2012年 2月10日

古田史学会報

108号

1、「国県制」と
「六十六国分国」上
 阿部周一

2、前期難波宮の考古学(3)
ここに九州王朝の副都ありき
 古賀達也

3、古代日本ハイウェーは
九州王朝が建設した軍用道路
 肥沼孝治

4、筑紫なる「伊勢」と
「山邊乃 五十師乃原」
 正木 裕

5、百済人祢軍墓誌の考察
京都市 古賀達也

6、新潮
 卑弥呼の鏡の新証拠
 青木英利

 新年のご挨拶
 水野孝夫

 

古田史学会報一覧

「筑紫なる飛鳥宮」を探る 正木裕(会報103号)
磐井の冤罪 I II IIIIV

筑紫なる「伊勢」と「山邊乃 五十師乃原」 正木裕(会報108号) ../kaiho108/kai10804.html

筑紫なる「伊勢」と「山邊乃 五十師乃原」

川西市 正木裕

一、万葉三二三四番歌の伊勢と「五十師乃原」

 万葉三二三四番、三二三五番に「伊勢」をテーマにした歌がある。当然ながらこの「伊勢」は伊勢神宮の存在する「三重なる伊勢」とされてきた。そして歌中の「山邊乃 五十師乃原」と「御井」も当然のように三重の伊勢周辺に比定されてきた。
 本稿では、この歌の伊勢は筑紫糸嶋なる伊勢であり、現地の地名・景観・歴史が歌中に読み込まれている事を述べる。
 伊勢を歌う万葉三二三四番歌及び三二三五番反歌は次の通りだ。

■万葉三二三四番歌 無題 
 やすみしし 我ご大君 高照らす 日の御子の きこしをす 御食つ国 神風の 伊勢の国は 国見ればしも 山見れば 高く貴し 川見れば さやけく清し 水門なす 海もゆたけし 見わたす 島も名高し ここをしも まぐはしみかも かけまくも あやに畏き 山辺の 五十師の原に うちひさす 大宮仕へ 朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも 春山の しなひ栄えて 秋山の 色なつかしき ももしきの 大宮人は 天地と 日月とともに 万代にもが

(三二三五番)
山辺の 五十師の御井は おのづから 成れる錦を 張れる山かも

二、「山邊乃 五十師乃原」の所在議論

 歌中の「山邊乃 五十師乃原」と「御井」の所在については、古来多くの説が提起されてきたが、未だ決着を見ているとはいえない。私はその混迷の原因は、伊勢といえば「三重なる伊勢」だという前提の下に議論されている事にあると考えるが、その点は後述するとして、始めに過去の「五十師乃原」の所在議論を振り返ってみよう(註1)。

 「山邊乃 五十師乃原」の所在についての主要説を年代順に紹介する。
 1、契沖(一六四〇~一七〇一)
  「五十師乃原」を「いそしのはら」と読み、磯宮のある度会郡伊蘇(以曽)とする。(契沖『万葉代匠記』十七世紀末頃成立)

 2、賀茂真淵(一六九七~一七六九)
  「五十師」は「五十鈴(いすず)」の誤りと考え、五十鈴川等のある伊勢神宮(斎宮)及びその近傍とする。(賀茂真淵『万葉考』十八世紀末から十九世紀初成立)
  しかし、「師は鈴の誤り」は暴論といえるほか、神宮内に「御井」が見受けられず、かつ斎宮の女官を「大宮人」とは呼べないなどこの説には大きな弱点がある。

 3、本居宣長(一七三〇~一八〇一)
  「五十師乃原」を「いしのはら」と読み、持統天皇の行幸に関する歌で、鈴鹿郡山辺村近傍の行宮(伝山辺赤人屋敷跡付近)とする。(本居宣長『玉勝間』十八世紀末から十九世紀初成立ほか)
  また宣長と同様な説は、沢瀉久孝 (一八九〇~一九六八)(『万葉集注釈』ほか)が唱えている
  しかし、山辺村は当時の伊勢への路道にから遠く外れているうえ、伝山辺赤人屋敷の信頼性には疑問があり、更に、そこが「行宮」であったというに及んでは宣長の全くの想像に過ぎない。(「いしのはら」との読みの根拠も薄弱だが、この点は後述)

