2009年 6月15日

古田史学会報

93号

1,仏像論
  古田武彦

2,壬申の乱の謎
  今井俊圀

3,伊倉 十
天子宮は誰を祀るか
  古川清久

4,彩神(カリスマ)
 梔子(くちなし)
  深津栄美

5,「白雉二年」銘
奉納面メール論談
大下隆司/正木裕

6,古田史学の会
 定期会員総会
  の報告(略)

古田史学会報一覧

講演記録 壬申の乱の大道 古田武彦へ


壬申の乱の謎

千歳市 今井俊圀

 はじめに

 私たち「古田史学の会・北海道」のメンバーは、毎月第二土曜日と第四土曜日に勉強会を行なっていますが、古田先生の『壬申大乱』と『日本書紀』の「壬申の乱」の勉強の過程において浮かび上がった、幾つかの私なりの仮説について報告したいと思います。
 話は少々古くなりますが、それは二〇〇四年の四月の勉強会の時でした。古田先生は『壬申大乱』の中で、『万葉集』巻二の一九九歌「高市皇子尊の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌」に出てくる「香具山の宮」は「神山の宮」で朝倉郡杷木町にある「麻氏*良布神社」、「埴安」は「垣安」で「神聖なる夜須」で朝倉郡夜須町、「明日香」は小郡市大字井上の字「飛鳥」(ひちょう)、「渡會の齋の宮」は前原市雷山の「雷神社」、「神風」は「神ヶ瀬」で前原市「神在」や「伊勢浦」等、「和[斬/足]が原」が百済の戦場になっている「わざみが原」であるとされています。しかし、九州の福岡県にそれらの地を比定されているのにも拘らず、「吾妻の国」は「上毛野君の国」(群馬県)を中心にした関東であるとされ、また、「不破山」については明確にはされていませんが、おそらく従来説の「関が原」付近の山とされていて、この二ヶ所に関しては、余りにも離れすぎていて何か違和感があると、我が会の鈴木事務局長から問題提起がありました(私は「和[斬/足]が原」も離れすぎていると思いました)。古田先生がこの歌は「壬申の乱」を詠ったものではないことを論証されたにもかかわらず、この歌が「壬申の乱」の謎に迫る発端になったのです。
     麻氏*良布(までらふ)の氏*は、氏の下に一。JIS第3水準ユニコード6C10
     [斬/足]は、斬の下に足。JIS第4水準ユニコード8E54

