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市民の古代第12集 1990年 市民の古代研究会編
  特集・九州王朝の滅亡

九州王朝の末裔たち

『続日本後紀』にいた筑紫の君

古賀達也

九州王朝の残映

「どんなにもっともらしい理由があるにせよ、他国の領域に武力を行使し、それによって長期間影響力をもちつづけようとする大国は、すべて亡び去るほかない。それが歴史の鉄則だ。外に対する圧力は、必然的に内部の腐敗と矛盾を招き、ついにはみずからの基盤を掘りくずしてしまう。九州王朝は、みずからの全歴史をもって、この真理を実証し終ったのである。」

 古田武彦氏は、その著書『失われた九州王朝』(朝日新聞社、角川文庫)の末尾をこのような一節で飾られた。
 四世紀から七世紀にわたり、朝鮮半島に大軍を送り続けた九州王朝が白村江の敗北を機に滅亡にむかい、近畿なる大和朝廷に列島の代表者の地位を明け渡したのは七世紀末のことであった。
 滅亡後も九州は半独立性の残映をもって、朝鮮半島側に映じていたことを古田武彦氏は前掲書で示された。『三国史記』の次の記事がそうである。

A(哀荘王三年、八〇二)冬十二月、均貞に大阿[冫食]を授け、仮の王子となす。以て倭国に質せんと欲す。均貞、之を辞す。


[冫食]は、にすい編に食。JIS第4水準ユニコード98E1

B(哀荘王四年、八〇三)秋七月、日本国と聘を交わし好を結ぶ。
C(哀荘王五年、八〇四)夏五月、日本国、使を遣わして黄金三百両を進ず。
  〈『三国史記』新羅本紀第十、哀荘王〉

 九世紀のはじめ、日本では桓武天皇の時代であり、BCの「日本国」という表記は当然としても、Aの「倭国」は九州王朝を指しており、平安期においても、なお、新羅は一旦は「倭国」(九州王朝の後裔)と「契約」を結ぼうとして挫折したのだと氏は指摘された。そしてこの指摘は必然的に次の問題を惹起するのである。九世紀において、新羅が「契約」を結ぼうとした「九州王朝の後裔」とは何か、そしてその実体とはいかなるものであろうか。
 七世紀末の九州王朝の滅亡という大事件を、隣国の新羅が知らぬはずはない。だのに、その百年後に到っても交流を画策しようとするからには、国家交流の対象として何らかの実体がなければならない。そうした疑問から、滅亡後の「九州王朝」の実体にせまるべく、近畿天皇家の正史『六国史』等の史料批判を試みたのが本稿である。そして、その結論として九州王朝の王族の末裔、筑紫の君を『続日本後紀』に見いだしたのである。


倭王の名称

 古田武彦氏の九州王朝説の展開により、倭王やその一族の名前が次々と明らかになった。それらは次の通りである。

三世紀 卑弥呼(倭風名称)
    壹與 (国名+中国風一字名称)
           〈『三国志』魏志倭人伝〉

四世紀 倭王旨(中国風一字名称)
           〈七支刀・石上神宮蔵〉
五世紀 倭国王・倭讃(国名+中国風一字名称)
    倭国王・珍 (中国風一字名称)
        倭隋(国名+中国風一字名称)
    倭国王・済 (中国風一字名称)
    倭国王・興 (中国風一字名称)
    倭国王・武 (中国風一字名称)
           〈『宋書』倭国伝〉

六世紀 日十大王年 (倭風名称+中国風一字名称)
              〈人物画像鏡・隅田八幡神社蔵〉
    委意斯移麻岐弥(国名+倭風名称、倭石今君か)
              〈『日本書紀』継体紀「百済本記」〉
    筑紫の君磐井 (倭風名称)
              〈『筑後国風土記逸文』〉
    筑紫の君葛子 (倭風名称)
              〈『日本書紀』継体紀〉
    筑紫君の兒・筑紫火君〔弟〕
          火中君 〔兄〕
             〈『日本書紀』欽明紀「百済本記」〉

七世紀 阿毎多利思北孤(倭風名称)
             〈『隋書』イ妥国伝〉
    上宮法皇   〈法隆寺釈迦三尊光背銘〉
    筑紫の君薩夜麻  (倭風名称)
              〈『日本書紀』天智紀〉

