白雉二年九月吉日奉納面の紹介 正木裕(会報90号)
拝観、「白雉二年」銘奉納面 古賀達也(会報91号)
「白雉二年」銘奉納面メール論談
豊中市 大下隆司/川西市正木裕
本稿は愛媛県西条市福岡八幡神社にある「白雉二年」銘奉納面をテーマにした大下氏と正木氏によるインターネットメールでの交信記録である。触発される内容でもあり、両氏のご了解を得て掲載させていただいた。〈編集部〉
豊中在住の観世流の山本博通さんが、地元の人に「能」を広めようと講習会をしてくれているのですが、今日のテーマが、やはり豊中で能面を作っている鳥畑英之さんの「能面の作り方」の話だったので行って、白雉二年奉納面の写真を見せてきいてみました。
鳥畑さんの印象は;
1)これは翁の面ではなくて能の「重荷尉」面に似ている。(この面についてネットで調べましたがよくわかりません)
2)全体の印象また裏面の「のみ」の跡から新しいもののように思える。
3)材料は今の能面の制作には「ヒノキ」を使っているが、昔はいろいろな木を使っていた。顔料なども時代によって違うようです。
鳥畑氏は”自分は能面の研究者でなく作っている人なのであくまでも印象ですが”ということでの上記コメントでした。
ご参考までに連絡します。(大下隆司)
小学館の『原色にほんの美術』「面と肖像」の説明によると現存する面の材質は
1)伎楽面〈法隆寺三三面〉
七世紀=樟十九面
八世紀=桐材製+部分乾漆十一面。乾漆製三面。
2)伎楽面〈東大寺(正倉院他)約二百面〉
中核は七五二年の大仏開眼供養会用のもの。=乾漆製は四十面。他は桐材製。
3)舞楽面
九、十世紀以降日本化が進み伎楽に変わり隆盛を見るが、年紀のはっきりしている最も古い面は長久三年銘(一〇四二年)。
使用頻度が高く損傷、修理が多く形がきまっているので年代の判定がしにくい。
もっとも多い材質はヒノキで古いところでは桐、まれに朴、桂、榧が使われている。
4)翁面
十一世紀に民衆の中に猿楽、田楽が盛んになる仮面を使用し始める。この中で猿楽に取り入れられた翁舞の古い面が各地に残っている。
一番古い銘は正応四年(一二九一年)
5)能面
十四世紀に観阿弥が能を確の面の種類は、翁、鬼、年寄の尉、悪尉、笑い尉、細面の尉、男、若男、女、年寄りらしい女、の十種類(『申楽談義』による)。
材料は古くは桂、桐、樟、たも、朴が用いられたがやはりヒノキが多い。
6)塗り
十三世紀までの舞楽面や翁、鬼などの古面の彩色は布貼り錆下地(漆に砥の粉をまぜたもの)、漆下地または木地の上に白土をほどこしてから色を塗る。
能は胡粉下地の上に色を塗る。
いつ頃から胡粉が使われるようになったかは不明。面の材料は仏像の材料の変遷と同じのようです。(能面の作り方の説明では“木の中心部から仏像をとり、その周辺材から面をとる”といっていました)
白雉二年銘奉納面の材質がクスノキで、”塗り”が古いものあれば面白いですね。観阿弥・世阿弥の作品の格調の高さは下賤の階級の人たちが作ったものとは考えられません。彼ら一族は九州王朝の伝統をひく人たちだったのでしょうか。(大下隆司)
大下様
「重荷尉」とはたぶん「恋の重荷」に使われる尉(老人)の面だと思います。
宝生流では「綾の鼓」といって、筑前木の丸殿に仕える庭掃の老爺が、女御に恋慕したのを知って綾張りの鼓を鳴らしたら思いを叶えてやろうと難問を出す。鼓は鳴らず老人は池に身を投げ、こんどは悪鬼となって現れ、女御に鼓を鳴らせと迫る。妄執の能です。
観世流では「恋の重荷」といって、御苑の菊作りの老人が女御に恋をした。それを知った女御の臣下が老人を呼び出して作り物の荷を示し、これを持って百回も千回も回ることができたら、女御の姿を拝ませようと言う。老人は力を尽くして挑戦するが、重荷は岩を錦に包んだもので、彼の力ではどうすることもできない。絶望のあまり老人は恨みを抱いて憤死するということになっています。
私は「綾の鼓」の方が本来で(ストーリーも上品でよく出来ている)この能は九州王朝の関連の能だと思っています。朝倉木の丸殿に宮があって女御たちがいたと言うことなのですから。
斉明や法興、熟田津問題などで九州王朝とゆかりの深いと考えられる伊予西条の面が「重荷尉」であったとしたら面白いですね。(正木 裕)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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