2011年12月10日

古田史学会報

107号

1、古代大阪湾の新しい地図
 難波(津)はなかった
 大下隆司

2、「大歳庚寅」
 象嵌鉄刀銘の考察
 古賀達也

3,中大兄は
 なぜ入鹿を殺したか
 斎藤里喜代

4、元岡古墳出土太刀の銘文
 正木 裕

5、磐井の冤罪 II
 正木 裕

6、朝鮮通信使饗応
『七五三図』絵巻物
 合田洋一

 編集後記

 

古田史学会報一覧

前期難波宮の考古学(1)(2)(3) -- ここに九州王朝の副都ありき 古賀達也

福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について 正木裕(会報107号)

「大歳庚寅」象嵌鉄刀銘の考察 古賀達也(会報107号) ../kaiho107/kai10702.html

「大歳庚寅」象嵌鉄刀銘の考察

京都市 古賀達也

はじめに

 出張先の名古屋のホテルで読んだ中日新聞(九月二二日)に、福岡市西区の元岡古墳群から出土した鉄刀に象嵌があり、エックス線写真によると、「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」の文字が確認されたとのことでした(「練」は推定)。
 「庚寅正月六日庚寅」と、年干支・日付干支があるので、五七〇年の庚寅であることがわかります。九州王朝中枢領域から出土した六世紀後半の金石文ですから、わたしも大変貴重な史料が出たと喜びました。その後、銘文について検討を行い、いくつかの興味深い問題が見えてきました。

九州王朝の暦と年号

 まず第一は、その年・日付干支から、九州王朝では『三正綜覧』などで復原された「長暦」が少なくとも六世紀後半から七世紀全般にわたって使用されていたという事実がわかります。たとえば、この他に九州王朝系金石文で年・日付干支の両方が判明するものとして、法隆寺釈迦三尊像光背銘「(壬午)二月廿一日癸酉」(六二二)、妙心寺銅鐘「戊戌年四月十三日壬寅」(六九八)の存在があり、いずれも「長暦」によることがわかっていました。こうした九州王朝中枢の金石文が指し示す史料事実から九州王朝使用暦が一層明確となったわけです。
 九州王朝説論者の中には、『三正綜覧』による暦日干支復原を否定し、妙心寺銅鐘の戊戌年を六三八年とする見解もあるようですが、それは無理であったことが今回の鉄刀の出土により更に明らかとなりました。

 第二に注目されるのが「大歳庚寅」という大歳干支表記です。この「大歳○○」(○○は干支)という表記方法は『日本書紀』に見られる独特のもので、各天皇の即位元年条末尾に記載されています。神武天皇など若干の例外はありますが、各天皇の即位年干支の表記方法なのです。この大歳干支表記について、岩波『日本書紀』補注では百済からもたらされたものではないかと説明されています。

 しかし今回の出土で、大歳干支表記が九州王朝下で使用されていたことが判明し、『日本書紀』はその九州王朝の大歳干支表記を採用したこととなり、しかも天皇即位年の表記に使用されているという『日本書紀』の史料事実から、これも九州王朝史書からの模倣の可能性があることから、九州王朝でも歴代天子の即位年記録に大歳干支を使用していたものと推察できるのです。
 そうであれば、この庚寅年の五七〇年に九州年号が「和僧」から「金光」に改元されていることから、もしかすると前年の和僧五年(五六九)に九州王朝の倭王が没し、翌年の庚寅に次の倭王が即位したことから、鉄刀には「大歳庚寅」と象嵌されたように思われます。このように九州年号の改元と一致していることは示唆的です。
 以上のように、今回出土した鉄刀銘文は九州王朝史研究にとっても貴重な金石文であり、更なる研究が必要です。なお、出土した古墳が七世紀中頃と編年されていますが、鉄刀銘文の庚寅年(五七〇)と離れていることから、北部九州の古墳編年についても検討の余地が必要かもしれません。更に同古墳から出土した古墳時代では国内最大級の銅鈴の検討なども今後の課題です。