イ妥(たい)*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO。

 これらからわかるように、三世紀以後の倭王たちは中国風一字名称と倭風名を併せ持っていたようだ。ただ、七世紀に入ると阿毎多利思北孤のように中国(隋)の天子への国書に倭風名を用いていることから、この時代では倭風名だけになったのかも知れない。もう一つの特徴に、近畿天皇家側の史書『日本書紀』には「筑紫の君」と表記されていることがある。九州王朝の存在を抹殺した近畿天皇家の大義名分からすれば、「倭国王」と表記するわけにはいかないので、「筑紫の君」としたのであろう。さらに継体紀においては、筑紫の君磐井を「筑紫国造磐井」と記し、天皇家が任命した国造であると、大義名分を一層徹底させた表記としている。
 「百済本記」においても「筑紫の君」と表記されていることから、「筑紫の君」は倭王の自称でもあったと考えるべきであろう。あるいは歴代の「筑紫の君」が倭王を世襲していたとも言えよう。筑紫の君磐井の子、葛子が同じく筑紫の君と記されていることからも、そのことがうかがえる。とすれば、白村江で敗北して唐の捕虜となり、天智十年に帰国した、筑紫の君薩夜麻こそ九州王朝最後の倭王となるのだが、その後の動向を史書は何も語らない。王朝の滅亡と共に筑紫の君の一族は歴史の闇に消え去ったのであろうか。

 

「続日本後紀」にいた筑紫公

 九州王朝の滅亡後、近畿天皇家は自らの正当性を主張すべく、先住した九州王朝の痕跡を消し去った「正史」の編纂を開始する。『古事記』『日本書紀』がそうであり、その後も『続日本紀』『日本後紀」『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録」と続く。『古事記』を除いた六書は総称して「六国史」と呼ばれているが、その内容から、近畿天皇家による律令支配体制が完備されていく様子がうかがえる。古田武彦氏は『古事記』『日本書紀」の史料批判により、九州王朝の神話や伝承が『日本書紀』に盗用されていることを論証された。(1) また、『続日本紀』にも九州王朝の官職名「評督」や年号「白鳳」「朱雀」などが記されており、先住王朝の痕跡が色濃く残っていることを明らかにされた。(2) しかしそうした痕跡も『日本後紀」以後になると様相を一変させる。その象徴的な例の一つに「筑紫」の表記の消滅がある。
 筑紫を舞台とする神話が巻頭を飾っている『日本書紀』はもとより、『続日本紀』においても「筑紫」の表記はいたるところで使用されている。例えば、次の通りである。
「新羅の使を筑紫に以て迎える。」(文武元年)
「竺志の惣領に勅し、犯に准じて罰を決せしむ。」(文武四年)
「筑紫七国」(大實二年)
「筑紫の観世音寺」(和銅二年)
「筑紫大宰師」(養老三年)
「筑紫の諸国の庚午の籍七百七十巻を官印を以て之を印す。」(神亀四年)
「筑紫舞」(天平三年)
「筑紫の兵」(天平神護二年)
「筑紫道」(寶亀四年)
「筑紫府」(寶亀十一年)

 これら以外も含めて四十以上の「筑紫」の表記が見られるのだが、ところが、この『続日本紀』に続く『日本後紀』では「筑紫」は皆無となる。この傾向は『日本文徳天皇実録 (3)』や『日本三代実録』でも同様である。近畿天皇家の国史編纂者たちが意図的に「筑紫」の語を用いるのを止めたとしか考えようのない豹変ぶりである。そうした中にあって、例外的ともいえるのが『続日本後紀』だ。そこにはわずかではあるが、「筑紫」が出現している。
(1) 新羅人、李少貞等四十人、筑紫の大津に到着する。(承和九年正月、八四二)
(2) 太宰府が言う、「対馬嶋司が言うことには、去る延暦年中に東国人を防人に配した。後に又、筑紫人を防人に配した。しかし並んで廃された。当国の百姓、弘仁年中に病気で多く死ぬ。寇賊が急に有れば、何として防禦に堪えん。望み請うに、舊例に准じて筑紫人を防人に為さん。」(承和十年八月、八四三)
(3) 肥前国養父郡の人、大宰少典従八位上・筑紫公文公貞直。兄、豊後大目大初位下・筑紫公文公貞雄等に忠世の宿祢の姓を賜る。左京六條三坊に貫附す。(嘉祥元年八月、八四八)

