古田史学論集 第十三集
古代に真実を求めて
古田史学の会 編
明石書店
2007.3.31発行
頁
003 巻頭言 会員論集・第十三集発刊に当たって 古田史学の会代表 水野孝夫
○ I 特別掲載
010 日本の未来ーー日本古代論 古田武彦講演録
第一部 「小野毛人墓誌」について
第二部 1初めに/2『魏志倭人伝』の「都市牛利(といちごり)」/3北朝認識と南朝認識ーー文字の伝来/二古事記の撰録に於ける「削偽定実」の問題/4『魏志韓伝』・銅鐸・『古事記』/5『魏志韓伝』鐸舞と君が代/6「寛政原本」(『東日流外三郡誌』)について(「『天皇記』『国紀』を捜せ」を部分掲載)ーー誤植を訂正するため)/7絹の問題について
○II 研究論文
070 北部九州遠賀川系土器はロシア沿海州から伝わった 佐々木広堂
I はじめに/II平井勝氏の論文の紹介と私の分析/ III遠賀川系土器は中国東北部(吉林省以北)・ロシア沿海州より伝播した/IV平井勝氏の論文「遠賀川系土器の成立」
092 『日本書紀』の「二国併記」と漢の里単位問題 草野善彦
一『日本書紀』の「二国併記」/二漢の里単位問題について
103 太宰府条坊と宮域の考察 古賀達也
太宰府条坊の再考/太宰府条坊の中心領域/観世音寺創建瓦「老司I式」の論理/条坊都市太宰府と前期難波宮/条坊と宮城/仮説の展望
111 太宰府考 伊東義彰
一はじめに/二観世音寺出土の川原寺式軒丸瓦/三太宰府の条坊/四再検討の本格化/政庁(都府楼)跡II期遺構について
129 不破道を塞げ三 ーー天子宮が祀るのは、瀬田観音にいた多利思北孤 秀島哲雄
一瀬田の北西から西に竹林、筱波(ささなみ)か/二竹は弓矢の材料/更に西の龍田(たつた)町弓削にも竹森、こちらが筱波か/四天子宮の祭神が掘った井手が瀬田から伸びる
147 「越智国の実像」考察の新展開ーー「温湯碑」建立の地と「にぎたつ」 合田洋一
はじめに/一伊予の古代を飾る“珠玉の伝承”を検証する/二『伊予風土記』の検証 ーー「湯郡」が物語るもの/三「いさにはの岡」/四「温湯(おんとう)碑」が示すものは湯でなく水である/五「温湯碑」建立地と「湯ノ岡」の考察/六夷與村とは/七熟田津石湯行宮/八予州温泉とは/九遠土宮/十遠智天皇とは/むすび
訂正 P157 8行目 特定→特立に訂正。
186 『日本書紀』の「三四年遡上」と難波遷都 正木 裕
一『日本書紀』「天武・持統紀」の「三四年遡上」/二難波遷都と 『書紀』の三四年遡上/三難波遷都以前の『宮』について/四難波遷都の原因・背景/
207 娜大津の長津宮考ーー斉明紀・天智紀の長津宮は宇摩国津根・長津の村山神社だった 合田洋一
はじめに/一史料の検証/二郷土史に見る「 娜大津の長津」/三斉明天皇崩御の地/むすび
227 淡路島考ーー国生み神話の「淡路洲」は瀬戸内海の淡路島ではない 野田利郎
はじめに/「淡道之穂之狭別島」/「淡路洲」の読み方/疎外された「淡路洲」/『記紀』からの結論/淡路洲」の探求/「別」の用例/国生み神話の「別」/「さ別」の論/「さ別」の「穂」/「穂之狭別」/「淡道之穂之狭別島」の結論
○付録
古田史学の会・会則
「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
第14集投稿募集要項/古田史学の会会員募集
編集後記
6「寛政原本」(『東日流外三郡誌』)について
「『天皇記』『国紀』を捜せ」を部分掲載
誤植を訂正
P60 11行目 乙系列→甲系列に訂正。
「和田家文書」に依る『天皇記』『国記』 及び日本の古代史考察 藤本光幸
ここで問題になってきたのが「天皇記」、恐るべきリアリティを持っている。「稲作の伝来」「高天原」と本物だ。それでは「天皇記」を捜せ。『古事記』『日本書紀』とは比較にならないことがリアルに書かれている。輝ける資料として「天皇記」が姿を表した。ですが、わたしは最初悲観論で、三春藩でも火事で焼けたりしているから、もう消えたのではないか。そのように考えていた時期もありました。
ですが反転させて悲観論は消えました。なぜなら、ここでは北畠顕光が引用している。他でも藤井伊予など何人かが引用している。この場合、引用の仕方を考える。どこかに原本があったとします。その原本を恐る恐る見に行って、関心のあるところを引き抜いて少しだけ写して引用している。そんなふうには見えないし考えられない。とうぜん全体を写す。巻数も二〇巻と、そんなにたいした量ではない。『東日流外三郡誌』の何千巻とは比較にならない。やはり全体を写した「天皇記」を手元に持ち、そこから引用するのが、普通の引用する人間の方法と考えるのリーズナブルです。ということは北畠顕光や他の人々には、全体の写しが手元にあった考えるのが普通です。それが全部消えてなくなるわけではない。『東日流外三郡誌』偽書説などに惑わされて、本気で探す努力をせずに来た。本気で探せば必ずある。わたしは今うれしいほうの楽観論に転じた。