 4、他に山田孝雄・土屋文明らの一志郡新家村説や、鴻池盛広の同豊地村説がある

が、いずれも付近に目立つ山や井戸がない事、当地が取り立てて賛美される由緒が無い等の弱点を抱えている。

三、本居宣長と「五十師乃原」

 次に諸説の中でも代表的な本居宣長説を取り上げ、伊勢と五十師乃原の所在を検討する。
 本居宣長は、この歌中の伊勢は当然「三重なる伊勢」と考え、「山邊乃 五十師乃原」を探し行脚した結果、現在の鈴鹿郡付近とした。その根拠は「玉勝間」三の卷に詳しく記されている。以下に一部を抜粋する。
■(『玉勝間』)さて五十師原を、萬葉の今の本に、いそしのはらと訓たれども、古はいそといふに、五十と書ることなければ、誤也、いしのはらとよむべし。五十と書るをば、伊とよむ古書の例なれば也。(略)さていしの原といふ名のよしは、今石藥師驛に、石藥師とて寺有て、石の佛をまつれる、そは地の上におのづからにたてる、大きなる石のおもてに、藥師といふ佛のかたをゑりつけたるにて、此石あやしき石也。(略)赤人屋敷といふ地ぞ、行宮の御跡なるべく、又御井も、かの二つのうちははづるべからずとぞ思はるゝ。(略)伊勢の海よく見渡されて、こゝより見れば、まことに水門なすとよめるさま也、尾張參河の山々も、いせの山々嶋々も、よく見え、高岡川といふ川、村の東を流れて、まぢかく見おろさるゝなど、すべてかの長歌のけしきに、よくかなへる。

 以上を割愛した部分も含めて要約すると、凡そ次の通りとなろう。
 (1) 「五十」は「い」と読むべきであり、「五十師の原」は「いし(石)の原」である。(2) 鈴鹿郡に石薬師寺(現・鈴鹿市石薬師町)や石仏等が存在し、(3) 付近の地勢・景観も附合する事から、「五十師の原」は三重県鈴鹿郡山辺町付近に比定できる。(4) 同所の山辺赤人屋敷伝承地は持統天皇の伊勢行幸途上の行宮であり、「御井」は近傍の古井戸を指す。

四、無理のある地名比定

1、「いそ」か「い」かは未定

 宣長は「山邊村」の近郊に「石薬師」や「石仏」発見したから、五十師を「いし」と読むべしとしたと思われる。しかし、「五十」は「いそ」か「い」か、について言えば、例えば「五十猛」は「いたける」とも読むが、通常は「いそたける」と読み習わされているなど、必ずしも「い」でないのは明白だ。また「いしのはら」では、全体が七五調で整う中で破調となり、歌としての不自然さは免れないのだ。

2、地勢的にも問題

 しかも宣長も認める通り、山邊村は石薬師より「六七町も離れた」「野のはずれ」にあり、「西の方よりは、たゞ平なる地のつゞき」というから、同地を「山辺の石の原」「錦を張れる山」とするには無理がある。

■(『玉勝間』)山邊村、今はやまべといひて、鈴鹿郡にて、河曲郡の堺也。石藥師驛より、六七町もあらんか、野原をゆきて、東北の方なり。その野はまりが野といひて、西の方は、能煩野へつゞきていと/\廣きを、此山邊村は、その野の東のはづれの、にはかにくだりたるきはの、ひきゝ所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり。さればかの長歌の反歌に、おのづからなれる錦を張れる山かもとよめるも、西の方よりは、たゞ平なる地のつゞきなれども、東より見たるさまによりて、山とはいへるなりけり
 また、伊勢神宮への行路から遠く、そこからの景観が宣長の言うように「海がよく見える」かどうかも疑問だ。(註2)

