においた東国の国宰を近畿天皇家が招集し、忠誠を誓わせ、律令施行に向け、新たな指示をおこなった」ものと言えよう。
II 大化二年の「東国国司処罰詔」
同様に、書紀大化二年(六四六)三月の東国国司賞罰の詔(三月甲子二日及び辛巳十九日の詔。以下[賞罰詔]という)は、九州年号大化期に、近畿天皇家の立場から国宰の考査を行なった上で、国宰を再度召集し、新政権に不服従の国宰に対し処罰を行なった記事となろう。
[賞罰詔]大化二年(六四六)三月癸亥朔甲子(二日)に、東国の国司等に詔して曰はく、「集侍る群卿大夫及び臣・連・国造・伴造、并て諸の百姓等、咸(ことごとく)に聴るべし。夫れ天地の間に君として万民を宰むることは、独り制むべからず。要ず臣の翼(たすけ)を須ゐる。是に由りて代々の我が皇祖等、卿が祖考と倶に治めたまひき。朕も神の護の力を蒙(かうぶ)りて、卿等と共に治めむと思欲ふ。故、前に良家の大夫を以て、東の方の八道を治めしむ。既にして国司任に之りて、六人は法を奉り、二人は令に違へり。毀誉各聞ゆ。朕便ち厥の法奉るを美(ほ)めて、斯の令に違へるを疾(にく)む。凡そ治めむとおもはむ者は、君も臣も、先づ当に己を正しくして、後に他を正せ。如し自ら正しくあらずは、何ぞ能く人を正さむ。是を以て、自ら正しくあらざる者は、君臣と択ばず、乃ち殃(わざはひ)を受くべし。豈慎まざらむや。汝率ひて正しくは、孰(たれ)か敢へて正しくあらざらむ。今前の勅に随ひて処ひ断めよ」とのたまふ。
三月辛巳(十九日)に、東国の朝集使等に詔して曰はく、「集侍る群卿大夫、及び国造・伴造・并て諸の百姓等、咸に聴るべし。去年八月を以て、朕親らおしへて曰ひしく『官の勢に因りて、公私の物を取ること莫。部内の食を喫ふべし。部内の馬に騎るべし。若しおしふる所に違はば、次官より以上をば、其の爵位を降し、主典より以下をば、笞杖を決めむ。己に入れむ物をば、倍へて徴れ』とのたまひき。詔既に斯の若し。今朝集使及び諸国造等に問ふ。国司任に至りて、誨ふる所を奉るや不やと。是に、朝集使等、具に其の状を陳さく、(以下具体の国司の処罰略)。念ふこと是の若しと雖も、始めて新しき宮に処りて、将に諸の神に幣たてまつらむとおもふこと、今歳に属(あた)れり。又、農の月にして、民を使ふべからざれども、新しき宮を造るに縁りて、固に已むを獲ず。深く二つの途を感けて、天下に大赦す。今より以後、国司・郡司・勉め勗(つと)めよ。放逸すること勿。使者を遣はして、諸国の流人、及び獄中の囚、一に皆放捨(ゆる)せ。
「新しき宮」は藤原宮、詔は七世紀末
賞罰詔中で「始めて新しき宮に処りて、将に諸の神に幣たてまつらむとおもふこと、今歳に属れり。」「新しき宮を造るに縁りて」「天下に大赦す」とある。「新しき宮」は、大化元年十二月に「都を難波長柄豊碕に遷す」記事がある為、「難波宮」とされてきた。しかし、前期難波宮完成は白雉三年(六五二)で大化二年(六四六)では未完成。また、岩波注釈で「白雉三年十二月まで、難波諸宮を宮とする」とある通り、大化二年では行宮を転々としていた。毎年の様に遷居する行宮を「新宮」として特別重視するのは不可解だ。(注2)
更に、「天下大赦」とあるからには、記念すべき重要な事業(慶事)、つまり相当大規模な宮の造営であったはずで、「行宮造営」に関しての大赦とは考えづらい。こうした諸条件に加え、1).大化二年正月の改新詔に記された「条坊制」記事2).同年二月の「宮の東門」記事3).大化五年三月の「朱雀門」記事等も併せて考えれば、「新しき宮」は「藤原宮」(六九四年十二月遷居)以外には無い。若しそうであれば「藤原宮」を記述する国司賞罰の詔そのものが九州年号大化期から移された事を示すものだ。
