2009年12月7日

古田史学会報

95号

1,時の止まった歴史学
 岩波書店に告ぐ
 古田武彦

2,九州年号の改元
 (前編)
 正木 裕

3,四人の倭建
 西井健一郎

4,彩神(カリスマ)
 梔子(くちなし)
  深津栄美

5,エクアドル
「文化の家博物館」
館報
 大下隆司

6,伊倉 十一
天子宮は誰を祀るか
  古川清久

 

古田史学会報一覧


仏像論 古田武彦(会報93号)

第六回古代史セミナー -- 古田武彦先生を囲んで 日本古代史新考 自由自在(その二) 松本郁子(会報96号)

忘れられた真実 -- 一〇〇号記念に寄せて 古田武彦(会報100号)

「邪馬台国」はなかった』 へ
魏志倭人伝を徹底して読む

『なかった 真実の歴史学』第六号  序言 中言 末言 古田武彦 へ

本編では、丸数字は○1で表示しています。


時の止まった歴史学

岩波書店に告ぐ

古田武彦

    一

 今年(二〇〇九)の六月『なかった ーー真実の歴史学』六号を「休刊」することにした。その理由の
第一は、本来の当誌刊行の目的(創刊号所述)を達したこと(六号の序言参照)、
第二は、新たな著作活動に専念するためであった。最初は「終刊」のつもりだったが、ミネルヴァ書房側の強い要望があり、「休刊」とさせていただいた。 
 わたしの方針はおそらく正しかったようである。なぜなら、この六月以来、新たな研究成果が続出し、(わたしの目からは)古代史研究の面目が一変する、そのような幸せに恵まれ、今日(十月下旬)を迎えているからである。
 その全貌は、この十一月から来年はじめ及びそれ以降に刊行される新(再)刊本及び主要著作(日本評伝選『俾弥呼』ミネルヴァ書房刊行予定)等による他はないけれど、この六月から十月の間に経験した「学問の方法」と「学問の現段階」のテーマについて簡明に叙述してみたい。

 

    二

 新(再)刊本の第一書は『「邪馬台国」はなかった』だ。若い人向けに振仮名を加え、最後に、同じく中・高校生のための文章「日本の生きた歴史」を巻末に加えた。新しい研究をやさしく明快に書き切った。各巻ともかなりの分量だ。
 たとえば「『邪馬台国・近畿説』は成立できない。なぜなら、もし女王国が大和にあったとすれば、中国の使者(魏使)は近畿という銅鐸(中型・大型・超大型等)の密集地を通り抜けて大和の女王国に至らねばならない。しかし魏志倭人伝には『銅鐸』の記載が絶無だからである」と。 
 銅鐸は中国が本場だ。その上、倭人伝の直前の韓伝には「鐸舞」(小銅鐸の楽器演奏に合わせた舞)が生き生きと活写され、中国の「鐸舞」とよく似ているとまで書かれている。それなのに肝心の魏使の目標の倭国に来て、巨大銅鐸やいわば「巨大鐸舞」の儀礼を見ながら、一切口をつぐんで倭人伝にこれを書かない、そんな状況は、千に一つ、否、万に一つもありえないのである。この点『「邪馬台国」はなかった』にはなかったけれど、巻末の「日本の生きた歴史」には率直に書いた。

 

