生涯最後の実験 古田武彦(会報88号)
時の止まった歴史学 -- 岩波書店に告ぐ 古田武彦(会報95号)
仏像論
一
異形の仏像がある。ガンダーラの一角、シクリ出土の片岩だ。高さ八四cm、二cm三世紀頃の作品とされている。結跏趺坐の座像だが、「釈迦苦行像」と呼ばれている。
眼窩はくぼみ、全身に肋骨がくまなく露出し、痩せ細った肉体に血管の筋まで浮き出して見えている。
「釈迦は、このようにまで苦しい修業をつづけられたのだ」というメッセージがこめられているのであろうけれど、他に類例がない。
このガンダーラ地方の二~三世紀といえば、天下に誇る大乗経典の数々が産出された「ところ」と「とき」であるけれど、それらの経典に描かれた釈迦像とも(矛盾はしないものの)異なっている。
これほどの作品だ。ただ、一人の仏師の一人だけの思いつきとは思われない。必ず、一個の流派があり、その流派の中の「同類の作品」も存在していたであろうけれど、伝わっていない。孤立した存在なのだ。
だが、ひとたびこれを「見た」者は二度と忘れることがないであろう。
(1) 並河萬里写真集『ガンダーラ』、岩波書店、一九八四より。
二
逆の経験をした。現代の方(女性)の手による、現代の作品だ。しかも鉛筆書きの精密な作品なのである。北郷萌祥さんの作品だ。
年譜のプロフィールによると、一九五一年に鹿児島県薩摩川内市平佐町に生まれた、とのことであるから、わたしから見れば、まだお若い。
一九九七年に、独学で鉛筆による仏画「彫り絵」(オリジナル)を始め、鉛筆による「直線画」(二〇〇六年)、色鉛筆と墨による「彩筆画」(二〇〇八年)へと進まれた。
岡原大華、野島浅三、笹川春艸、桝平素雪の諸氏を師とされているが、右はいずれも御自分の「オリジナル」の世界を切り開かれたもののようである。
わたしがこの方の画に接したのは、今年(二〇〇八)の五月、鹿児島市の片平美術館(館長・片平武三氏)を訪れ、四日間にわたって滞在していたときだった。直接の目的は同館所蔵の「銅板鋳出地蔵菩薩像」「聖徳王二年奉行銅製般若心経」「観世音経金板経」の熟視、精写にあったのであるが、偶然この北郷さんの「鉛筆画」にふれ、驚嘆した。
そこには、作者の仏像に対する「思い」が満面にこめられていたこと。しかも御当人がその晩年において、「独学」でこれらの鉛筆画を“創造”しはじめられた。この二点だ。
現代の日本は一面において“醜悪さ”に満ちながら、その反面においてこれだけの「独創」を産出しうるような地帯なのである。わたしはそれを改めて確信した。
(2) 北郷萌祥、東京都大田区久が原 五 - 二二 - 三
三
しかしながら本稿の目的は、いわば孤立的な二つの作品を紹介するためではな
い。反対に、これまで仏像としてイメージされてきたほとんどすべての作品には「釈迦の画像」として、大きな「?」がある。この一点を指摘したいのである。 ーーそれは何か。
わたしはこのように聞いている。
釈迦はヒマラヤ山脈のふもと、現在のネパール南部のカピラ城を中心にサーキヤ族の小国があり、その浄飯(じょうぼん)王の長子として生まれた。サーキヤ族出身の聖者(ムニ)の意から、釈迦牟尼と呼ばれた。姓はゴータマ、名はシッダッタ(悉達多)。普通名詞「悟った人」(覚者)を固有名詞化して「ブッダ(仏陀)」と呼んだという。
生年は、前六二四年説と前五六〇年説(南伝)があるが、前四六三年説(北伝)ともある。不明だ。
一八九八年にネパールの南境で発見されたアショカ王の碑文によって、時代(前三世紀以前)や誕生地(ルンビニー)が確認されたという。
伝えられるところでは、妻はヤソーダラ(耶輸陀羅) 、一子はラーフラ(羅[目侯]羅 らごら)と言う。二十九歳のとき、王子の地位と妻子を捨て、王城を出た。いわゆる「出家」である。
[目侯]は、JIS第3水準ユニコード777A
ガンジス川を渡り、当時高徳とされた仙人たちをたずね、そのいずれにも満足せず、身体は骸骨のようになったが、ついに川のほとりの菩提樹のもとで「成道」をとげた。「三法印」「四諦したい」「八正道」などの名で呼ばれている。クシナガラで没した。
右が、通解とされている彼の生涯だ。
四
右によれば、彼の生涯の真の出発時は「出家」の二字にあった。これは疑いがない。これがなければ、その一生は凡庸なる一小国の国王に過ぎなかったであろう。人類の運命、その歴史に記憶されることもなかったのである。
しかし問題は、いわゆる「出家」の中味だ。単に、自分の家庭を“はなれた”、そんなものではない。ハッキリ言えば、彼は三つの裏切り、に踏み切ったのである。
第一に「国家への裏切り」だ。
小なりといえども、彼の国家は彼に期待していた。期待していたからこそ、彼が生まれて以来「王子」としての地位と生活を保障し、これを提供しつづけてきた。それを裏切った。父の国王や全国民に対する「裏切り」という他はない。
