2012年 2月10日

古田史学会報

108号

1、「国県制」と
「六十六国分国」上
 阿部周一

2、前期難波宮の考古学(3)
ここに九州王朝の副都ありき
 古賀達也

3、古代日本ハイウェーは
九州王朝が建設した軍用道路
 肥沼孝治

4、筑紫なる「伊勢」と
「山邊乃 五十師乃原」
 正木 裕

5、百済人祢軍墓誌の考察
京都市 古賀達也

6、新潮
 卑弥呼の鏡の新証拠
 青木英利

 新年のご挨拶
 水野孝夫

 

古田史学会報一覧

古代大阪湾の新しい地図 -- 難波(津)は上町台地になかった 大下隆司(会報107号)
七世紀須恵器の実年代 -- 「前期難波宮の考古学」について 大下隆司(会報109号)

前期難波宮の考古学(1)(2)(3) -- ここに九州王朝の副都ありき 古賀達也
観世音寺・大宰府政庁 II 期の創建年代
古賀達也(会報110号)

前期難波宮の考古学(3)

ここに九州王朝の副都ありき

京都市 古賀達也

二つの研究論文

 わたしが前期難波宮を九州王朝の副都とする説を発表後、前期難波宮に関する二つの重要な考古学論文に遭遇した。ひとつは『九州考古学』第八三号(二〇〇八年十一月、九州考古学会)に掲載された寺井誠「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器(注1)」。もうひとつは小森俊寛『京から出土する土器の編年的研究』(二〇〇五年、京都編集工房)である。
 そのテーマや結論は異なっているが、いずれも前期難波宮九州王朝副都説に対して興味深い問題を内包していることから、両論文を紹介し、問題点について指摘する。

出土した筑紫の須恵器

 「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」を発表された寺井誠氏は大阪歴史博物館に所属されており、難波地域の調査発掘にたずさわられている専門家である。
 「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」によれば、難波宮跡公園の南約六百mに位置する前期難波宮期整地層(OS99-十六次調査、七世紀中頃)から、北部九州(福岡県)の七世紀中頃の須恵器が出土していたことが報告されている。その須恵器は「横位平行タタキ」紋等を持つもので、福岡県早良平野の鋤崎古墳群・羽根戸古墳群・金武古墳群などからもっとも多く確認されているものである。この寺井論文によれば「現状では筑紫以外では見つかっていないことから、難波で出土した当該須恵器については、筑紫から搬入されたと考えてよいであろう。」としている。なお、この「筑紫」とは福岡県のことで、その出土遺跡の大部分が九州王朝の中枢領域である糸島博多湾岸に集中分布しているとのことである。
 難波に搬入された時期についても次のように述べられている。「出土した前期難波宮期の整地層は須恵器編年でいうなら陶邑IV中~新段階、すなわち7世紀第2~3四半期である。筑紫では陶邑III 新段階以降に見られるものの、陶邑IV古・中段階、すなわち7世紀第1~2四半期に多く、その後も継続して存在する。よって、前期難波宮造営の頃とほぼ変わらない時期に搬入された可能性が十分に考えられる。」としている。
 こうした考古学的出土事実を九州王朝説の立場から考察すると、次のようにならざるを得ないであろう。
 (1). 七世紀中頃において、筑紫と難波には交流があった。
 (2). 従って、九州王朝中枢領域の人々、すなわち九州王朝は、当時列島内最大規模で朝堂院様式の前期難波宮の建設を知らないはずがない。
 (3). 九州王朝説に立つのであれば、太宰府よりも壮大な宮殿や官衙を、近畿の豪族(いわゆる大和朝廷)が造営することを九州王朝が黙認することはあり得ない。
 (4). 従って九州王朝説に立つ限り、寺井論文が明らかにした考古学的出土事実は、前期難波宮九州王朝副都説と整合する。