  「不破」の発見

 まず、「不破」ですが、天武は六月二十二日に「諸軍を差し発して、急に不破道を塞げ。朕、今発路たむ。」と最初の命令を発してから、二十四日に「駅鈴」を乞わせに大分君恵尺等を「留守司」の高坂王の元へ遣わします。そして天武自身は吉野(従来説は奈良県の吉野、古田先生は佐賀県の吉野)を出発し、二十五日に伊勢の鈴鹿そして三重郡家を経て、二十七日に「不破」に入ります。そして、二十九日に大伴連吹負等が兵を挙げ、留守司の高坂王等を捕虜にして制圧したと、「不破宮」にいる天武に使いを出して報告します。その制圧した地については「書紀」には何も記述がありませんが、留守司のいた場所ですから、当然、古田先生が主張されている「太宰府」ということになります。そうなると、「不破宮」も当然、九州にあったと言うことになります。何故なら、大伴連吹負は「太宰府」を制圧し、そのことをその日の内に「不破宮」にいた天武に報告しているからです。「太宰府」から岐阜県関が原町の「不破宮」まで、その日の内に報告することは不可能です。
 「書紀」の記す地名については、まだほとんどが検討中の段階なのですが、一つだけ分かった所があります。それは「三重」です。『和名抄』の筑後國山本郡の三重郷があり、その所在地については不明とされていますが、山本郡は現在の久留米市の山本町から草野町にかけての一帯とされています。そして、郡衛は久留米市草野町吉木字吉ノ尾にあったという説もあります。「不破」は久留米市の草野町の近くにあるということになります。以前は、単に筑前と筑後の境にあるのではと思い、佐賀県の「基山」付近を候補地としていました。「基山」付近は筑前と筑後の境にあるのは勿論ですが、「基山」の南麗、基山町大字小倉字蛇谷に「三国境石」があります。これは筑前国・筑後国・肥前国の境を示した石で、江戸時代の文化二年(一八〇五年)に建て替えられたものとされていますが、古代でもここが三国の境界であったことには変わりはありません。更に少し北にある筑紫野市原田からは、筑穂町から筑豊方面へ抜ける道があり、甘木朝倉方面から太宰府方面へ通じる道が交錯します。この辺りは古代から交通の要衝の地であり、天武が「道を塞げ」と命令を発するに値する地なのですが、残念ながら「基山」=「不破山」を示す資料が見つからなかったのです。しかし最近になって、この「不破」は「浮羽」と関係があるのではないかと考えるようになりました。つまり、「浮羽」→「ふは」→「不破」と変化させたのではないかと。「浮羽郡」(現うきは市)は明治になって「生葉郡」から変わったもので、『和名抄』でも「生葉郡」でした。しかし、「景行紀」には「八月に、的邑に到りて進食す。是の日に、膳夫等、盞を遺る。故、時人、其の盞を忘れし処を号けて浮羽と曰ふ。今的と謂ふは訛れるなり。」とあります。七世紀に「浮羽」の地名が使用されていた可能性もあります。「不破宮」がどの辺りにあったかは不明ですが、仮に、うきは市浮羽町浮羽辺りにあったと仮定すると、その周辺には古墳時代の中期から後期とされる装飾古墳が多数あるのです。うきは市吉井町富永には珍敷塚古墳・原古墳・鳥船塚古墳・古畑古墳、同町若宮に日岡古墳・月岡古墳、うきは市浮羽町朝田に楠名・重定古墳・塚花塚古墳等々で、この周辺には有力豪族がいたことが想像出来ます。もしかしたら、天武の本貫地はこの辺だった可能性があります。だから天武は、この「浮羽」方面に向かう道を封鎖するように命令したのかもしれません。
 さて、前述の通り、六月二十九日に大伴連吹負等は「倭京」を制圧し、その日の内にそれを「不破宮」にいた天武に報告しています。従来説だと、奈良県明日香村から岐阜県関が原町までは、直線距離にしても約一四〇kmあり、とても一日では踏破出来ない距離で、この一事をもってしても「壬申の乱」が近畿で行われたとは考えられないのです。一方、古田先生の主張される「倭京」=「太宰府」と、私が考える「うきは市浮羽町浮羽」辺りの間は、直線にして約三十kmであり、充分可能な距離なのです。このように見てくると、「和[斬/足]」もこの「浮羽」の近くにあると考えられます。

