『市民の古代』 第6集 へ
大化改新批判 古田武彦(『なかった』第5集) へ
壬申の乱の大道 古田武彦 へ
7 「乙巳(いつし)の変」はなかった古田武彦(『古代に真実を求めて』第12集)
「元壬子年」木簡の論理古賀達也(古田史学会報75号 2006年8月8日)へ
6「寛政原本」(『東日流外三郡誌』)について 「『天皇記』『国紀』を捜せ」古田武彦講演記録 訂正
古田武彦
古田でございます。今日は日曜日で晴天ですのに、私の講演の話を聞くためにおいでいただきまして、いつもながら恐縮しております。
私は、三、四日前、信州にまいりました。東海大学で研究発表がありまして、その帰りに信州にまいりました。主として縄文遺跡を見てまわったわけですが、新らたな感銘をうけました。例えば尖石(とがりいし)遺跡です。ここでは蛇の模様が中心の、広大な文明が存在していたというのは当然でございますが、それが後期初頭になると、滅亡したと一応いっていいのではないかということです。土器に蛇の模様がでてこなくなるのですね。そしてそれまでなかった山梨あたりのものが、あの地域に広がってくる。どうも別の文明にとってかわられた、端的にいうと支配を受けたのではないかという感じをもちました。現地の学芸員の方に「後期晩期の土器はどうなっていますか。」と聞きますと、なさけなさそうな顔で「あの項になると甲州あたりの土器ばかりです。」と、言われたのが印象的でした。要するに蛇の模様が消えさって、他の地域のものがでてくるのですね。これはやはり征服、支配をうけたと考えるべきだという感じをもったのです。自然に無くなって、自然に他地域のものがきたとは考えられない。人為的な侵入という概念をいれなければ理解できないですね。
尖石遺跡には三角形の尖った石があるわけですが、その石が古代の信仰のもとだったんでしょうね。その石の右肩に砥石をすったようにすりこんだ跡がズーとついているわけです。これは弥生や古墳時代につけたとは考えられません。その時代は人がこの辺に全然来ない時代だったですから。やっぱり縄文時代につけたものでしよう。
神様として崇拝しながら、砥石がわりに使うって事は有りえないですよ。だから私は同じ縄文期でも崇拝していた時代と、砥石に使った時代は別なんではないか。崇拝していたのは前期中期の時代で、砥石に使ったのは後期晩期ではなかったか。つまり尖石を尖石として崇敬せざる種族が入ってきて支配した痕跡とみればいいのではないかと考えるわけです。
一見矛盾した砥石だという説と神様だという説の二つが書かれていますが、私は両方正しいのではないか、両方正しいという鍵は征服・侵略ということで、初めて理解できるのではないでしようか。
縄文には政治概念なんかはぬきで考えられていて、それが暗黙の約束みたいになっていますが、政治もしくは軍事という概念をいれなければ、理解できないのではないだろうか。考えてみますと、黒曜石の宝庫の和田峠は当時において他の地域との貧富差はものすごいものですよ。甲州や越後の方はそれをねらって、この間の勢力の確執は甚しいものがあったのではないかと思います。
縄文期における政治的軍事的力学といいますか、こういうものを基にして理解しなければいけないと思います。以前阿久遺跡(縄文前期)をみた時から思っていたテーマにピッタリ合うと思って帰ってまいりました。
又信州の、甲州に近い井戸尻で殷周の銅器とそっくりな模様をもった縄文土器がでてきますね。信州の三本指の神様とそっくりな神様もでてくるのです。単にテザインが似ているだけなら偶然の一致といえますが神様まで一緒ですから、どうしても両者の問に伝播交渉があったと考えないではいられません。そして殷より信州人の方が千年早いのです。もし交渉があったとすれば矢印は中国から日本列島へではなく、日本列島から中国への矢印を考えなければいけません。
もちろん中間地帯、中間国に淵源があるとかいろいろ考えられますが、すごいテーマを我々に提起していると思います。
さて今年の夏は私にとりまして、新しい理解といいましようか局面といいましようか、新しい世界が広がることを経験したわけです。六月の二十九日、三十日から七月一日、二日にかけて大きなショックをうけ、七月八日と京大その他に通いづめに通いまして、関係資料にあたりました。その結果を今日初めて後半の部分でお話しいたします。
前半は先程も申しました東海大学の日本思想史の学会で発表しましたのを話します。後半は十一月十三日東大の史学会で研究発表することになっています。その内容を本日皆様にお聞きいただくわけです。会場の都合で二時間くらいでお話をしなければいけませんので、今日なるべく前後関係、大きな歴史上のイメージをお話しするつもりです。そしてキーポイントと、アウトライン、何がいいたいのかにしぼって話させていただき、時間が余れば補足をさせていただくというプランでお話しさせていただきたいと思います。
さて今日初めて私の講演会に来ていただいた方もあると存じますので、入口のところだけ簡単に申します。私は三世紀の卑弥呼は九州博多湾岸(広くとりますと志賀島から朝倉、狭くとりますと博多駅から太宰府)にいた。邪馬一国はそこにあったと考えているわけでございます。そして三世紀だけでなく五世紀、中国の『宋書』にでてきます倭の五王(讃・珍・済・興・武)もこの九州の王者であると考えます。今まで殆んどの古代史学者が考えていたように近畿天皇家ではなく、九州の王者筑紫の君と考えます。従来の論証方法は天皇家に決まっているという安易な考えのためか、倭王讃はイザホワケのザを讃にした等、あまりにも杜撰である。しかし私は本人の自署名である、天子に使わした手紙の自署名であると述べたわけでございます。
論証を申します。倭の五王は安東大将軍と自称したり、中国から称号を貰ったりしました。大将軍を示す称号は近畿天皇家にはでてこない。和風の名称ばかりである。しかし筑紫の君の場合はそうではない、『筑後国風土記』に筑紫の君磐井のことがでてまいります。ここで磐井は自分の本拠のことを「衙頭」と称している。「衙頭」の頭は「ほとり」で「衙のほとり」という意味です。中国側の歴史書をみますと「衙」は、大将軍の本営のことをいうと書いてある。すると筑紫の君は自分を中国風の大将軍と名乗っていたことになる。この点からみても倭の五王は近畿天皇家ではなくて、九州の王朝筑紫の君であるいう論証「衙頭の論証」を述べました。(一九八三年『史学雑誌』)
次に、九州年号というテーマを従来から提起しております。
従来大学、教科書の知識では八世紀の初め大宝元年から連続した年が始まり、現代昭和まで至っているといっているわけです。それ以前は本日のテーマ「大化改新」の大化が天皇家が作った最初の年号であり、そのあと白雉とか朱鳥とかの年号が断続してあって、大宝以後は連続して続いている。七世紀後半はちらほら三つ程でてくるだけだというふうに、従来いっていたわけです。
ところがそうではなく、実は六世紀前半、継体天皇の十六年にあたる年、九州(私のいいます九州王朝)で年号が作られた。善記元年という年号が作られ、七世紀終り大長まで、三十数個の年号が連続して作り続けられていたのです。そして不思議なことに九州年号が終った翌年から大宝元年が始まっているわけですね。これは非常に意義深いところですね。
この九州年号は実在の年号であると私は述べたわけでございます。これを架空だ、偽作だという人は、(1) 後世(平安、鎌倉)の偽作なら神武天皇元年、或いはそれ以前から始めればいいのに、継体十六年という中途から始めたのは何故でしようか、これに答えて欲しいのです。(2) 仏教を現わす「僧聴」という年号が四番目にあるけれど『日本書紀』の仏教初伝の記事よりも早い。これも後世の偽作とすれば、考えられないことではないか。(3) 『日本書紀』の有名な「大化」と同じ時期に九州年号は「命長」とか「常色」とかの年号がある。これも後世の偽作なら「大化」を知らないことになる。(4) 九州年号は近畿天皇家内の即位年とは全く違っている。二つ一致しているだけで残り三十個余りは全く違っている。このことからも後世の偽作とは考えられない。というようなことを述べたわけです。これに対する回答は今のところございません。
新しい論証としては新羅年号の問題があります。朝鮮半島に『三国史記』という歴史書があります。これが成立したのは鎌倉期の頃ですが、内容は大変古い資料を使っておりまして、大体において信用のできる性格の史料でございます。ただ統一新羅がこの資料を集めて高麗が受けついで歴史書にしましたので、敵国であった百済や高麗の資料は非常に脱落が多いですし、新羅自身も六世紀段階ではかなり脱落があるという、欠点といえば欠点があります。しかしその欠点を歴史家がいいかげんに埋めていない、という点が、逆に信用できるわけです。脱落しているから大体の判断で補って書いておこうとやられると、見た体裁はよくなるけれど、資料としては困るわけです。そういうことをしていないわけです。無いところは無いままにしているわけです。そういう点が『日本書紀』とは違うところです。
この『三国史記』によると六世紀の中ば、五三六年に建元元年という年号を法興王が始めて、七世紀の真ん中、六五〇年大和四年まで続いているわけです。およそ百年ちょっと続いたわけです。そして皆様御存知の「日出づる処の天子」。(従来は推古天皇とか聖徳太子。私は九州王朝の多利思北孤。論証として(1) 男王とあるのに推古天皇は女である。(2) 阿蘇山ありとある。だから大和ではなく九州である。)天子と名乗るなら、天子に年号がいるというのは東アジアの常識であります。隣りの新羅は天子ではなく王です。中国の天子配下の大将軍、王であるにもかかわらず年号をもっている。王の新羅が年号をもっているのを隣りの日本列島側の倭国が知らなかったはずはないわけです。倭国(正確にはイ妥*国)が自らを天子と名乗ったのに、年号だけは作り忘れましたということはありうることではないです。近畿天皇家は七世紀前半には年号がない。だから六世紀中ばから年号の続いている九州王朝の多利思北孤が「日出づる処の天子」でないと、大義名分に関する致命的な矛盾が生じるということを述べたわけでございます。
イ妥*国(たいこく)の、イ妥*(たい)は人偏に妥。ユニコード番号4FCO。
以上、弥生時代から七世紀終りまで、九州には一貫して王朝が存在したのだということです。近畿天皇家は九州王朝の分家です。日向から出発した九州王朝の田舎豪族の末裔で、九州の地に絶望して銅鐸圏に侵入をはかった青年達、それが勢力を拡大して、いわゆる近畿天皇家になったわけです。簡単にいえばイギリスとアメリカの関係であります。アメリカはイギリスより大きくなったけれど、出身地はイギリスであるというふうな関係である。これが九州王朝と近畿天皇家の関係であるということを述べたわけでございます。
それでは本日の前半のテーマに入っていきます。話は七世紀の終り八世紀の初頭のところにまいりました。
「律令体制」「律令国家」という言葉があります。教科書等にもでてまいります。いつのことかと申しますと、八世紀の初め「大宝律令」のことでございます。これをうけて「養老律令」というのができたの が知られています。現在「養老律令」が残っているので、それを某にして「大宝律令」もほぼ推察できるというわけでございます。
