古田史学会報
2002年 6月 1日 No.50


教科書犯罪

本報五十回を記念して

古田武彦


     一

 一昨日、地質学者の市原實さんのお宅へおうかがいした。北千里在住、大阪市立大学を定年退職されてすでに久しい。わたしとほぼ同年である。
 わたしはかって、古事記の「神武の行路」を検証したとき、その一焦点となったのは「日下の論証」そして「南方の論証」だった。船行して大阪湾岸に来た「神武船団」が、ストレートに「日下の盾津」に到着している点、また長髄彦の軍に敗退し、「南方」を経過して血沼海(堺方面)へ向かったと記されている点だ。
 これは「現在」の地形からは、もちろん理解できない。「日下の盾津」は陸地である上、そこから“南の方角”へ「船団」が向かうことなど、当然不可能だ。
 だが、『大阪府史、第一巻』に掲載された「弥生〜古墳期」(約一八〇〇〜一六〇〇年前)の地質図によれば、それは可能だ。というより、大阪湾の奥に、さらに入りこんでいた河内湖(河内湾)の“どん突き”(関西弁。突き当たり。)が、まさにその「日下の盾津」である。
 その上、敗退のさいの「地点」とされている「南方」は、それこそ右の「大阪湾と河内湾の接点」の地にあった。現在、新大阪駅に近い「南方」(阪急、京都線)近辺がそれである。
 以上によって、わたしは、古事記における「神武行路」は当時(弥生時代)の実地形に対応している。すなわち、真実(リアル)だ。決して津田左右吉が考えたような「後代の造作」ではない。そのように判断したのであった。
 これに対し、地形上の問題から異議をとなえる研究(山田宗睦『日本書紀、史註』)があり、その点の事実を確認したい。そう思って、当の、大阪の地質・地形の専門家たる市原さんをおたずねしたのである。註(1)
 後述するように、わたしの疑問そのものは簡単に解決を見た。市原さんの、自然科学者らしい率直な御指摘によった。
 はじめは体調が悪いとお聞きしていたので、せめて十五分でも、と思っていたのに、延々三時間近くの講述をいただき、学問上、また人間として、きわめて意義深い一日となった。
 その問題に気づいたのは、阪急線の帰り道の中のことだった。


   二

 市原さんは語った。
 インドネシアへ地質の研究調査へ行ったとき、現地の研究者に「地質と地形図」の作り方を一生懸命教えた。しかし
 「結局、成功しませんでした。」
と言われる。なぜかとお聞きすると、上層の、一流大学を出たエリート研究者は、立派な研究室と広大なテーブルをもちながら、いわば「判をつく」だけで、実地でどろまみれになっての調査などしない。そして実際に現地調査を手伝ってくれる人々は、いわゆる「助手」的な仕事だけで、みずから研究し、報告書を仕上げる、という意欲がない。そう言われる市原さんの口調は、いかにも残念そうで、その奥には当地の方々への愛情がにじみ出ていた。
 「どうしてなんでしょうねえ。」
 そう問われた市原さんに、わたしは答えた。
 「植民地時代の体制なんじゃないですかねえ。」
 つまり、かって白人(オランダ人)が、その「上層のエリート」の座を占め、現地人(インドネシア人)は単なる“手伝い役”しかやらせてもらえなかった。
 独立して、オランダ人が去ったあと、その「白人の座」を、一流大学出のエリートが占めた。その他の現地人は、昔のまま「手伝い役」だけ。そういう構図なのではないか。つまり、植民地時代の「遺制」が、独立後の現在も、引き継がれているのではないか。そう言ったのである。
 「そうかもしれませんねえ。」
 市原さんは嘆息をつかれた。みずから四十幾年、営々と築かれた「大阪層群」に関する研究調査の金字塔を、そのインドネシアにもまた、期待しておられるのであろう。註(2)


