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市民の古代 第10集 1988年 市民の古代研究会編
 特集2 よみがえる古伝承

最後の九州王朝

鹿児島県「大宮姫伝説」の分析

古賀達也

1地方伝承と多元史観

 古田武彦氏は多元史観により、九州王朝の存在とその滅亡に至る過程を明らかにされた。白村江の敗北を契機に九州王朝は近畿なる天皇家に取って代わられるのだが、その後も九州は半独立性を保ち続けた。古田氏はその著書『失われた九州王朝』において、十一世紀前半においても中国に朝貢を続けようとした「日本国太宰府」の存在を『宋史』より見いだされ、また、『三国史記』の記事から、九世紀始めに新羅が倭国(九州王朝の後裔)と「契約」を結ばんと画策して挫折したことを引用し、「この段階においても、なお、九州は一種の“半独立性”の残映をもって、朝鮮半島側には映じていたようである。」と指摘された。
 これらは滅亡後の九州王朝の残映を記した貴重な史料であるが、いずれも国外史料である。九州王朝の存在が歴史的事実ならば、国内史料あるいは伝承が残っている可能性があるのではないか。残念ながら九州王朝の実在を直接証明できる国内史料は、近畿天皇家による歴史の改竄湮滅により見ることができない。ただ、古田氏の提唱された多元史観によって『記・紀』『風土記』など古代文献に内在する矛盾の史料批判により九州王朝の片鱗を垣間見ることができるだけである。とすれば、地方伝承も同様の史料批判をもってすれば、新たな歴史の真実が見えてくるのではないか。だが、そのような伝承が今も残っているのだろうか。
 九州の南端、鹿児島県に不思議な伝承がある。「大宮姫伝説」と呼ばれている伝承だ。現在でも鹿児島県各地に大宮姫に関する伝承が語り継がれている。伝承によれば、大宮姫は天智天皇の妃とされ、天智天皇遷行説話とワンセットとなっている場合が多い。この伝承が『記・紀』の説話と矛盾することから、江戸時代においても俗信にすぎないと否定(1) され、現在に至っている。この「大宮姫伝説」に多元史観による史料批判を試みたのが本稿である。

(1) 『三国名勝図会』第二十四巻「薩摩國頴娃郡」に大宮姫伝説批判が展開されている。

2「大宮姫伝説」の概要

 「大宮姫伝説」は鹿児島県各地に存在しており、内容に若干の相違はあるものの大筋においては次の通りである。 (2)
 孝徳天皇の白雉元年庚戌の時、開聞岳の麓で鹿が美しい姫を産んだ。その姫は二歳の時入京し、十三歳で天智天皇の妃となったが、訳あって都を追われ開聞岳に帰って来た。その後、天智十年辛未の年、天智天皇が姫を追ってこの地に来られ、天智天皇は慶雲三年に亡くなられた。年齢は七十九歳であったと言う。その天皇の後を追うようにして大宮姫は和銅元年に五十九歳で亡くなられた。
 といった内容であるが、『開聞古事縁起』は修飾を加えて、更に詳しく記している。以後『開聞古事縁起(3) 』(『縁起』と呼ぶ)の史料批判を中心に論証を進めることとする。

(2) 『日本伝説大系・13』所収「大宮姫」参照
(3) 『修験道史料集(2)』五来重編所収

3大宮姫の同定

 大宮姫伝説は明治二年の排仏棄釈において俗信として否定され、『縁起』の原本もその時に焼却されたという。現存している『縁起』の内容も『紀』の影響を色濃くうけ、近畿天皇家との関連でストーリーが展開されている。したがって、史料処理の方法として脚色と考えられる部分を省き、大宮姫当人の生涯のみを抽出してみると表一の様になる。

表一
西暦  縁起に記された年代       大宮姫の年齢     縁起に記された事柄

六五〇 孝徳天皇白雉元年庚戌二月十八日            開聞神(大宮姫)誕生。

                     二歳       入京。陸地ヨリ御上洛。

六六五 天智天皇・四年乙丑        十三歳       皇后となる。

六七二 天武天皇白鳳元年壬申十一月四日  五十九歳     薩州頴娃郡に着く

七〇八 元明天皇和銅元年戊申六月十八日           亡くなられる。

 『縁起』によれば、大宮姫の生涯でそのハイライトとも言うべき事件は二歳で入京し、十三歳で天皇妃となったことである。このような人物に比定しうる存在をこの時代に見いだすことは、はたして可能なのだろうか。もしできなければ「大宮姫伝説」は定説通り俗信に過ぎないとされるであろう。が、しかし幸いにも一人だけ大宮姫に比定しうる人物がいる。