この八世紀初めが我が国における法治国家としての体制、つまり律令体制ができた初めであると従来の古代史学では述べております。
しかし考えてみるとおかしいのです。中国で律令体制、律令国家がいつ始まったかを調べてみますと、簡単に分ります。秦の始皇帝が始めたわけです。『史記』にでてまいりまして、律令という言葉を使っております。さらに漢は律令国家でした。卑弥呼が使いした魏、倭の五王が使いした南朝劉宋ももちろん律令国家でした。『宋書』に律令という言葉がよくでてまいります。さらに隋も唐も律令国家であるわけです。
従来の古代史学の説明によりますと「大宝律令」は唐の律令を真似したものだと書いてあります。内容が酷似していますから間違いはありません。唐は七世紀中葉にできた国です。しかし中国では秦の始皇帝、紀元前から律令国家であります。その律令国家に卑弥呼が使いし、倭の五王が使いし、「日出づる処の天子」多利思北孤が使いを送っているわけです。天子というのは中国語です。一番肝心要の用語をとって使っているわけです。にもかかわらずこの間全く中国の国家体制そのものである律令体制、律令という組織に何の関心もはらわず、何の模倣もしようとしなかったというのが従来の考え方です。本には書いてないですが理屈からいうと当然そうなるのです。これはおかしいです。“中国なんて知りませんよ。我国は我国独自でやっているんです”ならいいですよ。そうじゃないでしょう。専ら卑弥呼にしても倭の五王にしても真似に真似している。「日出づる処の天子」は独自ではあるが中国語を使っての独自なんです。ある意味でこれくらい“真似している”ことはないと言えるわけです。それくらい中国文明に対して傾斜を深めていながら、肝心要の律令について知りませんよということがはたしてあるでしようか。この辺に大きな疑問を感じないのはおかしいです。
この前に一つ注意すべき点がございます。律令の性格は発展し変わってきている。今のテーマを明確に考える上で、大きく二つに分けてみますと、唐代の律令とそれ以前の律令の性格は違うわけです。
古い律令は秦の始皇帝が始めたのですが、律が中心で令が補いなんです。“覚える”というのは恐いもので、律令という言葉を覚えてない方はいらっしゃらないと思いますが、もし生徒が「令律と何故いわないのですか」と先生に聞いたら、先生も困るでしようね。令律とはいいませんね、律令ですね。これは理由があるのです。秦の始皇帝が始めた律令は、律が中心で令が補いだから令律ではないのです。律が根本だから律が先なんです。今でいえば刑法的な掟が中心で、それを分けて丁寧に説明するのが令なんです。大体これを漢も受けつぎ、魏晋南北朝と受けついでいるわけです。
これに対して隋を承けた唐の場合は少し、あるいは大いにといってもいいでしようが、概念が違うのです。令が法律の基本になるわけです。令を補ったものが格式です。令に対する補いが格で、それに対する補いが式なんです。令格式が中心になるわけです。法律で令格式を作るわけです。その規定(文章で書いたもの)に背いた者を律で罰するわけです。そこに律の役割があるわけです。
それなら現代の法律と一緒ではないかといわれますが、そうです。現代法治国家という所以のもとは、法律にちゃんと書いてある事に背くことをすれば罰せられるわけです。刑法にひっかかるわけです。だから法律に書いてない事ならいいわけです。ズルイ人達は法律のぬけ穴をくぐり大儲けしたりするのです。現代の刑法は“法律に書いてあることなら捕まえますよ、それ以外は、捕まえません”という約束をしているわけです。近代法の概念がこれなんです。我々の近代法の概念はヨーロッパ、アメリカから学びとったものですが、基本概念は唐の律令格式、つまり「大宝律令」以来の伝統の中にあるのです。明治以後ヨーロッパ、アメリカの近代国家を、日本が真似する時にあまりとまどわずに済んだ一つの例がもしれませんね。
唐においてこういう形の概念ができあがったわけです。もちろんだんだん変わってきたのですが、大きく類別するとこういうことになります。
先程の律を中心にして令が条文、補い、このやり方を始皇帝以来のを、古律令と一応名前をつけておきます。これに対して令格式が中心で、これに背いたものを律で罰するという唐が完成したやり方を新律令と一応名前を私がつけておきます。
すると「大宝律令」は新律令を模倣した第一号ですね。唐は七世紀後半に始まったんですから。問題は古律令が日本列島全体に、何らの影響を与えていないかということに絞られてくるわけです。そこで見いだされる大事な例が『筑後国風土記』の磐井に関する記事でございます。
筑後國風土記曰 上妻縣 々南二里 有二筑紫君磐井之墓墳一 高七丈 周六十丈 墓田南北各六十丈 東西各卅丈 石人石盾各六十枚 交陣成レ行 周二匝四面一 當二東北角一 有二一別區一 號曰二衙頭一 (衙頭政所也) 其中有二一石人一 縦容立レ地號曰二解部一 前有二一人一 [身果]形伏レ地 號曰二愉*人一(生為愉*猪 仍擬レ決レ罪) 側有二石猪四頭一 號二贓物 (贓物盗物也) 彼處亦有二石馬三疋 石殿三間 石藏二間一〈下略〉
[身果](あか)は、身編に果。JIS第4水準ユニコード番号8EB6
愉*(ぬす)は、立心偏の代わりに人偏。番号5077
ここに衙頭がでてまいります。(1) は註釈で「衙頭は政所也」とあります。その後「其の中に一石人有り、縦容として地に立てり、號して解部という」これが裁判官です。「前に一人あり[身果](あか)形にして地に伏す、號して楡*人という。註は生まれて猪を楡*(ぬす)むをなす、よりて罰を決するに擬す。」 本文にかえりまして「側に四頭の石猪あり、贓物(ぞうもつ)と號す。」「賊物は盗物なり」ということでここは一言でいいますと裁判の場が石のミニチュアで再現されているわけです。
もちろん衙頭にしても衙はおそらく太宰府あたりでしょう。政治の場全体のミニチュアといえるでしょう。そして眠目といいますか、「目玉商品」は裁判です。しかも注目すべきは(3) の「贓物(ぞうもつ)は盗物(ぬすみもの)なり」です。私はこの言葉は非常に重大だと思うのです。贓物(ぞうもつ)と漢語、中国語で読むんですね。だから「盗んだ物である」と日本語の註釈がいるわけですね。裁判の術語は中国語が使われているんですね。だから「日本語でいうと、盗んだ物です」というふうになるのです。
この前の「號して楡*人という」も、トウジンと読まなければいけませんね。岩波の古典大系等は「ヌスビト」とかなをふってありますが、これは駄目ですね。「トウジン」と漢語で読まなければいけません。
裁判官は解部(ときべ)、日本語です。磐井の周辺に「○○部」という形の行政組織がうまれていたことを示しているのです。その中の一つが解部。当然ながら、日本語も使っていたのです。
しかし肝心の盗人を指したり、盗んだ物を指したりする言葉は、中国語で中国風発音で呼ばれていたわけです。「六世紀の中国風発音」で呼ばれていたわけです。
これは磐井が生前に作らせたというのですが、おそらく磐井が生きている時の政治的行政の中で、最も重要な部分が裁判の法の制定にあたったと磐井が自負していたことの反映である、とみて間違いないのではないでしようか。私の想像ではありますが、これ以外の想像はできにくいと思います。磐井は裁判に関する新しい(倭国側で)政治制度を創設した。「これは私の大いなる業積である」と磐井が思っていたから、死後にまで墓の側に裁判の場の展示場を作らせたと考えて問違いはないだろうと思います。
この政治上の法令の中心は刑法が中心になっていたのですね。この刑法は口で伝える慣習法ではなくて、文章で書かれていたのです。それでなければ、先程のように、発音を「漢語」でされたのでは分りませんよ。文章に書かれてこそ漢語は分るんですからね。これは文章に書かれていて、中国語で中国の刑法上の述語で書かれ、律中心の法体系であった。それを制定したことを磐井は自己の政治的業積の中心をなすものであると考えていた。だから自分の死後までもそれを伝えたいというふうに考えて、こういうミニチュア展示場を作らしめた、と理解するのが私は最も自然な理解ではないかと思います。それをそうでない、気まぐれに、おもちゃに作ったんでしようという方が、ずっと風変りな理解であると思うのです。
そしてこれは先程いいました、古律令ではないかという問題がでてくるのです。六世紀前半に古律令が発布されたなんて信じがたいと、従来の定説をよく御存知の方程お思いになるかもしれません。実はそうではないのですね。
すぐ向いの新羅、先程の新羅年号を作った
法興王の五二〇年、
春正月。領示律令。始制百官公服、朱紫之秩。
という文章が『三国史記』にあるわけです。つまり法興王が律令を発布しているわけです。
これに対して日本の古代史の学者がふれた論文をみたことがあります。おそらく造作ではあるまいが、本当ではあるまいと書いてある文章を読んだことがあります。理由は書いてないですが、私は見当はずれではないかと思うわけです。この人の考えでは律令といえば条件反射で「大宝律令」その基をなす唐の律令(七世紀後半)を、あの新羅ごときが六世紀前半ぐらいに作っていたはずがない、これはおそらく偽物だという判断だと思うのです。
これは基準にするものが違うのですね。新律令と古律令。基準尺を問違えているのではないかということです。
それにもう一つ。造作という言葉ですね。津田左右吉が『日本書紀』で愛用した言葉ですが、これを『三国史記』にむけるというのは見当はずれだと思うのです。先程申しましたように『三国史記』は、『日本書紀』とは性格が違っています。具体例をあげますと倭という字が大変よく「新羅本記」にはでてきますが、「百済本紀」にはわずかしかでてきません。「高句麗本記」には全くでてきません。これはおかしいのです。少くとも「百済本記」には倭が新羅以上にでてきていい感じですね、非常に百済は倭国と仲が良かったんですから。高句麗の方も高句麗好太王が倭と戦ったんですから、倭がでてきてもいいのですが全くでてこない。
この辺を李進照(じんひ)さんは『三国史記』の好太王のところに倭がでてきていないことが下敷になって、あの好太王碑はおかしい。あの倭は偽物ではないかと考えられたようです。
しかし私には、これは『三国史記』に対する史料批判が不充分であると考えられます。何故かといいますと、『三国史記』は新羅が百済、高句麗を滅してから統一新羅になる。統一新羅が高麗に滅ぼされて統一高麗になる。その時作られた本なんです。だから資料は新羅系の資料である。新羅の資料は豊富です。しかし百済や高句麗は滅ぼされたのです。新羅に資料を全部渡して滅亡していくなんてことはないですから、百済や高句麗の資料は捨てられ散逸させられ焼かれたものが少くなかったわけです。だから百済、高句麗については資料は非常に乏しいわけです。従ってそこには倭に関する資料も乏しいわけです。倭がでてこないわけです。日本人である我々がみておかしいと思うだけでなく、朝鮮半島側の人達がみてもおかしいわけです。当然『三国史記』を作った編者からみてもおかしかったはずなんです。しかしおかしいから百済に関する倭の資料を少し水増しして増やしておこうということはしていないのです。少ないままにしている。高句麗に関してはゼロのままにしている。これは残念だけど、有難い。信用できるわけです。