3、赤人屋敷・石薬師寺伝承も信頼できない

 決定的な疑問は、石薬師寺の寺伝では、神亀三年(七二六)修験僧「泰澄」が、巨石の出現を薬師如来の示現と感じ、庵を営み供養したのが開創とされることだ。つまり「持統天皇の行宮」云々とは年代が合わず、持統行幸と関連させることはできないのだ。
 従って特段の由緒もない単なる「石の原」が「あやに畏き」所であるとは全く考え難く、鈴鹿郡山辺村一帯が「ここをしも まぐはしみかも かけまくも あやに畏き」とまで賛美される要素は何もないのだ。
 結論として、本居宣長の「五十師の原」比定根拠は極めて薄弱といえよう。

五、賀茂真淵の「伊勢神宮」説も成立せず

 また、「うちひさす 大宮仕へ 朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも 春山の しなひ栄えて 秋山の 色なつかしき ももしきの 大宮人は 天地と 日月とともに 万代にもが」の句は「朝夕・春秋の大宮仕え」を表しており、「大宮」が行宮や頓宮であるとは考え難い。
 但し、賀茂真淵の比定どおり大宮を伊勢神宮とするには、(1) 斎宮に仕える女官を「ももしきの 大宮人」というのは不自然(2) かつ、御井も見出せない。(3) まして「師」は「鈴」の誤りとは到底容認できないから、真淵の「伊勢神宮」説も成立しがたい。
 その他の説も一長一短があり決め手に欠けるのが実際だ。

六、筑紫糸島なる「山邊乃 五十師乃原」

 ところで、古田武彦氏は神武歌謡の分析や、現地地名(神在村伊勢田・伊勢浦等)などから筑紫糸島地域に伊勢の原点を見出された。(註3)
 そして実は「山邊乃 五十師乃原」も、その「糸島なる伊勢」の周辺に見出せるのだ。

1、『書紀』での「五十師」と「伊蘇志」

 筑紫糸島半島前原にはずばり「山邊乃 五十師乃原」がある。
 『書紀』で筑紫の伊都県主の祖「五十迹手(いとで)」は、仲哀天皇八年筑紫に行幸した天皇を出迎え、伊蘇志(いそし)の名をあたえられた。契沖のいう「伊蘇」だ。更に伊都国は「伊蘇国」がなまったものであるとする。
■『書紀』仲哀八年(一九九)正月壬午(四日)(略)天皇、即ち五十迹手を美(ほ)めたまひて「伊蘇志」と曰ふ。故、時の人、五十迹手が本土(もとくに)を号(なづ)けて、伊蘇国と曰ふ。今、伊覩と謂ふは訛(よこなば)れるなり。

 『書紀』の言うように「五十迹・伊蘇・伊都」が訛りの差とすれば、「五十師乃原」は「いそしのはら」と読め「伊蘇志の原」と通じることとなる。
 そして五十迹手の本土とされた「伊覩」のど真ん中、糸島市前原に現在も篠原(西篠原・東篠原)の地名が遺存する。
 篠原は前原の雷山川沿いの地で、元は波多江に属し、高祖山連峰(高祖山・日向山・クシフル峰等)の西麓、宮地嶽の東にある。付近には三雲・平原・井原等曽根遺跡群が存在する由緒ある地域だ。 (註4) 従って、「篠原」の地域は「五十師(=伊蘇志)の原」と呼ばれる十分な理由があるのだ。

2、聖地である前原の篠原

 しかも篠原の位置する「前原」は天孫降臨説話からみれば極めて尊い地域といえる。古田氏はこう述べている。
■ニニギノ、ミコトの子のヒコホホデミノミコトについて「御陵はすなわちその高千穂の西に在りしと『古事記』は伝える。高祖山連山の西は、糸島郡前原である。そして近畿天皇家はその“聖なる血脈をうけている”と称する一分流だったのである(註5)
 そのニニギノミコトの言葉、「此地者、向韓国真来通、笠沙之御前而、朝日之直刺国、夕日之日照国也。故此地甚吉地」(この地は、韓国に向い真来通り、笠沙の御前にして、朝日の直刺す国、夕日の日照国なり。故、此の地は甚だ吉き地なり)について古田氏は、
■これは前原(まえばる 福岡県糸島郡)の現地に立って、北には韓国、南には笠沙(福岡市東辺ーー東南)、東には朝日、西には夕日という「四方」をさししめした四至文だったのである。太陽信仰の聖地(前原)に立って、この文面はのべられていたのだ。この解読によって、天孫降臨地が前原と博多の間の高祖山連峰であったことが文献的に裏づけされることとなったのである、とされる。(同書)

