2012年4月8日

古田史学会報

109号

1、七世紀須恵器の実年代
「前期難波宮の考古学」
 大下隆司

2、九州年号の史料批判
 古賀達也

3、「国県制」と
 「六十六国分国」
 阿部周一

4、磐井の冤罪 III
 正木 裕

5、倭人伝の音韻は
 南朝系呉音
内倉氏と論争を終えて
 古賀達也

6、独楽の記紀
記紀にみる
「阿布美と淡海」
 西井健一郎

 

古田史学会報一覧

磐井の冤罪 I II IIIIV


磐井の冤罪 III

川西市 正木 裕

一、『書紀』に記す「磐井の乱」は「毛野臣の謀反」記事の盗用

 前号までに、(1).『書紀』に記す磐井の悪行・非行は近江毛野臣の悪行・非行であり、(2).「磐井の乱」の全体が「毛野臣の謀反」記事からの盗用である事を示した。そして、『書紀』記事の再構成によって、盗用元の毛野臣の謀反に関する事件は次のように復元できると述べた。
  i 、継体二四年(五三〇)九月、任那(阿利斯等)が毛野臣の半島における非行について奏上し、これを聞いた天子は調吉士を派遣し毛野臣を召還した。

  ii 、毛野臣は皇華(天子)の使となった調吉士に「今こそ使者たれ」以下の「乱語」を発し拒否したが、今後の懲罰(行迹)についての不安から謀反を企図し、新羅・百済に使者を派遣し謀反加担・支援を求めた。

 iii 、しかし、百済は拒否し使者(奴須久利)を捉え、阿利斯等とともに毛野臣を攻めた。

 iv 、一方新羅は毛野臣を支援し、両者は毛野臣の篭る城を挟んで対峙したが、決着が付かず一旦兵を引いた。その際新羅は加羅の領土を侵犯していった。

  v 、この経緯は調吉士により九州王朝の天子に奏上され、目頬子が謀反鎮圧と対新羅懲罰のため半島に派遣された。

というものだった。
 以上の経緯から見て、その後、毛野臣の謀反を鎮圧し、新羅の侵略から任那を守る戦いが展開されるのは必然だろう。この一連の「近江毛野臣の乱」の顛末が『書紀』では「磐井の乱」にすりかえられたと考えられるのだ。
 以下『書紀』「磐井の乱」記事の細部の検討を進める。

二、磐井討伐の詔の正体

1、継体二一年の磐井討伐詔の条

 『書紀』継体二一年丁未(五二七)条に以下Aの「磐井討伐の詔」と、これに応えるBの「物部麁鹿火の奏上」、CDの「天皇の訓令詔」がある。
A■秋八月の辛卯の朔に、詔して曰はく、「咨、大連、茲惟(これこ)の磐井率はず。汝徂(ゆ)きて征(う)て」とのたまふ。

B■物部麁鹿火大連、再拝(おが)みて言さく、「嗟(あ)、夫れ磐井は西の戎の奸猾(かだましきやっこ)なり。川の阻(さが)しきところを負(たの)みて庭(つかへまつら)ず。山の峻(たか)きに憑(よ)りて乱を称(あ)ぐ。徳を敗りて道に反く。侮り?(おご)りて自ら賢しとおもへり。在昔道臣より、爰(ここ)に室屋に及るまでに、帝を助(まも)りて罰(う)つ。民を塗炭(くるしき)に拯(すく)ふこと、彼も此も一時(もろとも)なり。唯天の賛(たす)くる所は、臣が恒に重みする所なり。能く恭み伐たざらむや」とまうす。

C■詔して曰はく、「良将の軍(いくさだち)すること、恩を施して恵(うつくしび)を推し、己を恕(おもひはか)りて人を治む。攻むること河の決(さ)くるが如し。戦ふこと風の発つが如し」とのたまふ。重(また)詔して曰はく、「大将は民の司命(いのち)なり。社稷(くにいへ)の存亡、是に在り。勗めよ。恭みて天罰を行へ」とのたまふ。

D■天皇、親ら斧鉞(まさかり)を操(と)りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制(とら)む。筑紫より西を汝制れ。専(たくめたまひ)賞罰(ものつみ)を行へ。頻に奏すことに勿煩ひそ」とのたまふ。

