古田史学会報
2002年 6月 1日 No.50
古田史学会報五十号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
教科書犯罪 -- 本報五十回を記念して 古田武彦
古田武彦著作集序文 <略> 古田武彦
泉南郡岬町 藤田友治
一
兵庫県豊岡市は日本海文化圏に属する。丹後半島に近い森尾古墳(前期)は穴見川の東岸に位置する丘陵に造営された古墳である。円墳と考えられていたが、再調査の結果、東西二四メートル、南北三五メートルの方形台状墓であると判明した。三基の並列する竪穴式石室があり、各石室から一面づつ鏡が発見された。「(正)始元(二四〇)年」銘の三角縁神獣鏡は有名である。拙著『三角縁神獣鏡─その謎を解明する』(ミネルヴァ書房)で既にのべた。
従来、不鮮明だった一面の方格規矩四神鏡は奈良文化財研究所でレントゲン検査をすることで、ようやく今回文字を発見できた(二月二十日各新聞報道による)。豊岡市文化財管理センターの潮崎誠主査の発案であり、稲荷山鉄剣銘以来のレントゲン検査の効力がここでも発揮されたといえよう。
二
レントゲン検査によって浮かびあがった文字は「□言之紀鏡□□□□左白乕右」であるという。従来、この銘文と共通の銘文をもつ鏡は北九州から二面出土している。一つは、井原鑓溝遺跡(福岡県糸島郡)であり、もう一つは五穀神社遺跡(福岡県嘉穂郡)である。□(不明字)がそれぞれあるが、文字を共通するところがあるので、完全なものを相互に補足すると次のような文面になろう。
「(黍)言之紀鏡(始)(蒼)(龍)(居)左白乕右」〔()内は推定文字〕
意味は(黍=七)、七言句で韻文をつくる紀(規則)は鏡(の銘文)から始まる。青龍は左に白虎は右にある(これにより、鏡の保持者を守る)。
新聞報道の一部に「邪馬台国出現までの〈クニ〉」「近畿最古級」「北近畿にも一大勢力」とあたかもこの鏡によって「邪馬台国=近畿説」が有利になったかのような論調が、又、ぞろ出始めている。
三
真実は何か。森尾古墳の位置はどこか確認して欲しい。この意味もあって、拙論の冒頭にのべたが、丹後半島近く、日本海文化圏であり、「北近畿」では全くないのである(古墳時代の“近畿”ではない)。森尾古墳の東側の京都府久美浜町の函石浜遺跡から「新」(BC一年〜AD二三年)の王莽銭が二枚出土している。丹後半島に中国大陸との交流を示す証拠品が新たに追加されたことを意味する。
丹後半島に中国大陸との交流を示す鏡(方格規矩四神鏡)が出土していたことは重要な意味をもつ。私は、かって夷州は台湾をさすが、亶(たん)州は従来説の種子島では『三国志』呉志に記す「数万戸」の人口とはならない。亶州は丹後半島をさすと考えられると主張していた(『三角縁神獣鏡』ミネルヴァ書房)。
北九州には邪馬壹国の卑弥呼が魏に使者を派遣し、「親魏倭王」と冊封されていた。呉の一万人の兵がそこに行くにはあまりにも危険が多い。そこで、山陰の丹後半島から大和へ、一方、瀬戸内海から大和へといずれにしても大和地方に呉軍はすすんだであろう。明けても暮れても戦乱の三国対立時代に生きる呉の兵士や工人は、壷型古墳で厚葬の平和的な大和の地に、不老長寿の仙薬にまさるものを見たのである。明日死ぬかも知れない兵士に今晩の命こそどれだけ大切か。衛温らの命令に従わないのはもはや工匠だけではない。工匠たちは元来、呉国からの亡命を考えていた。副将軍クラスの人々でさえ、無謀な魏との戦闘に機会があれば亡命を考えていた。時はおとずれた。今を逃しては永久にチャンスはない。大和の地に武器、薬、銅鏡づくりの技術等々を持つ方士たちと“亡命”したのである。こうして、一万人いた方士を含む兵士はほとんど帰らず、夷州から数千人をつれ帰っただけで後日、衛温らは獄に下されたのである。