「大歳庚寅」鉄刀銘と「金光」改元

 この「大歳庚寅」鉄刀銘文について、ちょっと気にかかる点がありました。それは「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」という短い文に年干支と日付干支の両方が記され、しかも共に「庚寅」という点です。
 もちろん、古代金石文において年干支と日付干支の両方が記されている例はあるのですが、鉄刀の背という狭いスペースに象嵌という手の込んだ技術で作刀の時期を記す場合、年干支「大歳庚寅」と「正月六日」という日付表記で事足りるのに、わざわざ「正月六日庚寅」と日付干支まで丁寧に記されていることに、作刀者の強い意志と意図を感じるのです。しかも、年干支と同じ「庚寅」なのですから、これも偶然とは考えにくいと思います。
 日付干支が「庚寅」となる「正月六日」にたまたま作刀したのではなく、年干支と同じ「庚寅」となる「正月六日」を作刀日に選んだ可能性が濃厚なのです。それほど「庚寅」という干支を意識したのです。その理由をわたしなりに考えてみました。それは九州年号「金光」への改元との関わりです。
 この鉄刀銘の庚寅が五七〇年であることは確実ですが、この同じ年に九州年号が「和僧」から「金光」へと改元されているのです。この「金光」との関係で作刀日を「庚寅」にしたのではないでしょうか。古代中国では陰陽五行説(諸説あります)に基づいて鏡や刀の作成日を選んだり、吉祥句として記したりしている例が少なくありませんが、この「庚寅」という干支も陰陽五行説によれば、庚は「金」と「陽」に相当し、寅も「陽」に相当するとされています。この「金」と「陽」に基づいて、あるいは因果関係は逆かもしれませんが、「金光」という年号が制定されたように思われるのです。
 従来わたしは、九州年号の「金光」は九州王朝への金光経伝来を記念して制定された年号ではないかと考えていました。しかし、この推測には弱点がありました。それは『二中歴』年代歴の「金光」年号細注に何も記されていないということでした。ご存じのように、『二中歴』年代歴の九州年号の細注には仏教関連記事が少なからずあり、たとえば、「端政」の細注には「唐より初めて法華経渡る」とあり、「仁王」には「唐より仁王経渡る」、「僧要」には「唐より一切経三千余巻渡る」などの仏教経典伝来記事がありますが、「金光」にはないのです。
 従って、今回の鉄刀銘文の考察のように、一応、金光経伝来とは別に、陰陽五行説との関連で「金光」年号を捉えることができたのは、新たな理解(作業仮説)として有益と思われました。
 こうした仮説が正しければ、この「大歳庚寅」象嵌鉄刀は、前年の倭王崩御に伴い、新倭王が即位し、「大歳庚寅正月六日庚寅」に「和僧」から「金光」へと九州年号が改元されたことを記念して作られたのではないかという考えへと進まざるを得ないのですが、いかがでしょうか。
 なお、「大歳庚寅」(五七〇)に即位した倭王は、多利思北孤の前代の倭王(玉垂命・襲名するため一人ではない)の可能性が濃厚です。『太宰管内志』(筑後国大善寺玉垂宮)によれば、玉垂命は端政元年(五八九)に崩御したとありますから、金光元年(五七〇)即位の倭王は当時の玉垂命と推定できます。この時、九州王朝の都となる太宰府条坊都市は未完成で、それ以前の筑後遷宮期の倭王ですから、本拠地は筑後です。
 恐らく、新倭王(玉垂命)の即位と「金光」への改元を記念して作られた「大歳庚寅」象嵌鉄刀が、九州王朝直属の有力者へ配られ、その内の一つが今回出土した鉄刀ではないでしょうか。
 その後、正木裕さんから、『善光寺縁起』に「金光元年庚寅歳天下皆熱病」という記事があり、前代の倭王の死因はこの熱病と関係しているのではないかという御指摘を得ました。大変面白い記事です。他の九州年号史料の調査が待たれます。

