古田史学会報
2002年 6月 1日 No.50


よみがえる倭京(太宰府)

観世音寺と水城の証言

京都市 古賀達也

はじめに

 会報四九号の拙稿「法隆寺移築論の史料批判─観世音寺移築説の限界─」において、主に文献からの史料批判により、観世音寺創建が六六一年(白鳳元年)であり、法隆寺の移築元とすることは困難としたが、その後、考古学面からの検討も進めた結果、先稿と同じ結論に達した。更に、その事実は観世音寺問題に留まらず、太宰府政庁遺構の考古学編年においても現在の通説を成立困難とする論理性を持つことが明らかとなった。以下、報告する。

 

本尊は百済渡来阿弥陀如來像

 観世音寺は創建以来度々火災に遭っていることが、各種史料に記されている。例えば次の通りだ。

○筑前國観世音寺三綱等解案
 「當伽藍は是天智天皇の草創なり。(略)而るに去る康平七年(一〇六四)五月十一日、不慮の天火出来し、五間講堂・五重塔婆・佛地が焼亡した。」(古賀訳)
 元永二年(一一一九)三月二七日
 『平安遺文』〔一八九八〕所収。
 ※内閣文庫所蔵観世音寺文書
 
 康平七年(一〇六四)の火災により観世音寺は五重塔や講堂等が全焼し、金堂のみが火災を免れた。恐らくは落雷による火災と思われるが、この火災については他の文書にも多数記録されている。その後、観世音寺の復興が進められるが、五重塔だけは再建されていない。このことも次の史料等に記されている。

 「其の状(太宰府解文)云わく、去る(康治二年、一一四三)六月二一日の夜、観世音寺の堂塔・回廊焼亡す。(略)但し、塔に於いては康平七年(一〇六四)五月十一日に焼亡している。中尊の丈六金銅阿弥?如来像は猛火の中に在っても尊容に変わり無し。昔、百済國より之は渡り奉られた。云々。」(古賀訳)
 『国史大系』所収、「本朝世紀」
 康治二年(一一四三)七月十九日条

 この太宰府からの解文によれば、先の康平七年の火災に次いで、康治二年六月にも観世音寺は火災に遭っている。そして、今回は金堂も被災したが、本尊の金銅阿弥陀如来像は無事だったことが記されている。そしてその最後に注目すべき記事が記されていた。観世音寺の本尊金銅阿弥陀如来像は百済渡来であると記されているのだ。「丈六」とされていることから、身長一丈六尺(四・八五?)の仏像であろう(座像の場合は半分の二・四二?)。この丈六の阿弥陀如来像が百済から献上されたのであれば、それは百済滅亡(六六三)以前の出来事となり、観世音寺創建を白鳳元年(六六一)のことと記す『二中歴』の記事と矛盾せず、通説のように観世音寺創建を八世紀中頃とすることの方が困難である。なお、阿弥陀如来像の九州王朝への「搬入」は、当然、観世音寺創建(落成法要)よりも以前のこととなろう。
 そして、その百済渡来の阿弥陀如来像が康治二年時点でも現存していたことは、少なくとも観世音寺金堂も一一四三年まで現地に存在していたことになり、創建以来どこへも移築されてはいなかった事実を指し示すのである。
 九州王朝の都、太宰府の中心的寺院である観世音寺の本尊が百済から奉納された阿弥陀如来像であったことは印象的である(注 1. )。それは、九州王朝(倭国)と百済との深い盟友関係の証であり、国運を賭けて百済支援のために半島に援軍を送った九州王朝の大義名分の証でもあったに違いない。しかし、佛の加護もなく九州王朝は白村江戦で壊滅的敗北を喫し、滅亡したことは何とも感慨深い。
 ちなみに、この阿弥陀如来像は天正十四年の兵乱により失われたようである。『筑前国続風土記拾遺』に次のように記されている。

 「此阿弥陀佛は金銅なりしか百済より船に積て志摩郡岐志浦につく。其所を今も佛崎とよぶ。此佛の座床なりし鐵今も残れり。依て其村を御床と云。彼寺の佛像ハ天正十四年兵乱に掠られてなくなりしといふ。」
 『筑前国続風土記拾遺』御笠郡三、観世音寺