   三

 わたしは帰り道に気づいた。
 「現代の日本も、同じなんじゃないか。」
と。ことの次第は、こうだ。
 『昭和天皇の教科書、日本歴史(上・下)』(平成十二年、勉誠出版)という文庫本がある。「邪馬台国論争」で有名な白鳥庫吉が「東宮御学問所御用掛」として若き日の昭和天皇に「日本の歴史」を講述した。大正三年から十年までだ。(東京帝国大学教授兼任)
 その一節に次のようにあった。
 「かくて阿曇比(アツミ)羅夫等軍を率ゐ半島の西南を迂回して熊津口の河口に入り百済の軍と合して大に勢を張り、豊璋はその擁護によりて一たび百済王の位に即けり。唐は此の形勢を観てまた大軍を遣し新羅の兵と共に我が軍を攻撃しければ、我が軍終に大に敗れぬ。是に於いて百済は全く滅び、其の地は唐の領土となれり。これ中大兄皇子称制の二年にして、今より凡そ一千二百五十年の前に當る。」(上、一二八ページ)
 白村江の敗戦の記事だ。簡にして要をえた明文でつづられている。この教科書(教授用ノート)を基にして講述がなされたのであろう。
 現在の人々には、何の他奇もない。周知の史実だ。だが、わたしは目をむいた。なぜなら、大正十五年生まれの者にとって、小・中・(旧制)高と、教科書類のものに、一切この事件は「存在」しなかった。どれほど真面目に勉強したところで、この「敗戦の事実」には、お目にかかれなかったのである。
 逆に、日常の学校教育や新聞・雑誌を満たしていたのは、「神州不敗の歴史」だった。「日本は、有史以来、かって敗けたことがない。」だから「神州は不滅である。」このスローガンが、学校にも、社会のすみずみにも充ち満ちていた。その中で育った。
 けれども、当の昭和天皇にとって、「日本には一大敗戦の経験がある。」それは、自明の歴史知識だったのである。
 この点、軍隊の幹部、エリートたちを育てる海兵や陸士の教育も、同類だったようである。全体一律の教科書はないけれど、各部局毎の教授用小冊子があり、その中には、今問題の「白村江の敗戦」の記せられていたものもあった、とのことである。註(3)
 もちろん、当時でも、日本書紀の原本を読むていの研究者なら、問題の「白村江の敗戦」の事実を知らなかったはずはない。「日本は有史以来、敗けたことがない。」などという「虚言」を信じたはずはない。(当時は、現在ほどは、容易に当本に接する人は少なかったであろう。)

 要するに、戦前においては、二種類の歴史認識があった。
 (甲) 日本の歴史には「一大敗戦」の事実があった、という認識——上層インテリ
 (乙) 日本の歴史においては、かって「敗戦」を経験したことがない。「不敗」の歴史を誇っている。—— 一般国民

 敗戦直後の新聞に、「不敗の歴史を誇っていた我が国が、なぜ今回敗戦の事態に立ち至ったか、反省すべきだ。」との旨の記事が載っていた、という。当時、わたしは東北大学の一年生(日本思想史科)であったから、右の「歴史認識」の実況は、明白に記憶している。——「諾(イエス)」だ。
 やはり、敗戦の日本社会の「歴史認識」は、ハッキリと「二層」に隔絶していたのであった。


   四

 近年、時として「特攻隊」について論議されることがある。その多くは、戦後生まれ、或は戦後育ちの論者によるものであるから、わたしの目から見れば、当る面と当らざる面、その両面を見ることがある。
 その一は、特攻隊に属しながら、そのあり方に深い疑問をもった人の存在である。映画「ホタル」(東映)の小冊子に、監督の降旗康男が記していた。特攻隊に属していた一青年が、松本の浅間温泉で降旗少年に「特攻志願など、するな。」とさとしたという。その一言がこの映画制作の一動機となったのである。降旗君は、松本深志高校における、わたしの教え子であり、当の浅間温泉はわたしの下宿(瀬戸屋)のあったところであるから、右の挿話は心に沁みた。右の映画は、名作であった。
 けれども、この点から、全ての特攻隊員が「いや、いや」上からの命令によって、捨身の攻撃をなした、と言う者があれば、わたしは「否(ノー)」と答える。
 なぜなら、わたしの兄(孝夫)は海軍の軍医として、浦頭(うらがしら)の病院(医務所)に駐在していた。佐世保の近くである。
 そこには、特攻隊の青年たちが下痢症状で多数入院していた。腸チフスなどの流行だったようである。
 兄は、当然ながら、絶対安静を命じたけれど、青年たちは聞かなかった。「どうせ、死ぬ身です。出撃させて下さい。」次々に、彼等は兄に訴え出た。
 兄は、張り倒した。衰弱していた彼等は、次々とふっ飛んだ。「帰れ。安静にしておれ。上官の命令だ。」と。兄は、泣いていた。
 わたしは、この話を、兄から聞いた。昭和二十年、敗戦直後のことだ。父の依頼で、浦頭をたずねたのである。
 それゆえ、わたしは「いや、いや」説に対して、うなづくことができない。