「大歳庚寅」銘鉄刀の目的

 「大歳庚寅」鉄刀の銘文について検討考察をすすめてきましたが、いよいよ最終段階に入りたいと思います。それは、この鉄刀が作られた目的(史料性格)についてです。
実は、この鉄刀の銘文はちょっとへんなのです。「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」とあるだけで、その前後には銘文はないようですが、これでは鉄刀を作った年月日が記されているだけで、そのことにどんな意味があるのか銘文からは不明なのです。
 銘文を持つ古代の鉄刀(剣)はいくつか出土していますが、欠損のため一部しか銘文が残っていないものはともかく、その他は基本的に何のためにその鉄刀(剣)が作られたかという制作目的や史料性格を銘文からうかがい知ることが可能です。ところが、この「大歳庚寅」銘鉄刀には、それら制作意図や鉄刀を与える目的などがわからないのです。
 一応、わたしは大歳干支表記や九州年号改元年との一致などから、新倭王即位と改元を記念して作られたものとする理解を得ましたが、銘文そのものには製作年月日ぐらいしか記されていないのです。わたしにはこのことが不思議に思えたのですが、マスコミの発表などを読む限りは、このような点に触れた記事はないようです。
 そこでわたしは、そうした鉄刀制作者の意図とその授与の目的を銘文から読みとれないかと考え続けてきました。そして、そのキーワードを見つけたのです。それは、銘文の後半部分「作刀凡十二果(練)」の部分です。新聞などの説明では、この部分を「全てよく練り鍛えた刀」という意味に読んでいますが、この解釈には納得できません。
 通常、鉄刀(剣)などの銘文での常套句は「百練」です。例えば、国内では最も古い後漢の年号を持つ「中平」銘鉄刀は「百練」と記されていますし、有名な七支刀も「百練」、稲荷山古墳出土鉄剣銘も「百練利刀」、江田船山古墳出土鉄刀でも百練よりは少ないのですが「八十練」です。
 これらの銘文が示すように優れた鉄剣・鉄刀を表す常套句(実際そのくらい練ったのかもしれませんが)は「百練」「八十練」であり、「大歳庚寅」銘鉄刀のように「十二果練」では、鉄刀の出来を誉めているのか、けなしているのかわからないような回数ではないでしょうか。そこで、新聞発表などでは「凡十二果(練)」を「全てよく練り鍛えた刀」などと、苦し紛れの解釈になったのではないかとにらんでいます。
したがってわたしは、「十二」を練った回数ではなく、鉄刀の数と理解しました。次のような読解です。「大歳庚寅正月六日庚寅の日の時に、十二本の刀すべてを作り練り果たした。」(韓国の聯合ニュースで同様の見解が述べられていると、インターネット上で紹介されていますが、わたしはハングルが読めず未確認)
 このように「十二」を鉄刀の本数と見れば、数的に無理のない妥当なものとなります。すなわち、新倭王は即位改元にあたり、十二本の鉄刀を作り、その記念すべき日に作った刀であることを象嵌し、恐らく九州王朝内の有力十二氏族の長に与えたのでしょう。そしてその内の一氏族の子孫の墓が元岡古墳群だったのです。
そうすると次に問題となるのが、何故十二本なのかということです。もちろん、九州王朝直属の有力氏族の数が十二氏族だったという場合もあるかもしれませんが、それだとちょっと少ないように思われます。したがって、逆に積極的に十二本(十二氏族)が選ばれたと考えた場合、それはどのような場合でしょうか。
 わたしには一つのアイデア(作業仮説)があります。それは、藤原宮のように十二の門が当時の九州王朝の王宮にあったとすれば、藤原宮と同様にそれら各門を一氏族で守ることになり、合計十二氏族で王宮防衛にあたることになります。このように理解すれば、防衛任務の責任者に武力の象徴でもある「鉄刀」を下賜することは、充分にあり得ることですし、宮門防衛氏族の象徴(証明)としてこの「大歳庚寅」銘鉄刀が自他共にその役割を認めることになるのです。
 王宮防衛氏族としてその任務と名誉は子孫に受け継がれたはずですから、七世紀中頃の古墳から出土したことも肯けます。おそらく、七世紀中頃には王宮防衛の任務を解かれたため、その時点で古墳に埋納されたものと思われます。あるいは、新たな王宮防衛の「証明」物が与えられたのかもしれませんが、それよりもその氏族が任務を解かれたため、子孫に引き継ぐことなく埋納した可能性が高いのではないでしょうか。
 更に、この七世紀中頃に王宮防衛の任務を解かれたという仮説に基づくならば、一体何が九州王朝で起こったのでしょうか。これも推測ですが、九州王朝の副都前期難波宮の完成(六五二年・九州年号の白雉元年)と関係があるのではないかとにらんでいます。難波の副都完成にあたり、王宮防衛の任務の一部が関西の氏族と交替になったため、元岡古墳群被葬者の氏族が任務から外れたのではないでしょうか。
 これらは想像の域を出ませんが、「大歳庚寅」銘鉄刀が大和朝廷から下賜されたとする、大和朝廷一元史観の説よりは説得力があると自負しています。