    三

 問題はそれだけではなかった。
 新しい著作活動に専念するため、自分自身の著書『「邪馬台国」はなかった』以下の関連書を読みかえす中で、「あっ」と思う“事件”に遭遇した。端的に述べよう。
 たとえば岩波文庫の魏志倭人伝。この訳文にはかねてから「不満」があった。
 本文の
 「南、邪馬壹(3)国に至る。」(四一ページ)
に対し、
 「(3) 邪馬の誤とするのが定説であったが、ちかごろ邪馬(ヤマイ)説もでた。(以下略)」(四二ページ)
とある。
 わたしの「邪馬壹(壱)国説」が紹介されている形だが、この“訓み”「ヤマイ」というのは誰の説だろう。わたしは第一書『「邪馬台国」はなかった』の中で、この「ヤマイ」という“訓み”に反対している。それも並たいていの「反対」ではない。「第五章  『邪馬壹国の意味するもの』」の「I 邪馬壹国の読み方」の三一四ページから三三三ページまで実に二〇ページ分をこれに当てている。その発端はまさに「邪馬壱は(ヤマイ)と訓むことはできない」という一点にあった。 
 そして「三つの問題」をあげたのち、「“前門”の橋本法則」「“後門”の中国音韻法則」をあげ、この三字が「ヤマイ」などと“訓まるべきではない”その一点を力説し、詳論したのであった。
 しかるに、右の岩波文庫では、いとも無造作に
 「ちかごろ邪馬(ヤマイ)説もでた。」
と書いている。このわたし(古田)以外に「邪馬壱(ヤマイ)説」を唱えるX氏が学界に新登場したのであろうか。わたしがそのように深い「?」をおぼえたのも無理ではあるまい。

 

    四

 問題はここにとどまらない。岩波文庫はさらに
 「その道里を計るに、当に会稽の東冶(5)(とうや)の東にあるべし。」(四五ページ)となっている。これに注して
「(5) 県の名。今の福建省[門/虫]候県附近。東治とするものあるは東の誤。」(四六ページ)
[門/虫](びん)川の[門/虫]は、門の中に虫。JIS第三水準ユニコード95A9

としている。これにも「唖然」とした。なぜなら、同じく第一書の「第二章 「いわゆる『共同改定』批判」の「I 禹の東治」をこの問題にあて、わたしは詳述し、実証的に記述した。すなわち「(永安三年)会稽南部を以て建安郡と為す。」(呉志三)とあり、三国志は右の年次を境にしてキッパリと右より前は「会稽」、それ以後は「建安」と表記を峻別していたのである。その詳細な表を一〇四ページから一〇五ページに分けて別わくでしめした。
 A 会稽(分郡より前)○1~○7
 B 建安(分郡以後) ○1~○6 (注に後漢代の「建安県」の例をしめした)。

 従って三国志の本文において陳寿が
 「その道里を計るに当に会稽東の東にあるべし」

と書いたのは正しい。会稽それ自身を「東の領域」と見なしているからだ。これに対して後漢書の范曄(はんよう)
「その地、大較(おおむね)会稽の東冶

と改悪したのはまちがっている。その論証をわたしは逐一「精記」し、「力証りきしょう」したのである。その上、いわゆる「一万二千里」という「里程表記」から見ても「建安郡の東冶県」では倭国(日本列島)の緯度より、はるかに南へと“おし”ている。適正ではないのである。その点も詳論した。
 そしてその後、この点に関する「反論」を見ない。「会稽と建安」の分郡による「表記分別」の事実に反論した論者を誰一人見ないのである。ことはあくまで実証的な「表記事実」にかかわることであるから、いわば「反論しようもない」あるいは甚だ「反論」は困難なのである。
 しかるに岩波文庫はここでも無造作に本文そのものを
「その道里を計るに、当に会稽の東冶(5)の東にあるべし。」

と「改定」し、その注記はわざわざ三国志本文の「東治」があやまりである旨、断言し去っている。これは、一体「何事」であろうか。

 