2、磐井討伐詔は毛野臣討伐詔だった

  i 、詔の本来の姿
 『書紀』の「磐井の乱」が、毛野臣謀反記事の盗用なら、これらの詔の本来の姿はどうだったのだろうか。
 継体二四年の「任那・百済による毛野臣の謀反討伐」は、毛野臣の抵抗により失敗に終わったと考えられる。
■『書紀』継体二四年九月条「毛野臣、城に嬰(よ)りて自ら固む。勢擒(と)りうべからず」
 そればかりか、毛野臣を支援する新羅に加羅の領土を奪われる結果となった。

■同年同月条「還る時に触路(みちなら)しに、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳、五つの城を抜きとる」

 この状態が放置できるはずはなく、前述 v の通り「目頬子が謀反鎮圧と対新羅懲罰のため半島に派遣された」と考えられよう。
 従ってAの「茲惟の磐井率はず。汝徂きて征て」との詔は、本来「茲惟の毛野臣率はず。汝徂きて征て」という目頬子派遣の際の詔だったと考えられる。

  ii 、背徳・傲慢で道義にもとり乱を称げたのは毛野臣
 その根拠がBの「物部麁鹿火の奏上」にある。
 奏上では「磐井」は「乱を称(あ)ぐ。徳を敗りて道に反く。侮り?りて自ら賢しとおもへり」、すなわち、背徳者で道義にもとる人物であり、かつおごり高ぶる傲慢な人物とされている。
 しかし、『書紀』の調吉士の奏上に『毛野臣、人と為り傲(もと)り恨(いすか)しく(傲慢でねじけている)(略)加羅を擾乱(さわが)しつ。[イ周]儻(たかほ)(不遜で身勝手)に意の任にして、思ひて患を防がず』とある。
■継体二四年冬十月。調吉士、任那より至りて、奏して言さく、「毛野臣、人と為り傲り恨しくして治体(まつりごと)を閑(なら)はず。竟(つひ)に和解(あまなふ)こと無くして、加羅を擾乱しつ。[イ周]儻に意の任にして、思ひて患を防がず」とまうす。故に目頬子を遣して徴召す。〈目頬子は未だ詳ならず。〉
     [イ周]儻(たかほ)の[イ周]は、人編に周。JIS第4水準ユニコード501C

 こうした調吉士の奏上の「毛野臣の人物像」は、全て麁鹿火の奏上の「磐井の人物像」と合致する。

 

 (1).「西の戎」は半島諸国を指す
 ちなみに、磐井を「西の戎の奸猾」と呼ぶが、半島を「西蕃=西の戎」(*蕃は未開の異民族、えびす、蛮とも通じる)というのは神功紀はじめ多くの例がある。(註1)
 そして毛野臣が留まって「意の任」に振舞ったのは任那・加羅、即ち半島だ。
 従って「夫れ磐井は西の戎の奸猾」も「夫れ毛野臣は西の戎の奸猾」、即ち毛野臣は、天子の召還にも応ぜず任那・加羅を騒がせる、「半島(=西蕃)に跋扈するふとどきな輩」と呼ばれるに相応しい人物といえよう。
 結局、Bの「麁鹿火の奏上」も本来は、毛野臣討伐の詔を受けての、毛野臣を非難する奏上だったと考えられる。

 

3、盗用の元記事「大伴金村への詔」

  i 、「道臣・室屋」の業績は大伴氏の業績
 また、Bは「物部麁鹿火の奏上」とされるが、これには大きな矛盾がある。
 奏上の中で賞賛される道臣は大伴氏の祖、室屋は大伴金村の祖父だ。
 「岩波注」も「共に大伴氏の功業を讃えていて、物部麁鹿火の言としてふさわしくない」としている。つまり磐井討伐(*実際は毛野臣と新羅討伐)を命じられたのは物部麁鹿火ではなく大伴金村であってしかるべきなのだ。
つまり「磐井討伐の詔」は「毛野臣討伐の詔」であると同時に、「物部麁鹿火の奏上」は、その内容から「大伴金村の奏上」の盗用と考えなければならない。