3、四至文と共通する「朝日・夕日」

 万葉歌では「うちひさす 大宮仕へ」に加え、わざわざ「朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも」と「朝日・夕日」を強調している。これを『古事記』のニニギの言葉の「朝日之直刺国、夕日之日照国」の「朝日と夕日」を踏まえた表現と考えれば、先ず、この地の神代から(過去)の由緒ある尊き地である事を強調し、次に「天地と 日月とともに 万代にもが」とこの後(未来)の悠久の繁栄を祈るという優れた王朝賛歌となるのだ。
 そして歌中の伊勢も三重ではなく、当然に糸島の伊勢を指す事となる。

 

七、「山辺の五十師の御井」はどこか

 それでは「山辺の五十師の御井」は何処に当るのか。

1、疑わしい「山辺の御井」の題詞

 実はこの「山辺の御井」を歌った万葉歌が他にも存在する。
(八一、八二、八三番歌題詞)
 和銅五年壬子夏四月遣長田王于伊勢齋宮時山邊御井<作>歌
(八一番)山辺の御井を見がてり神風の伊勢娘子どもあひ見つるかも
(八二番)うらさぶる心さまねしひさかたの天のしぐれの流らふ見れば
(八三番)海の底沖つ白波龍田山いつか越えなむ妹があたり見む
 左注(右二首今案不似御井所<作> 若疑當時誦之古歌歟)

 八一番歌の題詞は八二番、八三番に共通するものとして記されている。これを素直に信じれば山辺の御井は伊勢周辺となる。しかし古田氏の言うように、歌そのものが一次資料であり、題詞は歌の内容によって判断しなければならない。これは古田氏が万葉歌の分析に基づき見出され、確立された方法論だ。(註6)
 そうした観点から歌の内容をみれば、「御井を見がてり(=見がてら)」とあるとおり「御井」は現地の名所であり、見物すべき所とされていた事は疑えないが、そのような井戸は三重なる伊勢付近にはないのだ。さらに題詞は八二番・八三番の内容とまったく合わず、左注も八二番・八三番の題詞は信じられないとしており、同じ八一番の題詞の信頼性も低いと考えられる。三重の伊勢では「見るに値する」井戸は見出し得ないのだ。

2、糸島の「五十師乃原」周辺の「御井」

  i 、神功皇后の「染井の井戸」
 それでは糸島なる「山邊乃 五十師乃原」に「御井」は存在するのか。
 ある。それも「大あり」といえる有名な井戸がある。それは染井神社の染井の井戸(福岡県糸島市大門)だ。この由緒を『筑前国続風土記』((貝原益軒、一七〇九年完成。後掲)から要約すれば、神功皇后が半島出征前にこの井戸に鎧を沈めたところ緋色に染まり、勝利を告げた、またその鎧をかけて干した松も鎧懸松として伝承されているという。さらに、井戸で染めた幡をかけて干した松も幡懸松として山上にあったという。この伝承は『筑前名所図絵』(巻十)(奥村玉蘭一七六一?一八二八)にも記される有名な話なのだ。

 ii 、「おのづから成れる錦を張れる山」は染井山
 三二三五番歌の「山辺の 五十師の御井は おのづから 成れる錦を張れる山かも」とは、「おのづから成れる錦」を単に紅葉とすれば、井戸に紅葉の山が写っているという平凡な歌となる。
 しかし、染井の井戸なら、神功皇后が井戸に沈めたら「おのずから=自然に緋色に」染まった鎧や幡を懸けて干したのが染井山だったのだから、「おのづから成れる錦を張れる山」の語は、神功皇后の故事に則った特別な意味を持ち、かつ「染井山」と「染井の井戸」の関係を見事に詠み込んだ極めて優れた歌となるのだ。
 なお「緋色の旗を干した」とあるが、天子の旗は「錦旗」とよばれ「赤(緋)地」に日月などを縫いこんだもので、朝敵討伐の象徴となっている。緋色の旗は神功皇后が半島出征前に山上に掲げるのに誠に相応しい「錦の御旗」だったのだ。(註7)