    五

 問題は、さらにすすむ。 
 岩波文庫は本文において
 「景初二年(1) 六月、倭の女王、大夫難升米(2) 等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む(下略)」(五〇ページ)
とした点で、注記
「(1) 明帝の年号。景初三年(二三九)の誤。『日本書紀』所引の『魏志』および『梁書』は三年とする」(五〇ページ)
として、本文の「景初二年」を「誤」として断定している。これもわたしには深い「?」を与えてきた。なぜなら第一書・第二章の「II 戦中の使者」はこの問題を詳論したものだ。
 従来の「景初三年説」の場合、「五つの疑い」あり、としてこれを詳論した。中でも「特記」した「明帝の急死」問題は、文献批判上どうしても避けて通れぬ肝要のテーマだ。すなわち最初の中国(魏朝)側の「約束」が“破棄”され、翌年改めて魏朝自身が逆に使者を倭国へ送り、かつての「約束」を果たしている件。これは「明帝急死」事件のあった「景初二年」でのみ、“成り立つ”問題だ。いわゆる「戦後遣使」の「景初三年」では解決不可能なのである。
 このテーマにはさらに興味深い問題が発見された。この点は『なかった』第六号でも一応ふれた。けれども詳しくは来年度公刊予定の『日本評伝選 俾弥呼』に詳述する。
 それは今はさておいても、すでに第一書で詳論し、力説した「明帝の急死」問題一つとっただけでも、いわゆる「戦後遣使」。いわゆる「景初三年説」は容易には成り立ちえないものだ。
 内藤湖南のように『日本書紀』の注記や梁書を引用しただけの「景初三年説」(これも第一書で詳論した)では無理だ。わたしの反論に対する「再反論」なしには学問上成り立ちえない。現段階ではそういう性格のテーマである。しかるに岩波文庫は三たび無造作に「景初二年は誤」と断言してはばからない。わたしはこれに対しても、永らく深い「?」をもちつづけてきたことを率直に述べたいと思う。

 

    六

 これらの「?」が、今回解けた。
 岩波文庫の末尾の「参考文献」を見た。わたし(古田武彦)の項に次の三作が“登録さ”れている。

「邪馬壱国」(『史学雑誌』七八-九)昭和四四年九月
「好大王碑文の「改削」説の批判−李進煕氏「広開土王陵碑の研究」について」(『史学雑誌』八二 - 九)昭和四八年八月
「邪馬壱国論争」(『東アジアの古代文化』一二・一三)昭和五二年五月・一一月(一六四 - 一六五ページ)

右に尽きている。
 本書(当・岩波文庫)は「一九八三(昭和六十)年五月十六日、第四三刷新訂版発行」で、二〇〇五年二月十五日には第七五刷発行だ。
 「参考文献」では昭和五七(一九八二)年から昭和五九(一九八四)年一〇月刊行の著作まで“目白押し”である。しかし私の場合を見れば、

  (一) 『「邪馬台国」はなかった』昭和四十六年
  (二) 『失われた九州王朝』昭和四十八年
  (三) 『盗まれた神話』昭和三十年

など一切ない。全く掲載されていないのである。
 だから先のような

「邪馬壱国の訓(よ)み」
「会稽東治の論証」
「景初二年の論証」
など、すべて「なかった」立場で、「本文」や「注記」が実行されている。これが“ありてい”な記載事実だったのだ。
 『邪馬壹国の論理』、朝日新聞社、昭和五十(一九七五)年には、
 「邪馬壹国への道 ーー 榎一雄氏への再批判」(昭和四十八年、読売新聞、十回連載)
 「邪馬壹国の諸問題 ーー尾崎雄二郎・牧健二氏に答う」京都大学『史林』五五 - 六、五六 - 一、昭和四十七年十一月、四十八年一月。

等が掲載され、問題の国名(「邪馬壹国と邪馬臺国」)や「東治と東冶」問題など、さらに徹底した論争が行われているが、もちろん岩波文庫本は、これらは一切「関知」するところではない立場だ。これは先の「参考文献」のしめす通り、否「しめさない通り」なのである。
 東大の史学雑誌でも、わたしの論証が長文掲載された。
 「多元的古代の成立 ーー邪馬壹国の方法とその展開」(九一 - 七、昭和五十七年)、(同名著作・上下に収録、駸々堂、昭和五十八年)に対しても岩波文庫は全く「無関心」であり、“ご存じない”形なのである。
 このような「参考文献」のしめすところ、その「史料批判」にたてば先述の、わたしの「?」は一切氷解するのである。

 