 この三例の記事に「筑紫」が現われるのだが、おどろくべきは(3) である。筑紫公の姓を持つ兄弟のことが記されているのだ。『続日本紀』の次の記事から「公」は本来「君」の字であったことは明らかである。

天下の諸姓には君の字が著しい。公の字を以て換えよ。〈『続日本紀』(天平寶字三年十月、七五九)〉

 この記事は政治的意味合いの強い内容を含んでいる。「君」も「公」も共に「きみ」と訓じられるが、その字義には大きな差があり、姓に用いる字の単なる変更にとどまらない。「君」の第一義は文字どおり天子を指すが、「公」の場合は「三公 (4)」という語もあるように、天子より下の位なのである。したがって天皇家以外の者が「君」の字を姓に持つことは許されないという、きわめて政治的な記事なのである。「君」から「公」への変更を示す一例として、『続日本後紀』に次の記事がある。
左京の人、遣唐史生、道公廣持に當道朝臣の姓を賜る。和銅年中、肥後の守・正五位下・道君首名、(中略)廣持は首名の孫なり。
    〈『続日本後紀』(承和二年正月、八三五)〉

 八世紀の初め、和銅年中に「君」を姓としていた道氏の一族が九世紀初頭には「公」に換わっていたことを示す記事である。こうした例からも、筑紫公は本来、筑紫君であったと考えても間違いないであろう。とすれば、七世紀末に九州王朝の滅亡と共に歴史の闇に消え去った、倭王の一族、筑紫の君が近畿天皇家の正史『続日本後紀』に百五十年ぶりに登場していたのである。

(1)古田武彦著『盗まれた神話』
(2)古田武彦著『失われた九州王朝』、『古代は輝いていたIII』
(3)「筑紫」の表記の検索には『国史大系・六国史索引』を参考にした。また、人名に用いられた「筑紫」は省いた。
(4)古田武彦著『邪馬一国への道標」によれば、三公とは太宰・太博・太保という官名の総称で、淵源は周代にまで遡るという。


『続日本後紀』の原文改訂

 『続日本後紀』は天長十年(八三三)から嘉祥三年(八五〇)までの十七年間を二十巻にまとめたものであり、貞観十一年(八六九)に成立している。一巻あたりの年月は十ヶ月強となり、六国史の中では『日本三代実録(5) 」に次いで記事は詳しいとされる。『日本書紀』の筑紫の君薩夜麻以来、百五十年ぶりに筑紫公が記されたのも、そうしたところが幸いしたのかもしれない。あるいは九州王朝の存在そのものが当時の天皇家史官にはすでに認識されていなかったという場合も有り得よう。
 さて、『続日本後紀』に記された筑紫公文公貞直・貞雄の兄弟であるが、「定説」では必ずしも「筑紫の君」とは認識されていないようだ。例えば、太田亮著『姓氏家系大辞典』では「古姓に筑紫公文公と云ふもの見ゆれど、筑紫火君の誤写なるべし」として、「筑紫火君」の項目で扱われている。また、『日本の古代3・九州』(角川書店)では「筑紫火公貞直」と記され、肥君の一族として紹介されており、いつのまにか原文改訂された表記が何の説明もないまま一人歩きしているのである。このような原文改訂が、いつどのようにしてなされたのかは定かではないが、国史大系本『続日本後紀」には、その一端が現われている。

肥前國養父郡人大宰少典従八位上筑紫「公」火公貞直。兄豊後大目大初位下筑紫「公」火公貞雄等。賜姓忠世宿祢。貫附左京六條三坊。
      〈『国史大系・続日本後紀』〉

