古田史学論集 第十二集
古代に真実を求めて
古田史学の会 編
明石書店
2009.3.25発行
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003 巻頭言 会員論集・第十二集発刊に当たって 古田史学の会代表 水野孝夫
特別掲載I 【講演記録】
011 九州王朝論の独創と孤立について(古田武彦)
1 日文研フォーラムより/2古事記の撰録に於ける「削偽定實」の問題/3「大化の改新」批判ーー津田左右吉氏・井上光貞氏の方法論に対して/4国造性の史料批判 ーー井上光貞氏の方法論に対して/5大化改新はなかった/6『日本書紀』は大胆で露骨で、かつ不器用である,1)東国問題,2)「墓」の規模問題,3)九州の吉野,4)「大化」「朱鳥」「白雉」の三つの年号/7「乙巳(いつし)の変」はなかった/8太宰府紫宸殿と倭京/9立評問題について/10言語の問題について
訂正 7「乙巳(いつみ)の変」はなかった →「乙巳(いつし)の変」はなかった
II 研究論文
065 生涯最後の実験(古田武彦)
古田史学会報 88号(2008年10月15日)より転載。
078 真実の「アイヌ人・アイヌ語」——東北地方にアイヌ語は存在しなかった(佐々木広堂)
I アイヌ人は、北海道にいつの時代から存在したのか?/IIアイヌ文化は、東北地方のどの地域にあったのでしょうか?/III 縄文人とアイヌ人は、人類学により分析すると同一である/IV本州縄文人と北海道縄文人の関係について/V東北「アイヌ語もどきの言葉」と縄文語について/VIアイヌ人の実態について
099 よみがえる倭京——観世音寺と水城の証言(古賀達也)
本尊は百済渡来阿弥陀如来像/養老古図と大宝四年縁起/観世音寺の考古学/水城は何を防衛したのか
109 前期難波宮は九州王朝の副都ーーホームページ・古賀事務局長の洛中洛外日記より(古賀達也)
第154話 2007/12/08 難波宮跡に立つ
第159話 2008/02/05 太宰府と前期難波宮
第160話 2008/02/09 天武の副都建設宣言
第161話 2008/02/10 難波宮炎上と朱鳥改元
第163話 2008/02/24 前期難波宮の名称
第166話 2008/03/23 副都の定義
116 「白村江」後の倭の防衛戦略——大宰府羅城の考察(田中敬一)
I [白村江」後の外交交渉/II倭の防衛戦略ーー太宰府羅城の考察
134 不破道を塞げ二 ーー瀬田観音と内裏攻め(秀島哲雄)
140 太宰府政庁跡遺構の概略(伊東義彰)
158 「持統紀」はなかった(飯田満麿)
179 藤原宮と「大化の改新」(正木裕)
第一章 移された藤原宮/第二章 『皇極紀』における「造営」記事/第三章 何故大火は五〇年ずらされたのか
200 「奴」をどう読むか(棟上寅七)(むなかみとらしち)
新しい歴史教科書(古代史)研究会
棟上寅七の古代史本批評
『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』 (海鳥社
http://kaichosha-f.co.jp/books/history-and-folk/3229.html
213 『越智系図』における越智益躬の信憑性——『二中歴』との関連から(八束武夫)
古田史学会報 87号(2008年8月12日)より転載。
218 沖ノ島——十七号祭祀遺跡を中心に(伊東義彰)
III 付 録——会則/原稿募集要項/他
248 古田史学の会・会則
250 「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
254 第十三集投稿募集要項/古田史学の会 会員募集
255 編集後記
2009年4月、九州王朝論の独創と孤立について(古田武彦)部分掲載
7 「乙巳(いつし)の変」はなかった
さてそのような目で見ますと、もう一つのおもしろい問題もある。今「大化改新」の詔勅については、六百四十五年はおかしい。そのように疑っています。だから、先ほどより「近江令」や「浄御原令」に移動させて考えています。しかしだれ一人疑わなかったのが、六百四十五年蘇我入鹿を切ったことです。あれがおかしいと誰一人疑わなかったのですが、本当にそうなのか。これも疑問を持った。
それで息子は会社員です。別に息子は歴史の知識があるわけではないが、息子に話した。そうすると彼が「六十年周期がずれていないか」と言った。しかし七百一年まで五十五年だから、六十年にならないと言ったら、そうかと言ってそれで終わった。