なお倭が一番多くでてくる「新羅本紀」も五世紀まではたいへん多くでてきます。ところが六世紀になりますと倭は全くでてきません。ゼロになります。これはおかしいです。六世紀こそは従前にも増して(仲がいい、つまり友好、または敵対の両ケースを含めまして)関係が非常に深くなっているはずです。ところが何もない。それはこの時期の資料が散逸したからです。統一新羅は統一高麗に滅亡させられているからです。新羅についても六世紀関係のは散逸しているわけです。散逸したままで補なわず歴史書にしているわけです。
こういう性格からいいまして『三国史記』は信用のできる、史料性格をもっている。編者が勝手に作ったのではないということが分るわけです。こういう史料性格からいいますと「領示律令」を、勝手に作ったんだろう、造作だろうというのは、歴史書の性格をわきまえてないということです。『日本書紀』は造作であると簡単に更け入れてすませていた手法を、うっかり全然違う歴史書にもむけてしまったということであると思います。
ついでにいいますと律令を作ったという話は百済、高句麗にはないのです。新羅が作るより前に百済が作らなかったはずはないし、それより前に高句麗が作らなかったはずはないです。高句麗はズーと早くから中国と接触をもっていますから、律令を作らなかったはずはないのです。それがないというのは高句麗が律令を作らなかった証拠ではなくて、資料が脱落している痕跡であるとみるのが筋です。そして少くとも新羅について律令を作ったと書いてあるのを造作とはいえない。造作なら百済でも高句麗でも適当に造作して書いておけばいいのです。それをしていないのをみますと、この律令を作って領布したという記事を、私は疑うことはできないと思うのです。
新羅が律令を作っているのに、すぐ向いの倭国が律令に無関心だったとは考えることはできない。倭国は新羅より早くから帯方郡、楽浪郡(中国史書でみる限り)と交渉をもつた。その倭国が六世紀段階においてもまだ無関心であったとは考えられない。少くとも対岸の新羅にあったのに、筑紫の君の国に古律令があったはずはないと、“ガンバル”のは道理ではないと考えます。
従って、磐井の墓にある石造展示物を律令発布の表現、痕跡とみることは最も自然な理解ではないか。というふうに思うわけでございます。
特に新羅と筑紫の君、九州王朝との連絡といいますが関連は、年号によってもはっきりしております。つまり新羅が年号を作ったより少し早く九州王朝側は年号を作っているわけです。九州王朝は律令と年号のどちらが早いかはっきりしませんが、新羅の法興王の場合は年号より先に律令を作っておりますので、磐井も、九州年号(善記、継体十六年)より早く律令を領布していた可能性があります(後に述べます)。ともあれ、相前後して新羅と共にお互に各自の律令を作っていた、というふうになるわけであります。
これは東アジア的視点からみれば何の不思議もない。ところが、近畿天皇家一元主義の目からみれば、天皇家しか律令を作るべきでない、他の者が作るなんてありえないのです。それは戦前の史学であり戦後史学もその枠をでていなかったのです。「天皇家しか、律令を作ることはありえないのだ。」という、全然証明できない先入概念(私はこれを近畿天皇家一元主義と呼びます)イデオロギーを除けて、東アジア全体の法的展開の筋合いからみますと、筑紫の君磐井が六世紀前半において律令を作り領布していた。それに対して近畿天皇家が律令を学んだのはズーッと遅く八世紀の初めからである、というふうに理解せざるをえないわけでございます。
これの意味することは何かを次に申します。一つは磐井と同じ時期の継体の方では律令を施いていた形跡が全くない。『古事記』『日本書紀』のどこをみても、「継体が律令を施いた。」という記事はありませんよ。だから律令国家ではなかった、こう考えざるをえないわけです。これは『古事記』『日本書紀』のとっております建前、いわゆる磐井の「反乱」という言葉がいかに逆立ちしているかということを示すものではないでしようか。何故なら「律令を持たない近畿天皇家の配下に、律令を持った国家がある」なんて図は、とても考えられた話しじゃないわけです。むしろ「律令を持った磐井の配下に近畿天皇家が分家として存在する。」近畿天皇家が律令の内にいたか外にいたかは、非常に面白い問題ですが、これを今、確言できないにしても、少くとも近畿天皇家の上位に磐井がいる。武力は強いがより中国から離れ、文化に遠い、中国を基準として「より夷蛮的」な存在が近畿天皇家である等というふうになるわけです。
「近畿天皇家の配下に磐井があった」というのは本末転倒したものであります。『日本書紀』の大義名分から作られた言葉が磐井の「反乱」という言葉であります。事実、磐井は何もしていないのです。ただ「反乱」とレッテルを貼っただけのことなのです。こういうふうに考えられるわけでございます。
さらに考えてみますと、磐井は近畿天皇家に比べて、東アジアの文明中心の中国に近かっただけではなく、現実的に中国の配下の大将軍だったわけです。中国の天子の配下の大将軍を近畿天皇家が「家来にもっている」などということはありえないのです。
以上、いずれの方からみましても、「反乱」という言葉で、我々が長らく惑わされてきました肝心の点、この大義名分問題の逆立ちを払拭しなければいけないのです。
そして正当にみれば「磐井の律令」というものが、後々の「大宝律令」と無関係であったはずはない。近畿天皇家は磐井の律令の大きな影響下で、「大宝律令」を作ったと考えるのが筋ではないでしようか。同じ日本列島ですし、本家と分家です。本家の方が律令を作っているのに、本家の律令には全く無関心で遠い唐から律令を習ってきたと、考える方がおかしいですね。当然中国の影響は本家を通じて受けていて、白村江の戦以後勝利者の唐の新律令を学んだのです。
なお磐井の律令は古律令といいましても南朝系の古律令であります。これに対して、天皇家は北朝系の唐律令を受けついだのです。今時間がありませんので詳しくは申せませんが、現在の律令の中に大体唐の影響で説明できるのだが、それでは説明できない南朝系の条文が入っているという論点が、法制史上解決しがたい問題が、今も残っているわけです。それは従来の常識でみるから疑問なので、私の申しました筋道からしますと、むしろ当り前の話になってくるわけであります。
ただ、『日本書紀』は建前で磐井の「反乱」にしてしまったので、「磐井の律令の影響を受けた」などといってはいけないわけです。全部『日本書紀』では消してあるから、疑問が残るわけです。「唐の律令を真似していながら、何故南朝系の要素が残っているのだろう」という疑問が残るのです。
最後に申しあげますのは、九州年号開始の問題でございます。九州年号の始まりは「善記」か「善化」のどちらであるかということです。さて、九州年号は九州を中心に非常に「実用」されています。
(1) 貴楽式(二)年創立(欽明期)
(福岡県)御井郡東鰺坂両村、若宮大菩薩
〈久留米史料業書、第七集〉
(2) 白鳳十八年創立(天武期)
(熊本県)玉名郡内田手水、下津原村、飛尾大明神、春鎮社
〈肥後国誌〉
(3) 知僧三年創立(欽明期)
(佐賀県)興賀淀姫大明神
〈肥前古跡縁起〉
(4) 定居元年(推古期)
(山口県)佐波郡、西佐波令、仮屋村、福宝寺、百済の済の琳聖の渡来。〈防長風土注進案〉
等があります。(1) は高山利之さん、(2) は平野雅廣さん、(3) も平野さん、(4) は前田博司さんの御教示によるものです。
これらの実例によると、最初の九州年号は「善化」の方ではなく、「善記」の方がいいようです。これは、『失われた九州王朝』では、むしろ海東諸国記の「善化」の方をよしとした一節がありましたが、これはわたしのあやまりであったようです。なぜなら、
第一、通例、「原文改定」する場合、“意味が通りやすく”改定する場合が多い。この見地からは、「善化」の方が“わかりやすい”。 第二、何より決定的なのは、「実用例」です。先にあげた九州とその周辺(山口県)に出てくる、神社などの創建年代などでは、「善化」でなく、「善記」の方が使われています。
では、「善記」の意味は何か。これが今年の夏、八月中旬に、ふとしたことから解けてまいりました。
テレビでふとかいま見た「記代(のりよ)さん」(女子プロレス)という方の名前にヒントをえて詳しく調べはじめたところ、「記」には「教命之書」の意味があり、さらに、「大将軍」のいる「府」から発する「令」を「記」ということが判ってきたのです。(資料参照)
よく知られているように、天子の発する「令」を「詔」とか「勅」とか、いいます。その部下の「大将軍」が発する「令」を何というか。あまり知られていませんでしたね。それが「記」なのです。
とすると、倭の五王は「大将軍」を名乗っていたのですから、その下した法令などは、中国風にいうと「記」となるわけです。
ところが、磐井は、自分の本営を「衙」と称していました。筑後国風土記の「衙頭」(=政府)の用語がそれをしめしています。これは「大将軍の本営」を指す言葉です。「府」のあるところ、なのです。
従ってその磐井の発布した「律令」は、とりもなおさず、「記」である、ということにならざるをえません。
このように考えてきますと、「善記元年」の「記」は、この「記」ではないか、という問題が出てきます。「善教」とか「善学」とかいった類の熟語は、辞書に頻出しています。こういう「善 ー」という熟語形をかどにして、「善記」という造語をしたのではないでしようか。
磐井が、死後にまで自分の墓のそばに「律令」実施の石模型を作って残そうとしていた。その意志からしますと、この「記」とは、先にのべた“文章で書かれ、中国風の裁判用譜(「倫人」「臓物」)を使って発布された、律令”を示す、その可能性が強いように思われます。
対岸の新羅、その国王である法興王は、律令を発布し、年号を制定しました(三国史記)。同様に、大きくいって同時期(年号からいえば、やや九州年号の方が早い)に、倭国の王たる、筑紫の君、磐井が、律令や年号を作ったとしても、何の不思議もないのです。以上、わたしにとって、ながらく研究課題となっていた、「九州年号の始源」問題に対して、一つの回答をえたことを報告させていただきたいと思います。
〈前半終り〉
後半に入ります。今年の七月二四日に栃木県の史心会からお招ねきいただき、講演会をさせていただきました。栃木県といいましたら、稲荷山鉄剣の大前神社、磯鬼宮のあるところですが、金石文として「那須国造碑」の存在する所でもあります。それで今年の五、六月頃から調べ始めたわけです。
永昌元年巳丑四年四月」飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹」那須直韋提評督」被賜』歳次康子年正月二壬子日辰節尓』仰惟殖公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳照一命之期連見再甦〈下略〉