3、「山・川・海・島」の全てが揃う糸島

 三重の伊勢には「山見れば 高く貴し」とする目立った山はないが、糸島には「高祖山・雷山・宮地嶽」がある。文字通り高く貴い山々だ。川は「雷山川」、水門なす海は「今津湾・船越湾」、島は「能古島・姫島・志摩本体」と、歌で賛美される山・川・海・島の全てが備わっている。しかも古来の神話・伝承に彩られた由緒深い景勝地なのだ。

八、「大宮」はどこか

 「伊勢」や「五十師の原」が筑紫糸島であれば、「大宮」はどこにあったのか。

1、疑わしい「飛鳥なる嶋宮」

 万葉歌の柿本朝臣人麻呂や舎人の歌等で「嶋宮」が歌われている。
(万葉一七〇番)(日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌])或本歌一首
 嶋の宮まがりの池(勾乃池)の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず
(一七一番)皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首
 高照らす我が日の御子の万代に国知らさまし嶋の宮はも

 この嶋宮は『書紀』等では通常蘇我馬子の邸宅跡、草壁皇子の東宮とされる。
■『書紀』推古三四年(六二六)夏五月夏五月の戊子朔丁未(二〇日)に、大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。大臣は稲目宿禰の子なり。性、武略有りて、亦辧才有り。 以て三寶を恭み敬ひて、飛鳥河の傍に家せり。乃ち庭の中に小なる池を開れり。仍りて小なる嶋を池の中に興く。故、時の人、嶋大臣と日ふ。

 しかし、次の舎人の歌を見れば、到底宮中の池の「小なる嶋」の描写とは思えない。通常の理性で読解すれば「海に隣接する、あるいは近傍にある宮」としか思えない。
(一八〇番)み立たしの島の荒礒を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも
(一八四番)水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも
 そもそも蘇我馬子の旧邸宅を「日の御子の万代に国知らさまし宮」とするのも理解不能なのだ。

2、筑紫糸島なる嶋宮の可能性

 一方、魏志倭人伝には伊都国に「一大率」が常駐、諸国を検察するとあり、「津」における査察の様子も描かれている。
■(魏志倭人伝)女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。国中において刺史の 如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及び郡の倭国に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。
 また、『書紀』によっても筑紫糸島半島は海の軍事拠点だった事が明らかだ。
■『書紀』推古十年夏四月「将軍来目皇子、筑紫に到ります。乃ち進みて嶋郡に屯みて、船舶を聚めて(結集の意)軍の粮を運ぶ」

 これら記事からも、今津湾と深江湾を擁する糸嶋半島(旧嶋郡・怡土郡)は、古来からの軍事・政治上重要な地域だった事が分る。また、同地域は「海に近い」という宮の条件とも合致する。
 こうした事から、遺跡こそ未発見だが、この地域の何れかに半島経営をにらんだ「嶋宮」があったと考えられるのではないか。ちなみに七世紀初頭の貴重な副葬品が続々と出土している「元岡古墳群」も嶋郡にあたり、近傍に宮殿などの統治施設・統治機構が存在した事は疑い得ないからだ。
 今後の発掘調査に期待したい。(註8)

九、盗まれた「伊勢・篠原・御井」

 以上の分析により、万葉三二三四番歌、三二三五番歌の「伊勢」と「五十師乃原」、御井は本来筑紫糸島の地なる伊勢・篠原・御井であった。万葉編者はこれを筑紫から奪い、三重なる伊勢に見せかけた。しかし本居宣長らの必死の「地名探し」にもかかわらず、ついにその所在を確定することは出来なかった。
 古田氏は筑紫糸島に伊勢を発見されたが、万葉歌の「山辺の五十師の原・御井」も同様に、九州・筑紫、糸島の「聖地」に存在していたのだ。