呉の工匠の技術を得た大和地方の人々は、銅鐸作りの技術を含め、「三角縁神獣鏡」という鏡を作ったのである。
こうして近畿地方を中心に「三角縁神獣鏡」という中国本土に一枚も出土しない鏡が出現したのであった。これは近畿大和が「邪馬台国」であったことを意味しない。全く、逆に、近畿大和は邪馬壹国ではないことを明確に示す証拠品となったといえよう。今回の方格規矩四神鏡は大和地方(地方であって、中心ではないことに留意)へどのように鏡が入ったか丹後半島の亶州論を照射したといえよう。
日進市 洞田一典
卑弥呼による魏朝への貢献が行われたのは、魏の景初年間でした。この景初という年号は三年間使われただけですが、この期間中には魏朝の暦に二つの大きな変革が行われました。「魏志・明帝紀」の文を、『正史三国志1』(今鷹真・井波律子訳、ちくま学芸文庫。以下文庫本と略記)より引用します。
《景初元年(二三七)春正月壬辰の日(十八日)、山荏県から黄龍が出現したと報告してきた。このとき担当官吏が上奏し、魏は地統を得ているゆえ、建丑の月を正月とすべきだと主張した。三月に暦を改定し年号を改めて孟夏(初夏)四月とした。〔中略〕太和暦を改めて景初暦と名づけた。〔下略〕》〔洞田注、壬辰の日(十八日)は(二十四日)の誤り。また、担当官吏とは高堂隆を指す。〕
ここで建丑の月とは、前漢の武帝以後使用された太初暦や、それにつづく後漢四分暦(引用文では太和暦)では十二月を指します。この月を正月(歳首の月)とするのを殷正、一月を正月とするのを夏正、また十一月を正月とするのを周正といいます。明帝は
1). 従来の夏正を殷正に変更(月名の変 更)
2). 四分暦に代え景初暦を採用(暦法の 変更)
の二つの改革を実行したわけです。その様子をつぎに示します。
青龍四年(二三六)
十一月朔庚子
十二月朔庚午→景初元年
正月朔己巳
五年正月朔己亥→二月朔戊戌
二月朔己巳→三月朔戊辰
四月朔丁酉
・・・
このような暦の変更が二つも同時に行われると、記録上でも混乱が起こりがちです。文庫本にも「(青龍四年)十一月己亥の日(?)、彗星があらわれ云々」とあり、朔日が庚子ですから己亥はその前日でおかしなことになるため?印がついたのでしょう。強引に景初暦で計算すると十一月朔はちょうど己亥となります。
なお前の引用文で〔下略〕とした文中では、春夏秋冬だけは従来の暦と異なっていたが、祭りなどの年間行事の布告、二十四節気の日付け、農業・課役など人民の生活に関わる事は、すべて夏正の暦の順序としたと述べています。
さて明帝は景初三年正月丁亥朔に崩じ、帝位を継いだ斉王芳は一年間喪に服した後、十二月詔勅を下します。文庫本から引用します。
《烈祖明皇帝は正月に天下を見捨てられ、臣下や子供たちはいつまでもそのご命日の哀しみを抱きつづけている。それゆえふたたび夏王朝の暦を使用せよ。〔中略〕そこで建寅の月(一月)を正始元年正月とし、建丑の月(十二月)を後の十二月とせよ。》
つまり景初三年十二月(殷暦)は夏暦では十一月ですから、翌月は殷暦正月、その翌月は夏暦正月と正月が二つ続き紛らわしいので、前者を後の十二月と呼んだわけです。正月は旧に復しましたが、暦法は景初暦のままです。名称はいろいろ変わりますが、四四五年南宋の元嘉暦に代わるまで、魏・西晋・東晋・南宋の各王朝で行用されました。
『魏志』本文中、日の干支のいくつかについて、以下で吟味します。
(一)「青龍四年十二月癸巳司空陳羣薨。乙未行幸許昌宮。」