とあるのですが、従来説と私の読み方が違うのです。『栃木県史』にでている読み方であるとか、岡崎敬さん、井上光貞さんなどの読み方のどれをみましても、私の読んだようには読んでいないのです。永昌元年から飛鳥浄御原大宮までは同じですが、那須国造、追大壹、那須直と、三つ共本人の肩書に読んで、三つの称号をもっている韋提という人が、評督という称号を貰った。だから貰ったのは評督であると従来は読んでいるのです。誰れから貰ったかというと、「飛鳥浄御原」ですから天武、持統、そしで年代からみると持統(持統三年)です。
年号は永昌元年です。これは中国の年号、則天武后の年号で、天子の年号と則天武后の年号の二本立ての年号があった時の、則天武后の方の年号を書いてあります。これが従来説です。
しかし私は戦前や江戸時代には私と同じ読み方の人もいたのではないかと調べたのです。江戸時代からかなりこの碑は読まれていまして、水戸光圀はこの石碑を基にして韋提さんの墓はどれかと発堀したのです。上侍塚・下侍塚等ですね、江戸時代から非常に注目され、いろんな学者が読んでいるのですが、そのどれを読んでも従来説で私のような読み方をしている人はいないのです。
私は自分の読み方が自然だと思ったのです。その根拠
(1) 評という行政単位がでてまいります。藤原宮の木簡で出てきましたように、
己亥年(六九九年・文武三年)十月上挾国阿波評松里
のように“国”の方が上部概念で“評”の方が下部概念である。今でいえば○○県○○市のように、県が上部概念、市が下部概念です。府と市でも同じですね。こういう意味で上の単位が“国”である。下の単位が“評”である、もっと下の単位が“里”であるというのは動がしがたいと思われていたのです。
国造については論議が沢山あるのですが、要するに“国“に関する実力とか名誉とかをもった称号であるのは明らかです。それに対して評督は評に関する督(監督)とか評を支配する権限をもった長官であることも、恐らく明らかでしよう。
すると従来説は「国造」をもっている人が、「評督」を貰って喜んでいる、となるわけです。しかし私の読み方では“評督”を貰っている人が“国造”を貰ったことになるわけです。嬉しいわけです。碑を建てたのは韋提か死んでからですが、石碑を建てるのに値するのじゃないか。このように単純な感じかたで読んだのです。
(2) さて単純な感じ方だけから、“いい。”というわけではめりません。私の「那須直・韋提評督」という読み方、評督の称号が本人の実名の下に付くことがあるのかという問題になるわけです。調べてみますと、あります。
「倉足諏訪評督」〈信濃国、金刺氏系図〉
というのがあります。これは系図ですので読み取り方に問題があるわけですが、問題がないのは
「新家連阿久督領」〈皇太神宮儀式帳〉
です。「督領」は「評督」と同類の称号です。「督領」が実名の下にきています。
私の読んだように「那須直韋提評督」と読んでも、少くとも実例からみると不思議ではないですね。
(3) それから「那須国造」と一連のものと考えられる「追大壱」があります。「追大壱」というのは非常にはっきりしております。天武の末年にこの制度が作られ持統朝に伝えられたのです。大宝からは違う制度になります。「追大壱」がでてくるのは天武の末年から持統までの限られた年代にしかでてこないのです。でてきてはならないわけです。文武五年が大宝ですから、それ以後でてきてはならないわけです。
私の読み方では「追大壱」を飛鳥浄御原大宮から貰ったことになるので、全く矛盾がないわけです。
(4) 私が一番決め手になると思ったのはこの文章です。これは漢文ではありません。漢字が並んでいるので、漢文のような気がしますが漢文ではないのです。従来説であれ私の読み方でも漢文ではないのです。それなら何のルールもないかというと、やはりルールはあると思うのです。
どういうルールかといいますと、「永昌元年」で始まり「飛鳥浄御原」となっています。これを逆にしても意味は変らないわけです。「飛鳥浄御原」から「永昌元年」に○○を貰ったとしても意味に違いはないわけです。ただ日本語を漢字で並べてあるだけですから、日本語ではどちらを先に書いても、意昧は通じるんです。では何故に「永昌元年」が先にきているかという「尊卑関係」だと私は思うのです。尊いものを上にして、卑しいものというか、より尊くないものを下にもってきている。つまり「飛鳥浄御原」の方より中国の朝廷の方が尊いわけです。だから「飛鳥浄御原」を先頭にもってきてはいけない、「永昌元年」を先頭にしなくてはいけなかったんだろうと思うわけです。この文章を書いた人の意識は「尊卑」の上下関係にもとづいている、という仮説をたててみたのです。
そうしますと、従来説では、「那須国造・追大壱・那須直韋提」が今までの本人の肩書で、今度貰った肝心のものが、「評督」なのです。とすると飛鳥浄御原からいただいた肝心のものを、自分の足の下に踏んでいる、そういう形になるわけです。
これに対し、私の読み方では飛鳥浄御原からいただいたもの「那須国造・追大壱」を「飛鳥浄御原」の次にもってきて、本人「那須直韋提評督」を一番最後にしている。先程いいました「尊卑の順序」はスーッと通っているのです。
従来説では今度いただいた肝心のものを本人の足の下に置くという、こういう文章になっているのですね。「尊卑のルール」で書かれていると考えると、文章として一つのルールがある。すると私の方は、それに合っているが、従来説では合わない。
(5) それから「評督」は「那須評督」であることは誰れも疑ってないわけです。「韋提評督」と「那須」をカットしています。
従来説だと「那須国造」「那須直」と二度「那須」を付けていながら、肝心のものである「評督」には「那須」をカットしていることになるのです。これは不自然だと思います。他の所をカットしても「那須評督」を貰ったとこれだけはキッチリと書いてほしいですね。
これに対して私の読み方では、「那須直・韋提評督」です。那須の直の韋提評督ですから、評督に那須評督とするとかえっておかしいです。先程の例もそうではないですね。そして今度貰った肝心のものに「那須国造・追大壱」と那須をつけているわけです。ただ国造でなく那須国造とちゃんと書いている。
“貰った、肝心のものに省略がない。”という点も私の読み方ならいいが、従来説では肝心のものに三回目だからめんどくさい、やめとけという形になります。
(6) 最後に一番の問題があります。
この石碑の最大の特徴といいますか、不思議な点があります。
今までの解説ではこれから説明するところをあまり不思議だとはいってないのですが、私には不思議だと思われるのです。
この韋提が一生の内二回いい目にあったというのを、先程引用しました文の後半でくり返しています。一生の内二回お陽さんのあたるいい目にあった。二回いい目にあっただけでなく、もう駄目だと思ったら又生きかえったという、本人にはショッキングな喜びだったらしいですね。確かにそうですね。御本人は二回称号を貰っているのです。「那須国造・追大壱」を貰ったのと「評督」というのを貰ったのです。「那須直」は姓ですから自分が貰わなくても、お父さんお祖父さんから伝わっててもいいのです。しかし「那須国造・追大壱」「評督」は本人が貰ったのです。特に「追大壱」は御本人が貰ったのに決っているのです。二回いい目にあっているのは本人の称号からも明らかなんです。
ところが不思議なことに、二回いい目にあったのなら二回の時点があり、二回いい目にあててくれた人がいるはずなんですが、石碑には一回の時点と一つしか与えた人が書いてないのです。これがこの碑の一番の不思議だと思うのです。あと一回の称号については、誰れから何時貰ったかは省略しますという姿勢なのです。
これはこの石碑の分量からも不思議です。先程の引用は一部分です。大きな立派な石碑でして、碑面がなくて一回分は省略したというものではありません。一回分を完全に故意にカットしているわけです。ここがこの石碑の不思議なところです。
そこで私の説と従来説の場合、何を表し何を隠しているか違ってくるわけです。従来説では「那須国造・追大壱」を誰れから何時貰ったかは御遠慮申します。省略します。そして「評督」を「永昌元年」に「飛鳥浄御原大宮」から貰らいましたといっていることになります。
私の場合は「那須国造・追大壱」を「永昌元年」に「「飛鳥浄御原」から貰いました。これははっきり碑に書きます。しかし「評督」についてはかって、誰れから貰ったかは触れません、ということになるわけです。
先程いいましたように「追大壱」はどうみても天武持統朝「飛鳥浄御原大宮」の称号ですから、「飛鳥浄御原大宮」から貰ったのは確実です。だのに従来説は誰れから貰ったのか直接書かず、何時かもカットしている。これは非常に不思議だと思うわけです。
ところが私の理解だと文字通り「永昌元年飛鳥浄御原大宮」から貰ったとなり、「追大壱」を貰う時点として、文句なくふさわしいわけです。しかし「評督」については誰れから何時貰ったかについてカットします。ということになっているわけです。
ここに至り、私はこれは非常に大きな問題に発展する、そのことを深く感ぜずにはいられなかったのです。
戦後の古代史学、大学の学者達の研究の中で一番絢爛たる中心課題をなしたといっていいもの、少くともその一つは、いわゆる郡評論争という問題であります。特に大化改新論をめぐって、それが戦かわれてきたわけでございます。それに関する論文も驚くくらい夥しい分量になっています。単行本とか大学の紀要であるとかがあり、今大学の古代史の教授、助教授、講師になっている人で、何かの点でこういう関係にふれる論文を業績としていない人はあまりいないのではないかという感じさえ強くいたしました。
発端は有名な事件ともいってよいような研究発表です。昭和二十六年十一月の東大史学会で若き日の井上光貞さんが「大化改新詔の信憑性」という題で発表をされたわけです。これに対しては前段階の戦前からの問題がございました。津田左右吉が大化改新はあやしい。非常におかしなところがある。これも「造作」されたものではないかというふうな疑いをなげかけたわけでございます。細かい点は時間の関係でカットします。これに対し、比較的若かった時代の坂本太郎さんが『大化改新の研究』という本を出されまして、これに一、一、反論されたわけでございます。東京帝国大学の殆んどの学者は津田史学を無視しておりました中で、坂本さんが一、一、反論されたのは、坂本さんの立派な、真面目なお人柄のせいだと思います。しかし残念ながら教授達は全然反論しなかった。在野の学者等無責任なことをいっている、反論するのもおこがましいというのでしようね。
だから肝心の神代の巻、神武東征問題、五、六世紀の問題等津田史学の肝心をなす部分については、戦前は最後まで正面の反論はでずじまいでした。これは戦後史学の脆弱点の原因になっていると思います。今立ち入って申しませんけれど、坂本太郎さんが反論を発表されたのは非常に立派だと思います。要するに津田左右吉の疑いは根拠がない、大化改新というのは実在したのだ。あの大化改新の詔勅は虚構ではないのだということを述べられたわけでございます。