『続日本紀』文武天皇四年条(西暦七〇〇)に、次のような記事がある。 (4)

薩摩の比売・久米・波豆、衣評督の衣君県、同じく助督弖自美、また肝衝の難波、これに従う肥人らが、武器を持って、覓国使刑部真木らをおどして物を奪おうとした。そこで、竺紫の惣領に勅して、犯罪の場合と同様に扱って罰を決めた。

 この記事は文武四年六月にあるが、薩摩の比売らが刑部真木らをおどしたのがこの時なのか、罰を決めたのがこの時なのか今一つはっきりしない。しかし、この事件の前段の記事を見るとはっきりしてくる。関係記事を抜粋しよう。

文武二年四月 文忌付博士ら八人を南嶋に遣わして国を求めさせた。そのために武器を支給した。

文武三年七月 タネ・夜久・奄美・度感等の人々が、朝廷から遣わされた官人に従って都に来て、上地の産物を貢献した。身分に応じて位を授け、物を賜わった。

同年  八月 南嶋の貢献した品物を、伊勢大神宮および諸神社に奉納した。

同年 十一月 文忌付博士、刑部真木らが南嶋から帰って来た。地位に応じて位を進めた。

 以上である。このような経過の後に、先の文武四年六月の記事へと続くのである。一連の記事を分析してみよをう。文武二年四月、大和朝廷は武装した文忌付博士ら南嶋へ朝貢を強要する為に派遣する。その結果、翌年七月南嶋より貢献を受ける。そして恭順した南嶋の人々に大和朝廷の冠位を授けることにより、支配下に組み入れることに成功する。そして大任をはたした刑部真木らに昇進の栄誉をほどこす。貢献の品物を伊勢大神宮に奉納していることなどから、大和朝廷にとっては記念すべき成果に違いない。しかし、それは百パーセントの成功でなかったことが、続く文武四年六月の記事で露呈する。
 南の島々は貢献したが、九州南端の薩摩・大隅(肝属)そして肥の一部は武力でもって刑部真木らを追い返し貢献を拒否したのである。ようするに、大和朝廷は九州南部の自国組み入れに失敗したのである。そのことは次のことからも推察できる。

1).刑部真木らの帰国は南嶋貢献の約四カ月後であり、まだやり残した任務があったと考えられる。その任務とは薩摩など九州南部の国々への貢献強要であろう。
2).刑部真木らを武力で追い返した薩摩の比売らの処分も、「犯罪に準じて罪を決めた」だけで、早いはなしが何ら実効的な処罰を行なった形跡がない。
3).『続日本紀』によると、この後も隼人の“反乱”が続いており、九州南端の大和朝廷支配はまだ先のことである。  

 したがって、文武四年六月の記事はこれまでの分析から、「罰を決めた」時点のことであり、刑部真木らが襲われたのは、文武三年十一月の刑部真木ら帰国の直前の事と考えるべきであろう。いよいよ、最初の問題に移ろう。大宮姫に比定しうる人物とは、大和朝廷への恭順を武力でもって拒否した、九州南部の国々の代表者「薩摩の比売」この人である。論拠を述べよう。

1). 『続日本紀』の薩摩の比売と大宮姫は同時代(七世紀から八世紀)の人物である。
2). 大宮姫は頴娃郡の人であり、薩摩の比売も衣評督らを従えており、同地域の人である。
3). いずれも名前に「ひめ」を称号しており、「王」に継ぐ位である。

 以上の点から、かなりの確率で、二人が同人物であると考えてよい。したがって、大宮姫伝説を定説通り俗信とするべきではない。歴史上実在した女性として捉え直す作業が必要である。そして、真の間題はここから始まるのである。

(4) 『続日本紀』の現代語訳はいずれも東洋文庫『続日本紀』直木孝次郎他訳注による。

4最後の女王「大宮姫」

 従来、大宮姫伝説が俗信とされて来た根拠は次の様な点である。
1)天智天皇にこのような名前の皇后はいないし、薩摩から妃を迎えたこともない。
2)天智四年、十三歳で皇后になったとあるが、若すぎるように思われる。
3)『縁起』の通り孝徳天皇白雉元年の誕生であれぱ天智四年は大宮姫十六歳にあたり、十三歳に皇后になったとする記事と矛盾する。