旧暦による記録がそのまま残りました。癸巳は二四日、乙未は二六日。新暦では、景初元年正月癸巳は二五日、乙未は二七日。「日の干支」は正月が変わろうが、暦法が変わろうがビクともしません。頑丈そのものです。
(二)「景初元年春正月壬辰、山荏県言黄龍見。」
朔は景初暦によると己巳ですから、壬辰は二四日。これは前項の癸巳の前日です。暦が異なるので同じ二四日と書かれます。改暦の基因となった重要な日ですから、さかのぼって新暦元年正月の記事になりました。
(三)「(景初二年秋八月の条)丙寅、司馬宣王囲公孫淵於襄平、大破之。伝淵首于京都、海東諸郡平。」
この項の前に八月の記事があります。朔は庚寅だから丙寅の日は無く、九月朔は庚申で丙寅は九月七日です(文庫には九月十日とありますが、マチガイ)。三国志に限らず日の表現は、ほとんど干支によっています。連続する二ヶ月にわたる場合、時の流れにしたがって述べてあれば、後の月は月名をはぶいても干支だけで正確に日を特定できます。このような記述は各所に見られます。簡潔な文体を旨とした陳寿らしさを感じます。たとえば
(四)「(正始二年)六月辛卯、退。己卯、以征東将軍王?為車騎将軍。」
六月朔は癸酉だから辛卯は二十九日。己卯は七月七日を指す。文庫本は「己卯(?)」。
(五)「(正始六年)八月丁卯、以太常高柔為司空。癸巳、以左光禄大夫劉放…」
八月朔は己酉。丁卯は十九日だがこの月に癸巳はなく、翌九月なら朔は戊寅だから癸巳は十六日。文庫本は「癸巳の日(?)」。
この類の実例は多いので、これくらいにしておきます。月名が書かれていないと言ってはやたらに「?」を付ける現代人の律儀さには辟易させられます。
(六)「正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放・侍中中書令孫資為左右光禄大夫。丙戌以遼東[水文]・北豊県民流徙渡海。規斉郡之西安・臨蓄*・昌国県界為新[水文]・南豊県、以居流民。
自去冬十二月至此月不雨。丙寅、詔令獄官丞平冤枉、理出軽微、羣公卿士等[言黨]言嘉謀、悉乃心。」
[水文]は、三水偏に文。
蓄*は、中の玄の代わりに、巛(まわりがわ)編
[言黨]は、言偏に黨。
まず文庫本の訳文はつぎのようです。
《正始元年(二四〇)春二月乙丑の日(?)、侍中中書監の劉放、侍中中書令の孫資に左右光禄大夫の官職を付加した。丙戌の日(六日)、遼東の[水文]県・北豊県の民衆が海を渡って流亡して来たため、斉郡の西安県・臨蓄*県・昌国県の境域を区切って新?県・南豊県とし、流民を居住させた。
前年の冬十二月からこの月(三月)まで雨が降らなかった。丙寅の日(十七日)、詔勅を下し、「裁判官はすみやかに無実の罪人に正しい処置をほどこして罪を減免し、微罪の罪人を審理して出獄させよ、なみいる三公九卿士人は正しい言葉、秀れた計策を献じ、それぞれ汝の心を充分に表明するように」と命じた。》
景初三年(二三九)十二月から正始元年三月までの月朔はつぎのようです。—景初三年十二月壬子、後十二月壬午、正始元年正月辛亥、二月辛巳、三月庚戌。
春に限れば乙丑の日は二月にはなく、正月なら十五日、三月なら十六日。丙戌は二月六日のみ。丙寅は正月十六日または三月十七日に当たります。文庫本の注には、
《二月乙丑は「乙酉」の誤であろうか。それならば五日になる》
とありますが、一応妥当な解釈であると思われます。しかし、「この月(三月)」は勇み足でしょう。むしろ二月とする方が自然です。次の文に丙寅とあるため、月名が必要と考えたのでしょうが、無理をする必要はなかったわけです。
また、つぎのような意見もあります。