 倭国と百済の盟友の証であった阿弥陀如来像も天正十四年(一五八六)岩屋城攻防戦のおり、島津軍兵によって鋳潰され刀の鍔にされたという(注 2. )。こうして白鳳元年の創建以来残っていた最後の佛像も失われたのである。

 

養老絵図と大宝四年縁起

 古の観世音寺の姿を伝える大永六年(一五二六)写の観世音寺古図というものがある。法隆寺移築論を発表された米田良三氏はその著書『法隆寺は移築された』において、同古図を紹介され、古図と現法隆寺との伽藍配置等の一致から、法隆寺の移築元として観世音寺説を発表された。これに対して、同古図が創建当時の観世音寺かどうか不明であり、観世音寺移築説の根拠とすることに対して疑義が寄せられていた。
 既に観世音寺移築説が困難であることは述べて来たとおりであるが、同古図について言うならば、これは創建時の観世音寺が描かれたものと考えざるを得ない。何故なら、本稿で紹介したように、観世音寺の五重塔は康平七年に焼亡しており、以後、再建された記録はない。また、考古学的発掘調査でも金堂は新旧の基壇が検出されているが、五重塔は再建の痕跡が発見されていない。従って、五重塔が描かれている同古図は創建時の観世音寺の姿と考えられるのである。
 このことを支持する史料がある。観世音寺は度重なる火災や大風被害のため貧窮し、もはや独力での復興は困難となった。そのため、保安元年(一一二〇)に東大寺の末寺となったのであるが、そのおり、東大寺に提出した観世音寺の文書案文(写し)の目録が存在する。それは「観世音寺注進本寺進上公験等案文目録事」という文書で、その中に「養老繪圖一巻」という記事が見える。その名称から判断すれば、養老年間(七一七〜七二四)に描かれた観世音寺の絵図と見るべきものであり、それが一一二〇年時点で現存していたことを意味する。同目録には「養老繪圖一巻」の右横に「雖入目録不進」と書き込まれていることから、この養老絵図の写しは、この時、東大寺には行かなかったようである。
 こうした養老絵図が十二世紀に現存していたことを考えると、大永六年に写された観世音寺古図はこの養老絵図を写した可能性が高いのである。考古学的発掘調査の結果も、古図と同じ伽藍配置を示しており、この点からも同古図が創建観世音寺の姿を伝えていると見るべきである。
 そうなると、いよいよもって観世音寺を法隆寺の移築元とすることは困難となる。というのも、観世音寺古図と現法隆寺は伽藍配置は類似していても、描かれた建物と法隆寺の特徴的な建築様式とは著しく異なるからである。一例だけあげれば、中門の構造が現法隆寺は二層四間であり、中央に柱が存在するが、観世音寺古図の中門は一層五間であり、一致しない。従って、米田氏の思惑とは真反対に、同古図は法隆寺の移築元は観世音寺ではない証拠だったのである(注 3. )。
 同目録中には今ひとつ注目すべき書名がある。それは「大宝四年縁起」である。大宝四年(七〇四)成立の観世音寺縁起が一一二〇年時点には存在していたことになるのだが、先に紹介した『本朝世紀』康治二年(一一四三)の太宰府解文に記された、百済渡来の阿弥陀如来像の事などがこの「大宝四年縁起」には記されていたのではあるまいか。従って、『本朝世紀』の本尊百済渡来記事は信頼できると思われるのだ。
 なお現在、観世音寺の縁起は伝わっておらず、関連文書として最も古いものでは延喜五年(九〇五)成立の「観世音寺資財帳」がある。九州王朝の中心的寺院であった観世音寺の縁起も近畿天皇家一元史観によって書き直され、あるいは破棄されたのであろう(注 4. )。

 

観世音寺の考古学

 文献から観世音寺の創建を六六一年としてきたが、このことは考古学的にも裏づけられる。観世音寺の創建は天平十八年(七四六)とする説が有力のようだが、九州の考古学者からは異論や疑義も出されている。たとえば、出土した創建観世音寺の瓦とされるものは、老司 I式と称されるものであるが、これは藤原京の瓦よりも古く編年されている川原寺と同形式のものである。川原寺の創建年次は不明だが、斉明や天武との関係が深い寺院であることから、七世紀中頃と思われる。とすれば、同型の瓦を持つ観世音寺も同時期の創建と見るのが基本である。
 この点について、九州歴史資料館の高倉洋彰氏は次のように述べている。