ですが後で見ると関係することがあった。今の学者は「大化改新」は疑わしいが、蘇我入鹿を切った「乙巳の変」は疑いないと考えています。ところが六百四十五年(乙巳)から六十年、七百年から五年してみると「乙巳」となり、七百五年唐(周)の則天武后が「乙巳」で死んでいる。同じく六十年前の六百四十五年には、日本の女帝皇極天皇が退位して「大化」となる。そうしますと六百四十五年という地点自身が問題となる。六百四十五年蘇我入鹿を切ったことが伝承されていたと考えていた。しかし「乙巳」という干支そのものが、六十年周期で干支を合わす形で造られた可能性がある。これは絶対とは言いませんが、その可能性もある。
なぜなら考古学的変動が、六百四十五年の時点で何も起っていない。「詔勅」でもそうですが、何かの大変動があり、それがなんらかの反映されなければならない。しかし何も証拠がない。井上光偵氏などもあまり考古学的対応については論じてはおられない。文献だけで解釈される。しかし考古学と対応しない文献は偽物です。ですから六百四十五年時点「乙巳(いつし)の変」は、一つの可能性であるが確かと言えなくなった。これが一つ。
孝徳紀 大化元年(六百四十五年)
冬十二月乙未の朔發卯に、天皇、都を難波長柄豊碕宮に遷す。
もう一つ大きなことが出てきました。この「大化改新」が行われたのが大阪の難波宮です。『日本書紀』では「難波長柄豊碕宮」で行われたと書いてある。ところがこれがおかしい。皆さん、ご存知の大阪の地図がある。そこでは大阪の長柄と豊崎は、現在は別の町名を一つ挟んで隣あう別々の場所です。難波宮のある上町台地の北の端にある法円坂からは北にあり、かなり離れている。ですから「難波」は良いとしても、この(前期)難波宮が「長柄豊碕宮」となぜ言えるのか。それに地名が違うだけでなくて地形がぜんぜん違う。大阪梅田が、本当は「埋田(うめだ)」であり湿地帯であることは有名ですが、それに続く長柄と豊崎。それに対して難波宮のある法円坂は、大坂ならぬ高いところにある。法円坂は昔の地名ではありませんが、それにしても「○○坂の難波宮」と言いたい。このように地名としてはバラバラである。これもやはり「難波宮」は難波の中にあり良いとは考えていますが、「長柄豊碕宮」と言ってはダメです。当たらない。このようなたいへんな問題にぶつかった。
ところが先ほど来言っていますように、『日本書紀』は大胆で露骨で、かつ不器用である。墓の規模問題でも適当な数値に直せばよいものを、そのまま使っている。「九州の吉野」しかり。そうしますと、この「難波長柄豊碕宮」の名前でも同じではないか。そのように考えが進展してきました。
それでいきさつを省略して言いますと、やはり九州博多にあった。
「難波」については、ここは那の津です。「ナニワ」と「ナノツ」は一連の地名と考えてよい。字地名の「難波(ナニワ)」もあり難波池もあります。
次に昭文社の地図(例)で言いますと、福岡市西区に「名柄(ながら)川」「名柄(ながら)浜」「名柄団地」があり、今は地図にないが「名柄(ながら)町」があった。それで「ナガラ」という地名はありうる。西の方に長垂山があり、東に「長浜」という地名もあり、「長柄(ながら)」と表記した可能性もある。
それで、わたしがここではないかと考えていたのが、そこの豊浜の「愛宕山」。愛宕神社がある。平地の中にしてはたいへん小高いので、今まで敬遠して上ったことはなかった。しかし金印の問題に取り組んでいたときに、力石さん(古田史学の会・九州)と思い切って行ってみた。行ってみたら簡単に上れた。つまりエレベータがあって事務所に通じていた。一般の参詣する人は、足慣らしとして登って行くが、それでは事務所の方にはそれでは不便ですのでエレベータがあった。わたしのような老人も使える。それで上に登ると絶景で、博多湾が目の下に見えている。そして岩で出来ていて、目の下が豊浜。
それで考えてみますと、「難波長柄豊碕宮」を三段地名として考えてみるとおかしい。三段地名は余りない。二段地名はある。難波の「長柄」というところにある。問題は宮殿の名前です。この「豊碕宮」は住んでいた権力者が付けた名前でしょうが、「長柄」という場所の海を見下ろすところとして豊浜に突き出しているから「豊碕」。たいへん話としては解りやすい。
九州王朝の歴史書で書かれていた「難波長柄豊碕宮」はここではないか。それを大胆に露骨にも『日本書紀』はそのまま持ってきた。不器用に持ってきてはめ込んだ。だから大坂の「難波宮」と別宮というか離れてしまった。もちろん大坂難波にも、別宮や仮宮として「名柄」に「豊碕宮」があったと書けば良い。ですが、それでは実在の法円坂にある(前期)難波宮と離れた場所になる。もちろんこの「難波長柄豊碕宮」は、太宰府の紫宸殿とは別のところにあります。別宮のような性質です。以上が「難波長柄豊碕宮」に対する現在のわたしの理解です。