《原記録には、劉放らの任命記事が、「景初四年春二月乙丑」続いて「丙寅、詔令云々」と記されていた。これを「正始元年春正月乙丑」と訂正すべきところ、月次が訂正漏れになった。遼東流民の話は、原記録でも正始の改元改暦を正しく反映して春二月丙戌とあったが、前項の混乱で不自然な位置にまぎれ込んだ。》
もしそうなら魏朝内で「景初四年」が、一時期公的記録に用いられた証拠となるわけですが、無降雨期間が十二月以降一月半ばまでの二ヶ月半では、詔を下すには少々短かすぎる気もします。それより、斉王の十二月詔勅があってから、後の十二月を含めて一ヶ月以上の猶予があったのに、なお敢えて「景初四年」と記録する官僚がいたとは、信じられません。まして内容が政府高官の任命にかかわる点や、天子の詔勅であることを考えれば、なおさらです。
(二〇〇二・三・九)
豊中市 木村賢司<
前回(二月十六日)発表後の質疑で「館」は、案外新しい地名かも知れないとの指摘があった。そこで、どれ程さかのぼれるか調査した。調査資料は『東日流外三郡誌─古代編』(八幡書店版)によった。
結論として、「館」は、荒吐王である「阿弖流伊」が在位中に多く築かれたとあり、安倍貞任の時代には沢山建てられていたことがわかった。館は東北王朝時代時の行政拠点では、との私の見方もほぼ当たっていたかと思えた。王朝領域は三郡誌に何度か明記されており、現在時点でも多く残る「館」地名領域と重なっている。則ち、三郡誌に記載の王朝領域の確認となった。と見る。
なお、館は戦国時代に東日流も戦乱の兆し、内三郡・外三郡に氏族豪族の館多く築かれた。とある。今に残る「館」地名は戦国期の館跡も多く含まれている。かと見る。
三郡誌によると、東北王朝領域の信仰として「オシラ」「イタコ」「ゴミソ」がある。近年は廃れたが、この信仰領域も東北王朝領域であったと見る。
「館」と東北王朝領域の関係について、今後は三郡誌以外の資料で調査できればと思っている。
資料説明のポイント
1).六九三頁 東日流内三郡之昔習。
オッタデ=大衆住居=大館が図入りで記載されている。
2).三七二〜三七六頁 護国鬼阿弖流伊之事。
三七三頁一行目 倭朝駐留館はどこも灰じん…
三七五頁八行目 館の工築は丹沢に倭の御所に似たる建造…
三五七頁後から四行目 阿弖流伊…陸奥の諸所に築きける館ぞ多かし。
3).七七九頁
貞任の弟が淵崎の地に舟場館を築く。(八郎則任)前九年の役の前
4).七七頁 白鳥館、天狗館、大仏鼻館、蔵館がみえる。内容は、貞任の次男、高星丸が東日流十三湊に落ちのび、そこで建てた「館」である。
5).三七六〜三七七頁 東日流城築史抄・阿吽寺巻。領主の住む処を砦、関、堰、濠、塘、館と称せり。とある。五王の世代に築かれし城邸はポロチャシと称せる跡ぞ多し。
6).三五〜三六頁 東日流外三郡誌総序
三六頁の二行目。内三郡・外三郡の境に氏族豪族の館多く築かれて、
7).三八四頁 荒吐族無情譜。
奥州東日流、飽田、岩手、白河、坂東に及ぶる荒吐族押領ぞ、征領無敵にして得たる荒吐一族奥州日高見国王とて即位なしけるは、安日彦を祖となし、長髄彦を二祖として……。㉀三五八〜三八六頁 安倍式事令に糸魚川、能登、勝田が南領配司とある。
8).四一八〜四一九頁 日高見宮沢柵之事
宮沢柵は日本中央にて荒吐王のタカミクラなれば、水嶋、白河、怒足豊田らのワケミクラに通じて倭の征夷に備はしむ唯一の要所。
9).七七八頁 安倍頼時(日下将軍)奥州五二郡に君臨。
10.七六頁 清原守武、若狭の小浜にて倭の役人に捕らわれ佐渡島流刑とせるに、頼時これを救護し罪人船を沈める。(前九年の役の一原因)
11).三八七頁 東日流内三郡誌大抄・上の巻。余、長崎に安東水軍にぞ縁る古事を尋ね、……(縁る古事とは?)