(資料)『筑前国続風土記』巻二十二 怡土郡染井山
 高麗寺村の内也。染井山霊鷲寺有。其上に熊野権現の社有。 里俗の傳に曰、神功皇后三韓を討給はむとて、此山に臨幸ましゝて、 井のほとりに来り給ひ、異国を討んに勝利を得べきならば、此鎧緋色に染るべし。 若勝事を得ずんば、本の色成べしとて、鎧を井の水に浸したまひければ、忽緋に 染りぬ。其鎧を染給ひし井なりとて、染井と名付て今に在。 (此井は染井の本社へ行道側、谷の方に在。本社より西に當る。其廣は方三尺六寸あり。) 此故に染井山と號す。扨さて右の染給ひし鎧を、山の上なる松木に懸て干給ひける。 此松は鎧懸の松とて、慶長の初迄大木ありしが今は枯てなし。 其松の在し側に緋威の石とて有。其石長五間、高二間、上の平なる處、疊三疊を 敷くばかり、少しかたぶける所又同じ。凡六疊を敷くばかり有。緋威の鎧を懸給ひし松 の側に在故に、緋威の石とは云成べし。又薬師堂の後の山に、旗染松迚大なる松有。 其木の本、周めぐり匝五圍、甚大なる樹也。(略)是は神功皇后旗を染て干し給ひし故に此名有。 (略)此山昔は豊玉姫鎮座ましゝ、上宮中宮下宮とて三所をしめ、神廟*尊くして、さばかり繁栄の地也しとかや。 今は唯其名のみ残れり。(中略)凡此地の風景佳なる事他に異なり。尤遊見して幽賞すべき霊地也。
      廟*は、广編に苗。廟の別字。JIS第4水準ユニコード5EBF

 

 (註1)旧説の整理については北岡四良氏の「山邊乃 五十師乃原--旧説の回顧と批判」(皇学館大学紀要 (五)四八?七三P・一九六七年一月)に負う所が大きい。

 (註2)沢瀉久孝「(山田孝雄氏の)『万葉集講義』にも云はれるやうに伊勢神宮への道としては離れすぎている」(『万葉集注釈』)

 (註3)『神武歌謡は生きかえった』(新泉社、一九九二年)ほか

 (註4)「糸島市水道事業及び下水道事業の設置等に関する条例」による小字では「篠原、篠原西一丁目、篠原西二丁目、篠原西三丁目、篠原東一丁目、篠原東二丁目、篠原東三丁目、井原(作出・鹿我子を除く。)、三雲」と続く。

 (註5)『邪馬壹国の論理』(ミネルヴァ書房二〇一〇年六月古代史コレクション四)

 (註6)古田氏ほかが指摘する、題詞の信頼性が疑われる事例を幾つか挙げる。これらは何れも題詞と内容が食い違い、歌の詠まれた後に付加されたものと考えられる。

 (1).(題詞)天皇、雷岳に御遊しし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首  
  (二百三十五番)大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
   右、在る本に云く。忍壁皇子に献るといへり。その歌に曰はく、
  (二百三十六番)大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます

 (2).(題詞)壬申の年の乱平定しぬる以後の歌二首
  (四千二百六十番)大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
  (四千二百六十一番)大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ

 (註7)神功皇后が卑弥呼と壱予を融合させた存在であることは、『書紀』の記述から明らかであり、こうした故事も本来九州王朝の事績の盗用である可能性が高いだろう。

 (註8)「嶋の宮まがりの池」とあるが、「まがり」とは特色あるな地名だ。
     飛鳥の「勾の池」は「方形池」であり、何故「まがり」か不明だが、前述の「糸島市水道事業及び下水道事業の設置等に関する条例」には「マガタシタ」「マガタの一部」「曲り田・伊勢ヶ浦の一部・大曲」など「まがり」地名が遺存する。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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