 そして頭書に次の様な説明がなされている。
「公、當衍、下同」「火、原作文、今従細本、下同」

 すなわち、国史大系の編者は、筑紫公の公の字は術字に当たるとして「 」で綴じ、火の字は原文では「文」に作るが、今は細本(舊輯国史大系所引細井貞雄所蔵古鈔本)に従って「火」に改訂したと説明を加えているのだ。写本間の異同を詳しく載せ、比較的原文に忠実な国史大系本ではあるが、このような原文改訂は、はたして妥当なものであろうか。思うに、次のような理由で原文改訂を行なったのではないか。第一に、筑紫公文公と「公」が重なった表記は他に例がないこと。第二に、筑紫文公という名前は他の文献に見えないが、筑紫の火(肥)公ならば文献や金石文に見られること、などであろう。(6) それでは検討してみよう。まず、写本段階の誤写という見方であるが、筑紫公の「公」の字が立て続けに二回も他からまぎれこんだりするものだろうか。しかも二度とも同じ箇所にである。また、意図的に改訂される場合も、通常、意味が通りやすい方に改訂されるものであり、わざわざ他に類例を見ないような表現に改訂されるとは考えにくい。したがって筑紫公の「公」を術字とするには根拠が薄弱と言わざるを得ない。
 確かに、筑紫公・文公・貞直のように姓が二つ並んでいるのは普通ではない。しかし似たような例がないわけではない。例えば次の例がそうである。

曾の縣主・岐の直・志自羽志
  〈『続日本紀』(天平勝寶元年八月、七四九)〉

「縣主」は九州王朝の官職名と思われるが、九州王朝滅亡後も自らの由緒ある称号として名のっているのだ。そして「直」は姓である。こうした例を先の筑紫公にあてはめれば、次のような理解が可能となる。

筑紫公(称号)・文公(氏姓)・貞直(名前)

「筑紫の君」が倭国の王を意味していたことを考えれば、それがそのまま称号とされても何ら不思議はない。ひるがえって見れば、『隋書』イ妥国伝における、「イ妥王・阿毎・多利思北孤」と同様の表記方法なのである。とすれば文公を火公と改訂する理由は薄れる。なぜなら「筑紫の火(肥)公」と改訂するために最初の「公」を術字としたのだからだ。言い換えれば、「筑紫の肥君」という答えにあわせるために、「筑紫公」を「筑紫」とし、さらに「文公」を「火公」にするという二重の手直しが必要だったわけである。こうした二重の原文改訂をせずとも、「筑紫公」を称号と理解すれば、多数の写本が示す原文通りで無理なく読めるのである。
 こうして、由緒ある称号「筑紫公」を冠する文公貞直・貞雄こそ九州王朝の王族の末裔だったのである。「一地方豪族」の「肥の君」とするための恣意的な原文改訂は厳に戒めねばなるまい。

(5)坂本太郎著『六国史』
(6)『日本霊異記』に「白壁天皇之世(七七〇ーー七八○)、筑紫肥前國松浦郡人、火君之氏」や熊本県浄水寺の延暦二十年(八〇一)銘の石碑に「肥公馬長」の文字がある。

 

吉野ケ里出土の墨書土器

 『続日本後紀』の史料批判により、九世紀中葉の太宰府官僚に筑紫公を冠する、九州王朝の末裔たちがいたことを論証してきたが、文献以外にそうした事実を裏付けするものはあるだろうか。
 肥前国養父郡の西の神崎郡吉野ケ里からわが国最大規模の弥生時代の環濠集落が発見されたが、それよりも以前に吉野ケ里遺跡群からは奈良時代の堀立柱建物が二百棟以上発見されている。そこからは墨書土器や木簡が出土しているが、その墨書土器等の中に「養父」「第*君」「丙殿」「丑殿」と書かれたものがある。(7) なかでも「弟*君」の文字は示唆的である。「第*」の字は通常「第」と同字とされるが、「弟」の異体字あるいは俗字でもある。もしこれが「弟君」であれば次のような理路が可能であろう。

第*は、「第」の異体字。ユニコード7B2B

 『続日本後紀』の「養父郡人、大宰少典従八位上・筑紫公文公貞直。兄豊後大目大初位下・筑紫公文公貞雄」の記事によれば、弟の貞直は大宰少典として赴任するまでは養父郡にいた可能性が強い。とすれば、墨書土器の「養父」「弟君」の文字は偶然とは言いがたい一致を示しているのではないか。とりわけ「弟君」という文字は暗示的である。なぜなら、その時代のその地域に「君」の姓で呼ばれ、しかも具体的な名前でなく、「弟君」だけでそれとわかる有力な人物がいたことを意味するからである。しかも、九州王朝において「弟」という語は特別な意味を帯びている。九州王朝は伝統的に兄弟で統治するという特殊な政治形態をとっていたからである。(8) それは次の史料からもあきらかである。

乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年巳に長大なるも、夫壻無く、男弟有り、佐けて国を治む。  〈『三国志』魏志倭人伝〉
癸未年八月、日十大王年・男弟王、意柴沙加宮に在りし時〜。   〈隅田八幡・人物画像鏡〉
倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏跌して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う「我が弟に委ねん」と。   〈『隋書』イ妥国伝〉

 このような三世紀の邪馬壹国の時代より、九州王朝倭王の弟は兄とともに統治に携わっていたのであるが、こうした倭国の兄弟統治の伝統の延長線上に、先の墨書土器の「弟君」があるのではないかと想像されるのである。
 次に「第君」であるとすればどのような読解が可能であろうか。「第」には家・屋敷の意味があり、「第下」とすれば「貴下」「閣下」の意味となり唐代では「太守」の異称とされている。したがって、「第君」となれば邸宅の主人、しかも「君」と称された有力な人物を指すことは疑いない。このことを裏付ける証拠に、今一つ「丙殿」の文字がある。
【丙殿】東宮の御殿をいふ。〔山堂肆考〕丙殿、太子宮也、又曰青殿。〈『大漢和辞典』〉

 明代、十六世紀末に成立した類書『山堂肆考』によれば、「丙殿」とは太子の御殿とあるのだ。このように吉野ケ里から出土した墨書土器等は、奈良時代のこの地方にただならぬ勢力とその居住地が存在したこと(9) をうかがわせるのである。ここに『続日本後紀」史料批判による「筑紫の君」存続論の傍証の一つとして、吉野ケ里墨書土器の証言として提示しておく。

(7) 九州歴史資料館編集『発掘が語る遠の朝廷・大宰府』、佐賀県教育委貝会編『環濠集落吉野ケ里遺跡概報』
(8) 古田武彦著『古代は輝いていたIII』(朝日文庫)
(9) 『環濠集落吉野ケ里遣跡概報』では、これら一連の文字に対して「その記載内容が何を示しているのか不明なものが多い。」としている。


太宰府の官僚組織

 九世紀半ば、「筑紫公」を名のる、九州王朝の王族の末裔が太宰府の官僚として実在していたことは、九州王朝の滅亡について大きな示唆を与える。白村江での壊滅的な敗北により、国力を急激に衰えさせた九州王朝を近畿天皇家は征服戦らしい戦いの必要もないまま併呑したようであるが、その後直ちに独自の年号、律令、行政機構を矢継ぎ早に制定していった。しかし、王朝の交替につきものの官僚機構の入れ替えについて、九州に関しては行なわなかったのではあるまいか。「筑紫公」の存在はこのことを指し示すのである。そしてなによりも、九州王朝中枢の政庁名「太宰府」が、王朝滅亡後もそのまま残っていること自体が、そのことを雄弁に物語っているようにも思えるのだ。
 以前、私は滅亡時の九州王朝における近畿天皇家への徹底抗戦派の存在を、鹿児島県の地方伝承と『続日本紀』の史料批判により指摘したが、同時に恭順派の存在(10) をも予想した。そして本稿で取り上げた「筑紫公」こそ、その恭順派に他ならない。征服された側の一族が引き続き官僚として残っている事実が、そのことを裏付けている。官僚機構の変更を伴わない「占領政策」は歴史上めずらしくはない。それでは太宰府の官僚機構について分析してみよう。貞観年間(八五九〜八七六)頃成立の『令集解」によれば、太宰府の官名は次の通りである。また、官位は天長十年(八三三)成立の官撰注釈書である『令義解』によった。

主神  一人 正七位下
帥   一人 従三位
大弐  一人 正五位上
少弐  二人 従五位下
大監  二人 正六位下
少監  二人 従六位上
大典  二人 正七位上
少典  二人 正八位上
大判事 一人 従六位下
少判事 一人 正七位上
大令史 一人 大初位上
少令史 一人 大初位下
大工  一人 正七位上
少工  二人 正八位上
博士  一人 従七位下
陰陽師 一人 正八位上
医師  二人 正八位上
算師  一人 正八位上
防人正 一人 正七位上
佑   一人 正八位上
令史  一人 大初位下
主船  一人 正八位上
主厨  一人 正八位上
史生 二十人 
     〈『令集解』「職員令」、『令義解』「官位令」〉