12). 四一六頁 東日流之柵館(本城)。
柵をカッチョと云う。城柵をカッチョチャシとも云う。ポロは大きい、十三湊福嶋城、平川淵崎城は奥州の巨柵則ち「ポロカッチョチャシ」なり。
13).四一七〜四一八頁 東日流古城禄 万蔵寺蔵巻。
山城=ホノリチャシ 平山城=イシカホノリポロチャシ 対城=出城=シリベシチャシでポロチャシの周辺に築城 カムイオテナチャシ=領主居城で洞穴城 荒吐族の城築=ポロチャシ
・・・・・・・・・・・・・・・
ポロ=幌、ベシ=ワケ=別。北海道で非常に多い「幌」「別」地名と関わりがあるのではと疑っている。(例)札幌、登別
1).〜 6). 館に関する事、古い順。
7).〜12). 王朝領域に関する事。
13).14).古代東北王朝の城(柵) に関する事。
和泉市 室伏志畔
昨秋、三回目の尿管結石で四十三日間、七転八倒し、出るまもなく引っ越しをして体力を消耗し、すっかり本誌から遠ざかってしまった。その間に『壬申大乱』が出て、神武東征の検証が始まった。
その古田武彦の万葉批判については、「南船北馬の向こう側」として、新しく連載の始まった「季報・唯物論研究」八〇号の第二稿として送ったことをまず報告しておきたい。
ところで、病気の間に「多元的古代」研究会・関東が古田武彦と「神武の来た道」の実地検証に乗り出した。その下山昌孝の報告によると、古田武彦は神武の「熊野より吉野への道」を地図をもって「険しい山々を貫く道」であったと、その案内者・八咫烏を「黒曜石掘りの山師達」とするところから、「新宮から熊野川を溯り、瀞八丁の辺から、紀伊半島の背骨とも云うべき大峯山脈、釈迦ケ岳、大普賢岳、等等を貫いて行くと、吉野・宇陀」に出たとする仮説を提示したという。
そうした実地検証の一方、神武東征の文献史料批判としては、一昨年に出た『九州王朝の論理』の中で、福永晋三は「於佐伽那流 愛彌詩」を書き、「忍坂の 大室屋に………… 撃ちてし止まん」に至る神武歌謡は、天孫降臨した邇邇藝命(瓊瓊杵尊)の肥前征服の歌の借用であったと論証したことは記憶に新しい。
これと重なるが、本誌前号で古賀達也は「盗まれた降臨神話」を書き、古田武彦の『盗まれた神話』を踏まえ、その出発地を糸島の日向に改めた古田説から進発し、『古事記』の行程を辿り、竺紫、豊宇佐、筑紫岡田宮を経て、瀬戸内海の阿岐國多祁理宮、吉備國高島宮で勢力を養い、速吸門(鳴門海峡)から白肩津に侵入し、日下の蓼津での登美能那賀須根毘古との戦いで五瀬命が負傷したため、南方から血沼海へ敗走するに至るまでは、すでに古田武彦によって論証されたところであるとして、その後の文献史料批判を行った。
そこで古賀達也は、血沼海から紀國の男之水門に至って五瀬命を失い、遺骸を紀伊の竃山に埋めた後、紀伊半島を迂回して熊野村へ至ったが、そこまで神武は「神倭伊波禮毘古命」と記載されたが、熊野で高倉下が登場するに及んで「天神御子」に名を変えるに至ったとする刮目すべき指摘を行った。その「天神御子」は熊野の荒神を斬り、八咫烏の先導で吉野河の川尻から宇陀へ抜け、兄宇迦之を殺し、忍坂の大室屋に至り、土雲、八十建の成敗を行ったことを確認する。そこで場面は先の登美毘古との争いの場に転換し、邇藝速日命の協力を得てこれを破り、畝傍の白梼原宮に坐したとする東征神話をたどり直した。そしてその後の記述において、単に「天皇」や「神倭伊波禮毘古命」の表記が復活することを明らかにした。この古賀達也の神武東征の迂回路のたどり直しによっても、神武東征が幾つかに段落分解が可能であることが明らかになり、それぞれが実際に基づくのか、編纂者の挿入加工なのかが、改めて問われることになった事は明らかである。
そして編纂者の天皇制イデオロギーを考慮に入れても、古賀達也は「神武記途中の紀伊半島侵略期間のみに現れる『天神御子』だけは理解困難なのだ」として、こう述べる。