   五

 当時を知る人にとっては、必ずしも “珍しく”ないであろう、この挿話を記したのは、他でもない。この特攻隊の青年たちの「歴史認識」の問題だ。おそらく彼等は、右の(乙)に属する、一般国民だったのではあるまいか。
 なぜなら、彼等は、年令上、わたし(当時十八才)の“前・後”の年代に属する。いわば、同世代である。
 そのわたしは、旧制高校(広島高等学校)受験のとき、「全国統一試験」の受験制度であり、受験科目は三科目。国語と数学と日本史だった。しかし、その「日本史」の教科書には、先述のように「白村江の敗戦」はなかった。
 従って、同世代の、特攻隊の青年たちもまた、右の(乙)に属していたこと、ほぼ確実ではあるまいか。
 「我が国は、かって敗けたことがない。」そういう「不敗」の信念に立ち、それゆえにこそ「(神州)不滅」を信じて、わが身を「死」の一線に投じたのであった。
 けれども、それを「命」じた上層軍人や上級インテリたちは、それが「虚妄の歴史認識」であることを熟知していたのだ。昭和天皇もまた、もちろん、その一人である。


   六

 「問題は“一身をなげうったこと”その一事だ。彼等の“頭”にやどった歴史認識など論ずるに足りない。枝葉末節だ。」
 そのように言いなす人々があれば、わたしは静かに、首を横に振る。
 彼等は「ロボット」ではない。人間だ。だから、悩んだあと、決意し、身を投じたのだ。わたしには、その一事が疑えない。
 けれども、その“頭”の「歴史認識」は、“命じた”方とは、ちがっていた。しかも、それは「国家の教科書」によって、意図的に、然り、極めて意図的に「造られた」ものだった。「偽造」されたものだった。歴史の真相が「削除」されていたのである。
 これを「権力犯罪」そして「教科書犯罪」と呼ぶことは、果たして不当であろうか。教科書が、上部層の「手先」として使用されたのである。


   七

 このような「一社会の中の、基礎認識の二層化」は、いかにして生じえたか。これが今回の主題だ。
 それは、明治に先立つ「封建社会の遺制」ではないか。これが、新しい視点である。
 江戸時代において、社会は「武士」という“統治階級”と、「農民以下」の“被統治階級”と、両者厳然と分たれ、その「基礎教養」も異なっていた。「武士」は、朱子学を主とする儒教、「農民以下」は、神社・仏閣にまつわる諸宗派、諸教義。それぞれの「基礎認識」を異にしていた。そしてそれを「異にする」ことこそ、「封建制の統治政策の基本をなしていたのである。明らかに「一社会の中の、基礎認識の二分」だ。
 この方式を、明治以降の薩長政権は“うけ継い”だ。この点、薩長の権力者が、江戸幕府の下級武士の中から生まれた、という周知の事実から見れば、当然であろう。
 明治政権は、往年の幕府政権の「非」を唱え、代って文明開化の「是」を高唱した。けれども、その実体は「封建遺制」のもつ、本質的「二分」構造において、何等の変るところはなかった。
 インドネシアの「植民地遺制」の存在を、わたしたちにはこれを“嘲笑(わら)う”ことができないのである。