 「観世音寺の調査は大宰府遺跡群と一体をなして進められている。その結果、伽藍配置の問題以外にも、たとえば創建に用いられた老司 I式瓦の年代観の変化などから、天平十八年(七四六)の落慶供養に約半世紀先行する伽藍の完成の想定が可能となっている。」
 高倉洋彰「筑紫観世音寺の調査とその成果(二)─子院跡に関する新たな知見を中心に─」、『仏教芸術』 No.一四六所収。一九八三年刊。

 高倉氏は観世音寺伽藍の完成を七世紀末まで遡らせることが可能としているが、川原寺と同型の瓦が出ている以上、半世紀ではなく百年遡るとしなければならないはずである。しかし、仮に半世紀遡ると見ても実は深刻な矛盾が生じるのである。それは太宰府の条坊制との関係である。
 観世音寺遺構は太宰府遺構の条坊制と正確に一致している。すなわち、観世音寺創建と太宰府条坊制の制定は同時期か、条坊制の方が先と考えなければならないのだが、通説では「政庁跡」(注 5. )を伴う太宰府の条坊制は大宝律令以後、八世紀初頭と「編年」されており、観世音寺の創建がそれよりも早くなっては通説が維持できなくなるのである。考えてもみても当然のことだが、条坊制を制定する場合、中心の「政庁」を基点に作られるのが常識的な理解と思われるが、それよりも早く建てられた観世音寺に基づいて条坊が制定されるのは不自然である。この矛盾に対して、高倉氏は先の文に続いて次のように困惑を示されている。
 「しかしながらこの問題には、依然としてまとまって出土する土器類の時期が八世紀中頃以降であることや、大宰府政庁が朝堂院風の整然とした礎石建物となるのはその第II期、すなわち八世紀初頭に考えられ、したがって条坊制の施行はそれ以後のことと思われるにもかかわらず、政庁と観世音寺の中軸がほぼ正確に五町半の間隔をもっているなど、解決すべき点も多い。」
 解決すべき点も多いと述べられてはいるものの、近畿天皇家一元史観では解決不可能である。そもそも、『日本書紀』に基づいた土器編年が間違っているからである(注 6. )。文献史料と考古学的発掘が示す事実を謙虚に受け止めれば、事は単純である。すなわち、観世音寺が創建された六六一年以前に太宰府条坊制は施行されており、その条坊制に沿って観世音寺は建築されたと理解すべきなのである。

 

水城は何を防衛したのか

 太宰府遺構は三層からなっており、古い順から I期・II期・ III期と呼ばれている。第㈵期は瓦を伴わない掘っ建て柱の遺構であり、礎石群を持つ巨大「政庁」遺構は第㈼期と第㈽期である。通説では、第 I期が白村江戦後に天智が作らせた建築物で、第II期が大宝律令以後におかれた条坊制を伴う遺構とされる。そして、その第II期の建築物が天慶の乱(九四一)により焼けて、その後に再建されたのが第 III期で、現在地表に露出している礎石群がそれに相当する。
 既に指摘したように、条坊制を伴う第II期遺構を八世紀初頭としたため、観世音寺遺構との矛盾が生じているのだが、事はそれだけでは終わらない。あの巨大防衛施設たる水城が『日本書紀』の記述に基づいて天智の時代の築造としたために、通説は避けがたい大矛盾を抱え込むこととなった。すなわち、一・二kmにも及ぶ長大な土塁、十トンダンプカーで六万四千台分の土量を要する大土木工事の末に作られた水城が、太宰府第 I期の掘っ建て柱の建築物を守る為に作られたことになってしまうのである。このような説明が世界に通用するであろうか。まともな理性を持つ者であれば、納得できるはずはあるまい。
 この世紀の大矛盾に対して、田村圓澄氏は率直に疑問を呈されている。
 「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」
  田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和六二年刊。
 田村氏の疑問は当然である。あの巨大な水城は条坊制を持つ九州王朝の首都、太宰府を防衛するために七世紀以前に作られたのである。ここでも通説の編年は避け難く錯乱の様相を呈しているのである。
 それでは、九州王朝の首都、太宰府が完成したのはいつであろうか。観世音寺創建の編年が通説よりも百年ほど遡ることから、太宰府も同様に百年ほど遡るとすれば、七世紀初頭ということになるが、その場合、九州年号の倭京元年(六一八)がその最有力候補となろう。日出ずる処の天子を名乗った多利思北孤が建造した都、それは倭国の都であり、倭京と呼ばれたのではあるまいか。そしてその完成を記念して九州年号は定居から倭京へと改元された。このように考えたとき、倭京という年号の意味が良く理解できるのである。とすれば、定居も新都建造の地を定めた事を理由に改元された年号かもしれない。