《通説では天照大神の子孫である歴代天皇を「天神御子」と称したとしているが、これも無理な解釈ではあるまいか。なぜなら『古事記』に記された天皇で天神御子と呼称されているのは神武のみで、次代の綏靖から推古まで天神御子などとは記された例はない》として『古事記』で天神御子と称されるのは、天孫降臨神話に登場する天照大神の子である天忍穂耳命と天津日子邇邇藝命であるとし、「神武記に見える天神御子による戦闘譚も本来は天孫降臨神話からの盗用」としたのである。この論証は福永晋三の「於佐伽那流 愛彌詩」論に重なる一方、古田武彦の八咫烏の先導による紀伊半島の稜線をたどる「熊野より吉野への道」に疑問符を置くものであることは明らかである。
加えて古賀達也は㈰神武の銅鐸圏への突入は、吉備の軍隊を主勢力とするもので、それは大和の遺物・遺跡が吉備の強い影響化にある考古学事実との対応があること、また㈪河内盆地への侵入と南方からの脱出経路が弥生時代後期の地形との対応を示していること、㈫大和盆地での後期銅鐸の消滅は異勢力の侵入の痕跡を示し、それは神武東征説話に対応しているとし、この対応する三点は、神武説話の「天神御子」の登場場面と重ならないとしたことは、古田武彦の新たな神武の「熊野より吉野への道」に保留を置くことを再確認するものであろう。しかしこれは同時に、大芝英雄や私の神武豊前東征説の間接的批判となっているのも否めない。
奇しくも、このとき、「九州古代史の会」ニュース一〇二号が、大芝英雄の「『神武東征譚』豊前説」を発表しているのは通時性というものであろう。私は『法隆寺の向こう側』(一九九八年刊)の「倭国の別顔─楕円論」を書いたとき、大芝英雄の「九州『難波津』の発見」(「市民の古代」十二集)を知り、この豊前神武東征説を予想し、その論稿を求めたが、いまようやくそれが日の目を見て論議される時がきたことを喜びたい。大芝神武論は神武・崇神同一説で、遠賀川からの筑豊の饒速日命王国の神武侵入失敗譚と捲土重来を期しての行橋市にあった豊前難波からの饒速日命王国の侵入成功譚から成るものだが、記紀の神武東征はこれをミックスし、近畿天皇家一元史観に当てはまるように、瀬戸内海経過地をたった一行挟むことによって、摂津難波からの大和への侵入譚に改めたとするものである。それについては、先のニュースにおけるさらなる展開を読んでいただくことにして、この古賀達也の批判に答えるためにも、大芝神武論に一部重なりながら、『大和の向こう側』で展開した私の神武東征論を対置し、多元史観の中でたまたま展開をもつことになったこの論議が、様々な応答の中で実りある結果を生むようにはかりたいと思う。
私は1). 神武出発地については糸島の日向とするのにまったく異論がない。しかし、2). 塩土翁が「東に良き土地あり」とした『日本書紀』の記述は、後の太宰府中心とした視点から西のほとりに瓊瓊杵尊の天孫降臨地を、その対になるものとして東に神武の東征地を置いた構文から見て、遥か彼方の近畿の難波に至るものとは思えなかった、また3).
神武東征地には先に饒速日命(後の物部氏)が降臨していたが、遠賀川周辺地域に物部氏の関連地名が濃厚に残存し、饒速日命の降臨が邇邇藝命より早いとするとき、対馬海流上の天国からの九州への降臨は納得は行くが、近畿への降臨はその後の第二展開でしかないことについて古田武彦も古賀達也も完黙していることを不審とした。また4).
古田武彦は、河内盆地への侵入と南方からの脱出経路が弥生時代後期の地形との対応から説き、古賀達也がこれを現在、踏襲しているが、その後の日下雅義の『古代景観の復原』に収められた「六〜七世紀の摂津・河内・和泉の景観」復原図を見るとき、大阪湾から河内湖(草香江)への自然出入口は南方経由で、また湖水の最奥に草香津があることが確認され、弥生後期の図との対応を示しており、記紀編纂段階でも記述が可能であること。また4).
神武の名が狭野命から稚三毛沼命、そして磐余彦命への改名についての言及がないが、私はそれを神武の移動に関係ありと見て、5). 糸島の狭い土地にいた神武が、遠賀川からの遡行に失敗し、豊前の国東半島の根っこにあたる三毛国で捲土重来を期し、そこから長髄彦を征服して磐余に入り、磐余彦命と名乗ったのに対応していること、そして6).