 こうした事情から大宮姫伝説は俗信として否定され、開聞神社(枚聞神社)の格を上げるため、神社側が造作したものと言われている。検討してみよう。
 まず 1) であるが、『続日本紀』の分析から大宮姫を大和朝廷と結びつける必要はない。むしろ大和朝廷と対立する勢力、すなわち九州王朝との関係に注目すべきであろう。それは、文武四年六月の記事でも明らかなように、薩摩の比売に従った人物が九州王朝の官名「評督」「助督」を名乗っていることは示唆的である。また、後にふれるが『縁起』には九州王朝最末期の年号「大長」が記されている。このことからも、大宮姫伝説が枚聞神社関係者の造作とは言えず、九州王朝の伝承を受け継いだものと考えることができる。

 このことは当然のこととして、大宮姫は、天智の皇后ではなく九州王朝の王妃であったことを導きだすのである。そう考えれば 3) の矛盾も一つの解決法を見いだすことが可能である。それは年代を『日本書紀』の影響から切り離し、丸山晋司氏の精力的な研究により深められた「九州年号論」を基準に史料批判することで明らかとなった。論証してみよう。
 「孝徳天皇白雉元年庚戌」から『紀』の影響と考えられる部分を取ると、「白雉元年」となりこれは丸山氏作成の九州年号モデルによれば、六五二年である。次に、「天智四年乙丑」だが、同様にこの時期に即位した九州王朝の王の即位四年と見れば、「白鳳四年」がその候補として上がる。この白鳳四年は同モデルによれば六六四年となリ、六五二年に生まれた大宮姫はこの年ピタリ十三歳である。考えてもみてほしい。『縁起』が造作であれば、ハイライトをなすべき大宮姫の皇后即位の年齢が矛盾するようなヘマはしないはずである。むしろ、『縁起』における大宮姫の年齢の混乱は、白雉元年に誕生し十三歳で皇后に即位したという九州王朝の伝承を、九州王朝の存在そのものが忘れ去られた後代において、『縁起』の編者が、「公認」された書紀の歴史観との齟齬に苦悩しながらもぎりぎりの所で伝えきった結果と言うべきであろう。私は、このことに深い驚きを禁じえないのである。
 さて、最後に 2) の疑問に移ろう。正直に告白すると、この問題は最後まで私を困らせた。それは次のような理由からである。大宮姫十三歳、六六四年という時期は九川王朝が白村江で唐・新羅の連合軍に大敗北を喫した翌年であり、九州王朝の王・筑紫の君薩野馬は捕虜となっているのだ。王が敗戦により捕虜となって不在という異常事態に、十三歳のしかも遠く離れた薩摩出身の少女が皇后に即位するのは常識的に考えておかしいと思ったのである。薩野馬に代わり新たに即位した王の妃になったのでは、とも考えたがそれならば改元されてもよさそうなものだが、この後も「白鳳」は続いているのだ。したがって、王の交替はなかったと考えなければならない。
 ならば大宮姫の皇后即位は何を意味するのか。この疑問を解くヒントになったのは読者もよく御存じの次の文章であった。

卑弥呼以て死し、大いに冢を作る。径百余歩。殉葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女、壹与年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる。(5)

 そう、魏志倭人伝の、一節である。卑弥呼亡き後、乱れた倭国を十三歳(ただし二倍年暦による)の壹与を女王に擁立することにより、倭国の危機を回避した記事である、この四百年後、白村江の敗戦による再度の王朝の危機にあって、新たに新たに王をたてるわけにもいかず(捕虜とはいえ、薩野馬は生きているから)、かといって代表者不在のままでは統率がとれない。そうした国家存亡の窮地に、九州王朝の官僚たちの脳裏に倭人伝の一節が思い浮かんだかも知れない。緊急避難的に壹与と同じ十三歳の大宮姫は王朝存続のシンボルとして有効であると、女王にまつりあげられたのではないか。とすれば、国難を回避できた壹与とは別の運命をたどった悲運の女王の姿が見えてきそうだ。九州王朝最後の女王を大宮姫伝説に垣問見ると言ったら、あまりに空想的であろうか。

