「藤原宮」と大化の改新についてII
皇極紀における「造宮」記事
川西市 正木裕
前稿では、古賀達也氏の「九州年号大化期(六九五〜七〇三)の『藤原宮(の京)』に関する記事が、書紀の大化期(六四五〜六四九)に移されている(筆者の責で要約)」との説は、遺跡状況や書紀記事の文体からも裏付けられる事を述べた。
本稿では、「藤原宮」関連記事の移転が、「皇極紀」にも及んでいる可能性について言及する。
一、皇極元年九月の造宮記事
書紀皇極元年九月に、次の様な天皇が「造宮の詔」を発した記事がある。
A■皇極元年(六四二)九月の癸丑の朔乙卯(三日)に、天皇、大臣に詔して曰はく、「朕、大寺を起し造らむと思欲ふ。近江と越の丁よほろを発せ」とのたまふ。<百済大寺ぞ。>復諸国に課せて、船舶を造らしむ。
辛未(十九日)に、天皇、大臣に詔して曰はく、「是の月に起して十二月より以来を限りて、宮室を営らむと欲ふ(天皇詔大臣曰、起是月限十二月以来、欲営宮室)。国々に殿屋材を取らしむべし。然も東は遠江を限り、西は安芸を限りて、宮造る丁(人夫)を発せ」とのたまふ。
これは「飛鳥板蓋宮の造宮」記事だとされてきたが、その内容には大きな疑義がある。
二、三ヵ月で宮は出来ない
まず、建築期間が短すぎる事だ。「是の月に起して十二月より以来を限りて、宮室を営らむと欲ふ」という記事について、例えばこう訳されている。
■「今月から十二月までの間に、宮殿(板蓋宮)を造りたいと思う。」 注(1)
■「この月からはじめて、十二月までには、宮室(飛鳥の板蓋の宮)を(造)営したいと思う。」 注(2)
九月から十二月の三か月の間に国々から材木や人夫を集め宮殿を完成させるなど到底不可能。この訳は不自然だ。岩波注でも、「十二月」についていささか疑問を感じたのか、後掲のB・C文を踏まえ、次のように解説している。
■「飛鳥板蓋宮の造宮のこと。この年十二月いったん小墾田宮に遷り、翌二年四月に新宮に移った」。
工事に伴い、十二月に小墾田宮に遷り、翌年四月に板蓋宮完成に伴い移ったのなら「九月から十二月までの間に造り始めた」ともとれ、三月で完成という非常識は解消できるだろう。
B■皇極元年(六四二)十二月壬寅(二一日)に、息長足日広額天皇を滑谷岡に葬りまつる。是の日に、天皇、小墾田宮に遷移りたまふ。<或本に云はく、東宮の南の庭の権宮に遷りたまふといふ。>
C■同二年(六四三)夏四月丁未(二八日)に、権宮より移りて飛鳥の板蓋の新宮に幸す。
三、七ヵ月でも「壮大な宮」は出来ない
しかし、九月に全国から木材を集めると宣言して、翌年四月に宮が完成するなど有り得るだろうか。現代の木造民家の建設ですら半年位はかかる。安芸から人夫を召集するだけでも数ヶ月仕事だ。いわんや伐採、運搬、加工し、宮を建設する過程を勘案すれば、完成まで数年は要しただろう。書紀記述の建築期間は余りにも短すぎるのだ。
四、それは「飛鳥板蓋宮」ではない
次の疑義は、詔が示す「宮の規模」だ。
「国々に殿屋材を取らしむべし。然も東は遠江を限り、西は安芸を限りて、宮造る丁を発せ」との詔の主眼は「壮大な宮殿」を建設せよという事だ。
「飛鳥板蓋宮」が壮大な宮だとすれば、九月から翌年四月のわずか半年で完成したという「簡素な建物の工期」と全く矛盾する。
仮に翌年四月という年次が誤りで、板蓋宮の完成に数年を要したと仮定しても、それはそれで大化元年(六四五)の「難波長柄豊碕遷都」記事と重なり、「飛鳥板蓋宮」と「難波長柄豊碕」の二箇所に遷都したという変な事になってしまう。
■大化元年(六四五)冬十二月の乙未の朔癸卯(九日)に、天皇、都を難波長柄豊碕に遷す。
逆に「飛鳥板蓋宮」が、書紀の記述通り極めて短時間で完成するような宮だったなら、全国から木材を集め、丁を召集する必要は無く、今度は詔の内容に疑義が生じる。
何れにせよ「飛鳥板蓋宮」と見た場合、詔に言う建築期間と宮の規模の矛盾は解消しない。
五、前期難波宮でもない
それでは難波宮ではどうか。前期難波宮本体は、書紀によれば白雉三年(六五二)秋九月に完成で、「十二月より以来を限り」完成させるとの詔の月と合わない。
なお大化元年(六四五)冬十二月の難波長柄豊碕遷都の月も十二月だが、書紀では白雉三年完成まで「難波の諸宮 注(3) 」を転々としていた事が窺え、これら仮宮は全国から木材・人夫を調達するような壮大な宮殿にはあたらない。
また、十年前(六四二)に着工というのは、藤原宮の「持統六年(六九二)五月地鎮祭、持統八年(六九四)十二月完成」で約二年半の工期例から見て、材木の調達期間を考慮しても長すぎる。 注(4)
更に「十年後の十二月」という月を限って期限設定するとは到底考えられない。従ってこの造宮記事は難波宮の事でもない。
六、百済宮でもない
またA記事を舒明十一年(六三九)の以下の造宮記事との重複と見るのも無理だ。
D■舒明十一年(六三九)秋七月に、詔して曰はく、「今年、大宮及び大寺を造作しむ」とのたまふ。即ち百済川の側をもって宮処とす。是を以て、西の民は宮を造り、東の民は寺を作る。便に書直県を以て大匠とす。