  「東国」のなぞ

 次に、「吾妻の國」です。私は「天武紀」の「壬申の乱」を勉強していておかしなことに気が付いたのです。それは、前述の通り、天武が二十二日に「不破道を塞げ。朕、今発路たむ。」と命令を発し、二十四日に大分君恵尺等を「留守司」高坂王の元へ遣わせた記事に続き、「是の日に、途発ちて東国に入りたまふ。」とあるのです。そしてその日は、
 津振川   奈良県吉野町津風呂
 莵田の吾城  〃 大宇陀町
 甘羅村    〃 大宇陀町神楽岡
 大野     〃 室生村大野
 隠     三重県名張市
 伊賀の中山  〃 伊賀市
 と歩き、二十五日の夜明けに刺*萩野(三重県伊賀町)に着きます。そして、二十五日は
     刺*萩野の刺*は、草冠に刺。JIS第3水準ユニコード83BF
 刺*萩野   三重県伊賀町
 積殖の山口  〃 伊賀町
 伊勢の鈴鹿  〃 鈴鹿郡
 川曲の坂下  〃 鈴鹿市山辺
 三重郡家   〃四日市市采女町
 と進みます。これらの地がはたして「東国」(あづまのくに)と言えるでしょうか? 古田先生の主張される群馬県を中心にした関東はおろか、従来説の美濃や尾張等の関が原以東の国にも入らない、近畿の奈良の都に近い言わば地元ではありませんか。「孝徳紀」の大化二年正月の「改新の詔」の第二条には、「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以東、南は紀伊の兄山より以来、西は明石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。」とあります。「天武紀」もこの畿内の範囲を前提にして書かれているはずです。そうすると、「津振川」から「隠」までは畿内であり、「東国」などではありません。しかし、「書紀」はこれらの地を「東国」と記しているのです。これは、これらの地が「近畿」ではなく別の所にあると言う、「書紀」のサインなのではないでしょうか?しかも、この「吉野」(奈良県の)から「刺*萩野」(三重県伊賀町)までの距離は約八十kmです。この間の天武たちの動向を見ると、まず「駕を待たずして行す」とあり、全員徒歩で出発しました。途中で「県犬養連大伴の鞍馬に遇ひ」とあり、ここで天武が乗馬します。その時に「皇后は、輿に載せて従せしむ」とあり、妃莵野皇女は輿に乗ります。そして一日中乗っていたと記されています。次に津振川に至って、草壁皇子と忍壁皇子が乗馬します。舎人の朴井連雄君等付き従っていた者二十有余人、女孺十有余人は依然徒歩です。そして、莵田の郡家のほとりで米を運ぶ伊勢国の駄五十匹に出会い、「歩者を乗らしむ」とあり、妃莵野皇女以外の全員が乗馬します。ここで問題になるのが輿に乗った妃莵野皇女です。例え全員が乗馬しても、皇女が輿に乗って行くのであれば、それに合わせて行くのですから一日中徒歩で行くのと同じなのです。例え一昼夜歩きづめで歩いても八十kmを歩くことは不可能です。しかも、夜中の真っ暗な伊賀の山道を歩くのです。絶対に不可能です。
 このことから考えても、この「壬申の乱」が近畿や東海を舞台にしたとは到底思えないのです。近畿や東海を舞台としたのなら、「三森論文」で否定された「騎馬行程」を始め、「書紀」は何故あれ程までに詳細に、実現不可能な行程記事を記さなければならなかったのでしょうか?(我が「古田史学の会・北海道」の鶴代表の疑問)。遠く離れた関東や九州ならいざ知らず、奈良の都にいる人たちや近畿天皇家の支配下にある人たちならば、近畿や東海を舞台にしたのなら実現不可能な行程記事であることは、容易に分かるのではないでしょうか?「書紀」を作成した舎人親王を始めとして、実際に実務を担当した近畿天皇家の官僚たちは、そんなにも愚かだったのでしょうか?私にはそうは思えません。あくまでも推測に過ぎませんが、「書紀」を造った人たちもそれを見た人たちも、「壬申の乱」が近畿や東海を舞台にしたものではなく、九州を舞台にしたものであることを知っていたのではないでしょうか。それ故、九州での行程がそのまま記されたのだと思います。
 それでは、九州を舞台にしたら可能なのでしょうか? 答えはイエスです。『和名抄』の筑後国には「上妻郡」・「下妻郡」・「三潴郡」があります。「あづま」の「あ」は地名接頭語と考えると、「東国」は「つまの国」なのです。(「三潴」は「みぬま」とされていますが、私はそこも「つまの国」に含めて良いと考えています)。「吉野ヶ里」から筑後川を南に渡ると、そこはもう筑後の「吾妻の国」なのです。出発したその日の内に「東国」(あづまのくに)に入るのは可能なのです。そして、「吉野ヶ里」から「三重」である久留米市の山本町から草野町辺りまでは、直線にして約二十km、途中の地についての比定がまだなので、どの様な道程で進んだのかは分かりませんが、遠回りしたとしても、約三十km。筑後川を渡ることを考えても、二日間で徒歩で進む距離としては妥当な距離ではないでしょうか。