そして戦後になりまして、坂本太郎さんの弟子というか、大学の学生でありました井上さん(発表当時は教養部の講師か助教授)の研究発表がされたわけです。その内容は津田氏の疑いには根拠がある。証拠は一点に限定して論じたいのだが、要するに大化改新の詔勅では郡という行政単位を使って述べられている。郡司とか、郡に関する規定とか具体的に数字も挙げて述べられているし、大領、少領というような長官名副官名もでてくるのです。ところが金石文に依ってみると郡という行政単位が使われた痕跡がない、(七世紀後半)、それらは皆評である。評という行政単位が使われていた。例としてレジメに挙げておきました。この例をみても評を使い郡を使われた跡がない。するとこの点をとっても大化改新の詔勅というものを信用するわけにはいかない、という口頭発表をされたわけです。
この時の司会者が坂本太郎さんでして、この後東大でだしている『歴史地理』という雑誌で井上さんに対する反論をだされたわけです。「大化改新詔の信憑性の問題について」という題で、先日の井上氏の発表について、私は承服しがたいのでこれに対して再批判を述べてみたいと、一、一、論点を挙げて一、一、批判されたんです。非常に珍しい事件ですね。これに対して井上氏は「再び大化改新詔の信憑性について」を書かれたわけです。私はこの論文は非常にいい論文だと思うのです。興味のある方は御覧になったらいいと思います。若々しい、井上光貞さんの気迫がでておりまして、一、一、坂本さんの議論を再反論しているんです。そして最後のところは、「以上によって私(井上氏)は坂本先生の反論によって、いよいよ私の立論の正しいことを確信するに至ったことに厚く御礼を述べたい」と書いています。「更に私の言っていることが正しいとしても、それは何も私の手柄ではない。私は金石文、及びそれに準ずる史料に基づいたのであって、それを『日本書紀』という後で作った文献に基づいたのと、どちらの立地にたったかということの結果なのであって、必ずしも私自身の手柄ではない。」こういういい方をしておられるのです。
私は非常に面白い方法論の提起だと思うのです。坂本さんの場合は『日本書紀』を津田左右吉みたいに、やたら疑ってはいかん、それはそれで辻褄がつくんだという立場にたったわけです。
これに対して戦後の研究者である井上光貞氏は、金石文というものの表記によって『日本書紀』というものを批判する。同時代史料である金石文で、後代史料の文献を批判するという方法に私(井上氏)は立った。その結果が坂本先生の反論を受けても、なお確信をもてた理由なんだ。これは私の手柄ではなく私のとった方法の手柄なのであるという、もってまわったような、ある意味では非常にストレートな結合をもった論文だったのです。文字に書かれたものとしてこの「再び大化改新詔の信憑性について」が最初だったわけです。
この後坂本さんが又、反論をされ、それにいろんな学者が加わりまして、昭和二十年代から三十年代にかけまして学界の中でケンケンガクガクの論争が巻き起こされたわけです。田中卓さん等がこれに加わりまして、大阪にある社会事業短大がだしている『社会問題』という紀要みたいな雑誌に、この問題に関する論文を上中下だされたわけです。田中さんは坂本さんの弟子ですから、坂本説の擁護ということで上・中を書きだしたわけです。ところがいろいろ調べていくうちに変ってしまったんです。下では井上説に変ってしまったんです。ぶざまなことで誠に申し訳ないが、こういうことになってしまったと、論文としては珍らしい一幕も演じられる程熱意のこもった論争になったわけです。
これは郡評問題という一つの限定された問題のようにみえますけれど、意味するものはこれだけではありません。大化改新が実在したかどうかという問題、さらには七世紀後半の国家形成といいますか、そういう問題をどうみなすかという問題を含む問題だったわけです。だから法制史関係にも経済史関係にも様々な問題に波絞を巻き起していくという要因をもっておったし、事実各面に発展して、老大家から若い学者まで次々論文を出され続けていったわけです。
ところが熱気をもって質量とも拡大し続けた論争が、劇的に終結を迎えたというふうに研究史上考えられているわけでございます。それは奈良県、大和の藤原宮の遺跡の中から出土した夥しい木簡です。この木簡の中に評という単位がでてきた。藤原宮の木簡は七世紀終りから八世紀初めにかけて、言い換えますと大宝元年(文武五年)以前のものと、以後のものとにまたがっておる。大宝以後の木簡には行政単位は郡としてある。大宝以前は評としてあるということで論争はついに、井上光貞氏の勝利、坂本太郎氏の敗北という形で劇的な決着をみたわけです。私が『「邪馬台国」はなかった』を出す、つい何年か前です。
これによって井上光貞氏の学界における名声は一挙に盤石の重きを示したのです。もちろんそれまでも、「よくやる」という評価はあったのですが、決定的な重みをもって名声が確立したのです。
その後浜名湖の近所の遺跡から出土した伊場(いば)木簡からも同じように、七世紀段階では(えとで書いてある)評八世紀の大宝元年から後は郡という形で出土したわけです。
だから研究史上郡評問題は決着した、井上光貞氏は正しかったという形になっているのが現状でございます。皆様がこういう関係の本をお読みになればそうでてくるはずです。吉川弘文館の研究史シリーズの「大化改新」等を御覧になるとでてまいります。
さて私には、これは本当の決着にはみえなかったのです。むろん、結果としては、そのとおりです。『日本書紀』に大化改新の詔勅で郡と書いてあるものは、実際は評であったということは疑うことはできないわけです。しかし問題は何故そんな「書き換え」を『日本書紀』はしたのか、ということです。「書き換え」は『日本書紀』だけではないのです。『続日本紀』は『日本書紀』と違って、実直な事実を書いた歴史書というのが学界の評価なんですが、郡評問題に関しては、同罪なんです。『続日本紀』の先頭は文武元年から文武四年まで、かなりの頁数があるのですが、そこでは単位が全部郡になっているのです。だから評を郡に書き直しているのは、『日本書紀』だけではなく、『続日本紀』も同じことなのです。
何故このようなことをする必要があったのか、ということについて、今の学界の雰囲気としましては、評は郡に直して考えればいいのだ、という感じになっているわけです。大ざっぱにいいましてね。しかし第三者、岡目八目の目でみますと、おかしいです。評を郡に全部直して済むのならいいのです。しかし先程申しました評督ですが、郡督というのはないのです。郡督という言葉がないのです。郡の大領、小領、督領とか評督とか官職名にバラエティがあるのです。地域によって違ったのか分りませんね。だから『日本書紀』に書いているのを復元しょうとしてもできないわけです。この類のどれからとしかできないわけです。単純に評と書いたか、郡と書いたかの表記の違いではないです。これはおかしいです。藤原宮、伊場遺跡の状況からしましても七〇〇年まで評が使われておって、大宝元年(七〇一年)から郡が使われていたのはまず間違いないと現在では考えられているわけです。皆が自然発生的に七〇一年から郡を使い始めるなんてことは有り得ないことです。当然従来の評を廃止して、郡に改めるという詔勅がなければいかんわけです。権力者の命令なしに自然発生的に皆がいっせいに郡にかかわるということは、まず想像できないですね。
ところが『続日本記』のどこにも、評を改め郡にするという詔勅が無いのです。又ある道理がないのです。そうでしよう。大宝元年以前から郡できている形になっているのですから、今さら評を改め郡にするなんて記事があれば、へんなことになります。だから書き忘れたもの、というのではなく、構造上評を改め郡にする、という詔勅が有り得ない、存在しえないのです。しかし実際は確実にあったわけです。不思議ですね。実際には確実にあったものが、そこにでていない。又構造上だせない。これは大変な不思議ですよ。この疑問を解かないで「七世紀初めまでは評だった」では問題は終らないのです。坂本さんとのやりとりは終ったかもしれませんが、歴史上の真実の探求からいいますと、そこから本当の疑問が出現するというのが私の感じかたであったわけです。
坂本さんも当時から同じ感じをもっておられたようです。読売新聞社から『古代史への道』というのがでまして、その中で「郡評論争は私の負けと判断せざるをえないけれど、しがしながら、なお私には不思議である。何故評だけ郡に直さなければいけなかったのかが、私にはなお解(げ)しがたい、疑問に思う。」と二行ぐらいですが、ちゃんと書いてある。「評だけを」の「だけ」の意味は、一官職名、称号は次々かわっているのです。七世紀中ごろから大宝までよくかわっているのですが、『日本書紀』ではそのままになっている、後の称号に書き直していない。だのに何故評だけが郡に直さないといけないのか、ということがどうも解しがたいという意昧の「だけ」なのです。
私もこれを読んで論争の御当人は今もこの不満をもっておられるのだなと思いました。本人がそういわれるのですから、本当の結着はついていないのですね。意地で頑張っているのと違いますからね。
私がさらに興味深かったのは、「那須国造碑」を解読してみますと、評督という称号をもっていながら、評を誰れから何時貰ったかをカットしているのと、『日本書紀』『続日本紀』が評をカットしている、郡に書き換えているのとが共通している。
そして『日本書紀』『続日本紀』とも評という制度を隠すという点では同じですが、『続日本紀』のほうが「那須国造碑」と、より深く共通していると思います。評督という評制によってできた役職名は『日本書紀』には一切でてこない。ところが『続日本紀』には評督という官職名だけがポツリポツリとでてくるのです。井上さんが例を挙げておられます。
評督凡直麻呂等。木国氷高評。衣評督衣君県、助督衣君弓自差〔続日本紀〕
このように『続日本紀』には評督という官職名がでてくるのです。官職名があるからには、評という制度を、いつか誰れかが施(し)いたはずで、その称号も誰れかが与えたはずでしょう。ところが『続日本紀』には評という制度を書いていないから、誰れがいつ与えたかには一切ふれていない。『日本書紀』には全く評の制度はでてこないですから、どちらを続んでも評督という制度の身元は一切分らない。しかし評督を名乗った人達が『続日本紀』にポツポツでている。これは「那須国造碑」と同じですね。「那須国造碑」を私の続み方で続むと「那須国造韋提評督」という人物がおりますので、評督という称号はあるのです。それをいつ誰が与えたかということは、ここではもう触れません、という姿勢なのです。ですから『日本書紀』以上に『続日本紀』は「那須国造碑」と姿勢が大変共通している。しかも「那須国造碑」は七〇〇年、文武四年(韋提の死んだ年)以後しばらくしてできたのでしよう。だから『続日本紀』の領域の時点で碑ができたことは、証拠上、疑いないのです。
近畿における正史といわれる文献と、同時代史料である金石文と、両者共通して「評制隠し」をしている。評督はチラチラみえているが、制度については、誰れが何時施行したかは、カットするしという姿勢において共通しているわけです。