元記事は九州年号「大化」から切り取られた
それでは、これら[発遣詔][賞罰詔]は九州年号大化期の何年から盗用されたのだろうか。書紀大化と九州年号大化が、大化年号同士五〇年を隔てて一対一で対応するとすれば、[発遣詔]は九州年号大化元年(六九五)八月、[賞罰詔]は同二年(六九六)三月となる。
大化二年正月の建郡詔勅には「初めて京師を脩め」とあり、又「凡そ京には毎坊に長一人を置け。四坊に令一人を置け」と京の行政組織を定めるが、条坊制は藤原京が最初だから、藤原京遷都(六九四年末)から間もない時期の詔勅である事がわかる。
従って、それ以前に出された発遣詔は九州年号大化元年(六九五)と見て大きな誤りは無いだろう。但し、同年八月に「庚子」はなく、七月二四日と九月二五日が庚子だから、何れかの月から移されたもので、[賞罰詔]中に、「発遣詔」は「去年八月」と記すのも造作となる。
ただ[賞罰詔]も単純に五〇年ずれた(六九六年なら三月甲子二三日と四月辛巳十日)と見れば[発遣詔]と「賞罰詔」の間がわずか半年余となり、そのような短期に1). 国宰の召集、新支配体制・施政方針の訓示、2). 任地への発遣、3). 着任と様々な施政(造籍・校田・利水・兵庫設置・武器収の再召集、4). 国宰の賞罰を行ない得たのかという問題が残る。
一方、大化改新記事については、膨大な改革が大化元年・二年に集中している事から、「相当長期の改革内容を集めて記したもの」との説がある。この説にもとづき、近畿天皇家の九州年号大化期の数年分の「改革」をまとめて大化元年・二年に記したもので、[発遣詔]と[賞罰詔]は数年の隔たりがあると見れば、発遣から処罰までが短期に過ぎる矛盾も解消出来るだろう。(注3)
III 盗まれた国宰
「国宰」を近畿天皇家の制度としたかった書紀編者は、九州年号大化元年(六九五)の国宰召集記事[発遣詔]を、書紀大化(六四五)に五〇年遡上させ、天皇家による国司任命記事に装うと共に、これと矛盾する九州王朝の国宰任命(皇極元年六四二)記事を三十四年繰り下げ、天武紀に移したのだ。
『続紀』に見る国宰・在地勢力の懲罰
『続紀』には、巡察使を派遣し厳しい考査を行い、不服従の国宰、あるいは天皇家支配に抵抗する在地勢力を武力を行使して懲罰し、新たに律令による「国司」を任命し、支配体制を固めていった経過が克明に記されている。
1). 文武三年三月に巡察使を畿内に派遣。これは書紀大化元年の[発遣詔](本来は九州年号大化元年・六九五)で指示した校田・造籍等の徹底の為の巡察だろう。校田は土地所有の変更を、造籍は身分の変更を意味するから、相当の抵抗があって当然だ。
・文武三年(六九九)三月壬午(二七日)巡察使を畿内に遣して、非違を検へ察しむ
2). 九月に武器・兵馬装備を指示。
・同九月辛未(二十日)詔したまはく、「正大貳已下無位已上の者をして、人別に弓・矢・甲・桙と兵馬とを備ふること、各差有らしめよ」、又、勅したまはく「京畿、同じく亦これを儲けよ」とのたまふ。
3). 十月に「十悪」処罰を宣言。
・同冬十月甲午(十三日)詔したまはく「天下の罪有る者を赦す。但し十惡・強窃の二盜は赦の限に在らず」とのたまふ。
この処罰と巡察使の派遣は決して無縁ではありえない。詔中「十惡」は赦さずとあるが、「十悪」とは唐の律の用語で、わが国の律令では「八虐(はちぎゃく)」にあたり「謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・ 不義」をいい、最も重い犯罪として貴族といえど死罪を免れなかった。(注4)