第二は「妻への裏切り」だ。
妃となったヤソーダラは彼のいとこで、十六歳のとき結婚したというけれど、ヤソーダラは将来、夫は国王になる人と信じて結婚した、あるいはさせられたのであり、「出家」するなどとは、夢にも思わなかったにちがいない。その「妻への裏切り」であったこと、疑いがない。大変な「迷惑」であり、人生の「蹉跌」であったであろう。
第三に「子供への裏切りだ」。
息子の羅[目侯]羅にとって、生まれたあと、父親が自分を棄てることなど、予想もできなかった。
「そんなつもりなら、おれを生んでくれるな」と、無責任な父親を呪ったことであろう。息子自身のせいではなく、その生涯に大激変を与えられたのだからである。文句のつけようのない、弁解のしようもない、「一大裏切り」だ。父親としての無責任極まりない。そう非難せられても、彼には一言の弁解の道はなかったであろう。
これが彼の「出家」の実態なのである。
五
後世の仏教界で、この「出家」の語が使われるとき、いささか、または大変な「用語のズレ」があるようだ。
あるいは、貴族が晩年「役職の責任」をのがれて、気楽な身分になるための口実の二字であり、あるいは実生活の失敗やわずらわしさをはなれて「安定した別世界」に生きるための“便利な口実”だったりすることも、少なくない。
少なくとも、代々の天皇が「出家」して「~法王」などと称するとき、当人にはそれが「国家への裏切り」だなどとは夢にも思わなかったであろう。
もちろん、自分の夫や子供を捨て、新たに「出家」の道をえらんだ人々もある。その人の場合は「夫への裏切り」や、「子供への裏切り」は骨身に沁みていたことであろう。しかし、「国家への裏切り」とは関係がない。だから、たとえば国家からの“恩賞”を受け取ることも、「出家」とは別事だ。釈迦とは「出家」のスケールを根本において異にしているのである。
問題は次の一点だ。いわゆる「仏像」が本当に“釈迦の肖像”であるとすれば、そこにはあの「三大裏切り」が表現(二字傍点)されているかどうか ーーこれがわたしの「仏像」に対する、根源的な「?」なのである。
六
ハッキリ言って、わたしはそのような仏像を見たことがない。すべて「円満至極なお顔」「百徳兼備の柔和の相」の類だ。いずれも“結構”は“結構”でも結構すぎる「お顔」なのである。
それはそれでよい。釈迦の「成道」後の理想を示したものだからだ。
三法印→一切皆苦・諸行無常・諸法無我(のち涅槃寂静を加え、一切皆苦を除く)。
四諦→苦諦・集諦・滅諦・道諦
八正道→正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定
また、無記・法・五蘊・六入・縁起・涅槃・平等等の“理想”の表現でもあろう。
それもよい。さらに法華経や大無量寿経などの各大乗経典の説くところ、その「理想の表現」としての「仏像」もあろう。それはそれでよい。わたしにはこれを難ずるところは、一切ない。
それらは「仏教教団のための仏像」だからだ。必ずしも「釈迦その人の、リアルな肖像」を目指したものでは、本来ないのだからである。
七
わたしは思う。釈迦にとって「三つの裏切り」は、生涯の刻印だった。あれやこれやの「成道」によって「解消」されたはずはない。もし、彼が“解消した”と称するなら、“偽せ者”だ。とんでもない“世をかたる”詐欺師以外の何者でもない。
わたしは信ずる。彼の生涯、その死の一瞬に至るまで、みずからの「三大裏切り」を彼は“忘れた”ことはない、と。それを貫き通したこと、その一点にこそ彼の面目はあった。
なぜなら、彼は二度と王城に帰らず、「出家」の身を以て生涯を終えた。あの「ガンジスを渡った」生涯の決断を、彼は一瞬も忘れたことがなかったのである。
八
人間の顔は、その人の生涯の表現である。 ーーこの金言が正しいならば、当然、釈迦の顔は「三大裏切りの男の顔」でなければならない。しかし、わたしはいわゆる「仏像」の中に、そのような「顔」を見たことがない。
思うに、それは「真実の釈迦の顔」ではなく、「現代教団が、教団のために望んだ、教団の顔」だからであろう。先述したように、それはそれでよい。私は一切それを難じるつもりはない。
しかし、わたしは欲する、本当の「釈迦の顔」を。現代日本の肖像家たちには、この前人未到の難事業に挑戦する志はないか。人類は今まで肝心の、その一事を欠いたまま、現在にいたっていたのである。醜悪に満ちた現代の日本こそ、この宗教史上未曽有の独創群のなしとげらるべき希有の「とき」と「ところ」なのである。
(3) 本稿ののち、水野孝夫氏より教えていただいた、他のパキスタン出土「釈迦苦行像」(シルクロード博展示品など)を参照した。続編で触れる。
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