 以上である。なおこの論理性は、仮に前期難波宮の造営時期を天武期としても変わらない。

土器編年の史料批判

 小森俊寛氏は『京から出土する土器の編年的研究』において、前期難波宮の造営年代を七世紀後半の天武期とされ、その根拠として、前期難波宮整地層から出土する土器に、少量ながら七世紀後半頃の土器が出土することを指摘され、「量の多少はあっても、土器群では年代の下限を示す新相側の年代観を採用することが原則である。」とされた(同書九二頁)。
 この小森氏の指摘等を根拠に、前期難波宮の造営年代を七世紀後半の天武期とする論者(注2)も見られるが、はたしてこの小森氏の「原則」は正当であろうか。
 より新しい遺物の年代を、その遺構の年代の上限とする理解は、一般的には妥当性を有する場合もあるが、当問題のような数十年の年代差を判断するケースでは、その「妥当性」を土器編年では有さず、小森氏の錯覚、あるいは土器様式の史料性格に対する認識不足に基づく誤解なのである。
 土器様式は通常、発生期・最盛期・衰退期ともいうべきライフサイクルを経る。それぞれの期間がどのくらいかは、時代や流行によって異なるが、小森論文のように七世紀後半流行の土器がいきなり七世紀後半に誕生・出現・流行するわけではない。ある土器様式が「七世紀後半」と編年される場合は、その土器の最盛期が七世紀後半とされるケースが通常であり、発生はそれ以前と考えなければならない。
 従って、前期難波宮整地層から七世紀後半に最盛期を迎える土器が少量出土しているからといって、その年代を整地層の年代とすることはできない。整地層そのものの年代決定を行う場合は、最も大量に出土する土器の編年に基づくのが「原則」であり、少量出土する他の年代の土器の編年(年代観)を用いることは、土器様式のライフサイクルを考慮しない誤論と言わざるを得ない。
 前期難波宮整地層から最も多く出土する土器は七世紀中頃に編年されている。同時にその整地層から七世紀中頃よりも早く流行した土器(衰退期)が出土する場合もあれば、七世紀後半に流行する土器(発生期)が出土しても何ら不思議ではなく、むしろ最盛時期が異なる複数の土器様式混在という状況は、それぞれの土器のライフサイクルとそれに応じた併存の遺構状況と見るべきなのである。従って、遺構の年代決定において、通常は最も多量に出土した土器の最盛期の頃と見なされるのである。
 このように土器様式には発生・最盛・衰退というライフサイクルが存在し、遺構にもその併存の影響があらわれるのが普通である。ところが、こうした土器編年に基づく遺構の年代決定での「限界」と「原則」、土器様式のライフサイクルとい史料性格を小森氏は見落とされたようである。

「戊申」年木簡の史料性格

 このようにライフサイクルに一定期間の時間帯を持つ土器様式とそれに基づいた編年に「限界」があることは自明であるが、それとは対照的にピンポイントで使用年代を特定できる史料の一つが「紀年銘木簡」である。
 通常、荷札のように使用後の廃棄を常とする木簡であるが、それに年号や干支が記されている「紀年銘木簡」は、その使用時期と廃棄時期をピンポイント(おそらく数年の幅)で特定できるという、史料としては大変恵まれたものであり、大きな年代幅を持つ土器編年よりも格段に優れた年代決定力を持つ。出土地層や出土遺構の年代決定に紀年銘木簡が重用されるのも、こうした史料性格によるものである。
 前期難波宮の造営年代決定においても、整地層から最も多く出土した七世紀中頃の土器による編年の他に、前期難波宮の北西地点で出土した「戊申」年(六四八)木簡が決定的役割を果たしたのは当然である。「紀年銘木簡」の持つ史料性格の優位性から見ても、前期難波宮造営年代の特定において、「戊申」年木簡を軽視することは学問的に不当である。
            (つづく)

 注1 寺井論文コピーは正木裕氏(古田史学の会々員)よりご提供いただいた。
 注2 山尾幸久「『大化改新』と前期難波宮」(『東アジアの古代文化』百三十三号、二〇〇七年秋、大和書房)
    大下隆司「古代大阪湾の新しい地図 -- 難波(津)は上町台地になかった」(「古田史学会報」一〇七号、二〇一一年十二月)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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