この中の「謀反」や「謀叛」は一般的な意味ではなく、権力を握った天皇家に対する叛乱・不服従を意味するものだろう。
4). 十月に巡察使を諸国に派遣。
・同冬十月戊申(二七日)巡察使を諸国に遣して、非違を検へ察しむ。
5). 四年二月に巡察使を東山道に派遣。
・二月壬寅(二二日)巡察使を東山道に遣して、非違を検へ察しむ。
6). 同月に重ねて戎具(武器)の装備を詔す。
・同二月丁未(二七日)累ねて王臣・京畿に勅して、戎具を備へしめたまふ。
IV 「薩摩比賣等の反乱」記事が示す権力奪取の真実
この一連の記事は、九州王朝から近畿天皇家への権力移行のリアルな経緯でもある。度重なる巡察使の派遣、「武器・兵馬の備え」とあわせて、「十悪」への徹底した処罰の姿勢表明は、この間の武力行使による弾圧の厳しさを表すものだ。
7). こうした弾圧に対する抵抗も『続紀』文武四年六月の薩末比売らの「剽劫」記事で知られる。(注5)
・文武四年(七〇〇)六月庚辰(三日)。薩末比賣・久賣・波豆、衣評督衣君縣、助督衣君弖自美、又、肝衝難波、肥人等を從へて兵を持ちて覓国使刑部眞木等を剽劫(おびやか)す。是に竺志惣領に勅して、犯に准へて决罸せしめたまふ。
「覓国使」に戎器(武器)が給付された事は『続紀』文武二年四月条で明らかで、評督・助督・総*領は律令以前の九州王朝の制だから、この記事から近畿天皇家と九州王朝の一部勢力との間で大規模な武力衝突があった事が知られるのだ。
8).近畿天皇家はこうした抵抗を排除しつつ、武力衝突後の文武四年八月に、「反乱鎮圧」を祝し大赦を挙行すると共に、国宰らの賞罰を行ない、新体制に隨う者には位階・封授与を進めた。
・文武四年八月丁夘(二十二日)。天下に赦す。但し十悪・盜人は赦の限に在らず。高年に物賜ふ。又、巡察使の奏状に依りて、諸国司等、その治能に隨ひて、階を進め封賜ふこと各差有り。阿倍朝臣御主人・大伴宿祢御行に並に正廣參を授く。(略)並に善き政を褒めればなり。
9). 十月には筑紫・周防・吉備など「九州王朝の拠点地域」に新たな総領を任命。
・冬十月(略)己未(十五日)、直大壹石上朝臣麻呂を筑紫総領とす。直廣參小野朝臣毛野を大貳。直廣參波多朝臣牟後閇を周防総領、直廣參上毛野朝臣小足を吉備総領、直廣參百濟王遠寶を常陸守とす。(注6)
10). 翌大宝元年正月には大極殿に於いて諸外国使節を招いた盛大な式典を催し、近畿天皇家による支配体制の確立を内外に示した。
・大宝元年(七〇一)春正月乙亥朔、天皇、大極殿に御しまして朝を受けたまふ。其の儀、正門に烏形の幢を樹つ。左は日像・青龍・朱雀の幡、右は月像・玄武・白虎の幡なり。蕃夷の使者、左右に陳列す。文物之儀、是に備れり。
「蕃夷の使者」とあるが、粟田真人らを式典終了後直ちに唐に派遣している。これは「答礼」、即ち帰国する使節への同行を意味すると考えられ、式典に唐の使節も参加していた可能性が高い。
唐による政権の承認も確実になり、式典以降同年三月に天皇家の年号「大宝」建元、天皇家の「新令」である「大宝律令」発布と続き、内外ともに近畿天皇家の支配が確立することとなった。
『続紀』には近畿天皇家による全土の実効支配の実現と律令・年号等の統治法令・制度の確立が誇らしげに記されている。「文物の儀、是に備われり」。
そして、遣唐使の報告を元に『旧唐書』日本国伝は記す。「或いは云う。日本は元小国。倭国の地を併せたり」と。(注7)
(注)