さらに原本もある可能性がある。原本は、どこにあるか書いてある。
『日本書紀』(岩波古典文学大系)
推古天皇 二十八年(参考)
是歳、皇太子・嶋大臣、共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、巨連伴造国造百八十部并せて公民等の本記を録*す。
録*の異体字、JIS第3水準ユニコード9304
皇極天皇 四年六月
己酉に、蘇我蝦夷等、誅されむとして、悉(ふつく)に天皇記・国記・珍宝を焼く。船史恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る。
これもいきさつを言いますと、中大兄皇子と藤原鎌足が、蘇我の屋敷を襲撃する。ところが『天皇記』は焼けて『国記』は助かったと書いてある。しかしこれも変な話で『国記』が助かったなら、『日本書紀』に『国記』の引用を出しておけばよい。しかし『日本書紀』には、これらの記事以外、姿形もない。しかもこれは『日本書紀』の成立時からみれば、つい最近の話です。それが『国記』の姿がまったく現れないのはおかしい。しかし『東日流外三郡誌』では書いてあることが違う。中大兄皇子や蘇我入鹿が、蘇我の屋敷を襲撃したのは、天皇記・国記を奪いにきたと書いてある。それが目的だと書いてある。最近『東日流外三郡誌』の中にある『天皇記』『国記』関係の記事を、ぜんぶ挙げて送ってきたかたがいます。そのかたの意見を聞いて、えっと思った。石舞台など、がらんどうの古墳があるが、『天皇記』を探すのに古墳をあばいたという意見だ。そのように考えたことはなかったが、しかしあり得ないことではない。とうぜん蘇我氏の側も、事前にそれを察知して、『天皇記』『国記』をもって使者を関東に送ったと。これでも危ないから津軽石塔山に隠したと『東日流外三郡誌』は書いてある。
聖徳太子の息子の仇討ちだというが、間が開きすぎている。それなら直ぐ実行すればよい。思い出したら仇討ちが済んでいませんから襲撃しましょうではおかしい。これは口実にすぎない。『天皇記』『国記』を捜さすために蘇我の屋敷を襲撃したという『東日流外三郡誌』に書いてあることのほうがリーズナブルです。
それでは、なぜ中大兄皇子が『天皇記』『国記』を捜さなければならなかったか。
それは明確な証拠がある。『古事記』に武烈以前の伝承はあるが以後はない。そこでストップしている。中国南朝の話はカットしたという話とは別の話だ。武烈に子供はいなかったというが組織としての伝承であって、誰も子供はなかったということはありえない。組織としての伝承は続いていたはずだ。それがどこにもない。『日本書紀』は漢文だからぜんぜん違う。継体以後の『古事記』スタイルの伝承はどこに消えたか。それは『天皇記』であると考える。ですが、その中に継体はなかった。継体は北陸の豪族です。どれだけ輝かしかったか知りませんが、あったとしても『国記』にある程度だと考える。『天皇記』に継体の伝承はなかった。ですから継体以後・・・天武・天智・・・元明・元正の伝承は、『古事記』の伝承のような組織は持っていなかったから、なかった。
一方『古事記』スタイルの伝承は、継体以後も継承され続けていた。それはどこにあったか。
これに関係して参考意見を一つ言いたい。古田史学の会伊東義彰さんが「神武が来た道」(『なかった』第一集~第五集)を掲載しておられる。そのなかで京都のお公家さんが書いた『吉野詣記』のことを書いた『橿原市史』の部分を第五集で引用しておられる。それが先ほどわたしが手術を行った群馬県の院長さんの加藤さんが「神武が来た道」に目を付けられて原本を欲しいと言われ、伊東さんに連絡してお調べいただいて『群書類従』にあることが分かりましたので、原本をお送りしました。
「天文十二年(一五五三)二月に、京都を出て吉野に向かった『吉野詣記』の筆者、三条西公条(きみえだ)は、二十九日、橘寺から安倍の文殊院に詣で、耳なし山の山陰を経て、高田に至っているが、途中、そが川を渡って間もなく‘いはれ野’に入ったと記していて、一六世紀の中ごろまで‘いはれ’という地名が残っていたことを知るのである。その『いはれ野』というのは、公条自ら、『蘇我と書ては、いはれとよめるにやと覚え侍りし』、といっているところからすれば曽我の村里近く、曽我川を西へ渡って、高田方面へ行く路にある野原でもあろうか」
