大化二年改新詔の考察 古賀達也(会報89号)
倭王の「系図」と都域
京都市 古賀達也
わたしが九州王朝研究を始めた当初、その主なテーマは九州王朝の伝承や末裔についてであった。その成果の一端として、鹿児島県に伝わる大宮姫伝説が最後の九州王朝の王、筑紫の君薩夜麻とその王妃の伝承であるとする説や、佐賀県に伝わる與止姫伝説が邪馬壹国の壱與の伝承であるとする説、そして、『続日本後紀』に見える筑紫公文公貞雄と貞直兄弟を九州王朝王族の末裔とする説などを発表してきた(注1)。
また、九州王朝の子孫を探求すべく、「筑紫」を名乗る一族、たとえば戦国武将筑紫広門の系図調査なども試みたが、この面ではさしたる成果も得られず、研究は前進しなかった。ところが、古田武彦氏により二つの大きな研究成果が発表され、俄然、九州王朝史研究は進展を見たのである。その一つは、筑後国風土記逸文に見える甕依姫が卑弥呼のことであったこと、そしてもう一つは、高良玉垂命の末裔である稲員家系図の「発見」と紹介であった。後者については拙稿「九州王朝の筑後遷宮─高良玉垂命考」(注2)にて詳論したとおり、歴代の高良玉垂命が倭の五王であったとする説にまで研究を進展させることができた。
前者の、甕依姫と卑弥呼を同定した古田氏の説(注3)は、九州王朝史を概観するうえで重要な指摘であったが、この論証の持つ意味について、多元史観研究者・古田学派はもっと十分に留意するべきである。というのも、近年、倭国内の分王朝併存説や易姓革命説(注4)などが出され、それら仮説が必要にして十分な論証を経ないまま、更に別の仮説の根拠に使用されるという、「仮説の重構」現象が散見されるからである。これらは学問の方法として危険な方法であり、論証をその生命とする古田史学とは異質ではあるまいか。
すでに「倭国易姓革命説」に対しては、安藤哲朗氏が「『倭国の易姓革命』について」(注5)において、その用語使用の厳密性の指摘と、中国史書の内容から批判されているが、先の古田氏による筑後国風土記逸文の史料批判からも、少なくとも卑弥呼以後の易姓革命説は成立し難いと言わざるを得ない。
古田氏の論証によれば、筑後国風土記逸文には、風土記編纂時点(注6)の筑紫君等の祖は甕依姫(卑弥呼)であると記されている。
「昔、此の堺の上に麁猛神あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極く多なりき。因りて人の命尽の神と曰ひき。時に、筑紫君・肥君等占へて、今の筑紫君等が祖甕依姫を祝と為して祭る。爾より以降、路行く人、神に害はれず。是を以ちて、筑紫の神と曰ふ。」
従来説では、「今」を「令」と読み換えて、筑紫君等が甕依姫に祭らせたとしてきたが、原文は「今」であり、原文改定による従来説は誤りと指摘されたのである。そして、この古田氏の新読解により、卑弥呼(甕依姫)から風土記成立時期(今)の筑紫君まで、倭国王家は基本的には連続していたと見なさざるを得ないのである。他方、『隋書』に見える倭国の記述も、卑弥呼以降連綿と続いているように記しており、易姓革命によるような断絶をうかがわせる記述はない。
なお、卑弥呼共立に至る倭国の内乱を福永氏は易姓革命に相当する事態と捉えられているが、「易姓革命」という定義がこの場合妥当かどうかは別として、この時期に倭国王権の質的変化が進んだことは考えられよう。この点、今後の実証的な研究が待たれる。なお、付言すれぱ、倭国王族内での権力抗争(注7)などは起きたであろうが、王朝そのものが交替するような事態は、七〇一年における倭国から大和朝廷への列島代表者の交代しか、卑弥呼以後は見当たらない。
次に、倭国内部における「分王朝併存」という説について見てみると、これもやはり史料根拠が不十分であり、論証も成立しているようには見えない。未だアイデア段階の域を出ておらず、現時点では作業仮説として問題提起に留めておくのが賢明ではあるまいか。
