2011年12月10日

古田史学会報

107号

1、古代大阪湾の新しい地図
 難波(津)はなかった
 大下隆司

2、「大歳庚寅」
 象嵌鉄刀銘の考察
 古賀達也

3,中大兄は
 なぜ入鹿を殺したか
 斎藤里喜代

4、元岡古墳出土太刀の銘文
 正木 裕

5、磐井の冤罪 II
 正木 裕

6、朝鮮通信使饗応
『七五三図』絵巻物
 合田洋一

 編集後記

 

古田史学会報一覧

高御産巣日神」対馬漂着伝承の一考察 合田洋一(会報107号)

越智国おちのくににあった「紫宸殿ししんでん」地名の考察 合田洋一(会報100号)

朝鮮通信使(文化八年度)饗応『七五三図』絵巻物 小倉藩小笠原家作成絵図の対馬での公開にあたって 合田洋一(会報107号)../kaiho107/kai10706.html

 


朝鮮通信使(文化八年度)饗応『七五三図』絵巻物

小倉藩小笠原家作成絵図の対馬での公開にあたって

(平成二十三年十月四日、対馬歴史民俗資料館での講演要旨)

松山市 合田洋一

はじめに

 文化八年(一八一一)朝鮮通信使来聘に伴う饗応のため、上使・豊前(福岡県)小倉藩主小笠原大膳大夫忠固家中作成の『七五三図』(本膳に七菜・二の膳に五菜・三の膳に三菜を盛り付けた豪華な膳立て、極彩色の絵巻物で縦三〇?・横八三六?、各料理の説明書き・奥書あり)が、幕末・維新の動乱期にミステリヤスな変遷を辿って蝦夷地江差の名主・合田家にもたらされた顛末について、本日の公開にあたり、ここでそのあらましをお話させて戴きます。
 この『七五三図』は、最後の通信使来聘となってしまったご当地・対馬での饗応から、二〇〇年の悠久の時空を越え、「二〇一一朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会対馬大会」において再び相まみえることになりました。このことは、作成者の小笠原大膳大夫忠固、並びにそれを蝦夷地までも持ち運んだと思われる合田家逗留の“殿様”、それは江戸幕府老中で長州再征下関方面総督でもあった唐津藩世子小笠原図書頭長行とおぼしき人物ですが、このお二人は泉下でこのたびの本大会でのおひろめを、ことのほか慶んで戴いているのではないか、と思っております。そしてこれを託された合田家子孫として、本日参会の所有者・合田寅彦及び私・合田洋一にとりましても無上の慶びとするものです。このような不思議な縁に感謝申し上げます。
 なお、当『七五三図』は二〇〇八年三月三日から一ヶ月間、広島県福山市鞆の浦歴史民俗資料館にて、本邦初公開をさせて戴きました。

七五三図

一、『七五三図』作成の経緯

 さて、当『七五三図』奥書には、文化七年(一八一〇)十一月十一日幕府より朝鮮通信使饗応の上使に任命された小笠原大膳大夫忠固の江戸屋敷にて、副使となった播州(兵庫県)龍野藩主脇坂中務大輔安董(やすただ)ほか多くの関係者が参会して、通信使饗応のための七五三の膳部をつくり、饗応伝授の習い(予行演習)を行い、それを小笠原家中の冨永隼之助が模写して絵巻物に作成したことが記されています。また、この席には幕府料理人頭取で膳見本作成者の石井治兵衛も参加していたことが副使側作成の冊子形式の『七五三図』草本(作成者・脇坂家中猪飼正●(倍の旁が左、設の旁が右)、名古屋市蓬左文庫所蔵)の奥書に遺されていました。なお、副使側作成のもう一部の『七五三図』は、巻物ではありますが上使・小笠原家作成の当『七五三図』とは異なり、絵のみで文字記載は一切無く奥書もありません(たつの歴史民族資料館所蔵)。そして、この年の十二月に幕府に提出されたものが本日公開の『七五三図』です。