    七

 しかし、このような“気まぐれ”ともいうべき岩波文庫の記述は、日本の各界の各専門家によって「至上の権威」と化した。
 たとえば松本清張氏は、わたしの「邪馬壹国説」を「否定」するために、岩波文庫の記述をもって何よりの「証拠」とされた。
 「げんに岩波文庫版の『魏志倭人伝』には『景初二年』を明帝の年号。最初三年の誤。『日本書紀』引用の『魏志』及び『梁書』は三年とする」と注記している。」(『清張、古代遊記「吉野ケ里と邪馬台国」』日本放送協会、一九九三年十一月刊、四九ページ)

とある通りだ。先の“無造作な”ハッキリ言えば“気まぐれな”岩波文庫本の記述が、「論より証拠」という筆法で「活用」され、引用されているのである。1).
 清張氏だけではない現役の京都大学人文科学研究所教授の冨谷(とみたに)至氏も、わたしの「邪馬壹国説」を否定するために、例の「景初二年」問題をとりあげられた。
 「ところで、魏志倭人伝には、実は今ひとつ見過ごすことのできない伝写の誤謬が生じている。それは卑弥呼が魏と外交関係を結んだ年代に関してである。」(「錯誤と漢籍」『漢籍はおもしろい』五八ページ、研文出版、二〇〇八年三月刊、京都大学人文科学研究所付属漢字情報センター編)とし、その上で、
 「また、年代の景初二年か三年かの違いに関して言えば、これも二年でママ三年でも、わずか一年の差ではあるが、この一年の差で、卑弥呼がどうして魏と外交関係を持とうとしたのか、その派遣の意味が全く異なってくるのである。」(六〇ページ)