(5) 現代語訳は『倭人伝を徹底して読む』古田武彦による。


5「天智天皇」の同定

 本稿の冒頭で大宮姫伝説は「天智天皇遷行説話」とセットになっているケースが多いと述べたが、大宮姫実在を論ずる以上、天智天皇説話についても、多元史観による分析がなければ片手落ちとなろう。『縁起』に記されている天智天皇の行動を抜粋すると次のようだ。

1)天智天皇十年辛未十二月三日大長元年、都を出て太宰府へ着く。その後、薩摩へ行き大宮姫と再会。
2)慶雲三年丙未三月八日、七十九歳にて頴娃郡で亡くなる。

 記事が少ないので不十分ではあるが、分析してみよう。まず明らかなことは、この記事の人物は天智天皇のことではない、という点である。大宮姫が九州王朝の「女王」とすれば、この「天智」も九州王朝の王であると考えるべきである。既に述べたように、この時期の九州王朝の王は筑紫の君・薩野馬と考えられるのであるが、『縁起』からは直ちに断定できない。が、興味ある一致点が見いだせたりもする。天智が死んだ年にその人物が太宰府に現れ、後に薩摩に来るのであるが、天智十年に登場する人物を私達は知っている。その人物は白村江の敗戦により唐の捕虜となり、天智十年に筑紫に帰国した筑紫の君・薩野馬である。『縁起』をそのまま信用するならば、薩野馬はこの時四十歳前半となる。
 また、『縁起』ではこの年を大長元年とも記しているので、そちらが正しければ六九二年のこととなる。これ以上のことは『縁起』からは推測することはできない。
 既に述べたことだが、『縁起』に大長年号が使用されていることは重要である。最後の九州年号が九州南端の地の神社縁起に見えることは、大宮姫伝説における「天智天皇」が九州王朝最後の天子であることの証拠とも言えるからだ。
 以下、筆者の想像であるが、天智十年、唐での捕虜生活を終えて倭国の地に帰り着いた薩野馬を待っていたのは、九州王朝に代わり倭国の代表者を自認する大和朝廷の九州進出と大和朝廷に恭順する、かつての九州王朝朝系の豪族ではなかったか。太宰府を始め、筑前、筑後、肥後の九州王朝直系の豪族達はもはや敗残の薩野馬に見切りをつけて、新たな実力者近畿なる大和朝廷へ走ったと思われる。太宰府においては、もはや代表者ではなくなっていた薩野馬は、遠く薩摩の地に落ちのびる。そこにはまだ大和朝廷への服属を拒否し、徹底抗戦を主張する「衣評督」等がいた。そして王妃「大宮姫」がいた。さらに想像を逞しくするならば、薩野馬の母方の出身もこの地ではなかったか。母の出身地「薩摩」、そして九州王朝発祥の地「邪馬壱国」から、それぞれ薩と邪馬(野馬)を名前にした。そのようにも思えるのである。そうすると、薩摩出身の大宮姫を王妃に迎えた理由も分からぬでもない。正史『続日本紀』に記された九州王朝の残映「衣評督」、そして鹿児島県頴娃郡の地の寺社縁起に記された「大長」、これらが指し示すところは、もはや偶然の一致ではなく最後の九州王朝がこの地に存在したという「事実」である。

 

6朝闇神社「筑紫舞絵馬」との共通点

 大宮姫伝説の研究は様々な副産物をもたらしてくれた。たとえば、謎に包まれていた朝闇神社の絵馬の図柄についても、九州王朝の宮廷雅楽であったことを示唆する証拠が発見できた。報告したい。『縁起』には、都(本稿の論証の帰結として太宰府のことと見るべきである。)を離れた大宮姫を慰めるために舞われた神楽や、九月九日に神社に奉納される五人の男による神楽と八人の乙女の事が記されている。そしてこの「五人神楽男八乙女」というモチーフこそ、例の朝闇神社の絵馬の構図と同じなのである。絵馬では中心の人物を八人の女官がとりまき、その前で五人の山伏が踊っているのだが、それと同じ内容が『縁起』には記されているのである。『三国名勝図会』にも興味深い記事が見える。第二十四巻薩摩国頴娃郡の項に「土曲歌謡」として次のように記載している。

此邑の土曲に設楽曲(しだらぶし)とて、其歌謡十二章あり、手にて節奏をなし、三弦等の楽器を用ひず歌曲古雅にして、近世の俗謡と異なり、土人博えていふ、是上古大宮姫、京都より當國に下り給ひし時より始まるといへり、(後略)。