ここで私は最も根本をなす命題を申し述べたいと思います。一つの制度、広汎な領域にわたり一定の期間にわたる制度を「隠す」ということは、一体何を意味するか。隠さなければいけないとは、何を意昧するか。それは当然その制度を施行した権力を隠す、ということを除いては考えられない。制度というのは一人の人問の思いつきで、言いふらして制度になるものではありません。権力が原点に存在してこそ、制度が存在する。これは当然のことですね。その権力が施行した制度を隠すというのは、結局権力自身を隠すということを原点にしなければ意昧をもたない。これが、この問題を解く場合の基本のテーマであると思うわけです。
それでは評という制度は、どこに淵源する制度であろうかという問題にうつってまいります。
評の歴史について、郡評論争の中で井上光貞さん他いろいろ触れられております。しかし不思議なことに朝鮮半島で、朝鮮で行なわれた制度を日本で真似したという形で触れているに留っているわけです。私は朝鮮で評が行われる前に、中国における評という制度上の述語について、私の見た範囲で誰れも触れていないのが、大きな問題のキーポイントになると思われたわけです。
中国の評という概念は倭の五王のでてきます『宋書』にでてくるわけです。それによりますと、延尉という官職名について述べまして、これは裁判の制度であると同時に軍事の制度である。裁判と軍事を相兼ねたものであるという説明をしてありまして、その長官を廷尉正。現代でも検事正といういい方をしています。これと同じ正です。副官は廷尉監。第三番目の、一番末端の役目が廷尉評なんです。そして
魏・晋以来、直云評。
廷尉評が省略されて、ただ評という言い方で呼ばれるようになった。魏・晋の魏は卑弥呼の行った魏です。南朝劉宋においてもやはり評といわれていた。
ということは私の想像が入るのですが、魏の時代に洛陽等に行きますと、当然廷尉の正・監・評の三者が揃っていたと思うのです。ところが楽浪帯方あたりまでくると、場合によって正監がいなくて評だけみたいだったのではないだろうか。別に楽浪帯方に正監がいてもかまわないのですが、直接人民にタッチするのは評である、帯方郡の評であると考えていいだろうと思います。これが軍事権も握り且つ裁判権も握る。いわゆる中国人だけでなく、朝鮮半島に住む韓人とか倭人とかに紛争が起きたら、評が「評決」する。それに従わない者には軍事力をもって従わせる、という威力を振っていたのが帯方郡における評であるというわけです。
すると卑弥呼の倭国が評のことを知らなかったはずはないわけです。又倭の五王が評のことを知らなかったはずも当然ないわけです。又中国の影響をうけるなら、評の影響もうけたということは、考えられるわけです。それがあるかというと、あるわけです。
(継体二十四年、530、梁武帝、中大通二年)秋九月、任那使奏云、毛野臣、遂二於久斯牟羅一、起二造舎宅一、淹留二歳、(中略)毛野臣聞二百済兵来一、迎二討背評(背評地名)。亦名二能備己富里一也。傷一死者半。〈日本書紀、継体紀〉
とあります。この前に任那の久斯牟羅という、言葉がでてきまして、久斯牟羅というのは任那の地名であることが示されているわけです。この史料を井上光貞さんは挙げられたのですが、“久斯牟羅は百済もしくは任那の地名であろう。”といわれて、朝鮮の評という地名を後に日本が真似したんだろうといつ形で、話を進められたんです。しかし私はそれは正確ではないと思うのです。何故といいますと、百済か任那ではなく、任那に決っているのです。任那の久斯牟羅ですからね。
背評をバックに戦った。背というのは日本語くさいですね。それに能備己富里の能備も日本語みたいですね。吉備等と同じような日本語地名のようです。以上のようば形で評がでてくるわけです。
ということは倭の五王が六国諸軍事大将軍といいました時に、任那も六国の中に当然入っているわけです。倭の五王が六国諸軍事大将軍といった意味は、西晋が滅亡して南の建康(現在の南京)に都を移した。その結果楽浪帯方は実質的に権力の空白状態になるわけです。西晋か楽浪帯方を支配していたのだが、西晋が東晋に移った。東晋が楽浪帯方を大義名分上は支配していたのだが、海を越えてだから実際上の支配権をもたなくなった。そのため北から高句麗、南から倭国が空白をうずめるべく激突するというのが、四世紀末から四世紀にかけての状況になるわけです。
ここで六国諸軍事大将軍と名乗ることは、又自ら開府儀同三司と名乗ったことは、かって帯方郡の評が行っていた軍事、裁判支配権を私が替ってやるのを認めて欲しい、ということなのです。諸軍事のキーポイントは評なわけです。任那日本府というでしよう、任那に評を置いて当り前なのです。だから任那の評というのは倭の五王の六国諸軍事云々の実理した姿なのです。楽浪帯方が健全な時には評はいらないし、作らないかもしれませんが、三十六年以後、空白におち入った後、倭王が任那に評を作った、その根拠地である。言い換えると評というのは朝鮮半島にあるけれど、倭国の称号なのです。官庁名というか軍事名というか術語なのですね。「任那日本府はなかった」という立場に立つ人は違う議論をされて結構ですが、「任那日本府があった」というなら、この評は倭国の倭王の評、軍事裁判権の評とみなさなければならない。
ところがこうした場合、先程の論証のように倭の五王は九州の王者である。そうなりますと筑紫の君の配下の評となってくるわけです。倭国内の評はここに始まっている。こういうふうに考えなければならない。
さてこれは六世紀前半のことでした。この後朝鮮半島内で同じく評を名乗る例がでてまいります。
基色在内曰二啄評一、国有二云啄評・五十二邑靱一〈梁書新羅伝〉
『梁書』に新羅で啄評という言葉を使っているというのがでてまいります。これも六世紀。新羅は啄評というのを使い、倭国側では評というのを使っている、行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね。
さらに高句麗における評があります。
復有二内評・外評・五部褥薩一〈隋書、高句麗伝〉
内評・外評と内外は付いていますが、ズバリ評がでてまいります。これは『隋書』ですから七世紀初めなのです。倭国より史料として遅いわけです。だから高句麗の影響をうけて倭国が作ったというわけにはいかないです。中国の影響をうけて新羅や倭国や高句麗が評を設定した、その証拠とみるべきです。
さて本日問題にしております七世紀後半の史料を申し上げます。
一、(天智六年)十一月丁巳朔乙丑、百済鎮将劉仁願、遣二熊津都督府熊山縣令上柱国司馬法聴等一、送二大山下境部連石積等於筑紫都督府一。〈日本書紀、天智紀〉
とありまして筑紫都督府というのがでてきます。百済鎮将劉仁願というのは有名な白村江の戦で勝った方の唐側の将軍名です。『旧唐書』『三国史記』にでてきて実在は明らかなのです。又百済に熊津都督府というのが置かれたのも『三国史記』にでてまいりまして、これも疑う人はいないわけです。
ところが筑紫都督府だけ始末に困って、『岩波古典大系』本を御覧になると、“これは造作である、何か文飾であろう。”と注に書いてある。しかし三つある内二つまでが、リアルな実在の人名・官職名なのに、最後の肝心の一つが文飾だっていうのでは話にならないですね。要するに“文飾にしたいから文飾といっておく。”だけのように私にはみえました。三つの内二つがリアルであれば当然筑紫都督府もリアルであると考えなければならない。
大事なことは倭の五王の時代、百済王も当然将軍号を貰っているのです。そして倭の五王も百済王も都督を貰っているのです。六国諸軍事のところは、使持節都督で始まっていますね。だから倭の五王は都督なんです。百済王も都督なんです。都督の百済王の姿が、七世紀後半の姿が、熊津都督府の存在なんです。すると当然倭の五王の七世紀後半の姿が、筑紫都督府の存在なのです。当り前なんです。何の矛盾もなく話が、骨組みができているのです。それを近畿天皇家一元主義でするから、上手く合わない所は文飾であろうといわざるを得なくなってくるのです。
この都督府がいかに重要か、この点についていいます。先程評の長官が評督といいました。評督といいますのは沢山あるわけですね。その評督の中心が都督なわけです。都というのは都(みやこ)と思いやすいのですが、必ずしもそうではなく、「すべて」という意味のようです。その都督が中心にあって、その下に評督が並ぶ、こうなって初めて一元の体系になるわけです。評督だけで中心がないというのはおかしいわけです。
具体的にいいますと、評督が七世紀後半に行なわれていた事は事実ですね。金石文その他で事実です。筑紫に都督府があったことも事実と考えざるをえない。そうするとこの評督と都督が無関係というのは考えにくい、こうなってくる。
就中、九州において都督と評督の関係を立証するものは、
(薩末)衣評督衣君県、助督衣君弖自美〈続日本紀、文武四年六月庚辰〉
です。薩摩の衣評督、これは九州の評督ですから、筑紫の都督府の下における評督と考えるのが筋である。ところが近畿天皇家では(『続日本記』で)評督という称号は認めているけれど、誰れが、どこが中心かは一切触れていない、というのが『続日本紀』の姿でございます。その中心は筑紫都督府ではなかったか、ということでございます。
さらにもう一つの問題として「庚午年籍」問題がございます。『日本書紀』に
(天智九年)二月造二戸籍一。断三盗賊興二浮浪一。
とあります。ところが誰れが作ったか書いてないのです。この場合普通に読めば天智天皇が主詔になるのでしようが、勿論天智天皇が自分で作るわけではなく、配下の人物が作るのです。他の所では配下の人物をちゃんと書いてあるのに、ここだけは誰れが作ったかは、一切ノータッチ。ただこの年に戸籍ができたということを書いてあるのです。ここの所で論議がいろいろでてくるのです。
それから「令」の問題があります。つまり戸令を基にして戸籍ができるわけです。ところが「庚午年籍」と対応すべきはずの「近江令」が、『日本書紀』に全く姿をみせない。後世の文献にはでてくるのですが、『日本書紀・天智紀』には全く「近江令」の記載がないのです。これも不思議です。
又「庚午年籍」に評督という称号を含んでいたことは確実なのです。
評督凡直麻呂等〔続日本紀、神護景雲元年三月乙丑条。庚午年籍〈天智九年〉・・・自此之後〕
これは「庚午年籍」に関連する記事なんです。ここで評督という名前を名乗っている。だがら「庚午年籍」が評という単位を基にしていたということは、七世紀後半である以上間違いないわけです。評督という称号をかなり含んでいたことも証明できている。
その上不思議な記事がございます。
(神亀四年 727)秋七月丁酉。筑紫諸国、庚午籍七百七十巻。以二官印一々レ之、〈続日本紀、聖武天皇〉
つまり筑紫から「庚午年籍」が七百七十巻でてきた。「庚午年籍」を作ってからウーンと時問がたっているのですが、これに印を押して厳重保管したとあるわけです。
ではできた時の印は、誰れが押したのか、となりますね。関東で百巻たらずでてきたのがありますが、他にこんなのはないのです。何百何十巻というのは筑紫諸国だけなのです。そしてこの七百七十巻は、評と評督を含んでいた。その中心には筑紫都督府があった。こうなりますと、どうもこの「庚午年籍」は筑紫都督府が原点になっているのではないか。だから『日本書紀』は、戸籍を作ると書いても、誰れが作ったかは一切ふれない。又「近江令」というものも、『日本書紀』では一切作ったとはいっていない。