 このように、太宰府の官人は五十名にも達し、大国でも九名にすぎない一般の諸国とは比較にならない。むしろ、近畿天皇家の中央政庁をそのまま縮小したものと言ってもよい規模と構成である。また、「主神」という他に見られない官職もある。
 このほかにも、下級事務に携わる「書生」、雑務に従事する「使部」、農民から徴発されて各種の労役に従事する「仕丁」なども存在しており、これら太宰府関係者は相当数にのぼったものと推定されている。 (11)
 大規模な太宰府官僚組織の中にあって、筑紫公文公貞直は、帥から典までの四等官と呼ばれる官職の中では最も低い大宰少典の地位にいたわけであるが、帥や弐、あるいは監までが近畿天皇家から派遣されていたことを考慮すれば、現地出身者としては比較的高官位であると言えないこともない。こうした点から、九州王朝滅亡後もその官僚組織、太宰府政庁はそのまま残され、トップクラスを近畿天皇家が派遣することにより、形式的な支配関係を形成したと考えられるのである。その結果として、九州王朝の王族の一部は引き続き太宰府官僚の地位を維持できたのである。とすれば、近畿天皇家による九州王朝の併呑は、征服というよりも、むしろクーデターに近いのではないか。筑紫の君薩夜麻が唐に囚われの身になっている間に、天智が九州王朝の乗っ取りに成功したのであろう。思えば、五世紀の初め継体が成し遂げられなかった野望を、その百四十年後に天智が果たしたのである。(12)

 以上の論点を整理すると次の通りである。
1). 九州王朝滅亡後も、その官僚組織(支配機構)はそのまま残された。
2). そのことの裏付けとして「太宰府」という政庁名は変更されていない。
3). さらに、九州王朝の王族の一部が太宰府官僚としての地位を維持していた。
4). 太宰府官僚のトップクラスは近畿天皇家が派遣していた。
5). 太宰府政庁の規模と構成は中央政府と呼ぶにふさわしく、九州諸国と近畿天皇家の中間に位置していた。

 これらの論理的帰結として、太宰府こそ滅亡後の九州王朝の後裔そのものであったと考えられるのである。だからこそ太宰府が名実ともに機能している間は、九州王朝の残映が内外に映じていたのである。この点、次章でさらに論証を続ける。

(10)「最後の九州王朝・・・鹿児島県大宮姫伝説の分析」『市民の古代」10集所収、「大宮姫伝説と九州王朝」『近畿南九州史談』5号所収。
(11)倉住靖彦著『太宰府』
(12)近畿天皇家の天智皇祖説に関しては中村幸雄氏による次の論文がある。「誤読されていた日本書紀」『市民の古代』7集所収。また、古田武彦氏も次の著書・論文で言及されている。「日本国の創建」『よみがえる卑弥呼』(騒々堂)所収、「新唐書日本伝の史料批判・旧唐書との対照」『昭和薬科大学紀要』二二号所収。

 

太宰府の反乱

 九州王朝滅亡後も、太宰府がたんなる近畿天皇家の出先行政機関でなかったことは、神護慶雲三年(七六九)の道鏡事件でも明らかである。時の女帝称徳天皇の寵愛を受けた大臣禅師道鏡が、八幡神の託宣として道鏡を皇位につけよという大宰の主神・習宜阿曾麻呂の奏上を受けた事件である。大宰の主神が近畿天皇家の皇位継承に関する発言権を持っていたことを示しているのだが、これも「太宰府」九州王朝後裔説の傍証の一つとなろう。
 ひとたび、こうした視点に立てば、天平十二年(七四〇)の大宰の少弐・藤原広嗣の乱も、大宰少弐への左遷に対する広嗣の巻き返しという従来説とは別の見方が可能となる。すなわち、九州王朝の復権を企てた「太宰府」の反乱である。なぜなら、広嗣の大宰少弐の任官は、乱のわずか一年半前、天平十年(七三八)の末であるにもかかわらず、挙兵には筑前・筑後・肥前・豊後・大隅・薩摩から一万余が加わっている。こうした短期間での大規模な挙兵は、先住した九州王朝の存在ぬきでは説明できないのではないか。藤原広嗣の乱は、九州王朝の後裔「太宰府」が、王朝滅亡後の九州内においてなお現実的な影響力を有していた証拠でもあるのだ。
 広嗣は挙兵に先立って上表文を提出しているが、その回答を待つことなく、直ちに挙兵したことを見れば、広嗣一人の意思で起こした反乱ではなく、背後に控えた「太宰府の反乱」とも言うべき性質の事件であると考えられる。その証拠に反乱鎮圧後、近畿天皇家は太宰府を廃止し、筑紫鎮西府を新設した。数世紀におよぶ太宰府の歴史にあって、太宰府が廃止されたのはこの時だけである。しかし、天平十七年(七四五)には早くも太宰府は復活している。これなども、九州王朝の後裔の勢力がなお強かったことの表われではないだろうか。
 以上、国内の事件より「太宰府」九州王朝後裔説を検証してきたが、転じて国外史料を見てみよう。『宋史』日本伝の次の記事は注目にあたいする。