 

おわりに

 観世音寺創建年代の研究は、太宰府遺構の編年の再検討を促し、その建都年代を考察するに至ったのだが、現在の考古学編年が一元史観の中に於いてさえも整合性を保ち得ず、避けがたい矛盾をはらんでいた事が明らかとなった。他方、太宰府建都における九州王朝の一大土木工事の様子が鮮明となってきた。
 わが国初の条坊制を持つ巨大都市太宰府は、その防衛施設として水城や大野城をも伴っており、また観世音寺という王朝を代表する寺院さえも同時期に建造していたことが明らかとなった。更に、今回取り上げた水城とは別に、太宰府の南方(久留米市)にも水城が存在しており、有明海側からの敵の侵入にも備えていることを考えあわせると、太宰府は列島において他に類例を見ない一大城塞都市と言っても決して過言ではない。しかも、更にその周囲の要衝には神籠石山城が点在している。そしてその南北の水城に挟まれた首都は「倭京」と呼ばれていたのであった。
 最後に、もう一度観世音寺について触れてみたい。九州王朝の天子の住居の傍に建造された観世音寺は、回廊内部に東に五重塔、西に金堂(東面)を持つという観世音式伽藍配置であるが、同様の伽藍配置を持つ古代寺院として、斉明・天武と関係が深い川原寺、天智が創建した近江の崇福寺、そして多賀城廃寺が知られている。観世音寺は九州王朝の都心にあり、川原寺は天武の浄御原宮の近傍、崇福寺は天智の近江京に存在していたことに留意すれば、多賀城廃寺も同様に蝦夷国の都心にあったのではあるまいか。すなわち、多賀城は蝦夷国の首都だった、という視点が開けて来るのである(注 7. )。そして、蝦夷国と九州王朝との緊密な関係さえも予感されそうである。九州王朝の中心的寺院様式を近畿なる天智も天武も、そして蝦夷国も模倣していたのであるが、この問題は蝦夷国も含めた多元的古代研究の再構築を促すものと思われる。今後研究を深め、別に詳述できれば幸いである。

 

(注)

1. 『筑前国続風土記拾遺』によれば、「講堂佛前の紫石の獅子は百済國より献すると云」(御笠郡観世音寺)とあり、本尊以外にも百済からの奉納品があったことがうかがえる。

2. 高倉洋彰「観世音寺の創建」、田村圓澄編『古代を考える太宰府』所収。吉川弘文館、昭和六二年刊。

3. 観世音寺古図と法隆寺との不一致については、大越邦生氏が既に指摘されている。「法隆寺は観世音寺の移築か〈その一〉」『多元』No. 四三所収。二〇〇一年六月。

4. 「大宝四年縁起」が既に大和朝廷の大義名分により改竄されている可能性も考えられるが、本尊が百済渡来という伝承は大和朝廷にとっても不利益な事実ではないことから、殊更改竄されたものとは考えにくい。

5. 礎石群を持つ太宰府の中心遺構を「政庁跡」と考古学者は名づけたが、そこには「大裏」(内裏)や「紫宸殿」という字地名があることから、その中心遺構は政庁ではなくて天子の住居たる紫宸殿と称すべきものである。地元でもその地域は昔より都府楼と呼ばれており、政庁とは呼ばれた痕跡はない。

6. 太宰府など北部九州の考古学土器編年がC十四による理化学的分析値と一五〇年以上異なっていることが知られている。内倉武久『太宰府は日本の首都だった─理化学と「証言」が明かす古代史─』二〇〇〇年六月、ミネルヴァ書房刊。

7. 多賀城から曲水宴遺構が出土していることも、その編年の再検討も含めて注目されよう。また近年仙台市の郡山遺跡の調査が進み、同遺跡が七世紀中頃の大規模遺跡であり、観世音寺式伽藍配置を持つ廃寺跡も発見されている。多賀城廃寺に先行する可能性があり、この点興味深い(佐々木広堂氏の御教示による)。


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