 
   八

 では、敗戦後の現在、この「一社会の中の、二層」は“解消”したのか。もし“解消”しているとすれば、先述の問題は「昔話」となろう。現在のわたしたちには、関係がないのである。
 しかし、これに対するわたしの回答、それはハッキリと「否(ノー)」だ。全く“解消”していないのである。
 その証拠をあげよう。
 たとえば、「日出ずる処の天子」問題。これは、明治の教科書から、戦後の現在の教科書まで、眼目をなすハイライトだ。
 いわゆる「新しい歴史教科書」であろうが、他の全ての教科書であろうが、この点、いずれも一味同心、これを近畿天皇家(推古天皇と聖徳太子)に当てている。
 この点を、わたしは「非(ノー)」とし、「九州王朝」を以ってこれに当ててきた。推古天皇は「女性」であり、「聖徳太子」は「天子」ではない。当の史書(隋書)の「多利思北孤」(男性の天子)とは“似てもにつか”ぬ存在だ。
 その上、右の史書にある「阿蘇山有り、云々」の記載とも、合致しない。
 しかし、現在の教科書はいずれも、右の「矛盾」に、 “ほうかむり”し、懸命に“ふれず”にいる。もちろん、わたしの提起(九州王朝説)にも、何等の記述はない。それが「国家」の“検定”して“パス”させた教科書だ。
 もう一つの例をあげよう。
 北部九州(福岡県)を中心とする神籠石群の存在である。東は山口県(石城山)、西は佐賀県(帯隈山・おつぼ山)、南は福岡県南境(筑後山門)に及び、中枢域は太宰府と筑後川流域である。
 時期は六〜七世紀(考古学編年)とされているが、「年輪年代測定法」(七〜八割は、約一〇〇年さかのぼる)によれば、五〜六世紀の築造となろう。もちろん、「白村江の敗戦」(六六二、或は三)以前だ。註(4)
 当然、対外(新羅・高句麗・唐軍等)用の一大軍事要塞群である。
 以上の事実から見れば、五〜七世紀の日本列島(西日本)は、次の二群に別れている。
 (A)長大な軍事要塞群に囲まれた北部九州(太宰府と筑後川流域)——九州
 (B)巨大な墓地群(いわゆる「天皇陵」)に囲まれた近畿圏——近畿
 右のいずれが、朝鮮半島で高句麗・新羅と激戦し、白村江で(百済と同盟して)唐軍と戦った倭国軍の本拠地、そしてその中心都域であろうか。
 先入見なき人々—たとえば外国人—には、およそ明々白々なのではあるまいか。
 この神籠石群は、地下に埋没しているのでなく、地上にその「痕跡」が赤裸々に今も、万人の“目に見えて”いる。
 しかし、戦前も、戦後も、現在まで、いずれの教科書も、この「神籠石群の存在」を“削り去り”、一切記載しなかった。「万世一系の近畿天皇家」や「象徴、天皇家」の歴史には“ふさわしくない”からである。
 戦前でも、この神籠石をめぐって「論争」は学界では“華やか”だった。「神域か、山城か」の争論である。けれども、教科書には、そのような「問題性」をもつ神籠石の存在は一切紹介されていない。
 戦後は、昭和三十八年、佐賀県教育委員会の周密な調査によっていずれも、山城すなわち「軍事要塞」であったことが確認した。けれども、依然、その後のいかなる教科書にも、この長大なる歴史的存在は“現わされ”ていない。
 「絶対、天皇家中心」か、「象徴、天皇家中心」か、いずれにせよ、「国家」の欲する歴史像とは矛盾するからである。
 そのために、「国民、一般」には、右のような「肝心の問題点」を見事に避けた教科書が“作られ”、そして“流布”されているのである。
 今日も、戦前と同じく、「上層インテリ」の知る「事実認識」や「問題意識」と、「一般国民」が教科書で知りうる歴史像には、大きな「断層」と「分裂」が厳として存在している。
 封建遺制は決して死んではいない。今も確かに生きて、二十一世紀の教科書を支配しつづけているのである。