二,合田家家宝『七五三図』絵巻物所蔵の由来

 それでは、この絵巻物がどのような変遷を経て蝦夷地の合田家へもたらされたのか、について述べさせて戴きます。
 それに先立ち、合田家について僭越ながら披瀝しますと、蝦夷地での初代・合田次郎左衛門は、伊予国三島(現・愛媛県四国中央市)を出て、出羽国本荘にて酒造りを学び、蝦夷地の福山を経て、天和年間頃(一六八一?一六八三)「江差追分」の古里で松前藩の台所・江差へ移住しました。二代目以降八代目まで酒造業・海産商・米穀雑貨商などを営む傍ら、町名主・町年寄を歴任しました。そして、明治元年(一八六八)から二年に亘る蝦夷地での維新戦争の最中、江差町の最後の名主でもあった八代目合田與四右衛門家に一人の“殿様”(名前は伝わらず)が旧幕府軍の一員?として逗留しました(本陣は東本願寺江差別院、この間幕府軍旗艦「開陽丸」が江差沖にて嵐により座礁・沈没<明治元年十一月十五日>)。しかしながら、江差へも新政府軍の侵攻が迫ったので、旧幕府軍撤退と期を同じくして、“殿様”も慌ただしく江差を去ることになり、その際「世話になった御礼」として、『七五三図』・『弓術・えびらの奥義書』・『九鬼南嶽公御書・短冊』(南嶽公とは摂津国三田藩藩主九鬼?国のこと)・小刀一振(袋は葵の紋入り)を与え、大名厨子入り位牌二基の供養を頼んだようです(八代目が江差別院預骨堂へ納めたのですが、昭和五四年以降所在不明)。與四右衛門の長女マサ(十代石蔵の妻)より十一代目喜三郎(洋一祖父)への談によりますと、マサは当時十三?十四歳で大勢の使用人が居たにも関わらず殿様の茶菓の接待役仰せつかっていたようです。そして、明治政府の世になってから旧幕府軍に荷担したものは徹底追及され、罪科を問われました。江差では死刑になったものがあったようですが、当家は酒造業の免許剥奪・財産没収の憂き目にあいました。マサ曰く「これらの拝領物は必死になって隠し通した」そうです。なお、当主が死刑にまでならなかった“温情判決?”の理由として考えられることは、“殿様”は変名を名乗っていたらしいこと(後述)、また函館共和国軍の中でも重要視されなかった過去の人物で、そのため五稜郭城にも入れてもらえない厄介者?の扱いをされていたこと、ではないかと思っております。

 

三、『七五三図』を蝦夷地まで持ち運んだ人物とは

 では、その“殿様”とは一体何者なのかについて見ていきます。
 結論は前述しましたが小倉藩主小笠原家の一族で、江戸幕府老中・長州再征下関方面総督・唐津藩世子小笠原図書頭長行以外は考えられません。小倉城で幕府軍の指揮に当たっていた長行は、長州軍に攻められ敗残したので、小倉城の脱出を余儀なくされ、幕府軍を解散して、城を焼いて逃げました(慶応二年八月一日 ーー 一八六六)。その時に小倉藩から託されたのかどうかは定かではありませんが、この『七五三図』ほか合田家へ下げ渡しの品々を持ち出したものと考えております。
 何故持ち出したのか、その理由としては、安政三年に朝鮮通信使来聘の時期を十年後(慶応二年)とすることが既に決定しており、幕命で対馬藩から朝鮮国へ通告していたことに起因していると考えます。そこで、国内事情で延期されるにしても、今後も幕府が存続するならば、この『七五三図』は通信使聘礼の際の外交上“上使饗応伝授の手引き書”として必要不可欠なもの、と考えられるからです。小倉藩から長行へ託したと思われることは、長行は親族でもあり、衰退しているとは言え時の老中でもあります。また付言すれば、長行は開国論者であり、外交を最も重視していた人物でもあったから、ではないでしょうか。
 ところで、小倉から江戸へ逃げ帰った長行は、以後変名・三好某を名乗り会津・仙台と逃避行して、蝦夷地鷲の木へ上陸、それは明治元年(一八六八)十一月十五日のことでした。函館では一旦五稜郭城へ入城の後、戦力外で客分扱いのため城を出され、桑名公・板倉公などと同じ く町内の民家での仮住まいとなりました。逃避行中の随行者は家臣二名から四名にもかかわらず大切に持ち運んできた『七五三図』や『弓術・えびらの奥義書』などを、何故に合田家に下げ渡しのか、<伝聞>にある「世話になったから」だけではないと考えます。それは、己が精魂傾けた徳川幕府も既になく、己が家(唐津藩)からも指名手配のお尋ね者と成り果ててしまった長行が、新政府軍が背後に迫っている状況下で、明日をも知れぬ我が身を考えた時、これらの品はもはや手元に置いておく意味をなさなくなっていたと思われます。それと同時に、大切な位牌を託すことへの返礼でもあったのではないでしょうか。また、長行晩年は東京で隠遁生活を送り、世間・旧家臣とも没交渉に身を置きながら著した自叙伝『艱難実録』でも、江差での動向について一言も触れなかったのは、穿った見方になるかも知れませんが、何分にも本家小倉藩ゆかりの大切な品を自らの手で処分したことに関係してはいないでしょうか。
     恐々謹言

講演中の筆者


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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