  ii 、宣化二年の新羅討伐の詔
 実は、ずばり大伴金村が新羅討伐を命じられた詔が、宣化二年(五三七)「十月」に存在する。ちなみに目頬子派遣も同月の「十月」だった。
■宣化二年(五三七)冬十月の壬辰の朔に、天皇、新羅の任那に冦(あたな)ふを以て、大伴金村大連に詔して、其子磐と狭手彦を遣して、任那を助けしむ。是の時に、磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加(また)百済を救ふ。
■継体二四年(五三〇)冬十月。(略)目頬子を遣して徴召す。〈目頬子は未だ詳ならず。〉

 宣化二年記事に「新羅の任那に冦ふを以て」とあるが、安閑紀と宣化元年・二年にその様な事件の記事はなく、新羅に関する騒乱は、継体二四年の毛野臣をめぐる任那・百済・新羅を巻き込んだ騒乱が最も直近の事件なのだ。(註2)
 さらに、目頬子の出兵目的を、毛野臣がおこした任那の騒乱を鎮め、百済と共同して新羅に対抗する事と考えれば、「任那を鎮め、また百済を救ふ」という記事内容ともよく合致する。

4、筑紫の国政を執った「磐」とは

 ここで注目されるのは「磐」だ。同じ金村の子でも「狭手彦」は『書紀』に度々登場するが、「磐」は全く記されていない。そして、「磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ」とある。つまり「磐」が筑紫国の執政であるという。これは『書紀』継体二一年の磐井の乱の記事中に「筑紫国造磐井」、『古事記』や『筑後国風土記』に「筑紫の君」とあるのと同義の表現だ。

  i 、磐井の漢風一字名は「磐」
 古田氏は『書紀』に引用する『百済本記』の「委の意斯移麻岐彌」(*通説では「やまとのおしやまきみ」と読む)を「委の意斯(いし=石・磐)の移麻岐彌(いまきみ)」と読んで磐井にあてられている。
■『書紀』継体七年夏六月に、百済姐彌文将軍・州利即爾将軍を遣して、穂積臣押山<百済本記に云はく、委の意斯移麻岐彌といふ>に副へて、五経博士段楊爾を貢る。(註3)

 つまり磐井(『古事記』には石井とも記す)は九州王朝の天子であって、その一字名は「磐或いは石」であることになる。

  ii 、詔を発したのは磐井
 また、「大伴金村大連に詔して、其子磐と狭手彦を遣して、任那を助けしむ」とあるが、派遣されたのは狭手彦だから「大伴金村大連に詔して、其子狭手彦を遣して、任那を助けしむ」となろう。そして「天皇」が詔を発したと記すが、「磐」は「筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備」えたとあるからには、彼こそ対新羅戦全体の長に相応しい。
 即ち「磐」は「磐井」の潤色で、大伴金村に命じ狭手彦を半島に派遣した九州王朝の天子だと考えられるのだ。

5、「狭手彦」と「目頬子」

  i 、九州王朝の系譜で「連」は「つら」
 先述のとおり「新羅に対抗し任那を鎮め百済を助ける」という「狭手彦」の派遣の目的が、継体二四年の「目頬子」派遣の目的と合致するなら、「目頬子」は「狭手彦」を指す事となる。

 「目頬子」は不詳とされるが、九州王朝の系図とされる高良山の大祝家に伝承された古系図(明暦・文久本)によれば、九州王朝の天子に「連」がつき、その読みは「むらじ」ではなく「つら」であるという。(註4)
 「目頬子」の「頬(つら)」なのだ。(註5)
 また「目」は「人の主となる者。かしら(*「頭目」など。『漢字源』)」とされる。そして大伴金村は安閑紀に天皇から「大伴の伯父」と呼ばれた記事があるなど、天子に極めて近い「臣下ナンバーワン」である事は疑えない。
 つまり「臣下の頭目大連の子供」たる狭手彦にふさわしい呼称なのだ。
 しかも彼は度々渡海して高句麗・新羅と戦っており、継体二四年の有事に際しても派遣された可能性は十分にある。「狭手彦」について、岩波注はこう記す。
■欽明二三年八月条に高麗を破ったと見えている。三代実録、貞観三年八月十九日条の判善男の奏状にも金村の三男で、宣化・欽明両朝に再度渡海して功を立てたとある。狭手彦の出発に際し、肥前国松浦郡での佐用媛との別離の伝説が、肥前風土記松浦郡条や万葉集八七一~八七五に見えている。