この七世紀後半をめぐって、戦前から戦後にかけてありとあらゆる意見がでているのです。
その一々については、今は詳しく申せませんけれど、大体は、
“大化改新詔によって発布された内容が、孝徳・斉明・天智・天武・持統という各代を経て発展し、文武天皇の大宝年間に至って、「大宝律令」として結実するに至った。”
これを批判したのが津田左右吉の大化改新詔疑惑説、というのが戦前的な説の大体です。これに対して、井上光貞さんは若い時に(戦後)、戦闘的な口頭発表や論文を次々と書かれたのです。郡司制についても、若い時書いておられまして、その最後のところに有名な言葉がでてきます。“結局、これによって郡が偽りで評が正しい、「大化改新詔」が一篇の虚構にすぎないということが証明できた。”という印象的な若々しい文章があるのです。
ところがその後の井上光貞さんはいささか違う方向に進まれるわけです。つまり郡を評に直せばいいのであって、後は大体いいのだという方向に近づいていくのです。細かくいいますといろいろ問題がありますが、大きくいうとそうなっていくのです。
原詔の存在を疑えない。ということで、例えば「白髪部五十戸」問題というのがあります。五十戸という単位が木簡にでてきているが、この木簡にでてきている五十戸が、「大化改新詔」にもでてきているというのが証拠だとして、郡を評にかえるべきだが、他の所は大体において認めうるのではないかという傾向に進んでいくのです。この傾向を一番強く代表するのが東北大学の関晃(あきら)さんという人です。
それに対し“いわゆる「大化改新」は嘘なのだ”という主張が『日本史研究』という雑誌を中心にでてきました。門脇貞二さん、原秀三郎さんとかいった人達です。「大化改新」を疑うという、いわば井上さんの若い時の路線を拡大していこうとするわけです。
しかし「大化改新はなかった」という言葉だけをみるとすごいのですが、私の目からはコップの中の嵐にみえるのです。大化改新は否定しなければならない。唯その内容は天智の末年から天武の初年頃に行われたもので、それをちょっと上にズラして大化改新にもっていったということです。だから、なかったといっても何年かズラしただけではないかと、他所から入った我々にはみえるわけです。そして何よりも「天皇家一元主義」という基本は守っているのです。ただ時間的に上下ズラすかズラさないかということにすぎないのじゃないか。大雑把にいいますと。「大化改新はなかった」という言葉は印象的だが、その実態はそういうことになってくるのです。この立場の論旨は、これは国家成立論に関係する重要テーマだ、といいますし、それも嘘ではないのですが、結局それは「天皇家一元主義」の内部での話です。私のように外部からみると、あくまで「天皇家一元主義」の枠の中でしか、ものはいわれていない。蘇我氏の勢力は、大化改新以後も(一部は)続いたとみるべきである、といった類の議論、つまり、より“うちわ”のテーマにとどまるという感じです。これも時間がないので簡単な要約にすぎるかもしれませんが、大局的には、私の立場からは、そうみえるわけです。
「近江令はなかった」という論文を、若い時に青木一夫さんが出されたのです。それに井上光貞さんが反論して庚午年籍は実在するのだから、近江令がなければおかしいという論理がでてくるのです。又“近江令はなかったのだけど、浄御原律令はあったのだ。”“天武・持統の時の浄御原令はあった。”という考え方。“近江令と浄御原律令と両方あった。”とか、“両方でたのだが、近江令は実施が後に延ばされた”等等、学界の中で、ちようどあの「邪馬台国」問題のように、ありとあらゆるニュアンスの議論がでてきているのです。
時間がないので一つ一つにふれませんが、私の目からみると、これは非常にはっきりしていると思います。若き日の井上光貞さんが「再び大化改新詔の信憑性について」〈歴史地理〉の論文の結論で述べられた言葉の主旨こそ、私は正しいと思います。
大阪の四天王寺に「威奈大村骨蔵器(銅製鍍金)〈慶雲四年、七〇七〉があります。ここに、
以二大實元年一 律令初定。
という金石文があります。だから大宝元年に律令が初めてできたのです。ということは“近江令も駄目、浄御原律令も駄目”なのです。“大宝律令が最初。”なのです。これは非常にはっきりしているわけです。
先程の井上さんの場合『日本書紀』と金石文が矛盾する場合、金石文をとるという論法だった。この場合必ずしも『日本書紀』と矛盾していないのです。なぜがならば、『日本書紀』はちゃんと正直にも、「近江令を作った」とは、一切書いていないのです。又「浄御原律令を作った」とも書いていない。天武十年(六八二)のところに
(一月)詔二畿内及諸国一、修二理天社地神宮一。
(二月)朕今更欲下定二律令一改中法弐上。
とあります。律令を作りたい。「律令を作った」のではなく、“作りたい”という希望を表明したというわけです。これまで律令ができてない、裏付けでもあるわけです。“今更”とあるから、その前にあったのだという講論もありますが、これはその前の文章をうけているとみるのが素直なとり方だと思われます。
次に持統三年(六八九)をあげます。浄見原律令の根拠にされたものです。
班二賜諸司令一部廿二巻。
「令」しかなくて、「律」がなくて困るのです。そこで“令だけで律がなかったんだ”“両方あったのだが、律は作ったが施行しなかった”等いろいろでてくるのです。
しかしおかしいのは、天武が律令を作りたい、定めたいと希望表明してあと、持統三年の班賜までの間に、「作った」という記事がないのです。『日本書紀』の“詳しさ”からみると、おかしいですよ。作った記事がなく、「班賜」だけがあるのはおかしいわけです。
しかし従来の考え方では、持統天皇が「班賜」した以上は、作った記事がなくても、作ったのだ。作ったということは省略されているのだ。こう考えてきたわけです。私はそう考えないのです。『日本書紀』が作ったといっていないから、作っていない。「班賜」するというのは、自分は作っていないのだから他の人が作ったのを「班賜」したのです。こうなるわけです。
要するに日本列島の中で、律令なんて作れる人間は、天皇家以外、恐れおおくもありえないというのを、論証以前の絶対命題にしてすべての論争、戦後古代史の学者の論文はなされているのです。この土俵の中でされているから、先程のようにいじくっていじくって結論がでないのですよ。文章がこのように不揃いなものですから。
私は思うのですが、このようなのは『日本書紀』を作る直前の話ですよ。七世紀の後半です。皆知っている。本人も知っている。現場にお祖父ちゃんが、お父さんがタッチした、「班賜」したのを見た人達ばかりの中で『日本書紀』はできたのですよ。そこでうっかり、「律令を作った」のを忘れて、書くのを忘れた、などということは、ありえないと思うのです。忘れるにしては、あまりにも、ことが重大すぎます。忘れ得る性質のものではない。にもかかわらず、「近江令を作った」と書いていない。浄御原令なるものも「作った」と書いていない。ということは、ちゃんと作ったとは、書くに書けないものであった。言い換えると、それは近畿天皇家が作ったものではない、ということになってくるのです。
近畿天皇家以外に、律令を作る存在があるのか? 先程申しましたように、筑紫の君、つまり倭の五王の後継者は六世紀前半から律令を作り、七世紀前半には中国語を使って天子を称した。天子を称しながら、律令を作らない天子はいないわけです。東アジアの常識では、当然律令を作っている。「班賜」しているわけです。そして七世紀後半では、筑紫都督府と名乗り、その下に評督、評という行政単位をおいていた。この評という制度も六世紀前半に逆のぼる。さらには帯方郡の評に基づくものであった。
こう考えてみますと、近畿天皇家以外に律令を作る公権力があるのが当り前で、無いと考える方が非常に独断的であるわけです。
戦後学界の中で、最も百花繚乱の観を呈した郡評問題は、実は「天皇家一元主義」の中でしか、論争が行われなかったところに、混乱と解決をみない原因がある。
そして一番根本的な疑問。何故評を郡に書き直し、そして「評制を隠す」又「評を廃止して郡を置くという、肝心要の詔勅を消しさる」ということを、しなければならなかったかという問題に対する解答をなしえずにやってきた。
その解答は、近畿天皇家一元主義にたつ限りは無理である。近畿天皇家の胎内、例えば大友皇子が作ったのだろうと、いえればいいのですが、大友皇子が作ったものは『日本書紀』にちゃんとでてきます。
天智十(六七一) ーー冠位、法度の事、施行
〈大友皇子東宮太皇帝(天武)〉
とありまして「東宮太皇帝(天武)が作った」と書いておいて「或いはいわく、一に大友皇子が作る」と最後の方に書いてある。大友皇子が作るという一節、こういう場合一節の方が正しいに決まっているのですが、名目上天智の時、弟の天武が作ったというのを本文にしておく。しかし皆大友皇子が作ったことは知っているわけです。直接の担当だったことは。だから一にいわく・・・。読む人に対してなだめ役みたいなものです。こういうふうに大友皇子が作ったことは、決してカットされていないわけです。まして評制を大友皇子が作ったという説はありません。大友皇子以前から評制はあるのですから。蘇我氏が作ったというのも、うまくいきそうにないです。
ということで天皇家内のミニチュア的な解決では不可能である。天皇家一元主義という根源の枠を外さない限り、これに対する解答はでてこないということです。
今日お話し申し上げましたのは、三世紀、五世紀、或いは七世紀前半という問題だけでなくて、七世紀後半においてこそ従来日本の考古学・古代史の学界が最も深い悩みとして、論争を続けてきた問題、又一見解決したかにみえたが、実際は更に深い困難点をもっていたものが、天皇家一元主義の絶対観念から解放された時に、それに対する解決をみることができる。
少くとも天皇家一元主義というのも一つの仮説であろう。それは認めてよろしい。しかし日本の古代を多元的に理解する、というのも、もう一つの仮説である。一元説の仮説からは解決不可能なものが、多元説にたつ場合は解決されてくる、ということでございます。
つけ加えますと関東の場合、九州王朝直結というよりも毛野君に直結だと思います。那須国造に評督を与えたのは、毛野君であろうと思います。毛野君のバックにあるのが九州王朝。ということで九州王朝が全国一率に評制を施いたということではありません。当然九州で評制を施く。それに倣って近畿天皇家や関東で評制が行なわれる。だから評制は九州王朝が作ったというより、九州王朝系の制度であるといえば、なお正確であろうかと思います。
重大な問題ですので、色々申しあげたい点があるわけですが、大筋のところは申しあげましたのでお分りいただけたならば、幸です。非常に複雑、重大な問題ですので、論文や一般にお読みいただく本等で、詳しく書かせていただきたいと思いますので、それで御理解いただければ幸と思います。