   九

 市原さんは、わたしの持参した、大阪湾岸の地図(大阪府史、第一巻)を見ると、なつかしそうに
 「ああ、これ、わたし(たち)の書いた地図ですよ。」
とおっしゃった。「古冢(弥生)〜古墳期(約一八〇〇〜一六〇〇年前)」の地図として、わたしのくりかえし引用してきた地図である。(地図1
 その上、最近の「年輪年代測定法」で、約一〇〇年くらい「弥生中期末」がさかのぼるとすると、同じく市原さんの作製された「左図」(地図2)の下端の時限となろう。これなら、一段と古事記の「神武行路」と一致し、対応している。わたしの判断に“狂い”はなかったようである。註(5)
 その上、もう一つのキイ・ポイント、「南方」も、確認して下さった。同図の[Y]崇禅寺遺跡の西側である。この地帯は、太平洋・紀淡海峡方面からの潮流が運んでくる土砂が堆積してゆく。すなわち、おのずから「潟」をなしてゆくのだ。「南方=南潟」という、わたしの理解は、あやまってはいなかったようである。
 (最初、『ここに古代王朝ありき』〈一九七九〉では、「南方」を「水路」〈大阪湾と河内湾(湖)の接点〉の北側に印(マーク)していたが、これは「南側」の方が妥当だった。これは、故中谷義夫氏(市民の古代・会長)の御指摘によった。氏は大阪の商人(書籍)として年久しい方だった。
 以後、『「邪馬台国」徹底論争』第2巻〈一九九二〉『神武歌謡は生きかえった』〈同上〉などでは、中谷氏の御指摘に従った。)
 今回、市原さんの御指摘は、その中谷見解の正しさを“裏づけ”て下さったのである。

   十

 市原さんのお話で胸を打たれたもの、それは「共同研究者」とも言うべき梶山彦太郎さんの話だ。
 梶山さんは一九〇九年の生れ。十三(じゅうそう)の旧家の出身である。「東淀川十三郵便局長」の肩書きながら、その生涯は「大阪の地質」や「大阪の貝類」や「大阪の考古」など、文字通り“博物学者”としての一生だったようである。
 一九九五年、神戸大震災の年に亡くなられるまでのお話は、わたしの耳には「大阪の南方熊楠」の観を深くした。だが、一般の大阪人は未だ、この人の偉大性を知らないのではないか。不遜ながら、わたしにはそのように思われたのである。
 このような方のその姿、それはいまだその一端にすぎないけれど、この市原さんのお話はわたしにとって大きな収穫となった。
 大阪を愛する方々に、梶山さんの業績を“明らかにする”ために、御協力をお願いしたい。
 このようにしてこの日(四月十三日)は、種々の、思いがけぬ「遭遇」と「発見」を見た一日となったのである。
 
〈註〉
(1)全四巻、風人社刊(一九九七〜一九九九)
(2)市原實『大阪とその周辺地域の第四紀地質図』アーバンクボタ No.三〇、一九九一、市原編著『大阪層群』創元社、一九九三。市原實『大阪層群と中国黄土層』築地書館、一九九六。参照。
(3)自衛隊戦史室による。
(4)七世紀中頃(鏡山猛)・七世紀前半から中頃まで(斉藤忠)・六世紀前葉(坪井清足)・六世紀から七世紀にかけて(前田航二郎)「史跡おつぼ山神籠石(保存管理計画に基づく発掘調査報告)」(一九七九・三、武雄市教育委員会)参照。
(5)神武天皇の「実在時期」は、大和盆地の「銅鐸消滅」によって「弥生中期末」(考古学編年)で、「AD・一〇〇頃」である。最近の「年輪年代測定法」によれば、「AD・一頃」(イエスの時代)となろう。現在より「二〇〇〇年前」である。すなわち、梶原・市原図の「三〇〇〇〜二〇〇〇年前」の下限の頃である。

地図1.2は別に記載しました。

〈補1〉
 梶原・市原両氏の「共同研究」は『大阪平野のおいたち』(一九八六、青木書店刊)にまとめられた。これは
 「大阪平野の発達史—C14年代データからみた—」(地質学論集、第7号、日本地質学会刊、一九七二)
 「続大阪平野発達史」(古文物学研究会刊、一九八五)
を背景として成立している。

〈補2〉
 白村江の戦いについて。明治三五・四四では「百済・高麗の滅亡」の項目あり、間接的ながら、わが国の敗戦にふれている。昭和六・十二では、その項目が消えた。以後、昭和二十まで全く出現していない。(中等学校、教授要目)
 国立教育政策研究所、渡辺宗助氏による。

——二〇〇二、四月一七日、記了——

インターネット事務局注記2002. 5.20

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