と して、いわゆる「戦後遺使」の「景初三年説」をとられたのであるが、このさいも、わたしが第一書『「邪馬台国」はなかった』で縷々力説した「五つの疑い」 にも、肝心の「明帝の急死」問題にも一切ふれず、もっぱら「日本書紀の注記」や「梁書」をもって典拠とするにとどまっている。
 確かに右の典拠は、京都大学の東洋史学の泰斗・内藤湖南のあげたところ、京大系の人々にはあるいは「不磨の大典」であるかもしれないけれど、それはあくまで「京都大学内部の」“しきたり”に過ぎない。湖南自身はわたしの「五つの疑い」や「明帝の急死」問題等は知らず、一切「論証上の関心」をしめしていないのであるから、その後裔の冨谷氏こそ、敢然とこれをとりあげて、「古田説批判」の根拠にすえられるべきところ、これも全くないのである。おそらくは、清張氏と同じく、「岩波文庫」の所述をもって「現代の権威」として、これを“信奉”されたのではあるまいか。2).
 岩波文庫本の「権威」は「官」(冨谷氏)と「民」(清張氏)とを問わず、
“不滅の権威”と化して久しいようである。清張氏と冨谷氏に限らない。故・大野晋氏は、くりかえしわたしに対して「便り」を寄せられ、親切なご注意を賜ってきた。その中で再度にわたり「邪馬壹は『ヤマイ』とは読めませんよ」との旨のご忠告をいただいた。もろろん第一書『「邪馬台国」はなかった』刊行よりはるか後のことだ。わたしは驚いて右の第一書の文庫版をお送りしたけれども、その後のお便りでも右の「御忠告」は依然くりかえされていた。氏の注意されるところ、その「原点」は明白だ。大野氏の恩師・橋本進吉の「母韻法則」である。その名著『国語音韻の研究』で詳述されたところだ。そこでは「い」の音が「語末」に来ることがない、という一般則と共に、他のケースとは異なり、「い」の場合は「例外率」の高い音である事をもまた、丁寧に叙述せられている。
 わたしの第一書では「“前門”の橋本法則」の表題のもとに、この問題を詳論した。その上で、何よりもかによりも、「ヤマイ」と読む道をもって「不可」としてみずから退けた。その一点からの詳論、それがこの「『邪馬壹国』の読み方」二十ページの論証と叙述となったのである。これは第一書の読者周知のところだ。だが、残念ながら大野氏はこの第一書をお読みになっていないのである。
 この点、わたしの年来の「?」だった。ことに最近大野氏が亡くなられてから、「大野晋・礼讃」の文章や著作が江湖に出まわりはじめた。その点大いに慶賀すべきところだ。ことは「南インドの言語」と日本語の対応など、もっと本格的に、実証的にそして丁寧に「論議」さるべきもの、とわたしは思っているのだけれども、それだけに右に述べたような大野氏の再三の御忠告は「?」だった。それが今回“解け”た。やはり、大野氏もまた、わたしの本そのものではなく、岩波文庫の「邪馬壱(ヤマイ)」の一句を「金科玉条」とされていたのではあるまいか。
 この岩波文庫は初刊以来、連年版を重ねて「現在」(昭和五十九年、一九八四)まで四十二刷、発行部数は二五五、〇〇〇部に達した旨、著者の「茨城大学名誉教授、文学博士、石原道博氏」が“高らかに”記しておられる。東京大学の恩師・和田清氏との共著だったものの、その新版が現在の岩波文庫である。わたし自身も、少年時代以来、岩波文庫のおかげを絶えずこうむってきた。たとえば『ソクラテスの弁明』(プラトン)や、『古代への情熱』(シュリーマン)など、今も枕頭の書である。けれども同時に今回の実例でしめされたように、日本の歴史に対する実証的理解、そして真実の探求に対して、久しき「不治の宿痾」となっている実情もまた、あらそいがたいものがある。おびただしい一般読者群はもとより、「官」「民」ともの専門家もまた、いわば「岩波病患者」ともいうべき“教条主義者”と化し、日本の未来を堅く“はばんで”いたのである。
 はじめ、岩波書店にお電話し、著者の石原道博氏が老齢ながら、御健在であることを知り、直接お手紙で「おたずね」しようかと考えていたことがあるけれど、ことは「個人間の情報」問題にとどまらず、全日本の歴史学界にたいする「禍いの書」と化している現状にかんがみ、ここに明記させていただいた。
 岩波書店は創刊当時の「志」として、日本の学問・教養の発展に資すべし、との言葉(「読書子に寄す ーー岩波文庫発刊に際して」昭和二年七月)に立ちかえらねばならぬ。逆に大量の「岩波妄信者群」を日本に生み出し、それによる「利」をえてきたこと、その的確な責任をとるべきであると思う。信州の一角から、日本の出版界に風雲を巻きおこした岩波茂雄氏自身が、それを誰よりも切望されていることと、わたしは信じる。

(注)

1). 『なかった ーー真実の歴史学』第六号、ミネルヴァ書房刊 参照(敵祭ーー松本清張さんへの書簡 第六回) 古田武彦
2). 同右  丸山雍成『邪馬台国 ーー魏使が歩いた道』をめぐって 古田武彦

〈補〉
 今後の展開にとって、大きな進展をもたらすDVDが今年(二〇〇九)十二月中旬刊行されはじめる。『七〇一 ーー 第一弾「柿本人麻呂の歌に隠された九州王朝」全五巻(各六〇分間)一組』(古田武彦監修)
 右は、単なる「文字の映像化」にとどまらず、現地(佐賀県吉野ケ里、福岡県雷山、島根県浜田市など)で取材と撮影に全力を投入された結果、幾多の新発見あり、未見の「柿本人麻呂像」が見事に“結晶”するに至った。(この点、今年の八王子セミナーでもふれる)。
 是非、個人や図書館等の各購入を切望したい。
 右の製作・販売元は株式会社アンジュ・ド・ボーテ・ホールディングス。DVDの製作総括者はスターゲートの望月政道氏。(スターゲート・ドット・ティヴィ。電話○三・五七二八・一五四八)
(「七〇一」は今後全体の題)。
     二〇〇九・一〇・三〇 稿了


 これは会報の公開です。新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから


古田史学会報一覧

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"