 ここにも、九州王朝と現地の舞楽との関係を示唆する伝承が収録されているのである。一史に「五人神楽男八乙女」についての探索を続けよう。朝闇神社の絵馬と『縁起』の記述だけでは偶然の一致とも考えられるからだ。朝倉の南、筑後川を挟んで神籠石で有名な高良山がある。神籠石に囲まれて、筑後一宮の、高良大社が鎮座しているのだが、大社には中世末期に成立した縁起『高良記』が残っている。その『高良記』に次の記事を見いだした。

高良神楽ハ異国征伐ノ時ノ次第ナリ、毎日ヲコタラス。住古 高良 諏訪 熱田 三嶋 五人の神楽男ノ子ヲヒウセリ。皇后 河上 宝満 カレコレ八人ノ女房ヲヒウセリ。
 
 『高良記』には白鳳年号も散見され、九州王朝と関わリの深さを感じさせるのだが、そこにも記された「五人神楽男八乙女」というモチーフが、もはや九州王朝や筑紫舞と無関係とは言えないように思われる。ここからも大宮姫伝説の持つ歴史の真実がうかがわれよう。「五人神楽男八乙女」については今後更に調査を続けたい。

 

7「別府」の仮説

 もう一つの副産物を紹介しよう。それは別府という地名についてである。日本地図を調べてみてわかったのだが、別府という地名は鹿児島県に大変多い。リーダーダイジェスト社のホームアトラス『日本列島』によれば次の通りである。

鹿児島県 別府(べつぷ) 枕崎市
     別府(べっぷ) 頴娃町
     別府川     姶良郡
     別府原     河辺郡
     南別府     河辺郡
     東別府     河辺郡
     上別府     指宿郡
     淵別府     指宿郡
     西別府     鹿児島市
     五ケ別府    鹿児島市
     横別府     肝属郡

 他府県についても「別府」そのものに限り挙げてみよう。

大分県 別府(べっぷ)市

福岡県 別府(べふ)   福岡市

佐賀県 別府(べふ)   多久市

山口県 別府(べふ)   熊毛郡
    別府(べっぷ)  美祢郡

島根県 別府(べっぷ)  西ノ島町
    別府(べっぷ)  邑智町

鳥取県 別府(べふ)   八頭郡

広島県 別府(べふ)   佐伯町
    別府(べふ)   東広島市
    別府(べふ)   豊栄町

高知県 別府(べふ)   香美郡

兵庫県 別府(べふ)   加西市
    別府(べふ)   加古川市
    別府(べふ)   神戸市

大阪府 別府(べふ)   摂津市

 以上であるが、何かに気づかれないだろうか。そう、これら「別府」地名群は西日本に偏っているのだ。しかも、よく見るとその分布の中心は近畿ではない。九州あるいは広島である。以上の事実から一つの仮説を提起したい。
 太宰府が一時期、都督府と呼ばれたことが『紀』などからあきらかであるが、一方九州王朝の行政単位に「評」があり評督という官名が存在していたことを考えれば、その所在地が「評督府」と呼ばれていた可能性は大きい。したがって都督府の太宰府に対して、評督府を「別府」と称したのではないだろうか。そう考えれば、別府地名群が筑紫の太宰府と吉備の太宰を中心に分布していることが説明できるのである。以上、「別府の仮説」として読者に提起する。

 

8最後に

 『開聞古事縁起』と『続日本紀』を中心に論証を進めてきたが、九州王朝最末期の姿を復元することが僅かではあるができたのではないかと思っている。古田武彦氏が提唱された多元史観を地方伝承に適用する方法は有効であったと言える。また、歴史上の人物を同定する方法についても古田氏が卑弥呼と風土記の甕依姫とを同定された手法(6) を参考にしたものである。
 年代における史料批判は丸山晋司氏の九州年号研究の成果に負うところ大であった。更に、鹿児島県当地における大宮姫伝説の研究状況については指宿市の小川亥三郎氏のご教示を得た。記して感謝したい。
 最後に、本稿で提起した「五人神楽男八乙女」の論証、「別府の仮説」については引き続き研究を深めていきたい。あわせて、読者の御批判を願う。

(6) 『古代が輝いていた I 』古田武彦著

(一九八八年三月二十一日脱稿)


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