この幻視を新たに裏付けるものとして、西村秀己が天孫降臨の実質的推進者を邇邇藝命の母・萬幡豊秋津師媛命だとし、天孫降臨以前にすでに勢力圏を別府湾岸の安岐にもっており、その地は国東半島を挟んだ三毛国の反対側で、天孫族が次第に豊前に入植地を広げつつあったことを新たに明らかにした。このことは『古事記』の阿岐國多祁理宮はこの安岐國の宮の符会で、吉備國高島宮は難しいが、国東半島沖に高島があることを見るとき、神武はこの豊予海峡の速吸戸で船舶運行に携わった、その根拠地の符会と見れないこともないのだ。
その上で、古賀達也の大和の吉備問題に言及するなら、私は神武東征によって饒速日命傍流は神武に寝返って物部氏が誕生したと考えており、長髄彦や饒速日命本流は敗亡することによって吉備から近畿の河内、そして大和に入り、すでに出雲で国譲りした大国主命の末裔とそこで合流して行ったと考え、これら勢力への追討が四道将軍の派遣物語として残ったのではないかと思っているが、決定打を欠いていることは百も承知している。
とはいえ、神武東征に始まる古田大和朝廷論は、九州王朝・倭国論一本で説明できるところを、神武東征に始まる近畿王朝・大和朝廷を九州王朝・倭国に並行させてしまったため、「悠久の大和史観」に立つ記紀史観の虚構を討つべきところで、またも名を与えてしまったように思えてならない。
果たして新たに始まった神武東征論議は、近畿からの神武東征論議の部分的修正に終わるのか、それともその全面的な見直しを結果するかについては、まだこれからといえよう。しかしそれぞれに自説に固執して、他を排除するのではなく、自説の弱点を含めて明らかにする中で、現在段階よりも、あるべきより合理的な位置に、神武東征の歴史的位置が措定されるように、対論しつつ協同していくべき時はついに来たのだ。(H14/4/2)
◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』 第九話◇◇◇◇◇◇
−−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美 ♢♢
「母様……!」
鈿女(ウズめ)が蒼白になって坐り込む傍らで、天若彦(あめのわかひこ)は呆然と立ち竦(すく)んでいた。正面には、兵士らがようやく仕止めた黒駒が全身に矢を受け、血まみれの巨魁と化して横倒しになっている。ひしゃげた柱や半壊した壁土、五色の糸をかけた織機、縫いかけの衣類や染料の器が下敷きになって乱れ放題の中に、半ば滑り込むような格好で衣織(みそり)は俯(うつぶ)していた。暴れ馬の襲来から逃れようと機(はた)を飛び下りた際、裾がもつれて杼(ひ)で局部を突いたのだろう、下半身がドス黒く染まり、血飛沫(しぶき)は回りの反物全部にはねかかっていた。
唯一無事だったのは、衣織(みそり)が握り締めていた螺鈿(らでん)をちりばめた鴇(とき)色の領巾(ひれ)である。衣織(みそり)は、仄かに金銀を織り込んで身の捻りや角度で意外な輝きを放つ衣装を好んで作ったが、大陸風のけばけばしさはなく、いつも東雲(しののめ)に消えがての星が瞬くような柔いだ色調だった。月見草のような象牙色や春の野辺を思わせる薄緑、桜色……といった淡い彩りは、母の愛の象徴のように幼い時から姉妹を包んで来たのだ。
だが、母は不慮の事故で、いきなり自分達の許から消え失せてしまった。探女(サグめ)は母の後継者(あととり)として同じ縫(ぬい)殿で、鈿女は巫女(かんなぎ)として、各々(それぞれ)宮中で働いていたが、どちらもまだ独立(ひとりだち)は覚束ない。 姉妹の不安に追い打ちをかけるように、
「皇子(みこ)様、五月(さつき)様の船が走って行くよ!」
金(かな)少年が飛び込んで来た。
「何を言う?」
天若彦は、思わず笑い出しそうになった。
「ここは対海(つみ 対馬)だぞ。叔母上方は木の国(現佐賀県基山付近)にお住いだ。それになぜ、五月様が今頃急に戻って来られねばならないのだ?」
鈿女が、短い叫び声を上げる。
「どうした?」