(神武が来た道 4 伊東義彰 四、宇陀から奈良盆地へ4,磐余)
その加藤さんが注目された箇所がおもしろい。現在飛鳥川の隣に、曽我川がある。その隣に、‘いはれ野’がある。それに対して『吉野詣記』に書いてあるお公家さんの意見がおもしろい。『蘇我と書ては、いはれとよめるにやと覚え侍りし』、といっている。ピンとこないでしょうが、「蘇我」を「いわれ」と読む。「我」は「われ」と読み、「蘇」は「いきかえる」と読む。屁理屈だけど、おもしろい理屈です。それに加藤さんが関心を持った。これに対する意見を来週聞きに行きます。
それ自体はわたしは強引だと思います。ですがわたしの関心は、奈良県の「蘇我」という地名です。「蘇我」という地名は各地にある。神様にもいろいろあるというのがわたしの持論ですが、その中のもっとも古い神様の一つが「ソ」の神様。阿蘇山の「蘇 ソ」、木曾御嶽山の「曾 ソ」です。阿蘇部族の「ソ」です。「ガ カ」は、前から何度も言っているように、「神聖な水」です。「ソガ」は、「ソ」の神様が居られる神聖な水のあるところです。非常に古い地名です。
蘇我氏と関係の深いのは、関東だ、九州大分だ。議論はいろいろありますが、地名そのものは各地にたくさんある。やはり蘇我氏と一番関係の深いのは、大和の蘇我だと考えるのが第一です。非常に古い大和の地名をバックに持っていると考えるのがナチュラルです。賀茂氏も同じだと考えています。「カ」は、神聖を意味し、「モ」は、藻のようなかたまり、集落を意味すると考えます。ですから「カモ」は、神聖な集落を意味する。「カモ」と「ソガ」は同類の意味を持つ言葉であると考えています。
そうすると神武が入ってきたに、歓迎した人々と反対した人々がいた。
これも簡単に言いますと、奈良県吉野の山奥に行った測量会社の社員が驚いた。ある人が地元の人と懇意になり、朝まで飲み明かした。自分の先祖は大和に入ってきた神武天皇に反抗した家柄だ。だから近所の家からずっと差別されていた。つらい思いをずっとしてきた。戦争中はとくに辛かった。敗戦後には少しましになったけれども、それでも辛いのだと。そのように言い、涙を流して言ったのを聞いた。聞いているほうは、津田左右吉の説により、神武東征(侵)は架空だと思いこんでいるから、何のことだと思った。帰ってきて、わたしの本を読んだら神武東征(侵)は事実であると書いてあるから、初めて事情がわかった。真に迫っていたのが理解できたと手紙をよこした。わたしはその家は知らないが、神武に味方したという家柄を知っている。今でも名家として土地の信望を集めている。現代でも神武に味方した人々と反抗した人々との差は歴然としている。
それはともかく今の問題は、神武を受け入れた一派が蘇我氏です。その蘇我氏は、先ほどの論理から言いますと、神武から武烈までの『天皇記』の伝承をもつ甲系列の氏族です。途中から北陸から来た継体あたりの『天皇記』の伝承が乙系列。両方違うのではないか。
前方後円墳と言われる巨大古墳を持っていたのが神武から武烈までの甲系列の伝承。乙系列の伝承をもつ継体の古墳は、小さい古墳。今の考古学では継体あたりも巨大古墳に入れているが、これは間違いです。最近大和の箸墓古墳を七十五年遡らせた。ですが先頭を遡らせたら、お尻のほうも遡らせなければ空白ができる。先頭を遡らせたら北陸出身の継体あたりの古墳も乙系列の中に入ってくる。
今の問題に戻り、神武から武烈までの『天皇記』甲系列の伝承、それを蘇我氏が持っていた。ところがそれがあると、具合が悪いのが乙系列の伝承を持つ天皇、自分のほうは甲系列の『天皇記』に出てこない。『国記』に少し出てくるだけだ。たいした豪族でないかもしれない。そうすると甲系列の伝承を持つ『天皇記』を奪う。それで『国記』のほうは『日本書紀』に載せるようなものではない。だから知らない振りをしている。おまえのところは『国記』にあるよと言われても困るから知らない振りをする。
このように考えますと、『天皇記』『国記』の性格が分かってくる。
ですから最初に言った輝ける『天皇記』は、甲系列の『天皇記』。武烈以前も、南朝関係はカットしろと言ったものも入っていた。江南からの稲の渡来も南朝関係から入ってきている。
ですから心当たりをいろいろ捜してみて発見できなくとも、それ以外にどこかに写しが残っている可能性が十分にある。
『東日流外三郡誌』偽書説などに惑わされて、本気で捜す努力をせずに来た。本気で捜せば必ずある。内倉氏なども捜したが途中で止めてしまった。輝ける『天皇記』『国記』の存在は、日本の古代史を切り開く道である。現在は『東日流外三郡誌』は偽物だと言っているレベルの話ではない。