  ii 、「良将の軍すること」以下について
 そして、Cの磐井討伐の詔(「良将の軍すること」以下)は、「将たる者」への「心がけ」であって、天子本人より遥かに軍事経験を積んだ金村への言葉とは思えない。その点「狭手彦」なら「宣化・欽明両朝に再度渡海」「欽明二三年に高麗を破った」とあるから、継体二四年は彼の初陣だったと思われる。
Cは金村が、「将として」始めて半島に派遣されるわが子「狭手彦=目頬子」へ、将としての心がけを説いた言葉と考えられるのではないか。
 即ち「天皇」とあるのは金村、大連は狭手彦の潤色であれば、百戦錬磨の金村に、改めて将軍の心得を説く不自然さが解消するのだ。

6、「長門より東をば朕制む。筑紫より西を汝制れ」の意味

  i 、本当に「領土分割の詔」なのか
 詔Dのこのフレーズは、継体と麁鹿火の領土分割案と考えられてきた。しかしこれを素直に解釈すると、磐井の領土は長門以東にも及んでいた事となり、磐井支配地は筑紫・豊・肥という『書紀』の建前からも矛盾する。
 「制」とは「天下を制す」という様に「抑える・取り仕切る・取り締まる・命令する」と多様な意味がある。従ってここも「天皇」は金村、大連は狭手彦の潤色で、金村が狭手彦に「東国は私が仕切るから、筑紫以西即ち半島の軍事は狭手彦が取り仕切れ」と指示した内容なのではないか。
 「頻に奏すことに勿煩ひそ」に、親に頼らず自分で判断し行動せよとの親心を感じるのは思い込み過ぎか。

  ii 、東国における大伴金村の任務
 それでは「金村が東国を制する・取り仕切る」事の意味は何か。
 それは東国からの徴兵と物資調達、つまり「徴用」だ。半島の戦に東国の兵士が大量に動員された事は東歌他で知ることが出来る。
 更に、大規模な軍事行動には必ず軍事物資の確保が必要となる。現に『書紀』安閑紀には東国に多くの屯倉が設置された記事があり、こうした屯倉設置を担ったのが大伴金村だった。
 金村は、安閑元年十月に小墾田屯倉・桜井屯倉・茅渟山屯倉を天子の妃のために献上させている。また同年閏十二月には東国に赴き、強引に三嶋・河内の田地を貢がせている。(註6)
 これこそ「東国諸国を動員して戦時体制に協力させる」すなわち「長門より東をば朕制む」という金村の任務だったのではないか。

7、筑紫への軍事物資集積

 九州王朝の、「東国諸国を総動員した軍事態勢の確立」の実際が『書紀』に記されている。
 宣化二年(五三七)冬十月の狭手彦派遣記事の直前には東国の屯倉の穀物を筑紫に運ばせるとともに、九州の屯倉の穀物を那津の口(博多湾)に集積している。
■『書紀』宣化元年(五三六)五月辛丑朔に、詔して曰はく、「食は天下の本なり。黄金万貫ありとも飢を療すべからず。白玉千箱ありとも、何ぞ能く冷を救はむ。夫れ、筑紫国は、遐(とお)く邇(ちか)く朝で届る所、去来の関門所なり。是を以て、海表の国は、海水を候ひて来賓き、雨雲を望りて貢(みつ)き奉る。胎中之帝(応神天皇)より、朕が身に泪(いた)るまでに、穀稼(もみいね)を収蔵(おさ)めて、儲糧を蓄へ積みたり。遥に凶年に設け、厚く良客を饗す。国を安みする方、更に此に過ぐるは無し。故、朕、阿蘇仍君〈未詳也。〉を遣して、加(また)、河内国茨田郡屯倉の穀を運ばしむ。蘇我大臣稲目宿禰は、尾張連を遣して、尾張国屯倉の穀を運ばしむ。物部大連麁鹿火宜は、新家連を遣して、新家屯倉の穀を運ばしむ。阿倍臣は、伊賀臣を遣して、伊賀国屯倉の穀を運ばしむ。官家を那津の口に修り造てよ。又其の筑紫・肥・豊三国の屯倉、散れて懸隔に在り。運び輸さむこと遥に阻れり。儻如(も)し須要(もち)ゐむとせば、以て卒に備へむこと難かるべし。亦諸郡に課せて分り移して、那津の口に聚め建てて、非常に備へて、永ら民の命とすべし。早く郡県に下して、朕が心を知らしめよ」とのたまふ。