(1) 岩波注釈では、「令制では、兵士は人別に、一定の食料、弓箭など一定の武器を自弁し、軍団の庫に預けておく(軍防令の兵士備糒条・備戎具条)。軍団制は後のものであるが、武器を蔵におさめる点、類似の処置か。」とする。
(2) 書紀に記す、難波宮完成までの「諸宮(行宮・離宮等)」は以下の通り。
子代離宮(大化二年正月)、蝦蟇行宮(同二年九月)、小郡宮(同三年是歳)、武庫行宮(同三年十二月)、難波碕宮(同四年正月)、味経宮(白雉元年正月)、大郡宮(同三年正月)
(3) 例えば山尾幸久氏は「そもそも一年数箇月の間に律令体制への大改造の詔が十一も相次いで発布されたなどというのは余りにも不自然である。こういう処は常識に従う方が良い」とする。(「大化改新」の資料批判・塙書房二〇〇六年)
この説によれば、処罰詔の本来の年次は内容に即して検討されるべきだろう。その場合、
1). 賞罰詔の「始めて新しき宮に処りて」は、文武が二年正月に始めて藤原宮の大極殿で朝を受けた事と一致する。
2). 「諸の神に幣たてまつらむとおもふこと、今歳に属れり」とあり岩波注釈が、これを「孝徳天皇即位の大嘗祭か」と、この歳大嘗祭が挙行されたとするのは、『続日本紀』に記す文武の大嘗祭(二年十一月)等の記述と一致する。(書記大化二年に孝徳の大嘗祭記事は見当たらない)
・『続日本紀』文武二年(六九八)十一月
癸亥(七日)。使を諸国に遣して大祓せしむ。
己夘(二十三日)、大甞す。直廣肆榎井朝臣倭麻呂、大楯を竪て、直廣肆大伴宿祢手拍、楯桙を竪つ。神祇官人と、事に供れる尾張・美濃二国の郡司百姓等とに物賜ふこと各差有り。
従って「賞罰詔」は文武二年(六九八)の事と考える事も出来よう。或いは、内容が「賞罰詔」と附合する文武三年から四年の詔を集合させた可能性もある。今後検討すべき課題としたい。
(4) 「八虐(はちぎやく)」
1). 謀反(むへん)、天皇殺害。2). 謀大逆、不敬行為。3). 謀叛(むほん)いわゆる謀反。国家に対する反乱等。5). 悪逆、尊属殺。6). 不道(ふどう)、大量殺人等重罪。7). 大不敬、神社に対する不敬行為。8). 不孝(ふぎょう)、殺人以外の尊属に対する犯罪。9). 不義、主君・夫等上位者に対する殺人等。
(5) 薩末比売らの抵抗については「古賀事務局長の洛中洛外日記」第一九二話「評から郡への移行」(二〇〇八・一〇・一一)参照
(6) 六月条では「竺志惣領」、ここでは「筑紫総*領」と文字を変えている。「竺志」は現地の表現である(大宰府木簡に「竺志前」大宰府木簡概報一~七号)から、前者は九州王朝任命の官職・後者は近畿天皇家の任命であることを示すのだろう。なお薩摩は大宝二年(七〇二)に再度反乱を起こし鎮圧されるが、その後「総*領」であった石上麻呂は、令制の官である「太宰帥」に任ぜられ、ここに九州王朝の遺制は消滅した。
・大宝二年(七〇二)八月丙申(朔)、薩摩・多祢*、化を隔てて命に逆ふ。是に、兵を発して征討し、遂に戸を校べ吏を置く。
総*は、総の糸偏の代わりに手偏。
祢*は、JIS第3水準ユニコード3939
(7) 『旧唐書』日本国伝
日本国は倭国の別種なり。その国日辺に有るをもって日本国を名とす。或いは曰う。倭国自ら、その名雅ならざるを悪み、改めて日本と為す。或いは云う。日本は元小国。倭国の地を併せたり。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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