覗き込む天若彦に、
「皇子様、御覧下さい。」
鈿女は、交錯した柱の陰になった囲炉裏を指さした。宮中の各部屋には魔除けの印が付いていて、縫殿には隅に小さな囲炉裏が切られ、海亀の甲羅が埋められていた。
「今し方、二つの星が激突して、日輪がかき消されましたわ。」
鈿女は飴色の亀裂を指で抑え、天若彦を見上げた。
「どういう意味だ?」
天若彦の濃い眉が寄る。金少年に向けたような嘲(あざけ)りの色は失せ、真剣な表情だ。一日の仕事も巫女の合図で区切られていた当時、鈿女の言葉は人々の注意を促すに充分だった。
「詳しく話して頂戴な、鈿女。」
太占(ふとまに)の能力(ちから)では妹に叶わない探女も、背後から首を出す。
「楠(くすのき)の梢に光っていた星が、二つながらに嵐の後を追おうとしてぶつかり合い、日輪が灼熱の閃光にみるみる飲み込まれたのです。星は洞窟の奥に吸い込まれ、黒雲が島も野山も覆い尽くします。青玉が西から対海へ流れ着きます。鋭い刃が紅玉を求めて、東方へ漂って行きます。」
「では、その二つの珠玉(たま)が出会えば日輪は元通り、空に輝くの?」
探女の問いに、
「いいえ、この二つはまるで無関係だわ。星を岩穴の外へ誘い出さなければ日輪も表に出て来られないのだけれど、その方法が私には判らないのよ。」
鈿女が首を振った時、外が一段と騒がしくなった。冷たさを増した風が吹き込み、物の隈取りや陰が濃くなる。今まで明確だった姉や天若彦の顔が見分け難くなり、自分の四肢さえも覚束なく、亀甲文様は無気味に黒ずんで来た。巨大な雲が幾つも路上を掠(かす)め、家々や木立を飛び越えて行くのが判る。
「太陽が死んで行く……!」
「日没までにはまだ間があるのに、もう闇が広がって来たぞ。」
「鈿女殿が見た二つの星の衝突は、一体何じゃ?」
「神殿(やしろ)へ行って詳細を問おうぞ──。」
浮き足立つ人々を、
「待て、早まるな!」
「こんな時、勝手に動いたら怪我をしますよ。」
天若彦と鈿女は懸命になだめ、
「金、お父上様を呼んで来てーー。」
探女は少年に言いつけて、明りを準備させた。
「申し上げますーー。」
一人の兵士が駆け込んで来て、天若彦の足元に膝まづく。
「仲津ノ宮(現福岡県沖ノ島)より使者が参られ、五月様が岩屋へ籠られた由にございます。」
(続く)
〔後記〕
愛子姫の誕生したのは満月の晩だった事、皆さんはお気づきでしょうか。宇宙飛行士の毛利氏が「かぐや姫」に例えたそうですが、さすがだと存じます。ドイツの有名な「狩人の合唱」にも、
「月の女神は夜を照らす」
との一節がありますが、嫌な事続きの現世の「闇を照らす」為に、満月の女神(産院へ向かう雅子妃のお顔も、こうでした)が降臨したのでしょうか。
九州王朝圏では月は男ですが、「かぐや姫」は完全に月を女として描いており、又、古田先生が「海洋民族征服説」を提唱された穂高地方(「梁書」夷蛮伝中の扶桑国?)では、月の女神を祭るお社が多い、と旅番組で見聞致しました。月神信仰一つ取っても日本の場合、「多元史観」が必要なようでございます。
(深津)
□事務局だより□□□□□
▼本号も古田先生を初め好論が寄せられた。藤田氏からは三月に原稿を頂いていたが、掲載が遅れご迷惑をおかけしました。
▼五月十八日には愛媛県北条市で初めての古田講演会が開催。古田史学の会・四国の設立を目指したい。
▼古田先生との共著『九州王朝の論理』の増刷が決まった。ちょっと嬉しいニュースだ。
▼オランダ在住会員難波氏が当地の大学生クラブで「日本国に先立つ王朝」の話しをされる。古田史学が欧州にも広がる。
▼会報が五十号を迎えた。支えて頂き、感謝。@koga
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実をめて』(明石書店)第一〜六集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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