天聖四年(一〇二六)十二月、明州言う、「日本國太宰府、人を遣わして方物を貢ず。而も本國の表を持たず」と。詔して之を卻く。其の後も亦未だ朝貢を通せず。南賈時に其の物貨を傳えて中國に至る者有り。〈『宋史』日本伝〉

『宋史』のこの記事に対応して『宋會要」には「天聖四年十月、宋商周良史、太宰府進貢使と構し、日本の土宜を明州市舶司に進む」との記事が見える。(13)
 十一世紀の前半、平安中期に至っても太宰府は単独で自主的に「朝貢」を続けていたという『宋史』のこの記事に、古田武彦氏は「ここに東シナ海を渡って南朝と国交をもちつづけた九州王朝の永き残映を見ているのである。」とのべられた。(14) こうした『宋史』の記事も、「太宰府」九州王朝後裔説によるならば、よりリアルな記事として再認識できるのである。

(13)『旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』(岩波文庫)所収「日唐・日宋・日元交渉史年表」より引用。
(14)古田武彦著『失われた九州王朝』(朝日新聞社・角川文庫)

 

筑紫公のゆくえ

『続日本後紀』の史料批判を通じて、論理のおもむくままに滅亡後の九州王朝の姿を探ってきたが、「太宰府」九州王朝後裔説に行き着いた。七世紀末をもって九州王朝の姿は歴史の表舞台から消え去ったと思われていたが、じつは衆知の存在であった「太宰府」こそ滅亡後の「九州王朝」そのものであった。
 太宰府は中世に入って、その終焉をむかえる。源平の内乱などにより政庁は焼き払われたともいわれ、十二世紀前半にはかなり荒廃していたらしい。武家社会の到来とともに九州王朝は最後の残映さえも消してしまったようだ。(15)
 時代はさらに下って天文五年(一五三六)、大内義隆は先祖代々の宿願であった大宰大弐に補任されたが、当時としては有名無実にすぎない地位を求めたのも、一族の心に残っていた九州王朝の残映のせいであろうか。九州王朝の同盟国百済から、九州年号の定居元年(六一一)に渡来した、百済聖明王の第三子琳聖太子の子孫(16)とされる大内氏にとって、「太宰府」が特別な意味を持っていたとしても不思議ではあるまい。
 さて、『続日本後紀』に記された筑紫公文公貞直であるが、由緒ある称号「筑紫公」に換わって「忠世宿祢」を近畿天皇家より授かった。この忠世宿祢貞直については『日本三代実録」に次の記事が見える。

(貞観四年正月、八六二)外従五位下・忠世宿祢貞直を薩摩の守に為す。
(貞観五年八月、八六三)外従五位下・忠世宿祢貞直を以て薩摩の守に為す。貞直、貞観四年に薩摩の守に任ずるも、母の憂ゆるを以て職を辞す。今、詔して之を起す。
〈『日本三代実録』〉

 伝統ある称号「筑紫公」と引き替えに外従五位下まで昇りつめた貞直ではあったが、遠く薩摩の地への赴任を命ぜられる。一度は母を思い、職を辞した貞直も再度の辞令を受けた。その後の消息を国史は記していない。

(15)倉住靖彦著『太宰府』。
(16)『群書系図部集・第七』所収「大内系図」。

(一九九〇年二月十四日脱稿)


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