「大歳庚寅」銘鉄刀は四寅剣(刀)

 十月八日に行われた古田先生の記念講演会「俾弥呼とは誰か」(主催:ミネルヴァ書房)は大盛況でした。定員三五〇名の会場に約四三〇名が来場されたとのこと。遠く山形県や九州から来られた人や、九十歳の古田史学の会々員の方も、これが最後になるかもしれないと出席されていました。
 講演終了後のサイン会には五十名近くの人が列を作り、講演でお疲れのはずにもかかわらず古田先生は長時間かけて一人一人丁寧にサインされていました。ファンや読者を大切にされる古田先生のお姿を見て、あらためて本当に立派な先生だなあと感激しました。
 会場には正木裕さん(会員)ご夫妻も見えておられ、正木さんから「庚寅鉄刀の正体がわかりましたよ。あれは四寅剣(しいんけん)です。」と貴重な情報をいただきました。正木さんによると、干支が寅の年、寅の月、寅の日、寅の時に作られた剣を四寅剣といい、朝鮮半島古来の伝統の剣とのこと。そして、五七〇年が庚寅の年で、正月が寅の月、その六日が寅の日になり、もし寅の時(午前三時?五時)に作られたのであれば四寅剣になるとのことでした。これが、月と日と時だけが寅の場合は三寅剣とよばれるそうです。
 わたしは四寅剣のことは全く知らなかったのですが、この話しを聞いてなるほどと納得しました。それは銘文にある「時」という字が不要のように思われ、疑問点として残っていたからです。
 わたしは「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」という銘文を「大歳庚寅正月六日庚寅の日の時に、十二本の刀すべてを作り練り果たした。」と読んだのですが、この「庚寅の日の時に」という読解にちょっと変な表現だなと感じていたのです。むしろ、「時」の一字がなければ「庚寅の日に」とすっきりした読みが可能となるからです。
 ところがこれが四寅剣であれば、「大歳庚寅正月六日庚寅の日と時に」と読んで、四つの寅が重なったことを、すなわち四寅剣であることを示すために「時」の一字が必要不可欠となり、銘文としても過不足ないものとなるのです。
 こうした理解から、この鉄刀は四寅剣、正確には「四寅刀」であることわかり、この鉄刀の史料性格がより明らかになったと思われます。朝鮮半島では古代から中近世にかけて四寅剣が数多く作られたようで、四寅剣は国家の危機を救う「辟邪」として重宝されたようです。この点、正木さんから関西例会や会報で詳細な報告がなされると思います。
 今回なお残された問題として、この「大歳庚寅」四寅刀が朝鮮半島で作られたものか、日本列島で作られたものかというテーマがありますが、鉄の成分分析などで明らかになればと期待しています。また四寅剣の様式など、朝鮮半島のものとの比較も必要となるでしょう。引き続き調査検討を深めたいと思います。正木さんの御教示に感謝いたします。
 (本稿は古田史学の会のホームページ掲載の「洛中洛外日記」より、一部加筆修正して転載したものす。古賀)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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