たとえば、北部九州における神籠石の分布図を見ても、これら神籠石群が防御しようとしている中枢地域は太宰府と筑後川中流域であり、豊前などではない。神籠石が築城され続けた五~七世紀の期間、倭国の中枢は太宰府(筑前)と筑後川流域(筑後)と見なさざるを得ず、それらに匹敵する、あるいは準ずる領域の存在を神籠石の分布図は示さないのである。
更に、太宰府に匹敵するような政庁を持つ大都市遺構もまた九州からは発見されておらず、この点からも倭国内分王朝併存説は成立困難である。同時にこの考古学的事実は、倭国「遷都」説をも成立困難なものとしている。
わたしは倭国の筑後遷宮(注8)というテーマを発表したが、そこにおいて「遷都」ではなく、「遷宮」の一語を用いたのも、理由のひとつに三瀦あるいは筑後地方に条坊制を持つ太宰府のような大都市遺構が存在しないことであった。遷都とは王族のみならず、文武百官ならびにそれらの生活を支える多くの人々の移動を伴うものである。当然、それら大人口を受け入れられるだけの大都市の存在、あるいは新都建造を抜きにしてはありえない。この点、遷宮であれば王宮とそれを支え守る程度の人々の移動だけでも可能である。こうした判断から、わたしは筑後遷都ではなく、筑後遷宮と表記したのであった(注9)。このような観点からすれば、京都郡(豊前)などの地名も、遷宮の可能性を検討されるべきであろう。
九州王朝研究において、様々な視点から仮説が提起されることは、もとより好ましいことであるが、同時に論証が成立しているか否か客観的な判断をもって論を進めるべきであろう。古田史学・多元史観を発展させるためにも、自説・他説にかかわらず、アイデア段階の作業仮説と既に論証が成立した安定な説とを峻別する力量と節度(学問的謙虚さ)が問わているのではあるまいか。
(注)
1 「最後の九州王朝─鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」『市民の古代』第一〇集所収。一九八八年、新泉社。
「よみがえる壹與─佐賀県『與止姫伝説』の分析」『市民の古代』第十一集所収。一九八九年、新泉社。
「九州王朝の末裔たち─『続日本後紀』にいた筑紫の君」『市民の古代』第十二集所収。一九九〇年、新泉社。
2 『新・古代学』第四集所収。一九九九年、新泉社。
3 古田武彦『よみがえる卑弥呼』一九八七年、駸々堂。現在、朝日文庫に収録。卑弥呼の比定ーー「甕依姫」説の新展開
4 福永晋三「新・九州王朝の論理」─邪馬壹国を滅ぼし邪馬臺国成る」『新・古代学』第五集所収。二〇〇一年、新 泉社。
5 『多元』No. 四四、二〇〇一年四月。 なお、安藤氏は福永説として、卑弥呼と壱与間の易姓革命説を批判されているが、福永氏は卑弥呼・壱与(邪馬壹国)と倭王旨(神功皇后・邪馬臺国)間の断絶(易姓革命)と述べられており、この点、安藤氏の誤解であろう。
6 この筑後風土記逸文が、九州王朝編纂になる「縣」風土記であれば、その編纂時期は六~七世紀と思われる。あるいは大和朝廷が編纂した「郡」風土記であれば、八世紀の編纂と考えられるが、現時点ではいずれとも断定し難い。
7 いわゆる「磐井の乱」、古田氏のいうところの「継体の反乱」を倭国王族内部の権力闘争として捉える仮説も、一度は考えてみたい視点であるが、わたし自身は残念ながら史料根拠に基づいた論証が提示できないため、その当否を慎重に留保している段階である。
8 「九州王朝の筑後遷宮─高良玉垂命考」『新・古代学』第四集所収。一九九九年、新泉社。
9 遷都・遷宮問題については、古田武彦氏のご注意を得た。
〔編集部〕本稿は『多元』VOL.45、二〇〇一年十月、その後、『古田史学会報』No.四六(二〇〇一年十月五日)に掲載、今回再転載した。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。Created & Maintaince by" Yukio Yokota"