  二つの「近江京」

 このように考えてゆくと、大友皇子のいた「近江京」も九州の何処かにあったと考えざるを得ません。大分君恵尺たちは、六月二四日に吉野を出発してから、「倭京(太宰府)」へ行き「駅鈴」を求めて得られず、近江へ行き大津皇子を救出し、二五日の夜半に鈴鹿の駅に到着します。吉野ヶ里を出発してから、太宰府を経由して滋賀県の「近江京」へ行き、そこからとって返し、久留米市付近(多分その付近に「伊勢」があったと考えられます)へたどり着く行程をたった二日で行う事は不可能です。やはり、「近江京」は九州にあったと考えるのが自然です。その事をずっと考えていてふと思ったのです。「古田史学の会・九州」代表の力石厳さんの発見と関係があるのではないかと。
 力石さんは、イザナギが黄泉の国から逃げ帰り、禊をして天照たちを生んだとされる「竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」(古事記)について、その地は現在の福岡市西区小戸二丁目の「妙見岬」の前の海中にあるとされています。「竺紫の日向の橘の小戸」までは、古田先生も『盗まれた神話』において、博多湾岸西部、姪の浜付近に小戸神社があると論証されていますが、力石さんは更に詳細に研究をされています。それによると、現在は小戸一丁目から五丁目までとかなり広い範囲を指す地名となっていますが、本来の「小戸」は小戸二丁目にある「小戸公園」の北側を指す地名であることを法務局へ行き確認したこと。また、「小戸大明神」のある岬とそれに向かい合った「妙見岬」は海に突き出した切り立った岬(立ち鼻、すなわち橘)であり、その間にある現在は陸地になっている部分は、かつて狭い入り江であったこと。(つまり「小戸」、二〇〇〇四年十一月十五日に力石さんのご案内で我が会の仲間と共に現地を見学した折に、今でも潮の高い時は陸地のかなり奥にまで波しぶきがかかっている形跡を確認しました)。そして、「妙見岬」の西側の今は海中に没している部分が、かつて「御膳立」と呼ばれた野球が出来る位の広さを持った陸地であり、そここそが「阿波岐原」であるとされています。その「御膳立」で、大正時代に野球をして遊んだことがあると、力石さんに語ってくれたその付近のお年寄りがいたとのことですが、私たちが「妙見岬」を訪れた時、そこにある「妙見神社」にいた霊能者グループの中の一人の年配のご婦人が、「御膳立」のことを知っていて証言してくれました。尚、その陸地が海中に没した訳は、かつてその地下には炭鉱があり、その崩落によるものではないかとするのが力石さんの見解です。この「御膳立」について、『筑前國續風土記拾遺』の早良郡上の「小戸大明神」の条に、「又海涯に御膳立といふ所あり。礒岩の形若干の膳椀を置並へたる如し」とあり、『筑前國續風土記付録』にも記述があります。
 私はその話を思い出し、「阿波岐原」の前の海が「あはみ」すなわち「淡海」・「近江」ではないかと考えたのです。木村賢司さんは、「古田史学会報」No.三八の中で、この「淡海」は博多湾・玄界灘・有明海の何れかにあるのではないかとされています。また、新庄智恵子さんは、『謡曲のなかの九州王朝』の中で、「淡海島」とは「淡海にある島」ということで、今津湾の北にある「能古島」であるとされています。私は、「近江宮」は西区愛宕二丁目にある「愛宕神社」が有力ではないかと考えていましたが、「愛宕神社」には「宮」伝承がありません。ところが、『筑前國續風土記拾遺』の「早良郡上」の「白髭神社」の項には、「本浦に在。闔嶋の産神なり。所祭住吉三神 志賀三神 神功皇后なり。板浪氏奉祀す。 中略 社北二町はかりに旧宮と云地あり。古昔宮ありし所といふ。」とあり、福岡市の能古島に「宮」伝承があったのです。「近江宮」は能古島にあり、「近江京」は姪の浜辺りにあった可能性があります。
 では、天武の出発点を「吉野ヶ里」とし、「倭京」を「太宰府」とし、「近江京」を「今津湾」周辺とした場合の距離はどうなのでしょうか?
 吉野ヶ里→太宰府  約三〇km
 太宰府 →姪の浜  約三〇km
 太宰府 →久留米市 約二五km
 吉野ヶ里→太宰府→姪の浜→太宰府→太宰府・久留米市間にある伊勢の鈴鹿  約一一五km
 この行程を二日で行っているのだから、一日あたり約六〇km弱となり、太宰府と近江京でそれぞれ馬を乗り換えのことが出来たなら、「三森批判」にも充分に答えられる距離ではないでしょうか。
 この様に考えてくると、「天智紀」の記述が問題になってきます。天智六年には「三月の辛酉の朔己卯に、都を近江に遷す」とあり、七年には、「春正月の丙戌の朔戊子に、皇太子即天皇位す」とあります。しかしながら、『海東諸国記』の斉明天皇の条には、「七年辛酉、白鳳と改元し、都を近江州に遷す」とあります。私は、この『海東諸国記』の記事は、九州王朝の天子である女帝の斉明の死後、福岡市西区の姪の浜付近にあった「近江京」に都が移された九州王朝の話で、「天智紀」の話は近畿王権の「近江京」(滋賀県大津市?)の話ではないかと考えています。