 「食は天下の本なり」というなら朝廷の存在する大和・飛鳥にこそ備蓄されるべきではないか。「遥に凶年に設け、厚く良客を饗す」る為とはあるが、何故筑紫にほぼ全土から食糧を集積させるのか。
 これは紛れもなく筑紫こそ倭国の中心であり、かつ「那の津」に集積するというのは半島との一大決戦に備えた軍事備蓄の指令と考えられよう。
 しかも天子(朕)が直接派遣する阿蘇仍君は、未詳とあるが、九州・しかも磐井の本拠とされる「豊・肥」の「肥国」の豪族の可能性が高い。この指示も磐井の指示なのではないか。

8、盗用された磐井の詔

 結論として磐井討伐の詔は毛野臣・新羅討伐の詔であり、九州王朝の天子「磐=磐井」から大伴金村に発せられたもので、物部麁鹿火の奏上記事の本来は、これに応える金村の決意と三男狭手彦への指示と考えられるのではないか。
 『書紀』編者はこれらの記事を九州王朝の史書から盗用し継体紀に入れ込んだ。そして九州王朝の天子磐井と近畿天皇家の天皇を入れ替え、磐井討伐の詔のように見せかけた。
 ただ宣化紀に、磐井を金村の子と潤色してではあるが、九州王朝磐井の半島派遣の真実の一端を覗かせたのは、編者のぎりぎりの良心だったとも考えられよう。

 

(註1)『書紀』での半島諸国を西蕃とした事例は「今より以後、永く西蕃と称し、朝貢を絶さず」ほか「常称西蕃、春秋朝貢」「永為西蕃、終無弐心」など、、西の国としたのは「朕西欲求財国」「躬欲西征」「海西諸韓」「平定海西、以賜百済」などがある。

(註2)継体二四年の半島の騒乱記事には、毛野臣ほか任那王阿利斯、百済・新羅が当事者として記されている。『書紀』によれば毛野臣は任那の久斯牟羅に居していた。それは任那を舞台とし「傷れ死ぬる者半なり」「五つの城を抜きとる」といった大規模かつ重大な騒乱事件だった。

(註3)「倭(委)」は「ゐ」であり「井」と同音。また「倭」を「ちくし」と考えるべきことは古田武彦『古代史再発見』第二回「王朝多元ー歴史像・『古事記』の倭」一九九八年九月二六日豊中解放会館)による。

(註4)同古系図で「連」を「つら」と読むことについては、古田武彦「高良山の『古系図』ー『九州王朝の天子』との関連をめぐってー」(古田史学会報第三五号・一九九九年十二月)に以下のように記す。

     「第五、右の『九子』中の第二子『朝日豊盛命神』を『元祖』として、この『古系図』は展開している。それらはいずれも、末尾が『連(つら)』(『むらじ』ではない。)という称号で結ばれている。」

(註5)なお「頬(つら)」は「連(つら)」ではないかとの仮説は二〇一一年十一月古田史学会関西例会でご教示を得たものである。

(註6)こうした屯倉設置が、宣化二年(五三七)の狭手彦派遣と関連して記述され、かつ狭手彦派遣が本来対新羅戦の為の目頬子派遣記事(継体二四年・五二九)であるとすれば、全国的な屯倉設置は対新羅等半島での戦への備えであり、継体・安閑・宣化期(概ね六世紀前半)を通じて実施されたと考えられよう。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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