何故なら「百済川(今の曽我川)の側」とあり、これを信じるなら、その宮は、曽我川の側の橿原市飯高町にあった百済宮と考えられるが、舒明天皇はその十三年(六四一)一〇月に「百済宮」で崩御とあり、皇極元年(六四二)には完成済みだからだ。
■(舒明)十三年の冬十月の己丑朔丁酉(九日)に天皇、百済宮に崩りましぬ。丙午(十八日)に、宮の北に殯す。是を百済の大殯と謂ふ。
七、「藤原宮」造宮記事の移転
それではこの記事の「造宮」とは何の宮なのか。古賀氏指摘通り、九州年号大化期の「藤原京(宮)」記事が、五〇年前の大化改新記事中に移されたのなら、皇極元年(六四二)九月の「造宮」記事も、同様に移されたと考えられるのではないか。
つまり、元記事は五〇年後の持統六年(六九二)九月の記事であり、それはとりもなおさず「藤原宮」完成の二年三ヶ月前の事となる。注(4)
E■持統八年(六九四)十二月庚戌朔乙卯(六日)藤原宮に遷り居します。戊午(九日)百官拝朝す。
ちなみに、持統六年九月時点での藤原宮の造宮状況を見よう。注(5)
1). 持統五年(六九一)十二月乙巳(八日)に、新益京(藤原京)での宅地の配分についての詔が出され、
2). 持統六年(六九二)正月戊寅(十二日)に「天皇、新益京の路を観す」とある。
3). 同年五月丁亥(二三日)に「藤原の宮地を鎮め祭らしむ」と宮の地鎮祭が記述されている。
4). 同年六月癸巳(三〇日)に「天皇、藤原の宮地を観す」のあと、
5). 持統七年(六九三)二月己巳(一〇日)「堀せる尸を収めしむ」とあるところから、地盤掘削がそのころ行われた事となる。
工事上はその後地盤固めや礎石敷設を行い、宮の本体建設が始まる。こうした記事の示すスケジュールから、4).と 5).の間の持統六年(六九二)九月に「宮」の建築用材と大工の確保を大臣に命じるのは、時機にふさわしい行為だと言える。
この事はA記事が皇極元年(六四二)ではなく、五〇年後の持統六年(六九二)の藤原宮に関する記事である証しとなるのではないか。
八、削られた宮の完成年
藤原宮なら、「十二月より以来を限りて」という詔の期限と合致する。藤原宮遷居は「十二月」(E記事)で、皇極紀(A記事)でも宮完成期限は「十二月」とされ、両者が一致するからだ。
工期の矛盾も、宮完成は持統六年(六九二)から二年三ヶ月後となり解消する。その場合「起是月限十二月以来」の「十二月」は持統八年(六九四)十二月だと考えられる(あるいは九州年号「朱鳥九年十二月以来」か)。
九月詔発、十二月完成などどいう非常識な内容になったのは、書紀編者が記事移設に際し、何年の十二月か(宮完成期限の年)を削った、いや削らざるを得なかった為だ。
宮殿の規模でも、藤原宮は難波宮を凌ぎ、詔の趣旨である「壮大な宮殿」に相応しいのは言うまでもない。近年、奈良県明日香村で飛鳥板蓋宮(六四三年〜六五五)とされる遺跡が発掘されているが、その全容は明らかではない。しかし、今後「壮大な」宮が発掘されても、その逆に「簡素な」宮が発掘されても、先述の通り、皇極元年の建設記事の矛盾は解消されない。
結論として、「藤原宮建築・遷居」関連記事の移設は、皇極紀にまで及んでおり、A記事は藤原宮建築のための木材と人夫の調達記事であると考える。諸兄のご批判を賜りたい。
【注】
(1) (宇治谷孟・『日本書紀(下)全現代語訳』講談社学術文庫)
(2) (山田宗睦・『原本現代訳日本書紀(下)』ニュートンプレス)
(3) (書紀に記す、白雉三年九月難波宮完成までの「仮宮」と思われる宮は以下の通り。
子代離宮(大化二年正月)、蝦蟇行宮(同二年九月)、小郡宮(同三年是歳)、武庫行宮(同三年十二月)、難波碕宮(同四年正月)、味経宮(白雉元年正月)、大郡宮(同三年正月)
(4) なお、大化二年(六四六)条に「初めて京師を脩め(正月条)」「始めて新しき宮に処りて(略)今歳に属(あた)れり(三月条)」とあるところを尊重すると藤原宮完成は九州年号大化元年(六九五)か。
あるいは持統・文武が藤原京を脩めたのが同大化二年(六九六)か。
(5) 1). 持統五年(六九一)十二月(略)乙巳(八日)に、詔して曰はく、「右大臣に賜ふ宅地四町。直広弐より以上には二町。大参より以下には一町。勤より以下、無位に至るまでは、其の戸口に随はむ。其の上戸には一町。中戸には半町。下戸には四分之一。王等もこれに准へよ」とのたまふ。
1). 持統六年(六九二)正月(略)戊寅(十二日)に、天皇、新益京の路を観す。
2). 持統六年(六九二)五月(略)丁亥(二三日)に、浄広肆難波王等を遣はして、藤原の宮地を鎮め祭らしむ。
3). 持統六年(六九二)六月(略)癸巳(三〇日)に、天皇、藤原の宮地を観す。
4). 持統七年(六九三)二月(略)己巳(十日)に、造京司衣縫王等に詔して、堀せる尸を収めしむ。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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