  まとめ

 「壬申の乱」を仔細に検討すると、前述のように、六月二十九日に大伴連吹負等が倭京を制圧し、そのことをその日の内に「不破宮」にいた天武に報告している件もそうですが、七月四日、大伴連吹負は乃楽山(奈良市北方の丘陵地帯)で近江軍と闘い敗走し、その後、八口(不明)、墨坂(奈良県宇陀郡榛原町西方の坂)、金網井(不明)、当麻(奈良県葛城市當麻)と移動し、葦池の辺り(不明)で近江軍の壱伎史韓国と闘い勝利した後、古宮(飛鳥)に戻ったと記されています。この間の距離は約七〇kmもあり、二度も戦闘をした上に、一日で移動することは不可能です。これらの話を筆頭に大和方面で行われたとされる戦闘記録には、時間的・距離的に無理があるのです。一方、近江方面で行われたとされる戦闘記録の方は、時間的にも距離的にも妥当な状態なのです。これは、大和方面とされるものは、九州で起こった九州王朝内部の権力闘争で、それに勝った天武が九州王朝の実権を掌握した話で、近江方面のものは、天武が更に近畿王朝の実権をも掌握した時の話で、『日本書紀』の「壬申の乱」の記述は、この二つの別々の出来事を一つにまとめたものではないでしょうか?
 そして、「天武紀」があれ程詳細に、あたかも近畿で「壬申の乱」が起こったかのごとく記した理由は、天武が近畿王権の天皇ではなく、九州王朝の天子(「白村江の闘い」の後なので、唐が天子とは名のらせないので、多分倭国王)であり、その天武が近畿王権をも制圧して実権を握った為であり、持統・文武・元明と「書紀」を作った元正たちが、天武の直系の後継者であるからではないでしょうか?
 いずれにしても、謎が益々深くなった様に思います。

 最後に、「古田史学・九州」代表の力石厳さん、「古田史学の会・北海道」の鶴代表と鈴木事務局長、そしていつも私を励まし支えてくれる仲間の皆さんに心よりの感謝を捧げつつ、この論を終りたいと思います。
       二〇〇九年五月一五日


参考文献
 日本書紀 岩波文庫
 壬申大乱 古田武彦 東洋書林
 盗まれた神話 古田武彦 角川文庫
 謡曲のなかの九州王朝 新庄智恵子 新泉社
 和名類聚抄 源順 撰 風間書房
 筑前國續風土記拾遺 青柳種信 文献出版
 筑前國續風土記附録 加藤一純 鷹取周成 編 文献出版
 海東諸国記 申淑舟 岩波文庫
 古田史学会報No.三八


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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