今日は今迄の講演会の中で、一番複雑といいますか、いわば専門的なテーマを申しました。お分りにくかった点があるかと思いますが、これをもって終らせていただきます。どうも有難とうございます。(拍手)
次の史料は「大化改新と九州王朝」のテーマのもとで、講演会会場で配布されたものである。枚数の関係で一部割愛した(九州年号表、参考文献等)ものについては、古田武彦氏の『多元的古代の成立(上・下)』(駿々堂)『よみがえる九州王朝』(角川選書)、『邪馬一国の挑戦』(徳間新書)を参考されたい。
(2007.02.01 インターネット事務局より。レジュメは参考です。完全に復元して表示できません。原文を確認して下さい。)
古田武彦
一九八三、十〜十一月大阪・東京・博多(下関・北九州)
A(従来説の手法(一例)
去来穂別(イサホワケ、履中)の第二者「サ」→讃。
B新しい史料批判
イ、倭王の国書の自署名
「倭王倭讃」(宋書文帝紀)
ロ、「衙頭の論証」
筑後国風土記、磐井
衙=牙(公府)大将軍の本営
開府儀同三司〈三国志、宋書、晋書〉
安東大将軍、倭国王、武
“筑紫の君は自己の本営を「衙」(大将軍の本営)と称している”
これに反し
“近畿天皇家は自己の本営を「衙」と称し、「〜大将軍」と称した等の痕跡、一切無し”
A九州年号「偽作」論の非道理
(1).なぜ神武天皇から「偽作」しないか。(継体十六年、五二二)
(2).なぜ書紀の「仏教初伝」(欽明十三年、五五二)記事以前に「僧聴元年」(五三六)という、仏教年号を「偽作」したのか。(五三八よりも、さらに早い。)
(3).書紀の「大化」(六四五〜六五〇)と同時期に、なぜ「命長六年〜常色四年」の年号を「偽作」したのか。
(4).九州年号は、なぜ近畿天皇家の天皇の即位年にほとんど一致せずに開始するのか。(一致は二例のみ。)
右の四疑問に対して答えられないことはない。江戸時代の盛んだった論議が、水戸学によってイデオロギー的に攻撃され、それが明治維新以降の「九州年号無視・否定」の“通論”を生み出した。(学問的な否定の論証の成立によるものに非ず。)
B新しい論証
イ、新羅年号の成立
建元元年(五三六)法興王
ロ、新羅年号の廃止
太和四年(六五〇)真徳王
ハ、イ妥*国、「日出づる処の天子」多利思北孤(イとロの間)
天子に年号は不可欠。=九州年号(五二二〜七〇〇)
“近畿天皇家に年号なし”
A中国における律令発展史
(一)国家のおきて。大綱(律)と条文(令)
ーー漢・魏・晋・南北朝ーー
イ、先入収秦 相御史律令蔵之。〈史記、繭相国世家〉
ロ、杜周日、前主所是著為律後主所是疏為令。〈史記、酷使博〉
ハ、命繭何次律令。〈漢書、高帝紀〉
二、或學律令。〈漢書、循使博〉
ホ、杜預律序日、律令以正罪名、以存事制、二者相須為用。〈藝文類聚〉
(二)令は法令。令を犯すものを刑する制を律という。
ーー唐、律令格式
「律令格式」
唐の四刑書の名。令は尊卑貴賎の等数、国家の制度。格は百官有司の常に行ふべき事、式はその常に守る所の法、律は以上三者に触れる者、及び他の罪戻を犯す者を断ずる規定を記した書。〈諸稿、大漢和辞典〉
唐之刑書有四、曰、律令格式、令者、尊卑貴賎之等数、国家之制度也、格者、百官有司之所常行之事也、式者、其所常守之法也、凡邦国之政、必従事於此、三者其有所違、及人之為悪而入、干罪戻者、一断以律。
〈文献通考、刑制考〉
記=○三 かきもの。 ○イ、事の頴末をしるした文書。記録。図書。 ○ロ、下しぶみ。教育。廻状。
B新羅における律令の成立
(法興王)七年〈五二〇、庚子〉
春正月。領示律令。始制百官公服、朱紫之秩。〈三国史記、新羅本紀四〉
〔このあと、建元元司(五三六)新羅年号成立。法興王〕
C筑紫の君、磐井における律令成立の証跡
筑後國風土記曰 上妻縣 々南二里 有二筑紫君磐井之墓墳一 高七丈 周六十丈 墓田南北各六十丈 東西各卅丈 石人石盾各六十枚 交陣成レ行 周二匝四面一 當二東北角一 有二一別區一 號曰二衙頭一 (衙頭政所也) 其中有二一石人一 縦容立レ地號曰二解部一 前有二一人一 [身果]形伏レ地 號曰二愉*人一(生為愉*猪 仍擬レ決レ罪) 側有二石猪四頭一 號二贓物 (贓物盗物也) 彼處亦有二石馬三疋 石殿三間 石藏二間一〈下略〉
[身果](あか)は、身編に果。JIS第4水準ユニコード番号8EB6
愉*(ぬす)は、立心偏の代わりに人偏。番号5077
ーー
「善記元年」(五二二)
(1).出レ記問二墾田頃畝一。 〔注〕師古曰、記、謂教命之書。〈漢書、向武博〉
(2).少為二郡督郵一、時部縣亭長有下受二入酒禮一者、上府一下レ記一案二考之一、意封還二記一。〔注〕記、文符也。〈後漢書、錘離意傳〉
〈その一〉那須国造碑〈栃木県〉
永昌元年巳丑四年四月」飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹」那須直韋提評督」被賜』歳次康子年正月二壬子日辰節尓』
仰惟殖公廣氏尊胤国家棟[木梁]一世之中重被貳照一命之期連見再甦〈下略〉
〈従来説〉那須国造・追大壱・那須直韋提、評督(こほりのかみ)を賜はる。
〈古田説〉那須国造・追大壱を、那須直・韋提評督(が)賜はる。
[木梁]は、木編に梁。梁の異体字。JIS第4水準、ユニコード6A11
根拠
(1).己亥年十月上挾(かずさ)国阿波評松里
(六九九 ーー文武三年)〈藤原宮木簡〉
国(上部概念)→評(下部概念)
(2). イ、倉足諏訪評督〈信濃国、金刺氏系図〉
ロ、新家連阿久多督嶺〈皇太神宮儀式帳〉
那須直韋提評督
(3). イ、其朝服者、浄大壹己下、廣貳己上黒紫〈持統紀、四年四月〉
ロ、追大壹黄文連備。
〈続日本紀、文武四年六月〉
追大壱 ーー 飛鳥浄見原大宮(持統三)
(3). A 1永昌元年→ 2飛鳥浄見原大宮→ 3那須国造・追大壹(新下賜官職)→ 4那須直韋提評督(本人)
〈古田説〉
〈従来説〉
B 3那須国造・追大壹・那須直・韋提(本人)→ 4評督(新下賜官職)
尊→卑の文脈(従来説は、肝心の新下賜官職を「本人」の足下に踏みつける。)
(5).従来説では「肝心の新下賜官職」のみ「那須」を省略、となる。
(6).二つの年時、二つの授与者の中の一方をカット。
年号比較表は、表示できないのでカット。画像で確認して下さい。
(インターネット上の強調のための赤色表示と漢文表記は省略)
A風郡、以四十里為大郡。三十里以下四里以上為中郡。三里為小郡。其郡司、並取国造性識清靡堪時務者為大領少領。・・・凡五十万為里。
〈大化二年、改新之詔、考徳天皇、日本書紀考徳紀〉
井上光貞氏「大化改新詔の信憑性」
昭和二十六年十一月東京大学
史学会 第五十回大会 研究発表
「評」史料(井上氏『日本古代国家の研究』P388〜390
(1).評督領〔皇太神宮儀式帳〕
(2).笠評君〔金銅観音薩造像記、辛亥年〕(白雉二年とする)
(3).石城評造部志許妻等〔常陸国風土記多珂郡、癸丑年〈白雉四年〉〕
(4).評督凡直麻呂等(続日本紀、神護景雲元年三月丑年。庚午年籍〈天智九年〉・・・自此之後〕
(5).川内国志貴評〔僧宝林敬造金剛傷陀羅尼経願文。歳次丙戌年 ーー天武一四年か。〕
(6).那須国造追大壱那須直韋提、評督被賜、〔那須国造碑銘、永昌元年 ーー持統三年、井上氏の読みによる。〕
(7).木国氷高評〔続日本紀、天平宝字八年七月「未条。条。・・・後至庚寅論 之歳等 ーー持統天皇四年〕
(8).糟屋評造舂米連広国〔妙心寺鐘銘。戊戌年〈文武二年とする〉〕
(9).(薩末)衣評督衣君県、助督衣君弖自美〔続日本紀、文武四年六月庚辰年。〕
〈系図〉
(10).次評造小山上宮手古別君之 ーー子評督□建□別君之〔讃岐、和気氏系図〕
(11).真里子阿蘇評督 ーー角足阿蘇評督
〈朱鳥二年二月為評督改賜姓宇治宿禰〉 ーー平田麻呂
〈阿蘇郡擬大領、外従七位上阿蘇宮司、平城宮朝廷郡司〉〔肥後、阿蘇氏系図〕(参考)
(12).倉足諏訪評督〔信濃、金刺氏系図〕(参考)
(13).〈田中卓氏による、井上氏は従がわず〉
a高市評久米里〔和爾部系図〕
b多々見(年魚市評督、板蓋宮朝奉斎、熱田神宮)
〔田島氏(尾張)系図〕
c立水依評任督〔伊福部氏因幡系図、孝徳二年〕
B
a日本書紀
(1).豊国国前郡(垂仁二年、一云)
(2).肥後国皮石郡(持統十年 696)
b続日本紀
(1).詔、筑前国宗形。出雲國意宇二郡司。・・・(文武二年、698 三月)
(2).大倭国葛上郡鴨君粳賣(文武四年、700 十一月)
日本書紀 ーー原則として評制の痕跡なし。(ただ例外一 後述)
続日本紀 ーー評制について記さず。特に「評→郡」の変換の詔カット。
評制の痕跡有り。(上の(4),(7),(9))
共通 九州年号の制について記さず。九州年号の痕跡有り。
「白鳳以来、朱雀以前」〈神亀元年、七二四、聖武天皇〉詔報
(インターネット上の強調のための赤色表示と漢文表記は一部省略)
A中国における評(三〜五世紀)
廷尉一人。丞一人。掌刑辟。凡獄必質之朝廷、興衆共之之義。兵獄周制。故曰廷尉(中略)
廷尉正、一人。廷尉監、一人、正、監並秦官。本有左右監、漢光武省右、猶云、左監、魏、晋以来、直云監。廷尉評、一人。
漢宣帝、地節三年(前67)、初置左右評、漢光武省右、猶至左評。魏晋以来、直云評。正・監・評並以下官禮敬廷尉卿、正・監秩千石、評六百石。
廷尉律博士、一人。魏武初建国置
〈宋書、百官志上〉
B朝鮮半島における評(六〜七世紀)
(1).倭国(任那)における評。
(継体二十四年、530、梁武帝、中大通二年)秋九月、任那使奏云、毛野臣、遂二於久斯牟羅一、起二造舎宅一、淹留二歳、(中略)毛野臣聞二百済兵来一、迎二討背評(背評地名)。亦名二能備己富里一也。傷一死者半。〈日本書紀、継体紀〉
〔任那 久斯牟羅〕〈日本書紀、継体紀〉
〔糟野評造〈戊戌年文武二698,638,578,518〉
〈九州年号、善記元年(継体十六)522〉
(2).新羅における啄評 六、のAの(8)
基色在内曰二啄評一、国有二云啄評・五十二邑靱一 〈梁書新羅伝〉
(3).高句麗における評
復有二内評・外評・五部褥薩一 〈隋書、高句麗伝〉
(天智六年)十一月丁巳朔乙丑、百済鎮将劉仁願、遣二熊津都督府熊山縣令上柱国司馬法聴等一、送二大山下境部連石積等於筑紫都督府一。
〈日本書紀、天智紀〉
倭の五王(都督)→筑紫
百済王余映(都督)→熊津都督 〈宋書〉
(1).(天智九年)二月造二戸籍一。断三盗賊興二浮浪一。〈日本書紀、天智紀〉
(2).「近江令」の記載なし。〈同右〉
(3).庚午年籍は「評督」に拠る。〔六、のAの(4) 〕
(4).(神亀四年 727)秋七月丁酉。筑紫諸国、庚午籍七百七十巻。以二官印一々レ之、〈続日本紀、聖武天皇〉
筑紫都督府→評督
A従来説 ーー近畿天皇家一元主義根本〈日本書紀・続日本紀依拠。〉
B新しい史料批判 ーー多元主義根本〈旧唐書依拠。〉 〈続日本紀〉
基本骨格
七世紀以前 ーー倭国 〔太宰府の九州直轄〕
八世紀以降 ー日本国(日本アルプス以西)
毛人国=「東国」〈日本書紀〉
〈大化改新における東国の特別扱い〉
古代史再発見2王朝多元 ー歴史像 古田武彦へ
7 「乙巳(いつし)の変」はなかった 古田武彦(『古代に真実を求めて』第12集)へ
「元壬子年」木簡の論理 古賀達也(古田史学会報75号 2006年8月8日)へ